SNS時代には3度目の死が存在する
12月7日
今日は昨年、自らこの世を去った親友の命日だ。
1年前、突然の別れのあと
私はショックで約3ヶ月ほど、仕事も手につかず寝込み、生活をしているだけで、ふとした瞬間に涙が溢れ出てくるほど心を痛めたが
今は、なんとかこうして立ち直っている。
親友の事を忘れていたわけではない
むしろ共通の友達と遊ぶたびに、亡くなった親友の話題が出ることも多いが
しんみりとした悲しい空気になることはもうない
私は彼女の死を受け入れて前を向く事ができる様になっている。
たった1年で、早いと思われるかもしれないが
そもそもその親友は出会った最初の時から
いつ自死してもおかしくない様子だった
だからこそ2年という月日を、お互い都合がつく限り遊ぶ予定を立てて、とことん一緒に思い出作りに励む事ができたのだ
もう会えない寂しさはあれど
やり残した後悔などは全くない
それと同時に、彼女にとって死は苦しみからの救済であり、祝福されるべき事だった。
なので、親友が人生を自ら終えたことに対して、何も咎める理由はなく
私達は「今までよく頑張ったね、もう安心してゆっくり眠ってね」と見送った
私たちには、彼女と過ごしたたくさんの思い出や写真が残っている。
それに、インターネット上に、彼女は存在していた痕跡をたくさん残してくれていた。
作詞家・エッセイストの永六輔さんの名言に
"人間は2度死ぬ"というのがある
「人間は二度死にます
まず死んだ時
それから忘れられた時」
一度目は医学的に死亡が確認された時
二度目は全ての人の記憶から忘れられた時
しかし、この名言は
1995年発行の「二度目の大往生 岩波新書」に収録された、まだインターネットも一般に普及していない時代の言葉だ。
SNS時代の現在に当てはめた場合はどうだろうか
親友の死に胸を痛めたのはリアルワールドで繋がっていた私たち友人だけではない
SNSで相互フォローだが面識が無いユーザーも
一方的にファンとしてウォッチしていた人間もいる
そして亡くなった後も
Xのアカウント、インスタグラム、TikTok、YouTube、noteなど
彼女がこの世界に存在していた事を確認できる写真やメディアのアーカイブがインターネット上に残っている。
私たち友人や、彼女とリアルで繋がりのある者の存在が全員死に絶えて
彼女と直接面識のあるものが、この世に居なくなった後もなお
ネット上に彼女の記録が残り続けるとしたら
2度目の死を迎えた後にも
“3度目の死”があるのではないか
3度目の死
それは、このインターネット上から現実に存在していたという足跡が全て抹消された時。
ライターの吉田雄介さんによる2015年の著書『故人サイト』には、亡くなった人達が残していったホームページやブログ、SNSなどを取り上げ
どういった経緯で亡くなられ、どのタイミングから更新が途絶えたのか、その後残されたアカウントやサイトはどのような未来を辿ったのかが記されている
最近では昔、個人サイトによく使用されていたレンタルサーバーがサービスを終了し
多くの個人サイトや故人のサイトが、閲覧できなくなる事態が増えている。
消えてしまったサイトの中には
誰かの記憶からもとっくに消えて
"3度目の死"を迎えたものもあったかもしれない。
極めてまれな事例だが
中にはブログやホームページ、SNSのアカウントなどを遺族が引き継ぐ例や
サーバーのサービスが終了した後もミラーサイトとして閲覧可能な状態にし、ネット上にアーカイブを保護しておく者も存在するらしい。
さらに、昨今ではAIの技術が急速に発展しており、もはや故人の写真や肉声データ、思考パターンのデータさえ残っていれば
故人をモデルにしたAIだって作ることが可能な時代だ(倫理的な問題についてはさておき)
そうなるともはや3度目の死どころか不死の域に達する可能性もある。
そういった想像や捉え方が現実的に可能な時代になってきた今、死別の寂しさは昔より少し軽くなったような気もする。
インターネットが持つアーカイブ機能は、今や死後の存在そのものを左右する時代になってきたのだ。
死を望む事はタブーではない
死や自殺といったテーマに関しては、昔からセンシティブとされタブーな扱いをされてきたが
現代の人々は、かつてより身近で理解を示してくれやすくなったように思う
SNSの普及と共に、生きづらさやメンタルヘルスに関する意見の共有がされやすくなった事で、幅広い世代が"死"というものに思いを巡らせる機会が増えたのではないか
