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ヨモギを食すその日まで
わたしが通っていた公立の幼稚園では、毎月絵本が配られた。配る前には、担任が読んでくれたものだった。帰宅してから母に読んでくれとせがむが、わたしの母という人は、これ以上ないほど音読のセンスがない人で、子どもながらにダメ出しをしていたことを覚えている。母がそんなだったから、自ら進んで本を読むようになったかというと、わたしの読書量は読書家というほど多くはなかった。ただ祖父だけは「本食い虫」と言って喜んでいたし、何度繰り返しせがんでも、同じ絵本を何度も繰り返し読んでくれた。
のちに、幼稚園で配られた薄っぺらい絵本は、ハードカバーとしても売られていることに気づいた。さらに後年、福音館書店の毎月絵本を頒布するサービスの一つだったことに気づいた。
あんなに大好きだった絵本なのに、たぶん途中で母に捨てられたか何かして、手元には一部しか残っていない。妹の分もあるのだから、重複分があったとはいえ、全体数はもっと多かったはずなのに。手元に残していたうちの数冊も、あまりに本棚に収まらないので、子に選んでもらって、いくつか友人の子へのお下がりに回してしまった。
福音館書店の「こどものとも」シリーズは、『ぐりとぐら』など普及の名作もあるが、図書館からですら消えてしまったものもある。
長年のふるいにかけられても手元に残した薄っぺらい頒布版の絵本たちは、薄汚れてあちこちスレて破れていたりもするが、厳選され尽くしたとっておきの絵本とも言える。
そのうちの1冊に、『くすりになるくさやき』がある。リアルタッチなイラストは、図鑑に載っているような草花の絵がたくさんで、この絵本さえ見ていてば判別できるような気にさせられる。
タンポポすごいなぁ、梅干しもすごいなぁ、と思いながら、ヨモギへの憧れが高まっていった。なぜならば、どれがヨモギなのか、判別がつかないからだ。見ているかもしれないが、どれがそれか分からない未知の草・ヨモギ。親に訊いてもハッキリしないし、もちろんつきあってはくれない。
映画『男はつらいよ』の主人公・寅さんの実家は草団子を売っている。どうやら荒川の河原で詰んできたヨモギで草団子を作っている様子だ。ヨモギがそこらに生えているのであれば、容易に作れそうである。なのに、やはり、どれがヨモギなのか、分からない。そもそも草餅はおろか、ホットケーキすら低学年時から一人で作っていたほど、親は様々なことにつきあってくれなかった。
その後。大人になってだいぶ経ってから、医者に行くほどでもない身体の不調を前に、鍼灸院に通うようになった。その鍼灸師は自分でもお灸をするようにとモグサを渡してきた。モグサは、ヨモギから作られると鍼灸師は言った。「あのヨモギか!」と、ヨモギへの憧れが蘇った。
確かに『くすりになるくさやき』には、「おきゅうにつかうもぐさははっぱのけをあつめたものです」と書かれている。おぉぉ!
頑張ればモグサも自分で作れるのかもしれない、と考えた。いや、その前に、草餅や草団子にチャレンジすべきではなかろうか。
一人でグダグダ考えているだけでは、なかなか事が進まない。しつこいことに定評のある子が、しつこくねだってきたので、ようやく重い腰を上げた。しかも、なんとなくどれがヨモギが分かるようになってきていた。これも亀の甲より年の功だろうか。子と一緒に摘みに行った。そのへんに生えているヨモギは、排気ガスやらなんやらで汚れているように思われたので、小さめの株をいくつか根っこごと摘んできた。鉢に植えて、ベランダで育てることにした。
そうして一年。ヨモギはベランダの小さな鉢に収まりくらないくらいモサモサに生えた。葉っぱを摘んで洗って湯がいて細かく刻んで、ついにわたしはヨモギ白玉団子を作った。たまたま白玉団子粉の買い置きがあったのと、丸めて茹でるだけの白玉団子は、小学生の子と一緒にやるには、手軽で簡単だったからである。
完成したヨモギ白玉団子は、黒蜜をかけていただいた。摘んで洗って湯がいて細かく刻んで、という一連の作業を思い返すと、本当に一瞬で平らげてしまった。いやぁこれは買ったほうが断然簡単だし安いし、きっとおいしいよね、という結論にいたるだけであった。にも関わらず、わたしは今日もせっせとヨモギを摘んで洗って湯がいて干している。