日記2024/01/08 成人

 成人式に出た。これは嘘で、「はたちを祝う会」に出た。法改正のせいで全員とっくに成人しているのでそうなる。ややこしいと思う。みんな成人式と言うのだから変な厳密性にこだわらず「成人式」と名乗り続ければいいのではないかと思う。たぶん実際にそうなっていたとしたら「成人祝いちゃうやんけ」とかツッコんでいたのだろうけれど。けっきょくあることないこと文句言いたいだけなのだ。それが自分の賢さの証明になると愚かにも思い込んでいるので。

 市長だの市議会議長だのと偉そうな人が現れて校長先生みたいな話をしていた。校長先生の話を聞くのは得意じゃないので一緒に来た者とちらちらしながらのんびり聞いていた。いわく、人間は「考え、話し、行動する」ことしかできないのだ、という。まあまあもっともだと思った。だからなんだという気はした。
 新成人代表が何か述べていたが、彼らがどういう道理で我々を代表しているのかよくわからなかった。いろいろの感謝とか抱負とかを述べていた。
 市ゆかりの有名人からのビデオメッセージといって、知らないバンドからコメントが来ていた。知らないなぁ、と言い合った。
 ところで、これはおれたちを祝う会なのだから、新成人代表はいいとして、なぜ市長だの来賓だのいうやつらにおれたちが拍手をしなければならないのかわからなかった。これは大学の入学式でも思ったことだ。なぜ総長以下アカデミックガウンを着た軍団がゆっくりゆっくりゆっくりゆっくり歩いているのを、新入生たるおれたちが拍手で迎え、そして送らねばならなかったのか? 今でも文句を垂れている。手のひらが痛かったんだよ、あれ。お前らが拍手しろよ。おれたちに。

 けっきょく、成人式本編の時間と、成人式終了後、席を立ってよいとされるまでに待機した時間がほとんど一緒だった。予想はしていたことだが、もう少し厚着をしていけばよかったと思う。とんでもねえ寒さだ!

 正直、二十歳になってどうこうとかいう感慨は薄い。成人式に行ったのは、たとえるならゲームクリアには必須ではないサブクエストを消化しておきたかったくらいの軽い理由による。別に行かなくても死なないが、でも、行かなかったらちょっと後悔するだろうと思ったのだ。行ったことのある都道府県を塗りつぶして日本地図を真っ黒にしようとする営みに似ているかもしれない。それに、祝われて悪い気分だってしない。
 他にはやっぱり、地元の友人と久々に会いたかったというのも大きい。みんな晴れ着が似合っていた。出来損ないの就活生みたいになってる自分がちょっと恥ずかしかった。

 ところで私はまだ十代だ。早生まれ。酒は飲めん。
 なのでこのタイミングで二十歳の感慨は持ちようがないといえばそうだ。でもたぶん、なってみても特に何も感じないのではないだろうか。人間は十進法が好きなんだなァ、とか思うだけかもしれない。高校卒業のときも似たようなことを考えた気がするが。
 神椿代々木決戦には十代割を効かせている。最近の神椿は現地ライブなどに十代割を設定していて、ありがたく使わせていただいていたのだが、私がこれを使えるのはさすがにこれで最後だろう。何か感慨にふけることができるとすればそのあたりに関して云々ということになるのかな。
 まあ、なってみんことにはわからん! 突然おもいもよらぬ感情が自分のうちに生じるなんてことも数多く経験してきたつもりでいる。伊達に十九年と十一ヶ月を生きていないんだぜ。エッヘン。

 夜には同窓会があった。おとといのとは別。高校と中学。
 成人式との間はけっこうあったが、友人とよくわからん場所で軽食を摂りながら潰した。
 さすがに中学の同窓生となると激変している。しょうじき顔を見てもわからない。名前を聞いて「エッ、おまえが?!」と言った回数は五回以上ある。髪の毛の色が明るくなっている。背が伸び、振る舞いが洗練されている。耳からなんかぶら下がっている。ワイヤレスイヤホンではなく。
 いちばんビックリしたのは、ホストみてえな見た目になっていた奴で、今何やってるの、と聞いたら、ホスト、と答えた。おっさんの金が俺に流れ込んでくるのだ。おうよ、それは社会貢献に違いねえ。ウスウスと大学生やってる儂なんかよりよっぽど。ワハハ。

 同窓会といえばむかしの記憶を振り返る後ろ向きの会、というイメージがあって、実際まあそういう面もあったしそれも楽しいのだけれども、しかし、頭の中で凍結された記憶として存在していた同級生たち(あるいは、教員たち)がその氷をぶっ壊し、現在を生きる人間としての性質をとつぜん顕にしてきた会という印象も受けた。私が生きているのと同じように、みんなもやっぱり生きている。当たり前だけれども、それって大変なことだ。

 けっきょく、この会に参加した段階で十九歳だろうが、二十歳だろうが、二十一だろうが、二十二だろうが、二十三、二十四、二十五、二十六だろうが、三十だろうが四十だろうがどうでもよかったのかもしれない。仲が良かった者もそうでなかった者も、互いに湯をかけあうため集まる必要があったのだ。気の毒だが市長と市議会議長には、そのためのダシになっていただいた。恨まないでくれたまえ。
 じゃあなんで二十歳のタイミングでそれをやるんですか、といわれると、まあ、やっぱり、人間は十進法が好きなんだろう。指は両手で十本ある。フム、道理である。

 二次会と称して十人くらいでカラオケに行ってどんちゃん騒ぎをした。半分くらいは中学時代に交流がなかった連中だったが、たいへん楽しかった。
 インターネットのオタクばっかりだったこともあってか花譜が通じた。「そして花になる」と「夜行バスにて」を歌った。前者はふだんあまり歌わないがなんか歌えたのでよかった。後者はふだんから一人カラオケで絶叫しているノリで絶叫したら引かれた。
 時事ネタだと言ってある曲を歌い始めた者があって、音楽に疎すぎる私でも知っている曲だった。さっきの成人式に出てきて「知らんな」と思ったあのバンドの曲だった。なんだ、この曲の人たちだったのか! だったらもう少し真面目に話を聞けばよかったかもな、なんて非道いことを考えた。

 終電に乗って帰ってウスウスと寝た。夢を見た覚えはない。ここからは期末試験の対策をむしろ考えねばならない。高専の卒業研究に取り組んでいるというアイツや、おっさんからめぐりめぐってきた金を巻き上げているというアイツも、そうして帰って行ったのだろう。


 最後にきわめてどうでもいい個人的感覚を述べると、20という数字よりは、18とか24のほうにむしろ「何かが切り替わるポイント」というイメージがくっついている。なんでそうなるのかはわからないのだけれど。
 どちらも6の倍数であることが関係しているのかもしれない。いわれてみれば12にも同様の感覚を覚える。30、36、42、48、といっても同様である。へぇ。

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