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アヤトビト 第1章

あらすじ

死んだはずの猫が導く、怪異と恋心。剣道部に所属する高校二年生の彩。彼女は仲の良い持丸先輩、香山先輩、そして後輩の青木くんと共に、四季折々に怪奇現象に巻き込まれる。手術と称して電動ドリルで頭に穴を開けようとする保健室の幽霊、とある焼き鳥屋さんを執拗につけ狙う顔から火を吹く放火魔、店内が無限に広がる迷宮のような古本屋さん。風変わりな怪異と遭遇する中で彩はたびたび死んだはずの飼い猫「ビト」の姿を目撃する。大切な人たちと過ごす奇妙でちょっと恐ろしい一年。やがて彩はかつての後悔、そして胸の内で膨らむ淡い想いと向き合うこととなる。


 ふとした時に、鈴の音が聞こえます。

 通学途中だったり、仲良くしてくれる先輩とお昼休みにご飯を食べている時だったり、剣道部の稽古を終えて道場でホッと一息ついている時だったり。

 かすかに聞こえるその音は、息をするように毎日当たり前に耳にしていた音。けれど、もう聞こえるはずがありません。あれから一年が経とうとしていて、当時は高校一年生だった私も、もう二年生。

 きっと幻聴だってことも、見つからないこともわかっています。それでも音がすると、私はつい目で探してしまいます。

 グレーの艶やかな毛並みに赤い首輪をした彼が小走りする姿を、いつも探してしまうのです。




第1章 ドリルと手術と保健室


 私の手から飛んで行った木刀は、後輩の青木くん目がけて真っすぐに飛んでいきます。すぐにゴチンと鈍い音がして、崩れ落ちてしまう彼。その様子に側で見ていた持丸先輩と香山先輩は慌てて駆け寄りますが、私は鼻から血を流して呆然としています。
 いかにしてこのヘンテコな状況は生まれたのか。どうして私はこんな蛮行をはたらいてしまったのか。これには海のように深い事情がありました。


〇 


 桜が散って、入れ替わるようにやって来た陽気がぽかぽかと心地よいある日の放課後。いつもなら剣道場で稽古に励んでいるところ、私は防具を身に着けなければ道着にも着替えず、せっせと倉庫掃除に励んでいました。新学期が始まり、新入部員も入ってきたこのタイミングで大掃除をやろうと部長の谷口先輩が号令を掛けたのです。

「この、鼻の奥をツンと刺すようなニオイが僕は嫌いじゃないなあ」
「ふざけんな持丸、普通に臭えよ!」
 香山先輩の言う通り。ここは臭くてたまりません。
 体育館の二階にある道場からは少し離れた、各運動部の部室などが束ねられる建物。そこに入った剣道部の倉庫には、歴代の先輩方が身に着けた防具の数々が床も見えないほどに積まれています。それらに染み込んだ長年の汗と涙と血のせいで、倉庫内は芳醇な香りで満ち満ちていました。
「みんな卒業したらここに防具を置いて行ってしまうが、どうしてかねえ。地味で臭くてモテやしない剣道にはウンザリしてしまったのだろうか。香山さんはどう思う?」
「そんなこと私に聞くな。しゃべってないで手を動かせ」

 持丸先輩はそのお名前に相応しい、女子も羨むお餅のように白く柔らかそうなほっぺで笑みを浮かべるばかり。あまり掃除に積極的ではありません。一方の香山先輩はホコリと臭いを防ごうと顔の下半分を手拭いで覆い、その愛くるしい小顔がますます小さくなっています。防具をせっせと壁面に設置された棚に無理矢理押し込んでくれるので、私は見えるようになった床をひたすらホウキで掃いていました。
「持丸、お前がムカつく剣道しているせいだからな。倉庫の掃除なんて面倒ごと押し付けられやがって」
「ひどい言いようだなあ。相手の嫌がることをやり続け、頭に血が上ったところをカウンターで仕留める。これも立派な戦術だよ」
「男のくせにやり口がせこいんだよ。そんなだから谷口の野郎に目の敵にされちまって。お前なら普通にやってもあいつに勝てんだろ? なあ、彩」
「そうですよ、部内で持丸先輩は誰にも負けませんから」
 自分より強いのに、ふらふらとして気まぐれな持丸先輩のことを谷口先輩が良く思っていないのは誰の目にも明らかでした。あまりに露骨な場面もあって心を痛めますが、あの神経を逆撫でされるような剣道は私でも腹が立ちます。
「彩も言ってやれ。お前のせいで私も巻き込まれたって」
「まあまあ。谷口君の器の小ささは今に始まったことではないし、いつかは誰かが掃除をしなくちゃならないのだから、押し付けられたなんて考え方は良くないよ。それに彩さんは君と違ってそんなことを言う人じゃない」
「うるせえ、正論をかますな! だったらちゃんと掃除しろ!」
 大好きなお二人のやり取りを聞いていると、自然に顔が綻んでしまいます。

