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さかなのこはわたしたちを赦さない

さかなのこを見ました。怖い映画だと思った。


前評判でさかなクン本人がギョギョおじさんという、魚が好きすぎて身を持ち崩した近所の変質者役で出ると聞いていた。凄いと思った。そんな暴力的なことが許されていいのか。パンフレットを読むとこのギョギョおじさんは「何か一つ運命の歯車が狂った、さかなクンになれなかったさかなクン」と意図して出された(当然映画オリジナルの)キャラクターと書かれている。

実際に見てみると、たしかにそこにはギョギョおじさんがいた。のん演じる「ミー坊」に魚の知識と、「お魚博士」という夢のビジョンを与え、警察に連れられて行った。最後にギョギョおじさんは、自身の被っていたハコフグ帽子をミー坊に託す。

「いつか立派なお魚博士になって、この帽子を返しに来い」←言ってない

ギョギョおじさんから受け継いだ知識と、お父さんから学んだ「シメて食べる」という経験。そしてミー坊にお魚の図鑑を買い与え、ミー坊の好奇心を全力で(文字通りの全力で)応援するお母さん。この三者にはぐくまれてミー坊は「お魚博士」を目指す。魚が好きと言う気持ちを原動力に行動するミー坊の周りにはいつしか素敵な仲間が増えていき、彼らの愛に支えられながらミー坊はついに夢を叶える。お魚博士となったミー坊の頭には、あの日のハコフグ帽子が。そして「お魚博士」ミー坊は子供たちに大人気となり、ミー坊の書いたお魚の本が、ある子供の手に渡る。まさしくこの映画は受け継がれる黄金の精神の叙事詩だった。ジョジョ4部だ。

だが私は気づいてしまった。
ギョギョおじさんが「買い物袋」を持っていたことに。


さかなのこは、さかなクンの半生を描いた自叙伝「さかなクンの一魚一会 ~まいにち夢中な人生!」が原作となっている。当たり前だが、さかなクンはすでにさかなクンだ。よってさかなのこのミー坊が最終的にお魚博士になることは、最初からわかりきっている。
はずなのだがこの映画、かなりギリギリまでミー坊がお魚博士になれるビジョンが見えないのだ。ミー坊は毎日のように魚の絵を描き、魚を食べ、ヤンキーと仲良くなったりカブトガニを人工ふ化させて新聞に載ったりと充実したお魚ライフを送っているがミー坊の成績はドベである。幼馴染のヒヨにも「お魚博士になるためには勉強も頑張らないといけない」と言われるがミー坊は頑張れない。「お魚を好きでいる」以外のことがまるでできないのだ。このままでは受験も難しい、と三者面談で言われてしまうが、お母さんはこの期に及んで言い放つ。
「この子はそれでいいんです」と。あくまでミー坊を肯定する。全力で。
小学生の頃にいたはずの父親と兄は、ミー坊高校生編へ移行する行間で物語から姿を消している。そこに一切の言及はない。

上京してからも変わらず、ミー坊はほかのことができない。古いアパートの二階に住み、隣の理髪店の店先で朝から晩まで煙草をふかしている亭主に見送られて出かける。水族館のバイトでは「向いてないんじゃないの?」と言われ、寿司屋で海老の頭を無心で毟る。職を転々とする日々。どう考えてもここからお魚博士に至る道は見えない。
その代わり、ミー坊には「お魚博士」以外の道が何度も提示される。ワンダー歯医者のインテリア水槽のデザインを依頼され、酔っぱらって商店街の壁に描いたグラフィティは称賛される。同級生だったモモコがシングルマザーとなって転がり込んでくる。三人でアパートの一室に暮らし始める。三人で川の字で眠る。もうここでエンディングでもいいのかもしれない。そう思わせる瞬間が何度も訪れる。

これがさかなクンの伝記映画でなければ、ここで終わっても良かったのだ。

この映画はさかなクンの伝記映画だ。ゆえに結末は一つしかない。マルチエンディングではないのだ。ほかの結末など、最初からないのだ。
ミー坊が「お魚博士」以外のエンディングに辿り着きそうになるたびに、「お前の夢の果てはそこじゃないだろ」と運命の矯正力が働き、急旋回で「正史」へと統合される。
そのカーブを曲がる際、崖下に奈落が見える。大きな愛のベールに覆い隠された崖の下に無数の「ミー坊」の姿が見えた、ような気がした。
この崖の下はきっと、今村夏子のテリトリー。


