悼む人
第140回直木賞受賞、天童荒太の悼む人が原作。
やっと映画になったのか…(知らなかった)
映画をよく見るようになったのは今年に入ってからなのでとても最近のことなのだけれど、この作品を見て、原作のある映画を作る場合、原作の模倣ではいけないのだなと思わされた。というより、気づいた。
至極当たり前のことなのだろうけど、作品を読み解いて新たに構築する作業はとても大変だろうなあ。
原作を読んだ人たちの先入観と戦うわけだし。
この映画・悼む人でも原作と相違する点や削られたエピソードは多い。
それでも、印象深い映画だった。
物語は原作と同じく三方向から進むのだけれど、萩野が一番丁寧に描かれていた。悼む人・静人の母、巡子のエピソードも生死への抑揚を感じる。しかし、倖世の視点が弱い。
倖世に夫の霊がくっついて回るんだけどこれはもうちょっとしつこくやってほしかった。静人の悼むシーンだけなら飽きてしまうかもしれないが、この霊が割と小煩いので退屈はしないはずだ。いや、むしろその説明をはしょるなら静人の冷静で淡々とした態度をもうちょっと描いてほしかった。 なんだか静人の心情の変化に唐突さや雑さを感じてしまったというか腑に落ちない。
先も言ったが、この物語の軸となる「悼む」行為自体は地味なので、映像として何度も繰り返すうまみはないかもしれない、しかしお陰で他のシーンはいちいち濃く感じ、それによって静人の雰囲気はますます静けさを増す。
気になったシーンとしては、悼む人・静人の母が同じ癌患者に責められる場面、患者が自分自身を奮い立たせる為でもあるのだろうけど、生きるために戦うのって心身共にエネルギーを使うし簡単じゃない。生きることに肯定的になれない自分からは絶対出ない言葉だな…と。
あとはルポライターの萩野はいいキャラしてるし憎めないけど現実にいたら好ましさゼロだ。
君の行為には誰も共感しない、という誰かが共感・支持しない行為には意味がないとでも言いたげな台詞には腹立つし、父親が死んでからスケッチブックを見て泣くシーンもあざといあざとい。
後悔してからでは遅いとこれまでの人生で教わらなかったのかとか、その後悔を作ったのは自分の言動なのによく泣けるよなとか、それしかも死んだことじゃなくて自分の行動に対する悔いだし、事実なんてあってもなくてもいいんでしょ?としか思えない。
まあ幼稚で嫌な奴だけど素直で悪いやつじゃない。
ヒロインの倖世は原作よりすこし年上に感じて、最初はこれでいいのか?と疑ったが、なんというか、これはこれでメンヘラ感出ててよかった。
わたしがいることで助かったこともあるんじゃないの?とか、もう歩けない!だとか待っててくれる?とか、女子か!と突っ込みたくなる。
ちなみに静人役の高良くんはハマり役だった。
あ、あと、
生と死ははっきりと切り替わるものではなく繋がっているもので、生と死は支え合っているとも言える。
どちらかに倒錯してしまうのはよくないのかもしれないと、死を信じるものとしては、今一度考えたいなと。
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