 特異な個性をお持ちの持丸先輩と香山先輩の扱いには、卒業してしまった先輩方や同学年の先輩方は困っていました。控えめに言っても部内で浮いています。道場から離れた場所にある倉庫の掃除を押し付けられたと言うのも、間違いではないのかもしれません。
 それでも、私のような後輩に威張ることなく対等に接してくださるお二人のことを私は尊敬して止みません。お二人に付いて掃除するように指示をされた時、私はとっても嬉しかったのでした。

「彩先輩。これ、使ってみてもいいですか?」
 お二人の会話を楽しく聞いていたら、倉庫にいたもう一人の部員、後輩の青木くんに声を掛けられました。彼は床を雑巾で水拭きしてくれていたのですが、いつの間にか妙な木刀を手にしています。
「なにそれ! そんなの初めて見た!」
 太さが普通の何倍もありそうな木刀。腕力を鍛える為のものでしょうか。素振りをしたらみるみる腕が太くなりそう。倉庫に埋もれていたのを発掘したようです。
「二、三回振ったらもう腕が動かなくなっちゃいそうですね」
 少し興奮気味に、腕白そうな笑みを浮かべる青木くん。まだあどけなさの残る顔立ちと優しい瞳。そして見上げるほどの高身長。その身体のせいで新入部員の中でも特に目立っていましたが、私はまだその人となりをほとんど知りません。

 そんな青木くんはつい先日、私が道場で竹刀を修理の為に分解して組み直すのを見て声を掛けてくれました。
「彩先輩は竹刀を組み立てられるんですね、すごい!」
 大して難しいことでもないのに、優しい眼差しをまっすぐに向けて褒めてくれるので、とっても恥ずかしくなってしまいます。いきなり下の名前で呼ばれたこともびっくりですが、そんなことはどうでもよくなってしまう程にピュアな眼差しに、私はへらへらと笑って頭を掻くばかり。そんな時間が、不思議と強く印象に残っていました。

「なになに、いいの持ってんじゃん。貸してみな」
 掃除の手を止めた香山先輩は、まるでカツアゲするかのように青木くんから木刀を奪うと、その場でぶんぶんと素振りを始めてしまいます。
「こいつはいい、腕に利くわ」
「香山先輩、危ないですよ。こんなところで」
 その細身の身体からは想像もつかないぐらいの膂力で、防具を付けても打たれると痛くてたまらないからと、女子だけでなく男子部員からも稽古で組むのを嫌がられる香山先輩。見るからに重そうな木刀を軽々と扱っています。倉庫の天井は高いのでぶつけてしまう心配はありませんし、本人は余裕そうですが、華奢な美少女が極太の木刀を振り回す様は見ていて不安になります。

「彩先輩、あれ振れます?」
 ハラハラしながら香山先輩を見ていた私に青木くんは訊ねます。後になって思えば単純に興味本位で尋ねてくれたのでしょうが、愚かな私は試されているのだと感じました。高校生になって初めてできた後輩の前でいい恰好がしたかったのも、もちろんあります。 
「そりゃあ振れますよ。だって高二ですから」
 ところが、意地悪そうな笑みを浮かべる香山先輩から渡された木刀を振り上げると、あっという間に二の腕が悲鳴を上げます。想像をはるかに超える、中に鉛でも入っているかのような重さ。けれど、ここで音を上げては先輩としての威厳が損なわれてしまいます。