「普通って何?」

ミー坊は自分が「普通」ではないことを知っている。何故なら両親がまさにそのことで言い争うのを聞いたからだ。
ミー坊は確かに「お魚が好き」で、あの頃と変わらず「お魚が好き」という気持ちで動いているが、周りが思っているほどにミー坊はピュアリーではない。都会で水商売をし愛人として囲われているモモコにもいいとも悪いとも言わないが「寂しいと思って」金魚を差し入れていくくらいにはミー坊なりに思うところがある。再会した昔馴染みに「ミー坊は変わらないよな」と言われると、「僕だって年相応だよ」と口をとがらせる。
だって同じはずがないのだ。小学生のミー坊ではない。もう大人になって東京で一人暮らしをしているミー坊なのだ。あの頃から10年以上経ったのだ。変わらない、はずがないのに。
だから今、大人になったミー坊が言う「普通って何?」は、あの頃と変わらないミー坊の純真さに救われる台詞ではない。ミー坊は明確な受容の意志を示しているのだ。子供を産んで捨てられたモモコに、女であるモモコに、「ここにいていいよ」と言っているのだ。それが何を意味するのかも、今のミー坊はわかっている。

その瞬間、モモコは気づいてしまった。このルートではミー坊はお魚博士にならずに「落ち着いて」しまうと。

そしてモモコは子供を連れ出ていく。自分たちがミー坊の「夢」を閉ざしてしまうと知って。
ヒヨはミー坊の「夢」を嘲笑った女と訣別する。そしてミー坊の夢を祝して乾杯する。
全ては「お魚博士になる」という、ミー坊の夢のために。

ミー坊たちの故郷は千葉の片田舎だ。ヤンキーの総長の実家も地元の網元で、というより狭い漁師町で「家業」と言えばだいたいその辺りに限られてくる。今はつっぱっていても、いつかは家を継ぐのだろうという閉塞感。この街を出るにはヒヨのように猛勉強して食らいつく者もいれば、モモコのように都会の水に溺れる者もいる。そんな彼らの原風景に焼き付いた、突出した才能を持ち自分の好きを原動力に突き進んでいく(ように見えた)ミー坊という「きらきらした存在」へかける「お前は変わらないよな」という言葉の質感。
それは純粋な祈りだ。その祈りの前ではミー坊の「お魚が好き」という大きな思いの中に当然あるはずの、生活を営んでいく過程で発生するさざなみのような揺らぎの存在は完全に却下される。

その却下の根拠となっているのは何か。
この映画を見ているわたしたちの眼差しだ。

わたしたちはミー坊が最終的にお魚博士になることを知っている。さかなクンがさかなクンになることを知っている。私たちはさかなクンがさかなクンであることを一ミリも疑っていない。
彼らが抱く「ミー坊はずっと変わらずお魚が好き」という確信と、わたしたちが抱く「さかなクンはずっと変わらずお魚が好き」という確信は相似形になっている。このためミー坊の内心が作中で一切開示されないことに、彼らも、わたしたちも、誰も疑問を呈さない。ミー坊の「好き」が決して変わることがないと、わたしたちが物語の外から断じる形になっている。愛で紡がれる物語の連帯保証人になっているかのような感覚。そしてこの賭けは絶対に勝つことが決まっているのだ。
もしも、ミー坊がお魚博士の夢を諦めることを選ぶとしたら、ヒヨもモモコも総長もカミソリ籾もきっとものすごく残念に思うだろうけど、最終的にはミー坊の意志を尊重するだろう。だが我々がそれを許さない。ミー坊がお魚博士にならないことをわたしたちが許さない。

一人きりの部屋で、ミー坊がクレヨンセットの包装紙の裏に金魚の絵を描くシーン。クレヨンと言うのは、擦れるのだ。朱が手にこびりつく。

隣の理髪店の亭主が嫁らしき女に連れられて家の中に入っていくのを見た時のミー坊の形相はすさまじかった。いつもここで一日中煙草をふかしている髪結いの亭主も、買い物袋からネギをのぞかせるギョギョおじさんも、みんなみんな人間だった。彼らは妖精やNPCではなく、生きた人間だったのだ。何もかもがファンタジーではない世界で自分だけが最後までファンタジーでいつづけなければならない者の恐怖がお前にわかるか。

これが例えば、夢を押し付けるとか呪いとか重圧とかの物語だったらどんなによかったことか。
だがこれは間違いなく愛の物語なのだ。ミー坊にかけられているのはまさしく愛に他ならない。だから怖いのだ。愛がこんな形だなんて知りたくなかった。本当はとっくに知っていたのかもしれない。だからこんなに怖いのか。

そして映画の終盤。この魔法を最初にかけた魔女であるお母さんの口から、とんでもない真実が語られる。この映画を根底から覆すような真相が明かされた時、私たちはミー坊と同じかそれ以上に愕然とする。我々は一体何をした?
そしてこの瞬間、わたしたちは思い知るのだ。さかなのこはわたしたちを赦さないのだと。もうこの祈りから降りることはできない。クライマックス、ミー坊はついに夢を叶えて「お魚博士」になる。あの日のハコフグ帽子をかぶり、テレビに出る。ミー坊の夢を支えてきたみんながそれをテレビ越しに見守っている。わたしたちも、テレビ越しに見ている。


「さかなのこ」の原作には、ギョギョおじさんは存在しない。



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