っぽいこと。 2021.2.26
世間の何かに対する違和感は、誰しも多少は持っているだろう。その対象はさまざまかもしれないが、僕もずっと胸の底に溜まっていたことがある。本編、原本ではない、要約版やダイジェストが大手を振る風潮とでも言うか。ほら、なかなかうまく言葉にできない。
落語家の立川談志のドキュメンタリーを観ていて、あるフレーズが耳に残った。「落語家っぽい」。断片だが、少し視界が開けた。似非(えせ)だ。本物っぽいけど、本物じゃない。しかし、っぽい方がかえって受け入れられやすい皮肉。そうだ、僕はここに苛ついていたんだ。どなたかの苦労の果ての完成型、その外観だけがいともたやすく真似られる。
ローカルで釣りをしながら、自分が納得して楽しく暮らせれば、もう充分と思っていたが、こうやって、っぽい異音が聞こえてくる。真の価値が、あるいはそれを生み出している人がないがしろにされる。目利きの消失。何か言いたくなってくる。貧乏は許せても、貧乏くさいのは許せない。文化も経済も、臭いのばっかりになりませんように。ヤダヤダ。