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健聴者と聴覚障害者の狭い世界
SNS が発展していなかったあの頃は、聾者の世界は狭かった。聾者世界が狭い事にいち早く気づいた聾者は広い世界に飛び出す。大概の(私の知る限りの聾者は。)聾者の世界に嫌気がさし、広い世界を求めて健聴者の世界に足を踏み出す。
何が狭いのか、
聾者は聾学校に通う子が殆ど。(聾者でも健聴者の、公立や私立に通う子もいる。)
聾学校には先生以外に健聴者はいない。周りには同じ聾者の子しかいない。人数も、ある意味特殊な学校なわけで、そう多くない。結果、狭いコミュニティとなる。
狭いコミュニティには狭いしきたりや、狭いながらの村社会的なルールや掟が生まれ、寛容さは無くなり、ちょっとした事でいじめ、仲間外れがおこる。
価値観が多様化するほどの外的な刺激がないのだ。聾社会という小さな村社会のみが世界観だ。(敢えて小さいと言わせて頂く。)
彼等から観る健聴者とは、どの様に映るのだろうか?
私はそれなりに聾者と日常を供にしたが、(供にした時期は妻と付き合い始めた頃から。当時まだ18歳、もう20年以上前からになる。)
正直、良い思い出、悪い思い出が半々づつくらいある。
健聴者である私を彼等は見ようとしない。初めて会った時の挨拶時から、彼等の目に私は映っていなかった。終始はぶかれっぱなしだった。勉強中の未熟ではある手話で話しても、私の身ぶり手振りを馬鹿にして通じない風を装い、しらっと流され、(彼等は健聴者に何か恨みがあるのか、、)そう思わされた。(未熟な手話が彼等に失礼だったのか?しかし馬鹿にしてシカトする必要はあるのか?)
だが考えると、当時は碧いウサギ(酒井法子主演の聴覚障害者の切ないストーリー。)が流行った少し後。聴覚障害者と健聴者のラブストーリー、、それだけでドラマチックになる時代だった。
それだけ聴覚障害者と健聴者には差異があった。壁があったのだ。
彼等にはただ自分達聾者の美化像(おきまりの、求められる。)に嫌気が差していたのかもしれない。
若かった私はその美化像に期待していたのかもしれない。(挨拶時にそれを彼等が読み取ったのかもしれない。)
健聴者の世界は狭い。
彼等聾者が耳が聴こえないというそれだけの理由で我々健聴者とは違う特別な存在(色々な意味で)だと思うわけだ。
私が、彼等を“特別に思う„が、彼等に私を見えない存在足らしめたのかもしれない。
“特別„は、あらゆる格好の的だ。
自分がその的にされ、利用されたら頭に来る。
今ならそう思えるが。
当時は未熟で、感情的に、単純に彼等の態度が嫌だなと思った。
ある夏の日、妻から(当時はお付き合いしている段階だが、)
聾者数十人と、花火大会に行こうと言われた。
正直、また相手にされなかったりするだろうから嫌だなと思った。
しかし、どうしても来て欲しいと言われ、行く事にした。
横浜市の花火大会。桜木町。混みすぎるほど混んでいる。
私と妻が向かった。
向かった先は凄まじい事になっていた。
聾者数十人が怒声を発しながら酒盛りしている。何故か金属バットを振り回している者も。
見た瞬間、怒りがこみ上げた。(彼等の周りの見物客達が、当たり前だが、明かに迷惑がっていた。楽しいはずの花火大会なのに、周りの見物客が無言でどうする事も出来ずに、ただ見つめていた。中には沢山の小さな子供達もいる。子供達もただ呆然と、または恐怖心で見つめていた。)
私は挨拶の代わりに、これでもかというくらい怒りあらわの表情をした。
当然、倍返しの表情、殺気が返ってきた。
私は彼等の席に腰を下ろしたくなかった。(楽しめるわけがない。)しぶしぶ座った。。
花火大会は始まった。
彼等は立ち見(立ったまま酒盛り。)
後ろの見物客は勇気を出して注意するが、彼等は聾者なのだ、聴こえない。
私は、後ろの見学者の声が聴こえるたびに、手話で彼等に座るよう言うが、睨まれるだけ。
妻は、もっと言ってあげてとしか言わない。最悪の場合は私が建つから大丈夫と言われて、(何が大丈夫なのか、、)
私は勝手ながら、健聴者と聾者の板挟みになってしまった感覚もあり、最悪、リンチ覚悟でコイツらを何とかしようと、「てめえらいい加減にしろ」
そう叫んで、手前の1人のむらぐらを掴んだ。
奴はちょっとびびっていた。しかし多勢に無勢、いや、1人に数十人。仲間が私に怒声を浴びせながらかかってきた。
そこで妻の登場!!
私の前に立ち塞がって、片言と手話で諭す。
何故か静まる。
後で聞いたら、花火大会に集まった聾者のリーダーが妻と幼馴染みで、リーダーに説得していたようなのだ。
わたしは救われたのか?
良くわからない。
ただ、彼等には健聴者が見えないのだ。周りの見物客が迷惑がろうと、見えないから仕方がない。
我々健聴者も、一切の偏見無く、彼等を見ているだろうか、彼等が健聴者を見えない存在とするのは仕方ないのかもしれない。
あれからも、聾者とよく関わりあってきたが、素敵な方ももちろん沢山いたし、大好きな聾者もいる。
ただ、やはり耳が聴こえないとは大きな障害だ。
音楽の音そのものを知らない、心を落ち着かせる曲、リラックスさせる曲、疲れた時に聴く曲、ここ一番の曲、自分を励ましてくれる曲、我々と違って彼等に音楽は無い。言葉の種類も多くない。手話それ事態にボキャブラリーが少ない。言葉の言い回しや比喩、工夫は彼等には無いに等しい。
それは心を狭くする。狭くなると、人にあたりやすく責めやすくなる。
比較的私の身近の聾者は、人によくあたる。「健聴者のくせに」「健聴者ななんだから何々して」「何で出来ないの健聴者なのに」聾者の顔馴染みにはよく言われるおきまりの言葉だ。これにはもう慣れたから私は良いのだが。あくまでも、私が知る聾者の話である。
SNS の発展で、聾者と健聴者は当たり前のようにコミュニケーションがとれる時代だ。その結果、手話に興味をもつ人がすごく増えた!!!素晴らしい事だと思う。あの当時の、聾者と健聴者の見えない壁が、とてつもない速さで崩れていっている。
今の若者世代の聾者は、健聴者とほとんど変わらないと思える。言葉のボキャブラリーもSNSによって、健聴者と変わらない。世界観が一緒になった。
今後もますます差異は無くなるだろう。
私はあの花火大会で出会った聾者に再び会いたい。
この時代に彼等と会ったなら、壁はおそらく無く、私の姿が見えているだろうと思える。