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さらば愛しき女王よ


隣に女王が引っ越してきたのは、去年の5月のことだった。


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私が暮らしているアパートはベランダから墓地が見え、少し坂を登れば緑地公園が、下れば川が流れているという素敵な立地で、時おり蝶や蛾やカナブンが飛んで来たり、ふと足元を見ると30センチクラスのムカデが闊歩していたりと、小さな(小さくない)客人が訪ねてくることも多い。そんな私の部屋のベランダの片隅、エアコンの室外機の横、隣室と隔てる薄い壁(火事の時に蹴破れる奴)の柱に、この若き足長の女王は営巣を始めたのだった。
我が家では昆虫並びにそれに類する虫類とは共存協定を結んでおり、互いにみだりな殺生はせず、生活圏を共にするのが原則となっている(これは私の実家でも同様であり、私の実家の方では特にハエトリグモの一団との共栄圏同盟を締結している)。アシナガバチの巣も室外機横という位置で、特に生活に支障のでるものではなかったので、私としては軒先を貸すくらいは全く吝かではなかった。住宅街のど真ん中に彼らの拠点造営を黙認するのは人間にとっていささか不利益があるかもしれないが、私は人間の側よりむしろ昆虫の側につきたいのが本心なのでこれも何ら問題ではなかった。一つ懸念だったのが、この家が賃貸だという点である。確か契約では他人を住まわせたり、又貸しをするといった行為は禁止されていたはずであった。しかし契約書をよく読むと、これはどうやら人間に限った話のようであったので、安心して私は彼女の営巣を許すことにした。契約にはペット不可ともあったがもとより私は彼女を飼育しようなどという不遜な考えは持ち合わせていなかった。あくまで自然のままでの観察がしたかったのだ。そこで私は彼女の営巣の一部始終を撮影し、記録に残すことを軒を貸すための(一方的な)交換条件とした。家賃を払っているのは私なので、それくらいはしてもよかろう。というわけで、アシナガバチの営巣を私は観察することにしたのであった。


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女王は毎日せっせと飛び回り、巣を広げていった。
アシナガバチの巣の建材は木の繊維で、それに蜂の唾液を混ぜ、セメントのように固めたものだ。けっこう頑丈で、並みの虫では歯が立たないだろう。女王が留守の隙に近づいて写真を撮ると、卵が産みつけられていた。

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それにしてもこうも綺麗に正六角形の育房を作り上げていくのはもの凄い建築技術だ。昆虫の生態はみな幾何学的で美しい。

巣は着実に大きくなっていく。

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背中の模様からすると、アシナガバチの中でも特に体が大きく毒性が強いセグロアシナガバチのようだ。私は蜂のことは自然界でも特に強者と思っていて、彼女たちと接近遭遇する際は最悪刺されて死んでもやむなしという精神で撮影に臨んでいるが、よいこのみんなは蜂に不用意に近づかないように。さすれば向こうも不要な殺生はしてこないであろう。たぶん。

巣穴を覗くと、幼虫が孵っていた。

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この時期の女王蜂は一番忙しい。働き蜂がまだいないので、巣の管理と幼虫の世話を全部一人でこなさなければならないのだ。日中は狩りに飛び回り、幼虫に摂餌したかと思えば、またすぐに飛び立ってゆく。その様子は女王というより、一人の母親の姿であった。それじゃあ父親はというと、雄蜂は交尾を済ませるとすぐ死ぬ。シングルマザーの未亡人の女王である。忙しそうだが、私は蜂を飼育したいのではなく、自然状態の彼女たちの姿を観察したいのであって、手助けはしないと決めていた。

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長い脚をすり合わせている。脚線美。

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目が合った。ごきげんよう。

一月ほど経つと、働き蜂たちが羽化してきた。

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一気に大所帯である。外仕事は働き蜂が行くようになったので、女王はようやく巣でひと息つけるようになった。と言っても、女王には大事な仕事が残っている。雄蜂と新女王蜂を生まなければならないのだ。アシナガバチの女王の寿命は約一年。新しい女王だけが冬を越し、来年また新しい巣をつくる。もし新女王が全滅したり、交尾できなかった場合、この女王の遺伝子はそこで絶える。

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左上のひときわ大きいのが女王。たぶん。蜂の顔はみな同じに見える。きっと蜂からすれば人間がみな同じ顔に見えるのだろう。巣の上に陣取って娘たちの働きを見守る姿はなかなか貫禄がある。