その中で"死は救済である"といった認識も広まりを見せているように見える。
"死"というものをネガティブに捉えているのは
基本、"死にたくない、長生きしたい人達"だ
"生"というものが辛く苦しいものでしかない、絶望からの解放を望む者にとっては
"死"をポジティブなものとして捉えている者もいる
ただ、それでも自死を実行するのは
なかなか容易な事では無い
失敗するリスクがいくつもあるからだ
自殺に失敗して、身体の欠損や後遺症などを負ってさらなる地獄に落ちるリスクを考えると
死をポジティブに捉えてる人間でも、なかなか実行には躊躇してしまう事がある。
そんな人達の中で希望となっているのがスイスで行う安楽死だ。
2001年にオランダで世界初の安楽死合法化が認められ
年々ベルギー、カナダ、コロンビア、スペイン、ニュージーランドで合法化する国が増える中で
"スイス"のみは日本人も受け入れていると話題になり
安楽死を望み日本からスイスに渡って命を絶った人のドキュメンタリーもテレビで放映された
そういった中で「苦しまずに死ねるなら私もすぐに安楽死したい」と安楽死の合法化を望む声も近年増えているのを見ると
死がタブーとして扱われる空気は年々徐々に薄れているように感じる。
しかし、親友も安楽死についての知識はあったはずだが、経済的な理由や、それに費やす時間の問題で叶わなかったのだと思う。
スイスの安楽死は費用や手続きの面でなかなかハードルが高いのだ。
私が思うに"タブーな死"というのは
「当人が望んでいないにもかかわらず
悲惨な事件や事故に巻き込まれてしまい
命を奪われてしまった」例だと思う。
"死"そのものはタブーではない
誰にでも平等に訪れる摂理なのだから。
"死"を望む事もタブーではない
生きることがつらく、苦しい人にとって、それがむしろ救いになることもあるのだから。
SNSに上げる情報は全て遺品になる
親友の死をもって改めて実感したのは
「写真」というメディアが本人にとっても残された者にとっても如何に大切であるかという事だ。
我々友達の憶測の範疇でしかないが
亡くなった親友は自死をかなり事前に計画していたと思う。
親友は亡くなる数ヶ月前に200万近くローンを組んで顔を整形した。
ダウンタイム後にはポートレートの撮影を行い、それをSNSに上げていた。
その写真で彼女は、透き通るような真っ白な衣装に身を包み、天使輪と羽のコスチュームを着用していた。
今まで見た彼女の写真で1番高解像度で美しい写真だった。
それは、亡くなってから
彼女が"遺影に使ってもらうため"に撮影された写真なのだろうというのが想像できた。
彼女のメディア欄を遡る中で、遺影に相応しい写真はそれしか考えられなかったのだ。
彼女の意図を汲むためのSNSがあってよかった。
希望通りの遺影でお別れ会をしてあげる事ができて良かったと思った。
かつてインターネットというのは匿名でやる文化が強かったため
顔や名前を晒す事にとても慎重になる人が多かった。
しかし、それ故に"2度目の死"を早く迎える人も多かったであろう。
もちろん、「自分が存在していた記録や人の記憶の中の自分まで消したい」と考える人にとっては、インターネット上に自分に関する情報など少ないに越した事はないと思うかもしれない
だが、残された家族や友達にとって
生きていた証を残しておいてくれる事は
とても有難い事だ。
私は、個人がSNSに投稿する情報は全て遺書であり、遺品にもなり得ると考えている
逆にインターネット上にログが残っていなければ
その人の存在を他者が認知する方法は無い
文献に残っていれば別だが、そうでない限り
人々の記憶から消えた2度目の死を迎えたあとは
インターネットに残っていない=存在していた記録が無い という事になってしまうのだ。
「それでいい、存在しなかった事にしてくれ」
中にはそう考える人も多いだろう
存在していた記録ごと抹消したい人は、何も遺さないのは正しい判断だ
しかし、死は時に望まぬ人の元にも突然訪れる事がある。
「死んだ後も、ちょっとだけでいい、自分がいた事を誰かに思い出してくれたら…」
そんな思いがあるなら、是非SNSに貴方の生きた記録を残してほしいと思う
写真、動画、日記、何でもいい
SNSに記録を残すことで、誰かが亡くなった後も、その人の存在を感じ続けることができる
それは、残された誰かにとってかけがえのない宝物になるはずだ。