令和元年七月十八日

自分をマトモにしていたのは結局、制約だったのだなと思う。
わたしに自由は扱いきれない。

だるい。
バイトを休んだ。シフトを勘違いしていたせいだ。電話が掛かってきて、ああ、またやってしまったなと思う。今年に入って2回…いや3回目だろうか。あのシフト表はとにかく見辛い。人数が30人以上もいると仕方ないのだろうか…。とは言え、シフト違いで休むのは大抵わたしだけなので、他の人間にとっては別段不具合はないらしい。見づらくないのかな。
まあ、どうしても行く気になれなくて、予定を入れてしまったと言った。そのあと2時間くらいは他の人に迷惑がかかるなあとか、次行くとき気まずいなあとか考えていたけれど、決めたのは自分で、仕方ない。迷惑をかけて次の出勤が気まずくて、怒られたり叱られたり冷たい目をされるかもしれないけれど、自分が選んだのだし、あの時にゃ、行く、という気持ちは完全に抜け落ちていた。今日を休みに設定して、他のバイトと合わせて5連勤にしてあったのだから。昨日一昨日は腰が痛くて仕方なかった。今日は休みだろ。休み。休みだ。
怒られたり嫌われたりしても仕方がない。嫌なら辞めたらいいのだし、続けたいのならやるしかない。働いて、金を貰いに行っているだけなのだから。余計なことを考える必要などない。
兎にも角にも、休みは死守した。というか、踏み倒した感じだけれど。
この場合の休みは、自由だ、という感覚が普段の休日の倍になる。しなければならないことを放り出すだけで、なんと自由なのだろうか。自由だ。

そのくせ、この文章を書くまではモヤモヤしていて、カップ麺やサラダチキン、アイスをばくばく食い漁ったり、ベッドでひたすらごろごろしたり、もう酒を飲むしかないな、と思っていた。
冒頭の、自由は扱いきれない、というのはここだった。いざ自由があっても、使いこなせない。なんだか急に景色がぼんやりして、気持ちもぼんやりして、何か物足りないな、という気持ちになってくる。物足りない、という気持ちとは裏腹に払わなきゃいけないお金はたくさんあるし、そう思うと働かなくちゃいけないんだろうけれど、どうして金を払わなきゃいけないんだろうとか、ああ生きてるからか、なんで生きてるんだっけ、とか、ぐるぐるぐるぐる、なあ〜んも楽しくないな、とか考え始めてしまう。近頃のわたしを支えていた、なんとかやって行けている、という感じがすっぽり抜け落ちてしまった。毎日、何のために、生きているんだっけ。何が楽しくて、気持ちよくて、嬉しくて、面白くて、何を期待して、望んで、求めているのだっけ。悲しきかな、この生には、少しの夢もないな。ウェルベックの闘争領域の拡大を思い出す。

外に出て本でも読みたいけれど、外界は刺激が多すぎるな、とか、わけのわからないことを考えてしまう。そう考えると前の家の近くの夕陽ヶ丘は良かったなあ。コンビニも歩くと10〜15分くらいかかってしまうし、自動販売機も5分以上は歩かないとなかった。ひたすらに広〜い空をぼんやり眺めたり、本を読んだり、煙草を吸ったり、ぬるくなっていくビールを飲んだりしていた。あそこに今日行ってみるのもいいかもしれない、なんて思いながら、多分行かないのだ。歩くには少しばかり遠い。散歩がてらならいいのかもしれない。散歩もいいな。でも気づけばもう15時。休みをたっぷり無駄にしたな。まあいいか…。


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