 一振りぐらいなら何とかなるだろうと、えいやっと振り下ろしてみましたが、私の腕力は自分で思う以上に貧弱でした。握っていられなくなり、あっけなく手からすっぽ抜ける木刀。少し離れて正面に立っていた青木くん目がけて真っすぐに飛んでいくと、見事おでこに命中してしまいました。いつもニコニコとしている持丸先輩も、さすがにギョッとした表情を浮かべます。

 後輩を傷つけてしまったショックのせい、もしくは振り下ろす際に気張りすぎてしまったせい、またはその両方でしょうか。青木くんがその場に崩れ落ちてしまう一方で、私の鼻からは激しく血が噴き出していました。



「やっぱり彩さんも僕たちに負けず劣らず、風変りだよね」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい……」

 おでこに木刀をぶつけられた青木くん。それと、なぜかぶつけた側なのに鼻血を出す私は香山先輩と持丸先輩に連れられ、保健室にやって来ました。私の鼻血はともかく、頭を打ってしまった青木くんは先生に診てもらった方がいいと香山先輩が判断し、掃除は中止となりました。
「確かに頭は怖いね。今は平気でも、後になって死んでしまうこともあるから」
「持丸、適当なこと言って二人を怖がらせるんじゃねえ。先生はどこだよ」

 放課後になってからまだそう時間は経っていないのに、保健室に先生の姿はありません。私たちの他には生徒もおらず、閑散としています。私は冷蔵庫を勝手に開けると、中から取り出した保冷剤を手拭にくるみ、ベッドで横になる青木くんに渡します。
「すみません、ありがとうございます」
 ぷっくりと腫れてしまった青木くんのおでこがどんどん青くなっていくのを見て、鼻の両穴にティッシュをねじ込んだ私は怖くなってしまいます。持丸先輩の言うことが現実になってしまったらどうしようかと、もう気が気ではありません。

「彩先輩、大丈夫です。俺が正面に立ったのが不用意でした。申し訳ないです」
 青木くんは落ち着かない様子の私を気遣ってくれます。とても痛いはずなのに、なんて出来た後輩なのでしょう。背伸びしていい恰好を見せようとした先ほどの自分が恥ずかしくてたまりません。
「青木くんは何も悪くないから、そんな風に思わないで。本当にごめんね……」
「そうだ。最初にあんなところで素振りをしたのは私だし、彩のことも止めなかった私が一番悪い。本当に申し訳ねえ」

 どんよりと重苦しくなる空気を気にしてか、それとも気にせずか、空いているベッドで寝転がる持丸先輩は話題を変えます。
「保健室といえば、例の噂が思い出されるよ。美しい女教師の霊とやらに僕も会ってみたいねえ」
「急になんだよ。あんな先生がいてたまるか。バカバカしい」
「保健室に来た生徒を拷問しちゃうんでしたっけ?」
「俺は人体実験されるって聞きました」
「確か、生前は他の男性教師と婚約していたんだよねえ」
 それは校内で広く知られている噂話。浮気をされて、怒り狂った先生は婚約者を保健室に拉致し、拷問の末に殺してしまったとか。自らも命を絶った後、幽霊となった彼女は度々保健室に現れるそう。

「僕のクラスメイトの知り合いの知り合いに、その教師に会ったと言う人がいるんだ。『頭痛が痛い』と訴えたら丸ノコで頭を開いて中身をいじくられてしまったそうでね。でもその人は殺されず、頭痛は治まり国語の成績が上がったそうだよ」
「なに言ってんだお前。くだらねえ。彩、ここにいてもしょうがねえから先生を探しに行くぞ。もう平気だろ?」
「はい! お供します!」
 もうすっかり鼻血は止まっていましたので、詰めていたティッシュを引っこ抜き、保健室を出ようとする香山先輩の後に続きます。
「持丸、お前は青木のことちゃんと見とけよ」
「うん、任された。いってらっしゃい」
 肘を枕にして横になりながら、ひらひらと手を振る持丸先輩。その様子に香山先輩は盛大に舌打ちをします。一方で青木くんは身体を起こし、私たちに深々と頭を下げてくれました。
「香山先輩、彩先輩、よろしくお願いします」