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身づくろい中の女王。

女王に代わって働き蜂たちが、幼虫の餌を狩りに出かけるようになった。幼虫の餌は他の昆虫の幼虫などの肉をこねて作った肉団子だ。それでは成虫はというと、これがまた興味深いところで、実はアシナガバチの成虫は肉を消化できない。ではどうするのかと言うと、肉団子を食べた幼虫は高栄養価の分泌液を出す。成虫はそれを食べて生きるのである。持ちつ持たれつというか、なんとも上手く噛み合うようにできているものだ。
働き蜂たちは毎日忙しく巣を出入りしている。わたしはよくベランダで煙草を吸ったり本を読んだりしているのだが、彼女たちは一向に構わないようで、私のすぐ目の前を飛び交ったり、時には私の読んでいる本の上に止まって羽を休めたりした。彼女たちは私に気を許していたのだろうか。あるいは私のことなど置物かなにかだと思っていたのか。いずれにせよ昆虫の思惑などに気を巡らせてもせんないことだ。虫には虫の考え(考え、などというのもいかにも人間本位の基準だ)があって、彼女たちの都合は彼女たちにしかわからない。しかし彼女たちが、私を彼女たちの営為の側にいても構わないと判断してくれたことについては、悪い気はしなかったということは、ここに書き記しておこう。

日差しの強い午後のことだった。私はいつものようにベランダに出て煙草をふかしていたのだが、巣がいやに騒がしい。見ると、えらくでかい蜂がいる。私はまた、女王のやついちだんと大きくなったなあなどと思ったが、どうも様子がおかしい。この太くがっしりとした胴体、浅黒い体色、そして働き蜂たちの激しい威嚇。理解が追いついた。スズメバチの襲撃であった。スズメバチ種は時として他の蜂の巣を襲撃し、幼虫を食い殺すことがある。アシナガバチ種で最大最強とされるセグロアシナガバチといえども戦力差は歴然で、たった一匹のスズメバチのために巣が壊滅させられることも決して珍しくはない。
私は少し逡巡した。彼女たちがこのまま虐殺されるのを黙ってみているのか。しかし私は初めに定めたのだった。手出しはしない、自然状態の彼女たちの姿を観察するのだと。スズメバチとアシナガバチの生存競争、それは自然の営為だ。そこに人間の意図でもって、どちらか一方に肩入れするようなことはあってはならない。その結果起こる全てのものごとに、私が責任を負えるのでない限り。

手を出してはならない。

私は目の前で起こることの全てを見届けると腹を決めた。アシナガバチたちは決死の威嚇を続ける。と、その勢いに押され、スズメバチが巣から追い落とされた。
目が合った、ような気がした。刹那の判断。私は吸いさしの煙草を灰皿に突っ込み、部屋に逃げ込むやいなやぴしゃりと網戸を閉めた。間一髪の差でスズメバチが網戸に取り付き、羽を猛烈に震わせ猛り狂ったように威嚇している。スズメバチの羽音というのは、これはもうはっきりと昆虫の羽音の範疇ではない。それはもはや重爆撃機のエンジンのたてる轟音に等しい。私はもう生きた心地はしなかった。そしてここに至ってはっきりと理解させられたのは次のようなことである、つまり、私が家賃を払っているのだからこの家は私のものだなどという考えは甚だ思い上がりに過ぎないということである。この家、否、この場所ははじめから彼らのものだった。より正確に言うなれば、自然物は最初から誰のものでもない。そしてそれを自らの営為のために使うことができるのは、命懸けの縄張り闘争に打ち勝ち、それを勝ち取ったもののみである。どうして人間だけが、人間同士の不動産契約やなんかで、その闘争を永久的に免除された特権身分でいられようか。スズメバチもアシナガバチも、いやどんなに小さな虫でさえも命懸けの自然闘争を生き抜いて生きている。彼らはみな正統なる闘争者である。而して私の方はどうだろう。確かにこのスズメバチ一匹だけなら殺虫薬剤か、または丸めた新聞紙なんかで応戦し、あるいは撃退したり殺したりすることも可能やもしれん。しかしそんなことは問題ではない。私は臆した。私は何一つ抵抗することなく無様にも部屋に逃げ込み、網戸を遮断した。それだけで私がこの縄張りに関する占有権を喪失することは自然の理である。しかしそうは言っても人間には人間の都合というものがあり、大家さんや不動産管理会社に断りなく私の独断で全面降伏の調印を行いこの家を昆虫に譲渡するというわけにもいかないのである。私はすっかり人間と昆虫との間で板挟みとなった。中立的立場というのはかくも苦しきものであろうか。しかしそうこうしているうちに、網戸でぶんぶん言っていたスズメバチもどこかへ帰っていった。してみると誠に僭越ではあるがこの家の居住権利も再び私のもとに戻ってきたようである。網戸をそっと開け、この運命を辛くも乗り越えた隣人たちの様子をうかがってみた。称えるべき隣人たちはもうすっかり落着きを取り戻している。私は改めてこの小さな野生生物たちへの畏敬の念を新たにした。そして忠実なる観察者である私はここに至ってようやく、この絶好の好機にスズメバチの写真を一枚も撮らなかったことに思い至ったのである。

7月に入った。連日の雨、雨、雨。ベランダの鉄柵を雨だれが叩く連弾の音、向かいの家のトタンで雨が弾ける散弾の音。窓を揺さぶる風。それら全てを灰に塗りつぶす空。令和二年七月豪雨である。私の住んでる土地は元来台風には強いが豪雨には地質上著しく脆弱であって、たびたび土砂崩れに見舞われ、道が寸断されたり人的被害を出したりしている。とはいえ私の家のあたりは斜面の中腹であって、下の川からはだいぶ上ったところにあるから少々の氾濫では問題ないし、また土肌が剥き出しの崖などもこちらの方向にはないので住宅街もろとも崩落でもしない限り比較的安泰であった。避難勧告までは発令されたが、むしろ下手なときに動くより家にいるほうがよほど安全なので、結局私は家にこもって豪雨をやりすごすことにした。そして隣人もまた同じ判断をしたようであった。しかし斜め上の部屋の鼾が聞こえるほど壁が薄いとはいえ仮にも鉄筋のこの家と、彼女たちの家とでは防災性能にどれほどの差があるだろうというのは少し気にしてはいたが、そうは言っても天災の前では已んぬる哉。死ぬときは死ぬものである。ついに雨が小康に至ると私はまず損害状況を確認しに向かった。残念ながらベランダスリッパ一足にレーンコート一丁がMIA認定と相成った。それで隣人はと言うと、巣はもとの通りくっついている。ベランダの壁と防火壁に二重に守られる位置であったのも功を奏したのかもしれないが、それ抜きにしてもやはり蜂の巣というのは頑強なものだ。この薄鉄筋の家よりよほど頑強かもしれん。彼女たちは巣の中に入りこんだ雨粒をせっせと外へ吐き出す作業に勤しんでいるようだ。そして頭数もどうやら揃っているのを見て私は安堵した。

そうだ。私は安堵したのだ。もはや明らかなことであったが、私ははっきりと彼女たちに愛着を抱き、そして心情的には明らかに彼女たちに偏重的に肩入れしようとしていた。私は中立的観察者たるべき規範意識を失し始めていた。そしてそれを薄々自覚し始めていた。あるいは、この状態が続くのであれば、私は私の解任決議を取らなければなるまい。なにしろこのアパートはペット不可なのだし、彼女たちを不当に庇護しようなどという心づもりが私に芽生えたのであれば、それは賃貸契約に反するのみならず、この観察の道義的正当性を失効させるに十分な根拠となるからだ。
そして結論から言えば、解任決議の必要はなかった。

夏も盛りになってきた頃、私は異変に気付いた。働き蜂の数が減っている。初めは出先で外敵に襲われて帰らぬ蜂になったのだろうと考えていたが、蜂の減少は止まらなかった。働き蜂の自然寿命にしては早すぎる。ただ事ならぬ事態が起きているのは明白だった。
ある日、ベランダの片隅に一匹の働き蜂の死骸を見つけた。外傷はなさそうだったので、おそらく衰弱死だろう。日に照らされて直火の鉄フライパンの温度になっているベランダの床に放置するのも忍びないので拾い上げた。

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この時、私は初めて彼女の躰に触れた。かさかさに乾いて、軽かった。


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すべて生きものの美しさは構造美である。すらりと長く伸びた肢、細く括れた腹柄節、警戒色に彩られ艷やかに膨らんだ腹部、鼈甲のごとき光沢をもつ薄き翅。そしてそれら全てを必然として構築された躰。美しい。そしてその美しさの全ては彼女の生命がもしまだここにあったならば、何びとたりともそれに触れることを許さなかったであろう。
彼女の亡骸は土に還る場所に移した。

働き蜂の減少、そして衰弱死。蜂の死因は無数にあるがこれほど相次ぐとなると思い当たる要因が一つあった。幼虫の全滅である。先に述べたように成虫のアシナガバチは獲物を直接消化することができず、幼虫の出す分泌物を主な栄養源として生きる。そのためもし幼虫が全滅した場合、成虫も生きていくことができなくなる。私は巣の真下からの撮影を試みた。あれほどいた働き蜂はもう一匹もいない。容易に実行できた。

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一文字やY字型の太い糸に塞がれた育房。これで事件の全貌が明らかとなった。寄生蛾にやられたのだ。