 保健室を出た私たちの足元を、小さな何かが駆けていきます。同時に辺りに鳴り響く鈴の音に、私は聞き覚えがありました。
「なんだ、今の?」
「猫ですね。迷い込んじゃったのかな」
 一瞬の出来事でしたが、グレーの猫が駆けていくのをはっきりと見ました。そんなわけないと思いつつ、後を追いかけたい衝動にかられますが、その後ろ姿はあっという間に廊下の先で暗闇に溶けてしまいます。というのも、いつの間にかすっかりと陽が落ち、校舎内の明かりもほとんど消えてしまっていたのです。
「まだそんな時間じゃないだろ。どうなってんだ?」
 保健室に入ったのはつい五分か十分前のはずで、その時はまだしっかりと陽は残っていました。それなのに、今はもう廊下の数メートル先も満足に見通せません。さらに、暗い校舎の中をゆっくりと歩いていても、他の生徒も先生も誰一人として見かけることはありません。職員室にも入りましたが、すでに真っ暗になっていました。

 そのまま当てもなく校舎内をさまよい歩く内、前にいたはずの香山先輩はいつの間にか後ろを歩いています。それに私のスカートの端を指でつまんでいました。
「香山先輩、大丈夫ですか?」
「うるさい、ぶっ殺すぞ」
 あまりに理不尽な言葉とは裏腹に、いつもの不機嫌そうな表情はどこへやら。明らかに怯えている様子です。
「もしかして、お化け屋敷とか肝試しが苦手ですか?」
「お前、本当に殺すぞ」
 図らずも垣間見えてしまった一面。こんな状況にも関わらず、私は胸の高鳴りを抑えられません。
「先輩、意外です」
「てめえ、あとで覚えてろよ」

 ここで私は以前、香山先輩のお家に遊びに行った日のことを思い出します。先輩のお部屋には青いクマのぬいぐるみがたくさん置かれる一方、そこで一緒に観たのは画面いっぱいに内蔵が飛び散る前衛的なホラー映画。早々に気分が悪くなった私に目もくれず、お腹を抱えて笑いながら観ている香山先輩を色々な意味で案じてしまいましたが、今はたまらなく愛おしく思えます。

「大丈夫。何かあったら香山先輩は私が守りますから!」
「お前にそれを言われても、なんの気休めにもならねぇんだよな……」



「君たち! ああ、よかった。やっと人がいた!」
 真っ暗な校舎を彷徨い歩い続けていたら、三年生の教室がある南棟で声を掛けられました。
「キャッ!」
 これまた初めて聞いた香山先輩のかわいらしい悲鳴と共に振り向くと、暗闇の中に見慣れない男性の姿がありました。歳は三十代前半といったところでしょうか。きっちりと七三に整えられた髪型と、黒ぶち眼鏡の向こうに覗く穏やかな目元は聡明な印象を与えます。教師と思われるその男性は、私たちを見つけて心底ホッとしている様子。
「君たち、私を保健室まで案内してくれないか? 校舎が暗いせいか、道がわからなくて」
 これを渡りに船というのでしょう。私は青木くんのことや、自分たちの置かれている状況を簡単に説明し、保健室までの案内を申し出ます。
「それはまずい、一大事じゃないか。急ごう!」

 さっそく先生を先導して保健室への道を急ぎますが、先程から黙っている香山先輩がぴったりと身を寄せるので、歩きづらくて仕方がありません。
「先輩、どうしたんですか?」
「お前、なんかおかしいと思わねえの?」
 背後にいる先生に聞こえないようにと、香山先輩は耳元でささやきます。
「あんな先生、私は見たことねえぞ。それに保健室にたどり着けないってどういうことだよ。不審者だろ?」
「先輩、それは失礼ですよ。あんなに身なりの整った、見るからに聖職者っぽい方が不審者なわけがありません。先生に決まっています」
「お前、ゆくゆくは詐欺に気をつけろよ」
「それに青木くんが心配です。たとえ先生ではなかったとしても、早く大人の方に診てもらった方がいいでしょう?」
 私の言葉に不満そうな表情を浮かべるも、香山先輩は再び黙ってしまいます。無理矢理言いくるめたようになってしまいましたが、確かに私も疑問が無いわけではありません。