体長わずか1センチほどの、成虫寿命わずか2週間のちっぽけな蛾こそ、アシナガバチ最大の天敵である。寄生蛾はアシナガバチ女王が営巣を始めてから働き蜂が羽化するまでの最も手薄な時期を見計らってアシナガバチの巣に侵入し、巣の育房や育房内の幼虫に卵を産む。卵から孵った寄生蛾幼虫は育房を自身の糸で塞ぎ、蜂の幼虫や蛹を食う。食い終われば育房の内壁を破って隣の育房の幼虫を食い、そして数日のうちに巣の全域に広がり、全ての幼虫を食い尽くす。いくら新たに幼虫を産み足しても寄生蛾の侵食スピードの方が速い。寄生蛾に餌をウバイツしてやってるようなものだ。働き蜂が駆除しようにも育房を塞ぐ丈夫な絹糸と、そして彼女たち自身の作り上げた頑強な巣壁が彼女たちの牙を阻む。スズメバチを追い払うほど勇猛なセグロアシナガバチの戦士は、この小さな侵略者に対し全く成す術がない。そして育房を塞がれていることはもう一つの重大事を意味する。アシナガバチは猛暑をしのぐために育房に体をつっこみ体を冷やす習性があるのだが、育房が塞がれていては彼女たちは熱死から身を守る術を失うのである。どのみち、夏は越えられない。寄生蛾の占拠が達成されたとき、アシナガバチは一つの決断をする。巣の放棄である。残存兵力の中から暫定的新女王を選出し、寄生蛾に占領された巣を放棄して一から営巣をやり直す。それ以外に生き延びる道は無い。そしてその作戦は既に――実行されたのだ。

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巣の放棄――古巣と、その主を。
かくして彼女の王国は終焉を迎えた。

その夜、私は王国崩壊の下手人の顔を拝むことができた。

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寄生蛾は夜のうちに巣の上部に穴をあけ、宵闇に紛れて脱出する。カメラのフラッシュに照らし出されたその姿、それにしてもこの寄生蛾のほうも美しい。薄紫でふちに黄色みのかかった、びろうどのような羽。そうだ――自然物はみな構造美に溢れている。この小さな、生存闘争の勝利者の姿。名をウスムラサキシマメイガという。そしてこの蛾は絶滅危惧種である。
蛾は羽化後の羽を乾かしている。彼(彼女?)をここまで育てあげた廃城を後にして。それで城の主はというと、地べたで休んでいた。両者とも微動だにしない。そして私はこの場において、これ以上ないほどに中立そのものであった。


さて、寄生蛾も巣立っていよいよ巣には女王ただ一人が残るのみとなった。

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女王はもう飛ぶこともしないで一日中巣に留まったままでいる。幼虫も働き蜂もいない巣で今更やることもやれることもない。もうただ死を待つのみの存在であった。
私は蜂蜜を瓶の蓋によそって巣の下に置いた。

断じて断わっておくがこれが隣人への親愛の情や、ましてや同情などからくる行為でなかったことははっきりと申し上げる。私と女王の間において一切の情は登場しない。ただ女王はもう女王としての役目も、また一匹の蜂としての役目も終えてあとは死ぬだけの存在であったし、私の方もまた巣がこうなった以上もう観察者としての役目もおしまいである。であるからして今更一杯の蜂蜜を奢ったくらいのことで自然の体勢に影響もあるまいという、ただそれだけのことなのである。それから成虫のアシナガバチは肉を消化できないが花の蜜や蜂蜜、あるいは樹液なんかは食することができるのであるが別にだからといって彼女がこの蜂蜜を受け取ったりましてやそれで彼女を僅かでも生き永らえさせることになればなどとは断じて、断じて。

翌朝、巣を見に行ってみると女王はもういなかった。
それでこの話はお終いである。

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それから月日は流れ、賃貸の年度更新の書類が来る時期となった。つまり来年もこの部屋に住むのかという確認である。ぶっちゃけ私は引っ越してもよかった。ちょうど生活の変わり目のタイミングであったし、何よりこの家はとにかく底冷えがして冬はつらい。もっと暖かく交通の便の良いところに転居するにはいい機会だった。
しかし私は結局今もこの部屋に住んでいる。それは別に今もエアコン室外機の隣にある古邸のことが気にかかったからではないし、アシナガバチは一度営巣した場所のことを覚えていて自分が巣立った場所の近くにまた営巣することを好むと知って、去年旅立った女王の娘の、そのまた娘がこの近くに居を構える可能性を思ったからでもない。ただこの地元の交響楽団の、去年事情で延期になった公演が今年見たかったという、ただそれだけの理由で引っ越さなかっただけである。

それで結果としては、今年は隣室は空き家のようだ。
それでこの話は、今度こそ本当にお終いである。


ところで先日、川原を散歩していたらアシナガバチが一匹飛んでいるのを見かけた。

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