「どうして保健室を探しているんですか?」
「会いたい人がいるんだ。命の恩人だよ」
 顔だけ後ろを向いた私の問いかけに、男性は即答してくれます。
「事故で頭を酷く打ってしまってね。救急車を呼んでいたら間に合わないからと、彼女が保健室で頭を開いて手術してくれた。おかげでこの通り元気になったけれど、保健室までの道も思い出せないぐらいに忘れっぽくなってしまったよ。アハハハ」
 本当に忘れっぽくなっただけなのでしょうか。男性の突飛なお話に、身を寄せる香山先輩が震えているのがわかります。やっぱり先輩の言うように不審者なのかもしれません。そこでさらに問いかけようとすると、廊下の先、暗闇の向こうから声が聞こえます。

「おーい、香山さん、彩さん」
 保健室まであと少しというところで私たちの前方で暗闇から浮かび上がったのは、廊下の床をこちらに向かって匍匐前進する持丸先輩の姿。
「持丸先輩、遊んでいる場合じゃありませんよ」
「遊んでいるわけじゃないよ。ちょっと困ったことになってしまってね」
「おい持丸! お前、足が!」
 怯えていたはずの香山先輩が急に大声を上げるので、驚いてしまいます。促されて見れば、なんということでしょう。床でうつぶせになる持丸先輩の両足は、きれいさっぱり消えてしまっていました。



 いやあ、困ったねえ。つい先ほど、保健室に先生が帰ってきたのだよ。とはいえ、いつもの僕たちが知っている先生ではなかった。白衣の上からでもわかるくらいにすらっとした手足と美しい黒髪、そして整った目鼻立ち。すぐに僕はピンときたよ。この人が噂の幽霊なんじゃないかって。

先生は最初に僕に聞いた。「あなたはどこが悪いの?」って。だから答えた。「特に悪い箇所はないが、強いて言えば将来が不安で頭が痛い。あまり勉強はしたくないし、さりとて働きたくもない。何かで一発大きく当てて、残りの人生は印税で食っていけやしないかと思案すると、すぐに頭が痛くなってしまう」と。

 すると先生はこう返した。「そんなに地に足のついた生き方が嫌なら、いっそ足を切っちゃいましょう。そうすれば頭も悩まさずに済むでしょう」とね。その後はあっという間だった。目にも留まらぬ速さでベッドに縛り付けられると、どこから取り出したのかもわからない、マグロを捌くような大きな包丁で両足をストンと切られてしまった。痛みも何も無かったよ。噂にたがわぬ恐ろしい美人だねえ。あっはっはっはっ。



「お前、足がそんなことになっちまって、剣道はどうするんだよ! あんなに好きだったじゃねえか。こんなことってあるかよ!」
「もう仕方がないよ。いい機会だから、かわいそうな僕をこの先死ぬまで養ってはくれないかね」
「ふざけんな! そのイかれた女、絶対に許さねえ!」
 まるで他人事のように、あっけらかんと壮絶な経緯を話して聞かせてくれる持丸先輩と、その大きく美しい瞳から涙を流す香山先輩。その傍らで、理解が追い付かず放心状態の私に持丸先輩は言います。
「僕のことはもういいのだけれど、このままだと青木くんが危ない。彼を助けてあげてほしい」
 そうです、保健室にはまだ青木くんがいます。そんな訳の分からない理由で持丸先輩は足を切られてしまったのですから、頭を打った青木くんは一体どんな酷い目に遭うのでしょう。私はすぐにその場から駆け出します。

「彩、ちょっと待てよ!」
 香山先輩に呼び留められましたが、身体は止まりません。私が調子に乗ってあの木刀を振らなければ、こんなことにはならなかったのに。なんてどうしようもない人間なのでしょう。せめて青木くんがこれ以上酷い目に合う前に助けなくては。すぐに保健室にたどり着いた私は、思い切り扉を開けます。

「彩先輩! 来ちゃダメです、逃げてください!」
 私のいない間におでこの腫れがさらに大きくなった青木くんは、何故か水まんじゅうのようにつやつやの坊主頭になっていました。椅子に縄で縛り付けられた彼の前に、こちらに背を向けるようにして立つ白衣姿の女性。その左手にはバリカン、右手には電動ドリルを握りしめています。
「何よ、今度はどこが悪いのよ。次に診てあげるから、そこで順番を待っていなさい。本当に今日は忙しいわ」
 こちらに目もくれずに淡々と話す幽霊に、私は大声で怒鳴ります。
「私は頭が悪いだけで、あとは至って健康です! お願いですから彼を解放してください、全部私が悪いんです!」

 ゆっくりとこちらを振り向いた幽霊。私は常々、これまで出会った中で一番の美人は香山先輩だと確信してきたのですが、今後は悩んでしまいそうです。はっきりとした顔立ちと気だるげな目が相まった神秘的な雰囲気に、香山先輩とは違った近寄り難い印象を受けますが、持丸先輩の言うように噂にたがわぬ美人さんです。

「あら、あなたがそうなの。さっきこの子から聞いたわよ。頭にめがけて重い木刀を投げつけたって。そんなことしたらダメじゃない」
「違う、彩先輩は悪くない。俺があんな木刀を見つけなければよかった」
「それは違うって! 青木くんがこうなっているのも、持丸先輩が足を切られちゃったのも全部わたしのせい。お願いです。私のことは煮るなり焼くなり好きにしていただいて結構ですので、彼を解放してください!」
 幽霊は心底うんざりしたような表情で、深いため息をつきます。
「私を間に挟んでイチャつかないでくれる? 本っ当にムカつくから。それにこの縄を解いてあげてもいいけど、この子、このままだと死ぬわよ。見ればわかるでしょう?」
 そんな馬鹿な、と言ってやりたいところですが、明らかに悪化していく青木くんのおでこを見るに、嘘であると言い切る自信が私にはありません。
「今から治療してあげようと思っていたところよ。割れた頭蓋骨が脳に刺さっているから、このドリルで頭に穴を開けて取り除いてあげる。安心しなさい、助かるわ」
「本当にそんなやり方で腫れは引くのですか?」
「そうよ。場所が場所だからきっと記憶障害は残るし、あなたのことなんて忘れちゃうでしょうけど。でも、後輩を傷つけるようなひどい先輩のことなんて忘れてしまってかまわないでしょう?」
「むむむっ」
 なんて言われ方でしょう。しかし、返す言葉もございません。まだ出会って日も浅い、後輩の頭に向かって木刀を投げるような先輩のことを忘れてしまえば、おでこの腫れが引いて元気に朝を迎えられるというのなら、おおいに結構です。なんの文句もございません。

 それなのに、それでいいはずなのに、青木くんに忘れられたくないと思ってしまう自分がいます。私が竹刀を組み立てられることを、あの木刀を一回だって振ることができないことを、鼻血を出してしまったことを、全部まるっと忘れてほしくありません。なんて身勝手な女なのでしょう。

「彩先輩、大丈夫。俺は先輩のことを忘れたりなんかしませんから」
 私の逡巡を察してくれたように、言葉をかけてくれる青木くん。そもそも、頭にドリルで穴を開けられそうなこの状況で、私のことを忘れるか忘れないかなんて大した問題ではありません。それなのに彼は力強く、まっすぐに私を見てくれます。

「お前が幽霊か、とっとと青木を解放しろ。そして持丸の足を元に戻せ!」  
 いつの間にか追いついて、私の横に立つ香山先輩。その威勢とは裏腹に足が震えてしまっています。
「いやあ、これはこれでいい気もしてきたよ。香山さん、やっぱりこのまま僕を養ってくれないかな」
 相変わらず緊張感の無い面持ちの持丸先輩は、香山先輩の首に腕を回しておんぶされています。そして保健室の入り口に立つ私たちの間を割って、先ほど出会った男性が中に入っていきました。

「久しぶりだね、白石先生」



 男性の姿を見て、幽霊はドリルとバリカンを落としてしまいます。その表情には余裕がなくなっていました。
「鈴木先生、そんな馬鹿な……」
「この子たちのおかげでやっとたどり着けた。迎えに来たんだ、一緒に行こう」
 近付こうとする男性に、後ずさる幽霊。神秘的な雰囲気はもはや崩れ、今にも泣きだしてしまいそうな顔です。
「嘘よ。だってあの時、私のことなんか忘れてしまったじゃない。それなのにどうして……」
「そんな簡単に君のことを忘れるわけがないだろう。あの時、ここで君に身長計で頭を殴られ、手術してもらった直後は思い出せなかったかもしれない。けれど、もう大丈夫。さあ、行こう」
 幽霊は震える手で口を覆い、ついに目に涙を浮かべます。
「そもそも、もう私のことなんてどうでもよかったじゃない。生徒に手を出して!」
「だからあれは誤解なんだ! 確かに卒業する生徒から恋文を受け取ってしまったけれど、それだけだ。何もなかったんだよ」
 ここで幽霊が崩れ落ちそうになるのを、男性は一気に距離を詰めて支えます。
「本当に、本当に来てくれたのね。ごめんなさい、私はただあなたを助けたかったの。それなのに、私を思い出せないのが許せなくて……」
「大丈夫、全部わかっているから。だから迎えに来たんだ」

 そのまま抱きしめ合い、互いに顔を近付ける二人。やがてそのまま甘美で濃密な時間が始まってしまいました。突然繰り広げられる熱々っぷりに私の顔まで熱くなり、青木くんは開いた口がふさがらない様子。隣では香山先輩も顔を真っ赤にしていますが、背中の持丸先輩はニコニコとした表情を崩しません。私たちは一体何を見せられているのでしょう。

「最後に彼のおでこと、あそこの彼の足を治してやってくれないか」
 やがて、二人だけの世界から我に返った様子の男性。その言葉に、幽霊は拾い上げたドリルの先を青木くんに向けます。
「あなたが望むなら、そうするわ」
 なんだか私たちは蚊帳の外で勝手に話が進んでいますが、青木くんを病院に連れて行くという選択肢は無いのでしょうか。「ちょっと待ってください」と二人の会話に割って入ろうとしましたが、回り始めるドリルはすぐに青木くんのおでこに当てられてしまいます。

「うおおおおおおおお」
 ドリルがおでこに触れた瞬間、そこから眩い光が発せられました。先端がずぶずぶと中へ進むにつれて光量は増し、大きなモーター音と青木くんの雄叫びが保健室に響き渡ります。
「だめ! 青木くん!」
 慌てて駆け寄ろうとするも光に視界を奪われ、私は身動きが取れなくなってしまいます。僅かな薄目も開けられないほどの眩しさと、こちらの脳まで揺さぶられるようなモーター音。あまりの不快さに、徐々にその音も青木くんの声も、そして私の気も遠くなってしまいました。



「おお、足が生えているじゃないか。よかった、よかった。これで僕も地に足のついた生き方を考えなくちゃならんね」
「わかったから早く離れろ! 気持ち悪いんだよ!」
 耳慣れた心地良いお二人の会話で目を覚ますと、私は保健室のベッドで横になっていました。どれぐらい気を失っていたのでしょう。隣のベッドで横になる香山先輩の首には未だに持丸先輩の腕が巻かれ、二人仲良く横になっています。
 なんだかいけないものを見てしまった気がして顔の向きを変えると、すぐ目の前に青木くんの顔がありました。私と彼は同じベッドの上にいたのです。なんて破廉恥な。彼氏だってできたことが無いのに、その前に男性とベッドを共にしてしまうとは、お母さんが知ったら卒倒してしまいます。

 未だかつて経験したことのない状況にどうしたらいいかわからず、目が泳ぐばかり。一方、そんな私をじっと見つめて動かない青木くん。頭はつやつやの坊主のままで、おでこには血の滲んだ大きなガーゼが貼られていますが、腫れは引いている様子。

「彩先輩。やっぱり俺、先輩のことを忘れませんでしたよ」
 顔を向かい合わせたまま、突然そんなことを言って笑います。

 私は再び鼻から血を噴き出してしまいました。






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