現代詩手帖7月号「新鋭詩集2017」を読む
現代詩手帖の7月号をどうにか7月中に手にすることができた。最近のミュンヘンの郵便事情はだんだんイタリア化しつつあって、ときには日本から送った航空便が到着するのに一月近くかかることもあるのだ。
さて今月の特集は「新鋭詩集」。尾久守侑、金井裕美子、鈴木一平、十田撓子、仲田有里、永方佑樹、野崎有以、荻野なつみ、久石ソナ、村上由起子、山崎修平の11人がフィーチャーされている。
この中で会ったことのあるのはたった一人。あとはよく知らない方ばかりで、はじめて目にする名前もある。海外に住んでいることに加えて、歳をとってきたこともあって、時代に取り残されてゆくそのスピードが尋常じゃない。
去年三角みづ紀が遊びにきたとき、たまたま一月号の詩集特集が手元にあったので、その目次を開いて若い世代の詩人たちをひとりひとり紹介してもらった。三角さんはほとんどみんなと面識があったので、活字では伺いしれない素顔やバックグランドが聞けてなかなか面白かった。だが今回の11人はそのなかにも入っていない。日本の現代詩の最先端だ。
それに比べて僕ときたら、四月に日本へ帰ったとき小池昌代に貰った『ときめき百人一首』を読んだのがきっかけで、そのまま今様『梁塵秘抄』の世界をほっつき歩き、そのあとも堀田善衛の『定家明月記私抄』を再読しながら新古今集を「発見」している最中なのだ。新鋭詩集を読むためにはざっと800年ほどの時差を飛び越さなければならない。
いきおい11篇の作品を前にしても、どこか新古今集の和歌と比べてしまう。その距離の隔たり具合と、日本語のポエジーの重なり具合を、確かめるような読み方になってしまう。
そういう尺度でみてみれば、隔たりよりも近さの印象が強い。定家も西行も、ここに居並ぶ11人も、日本語の詩歌という一個の壮大な運動体に属していて、同じ原理と法則に支配されながら、それぞれの限界的な自由を手探りしているという図が浮かび上がってくるようだ。
反った親指で
ひもとく雨の気配
破り捨てたはずの庭先に充満して
荻野なつみ「窓辺」
私は気がつかなかった
夏になるとレモンスカッシュが飲みたくなるけれど、
夏が来る
仲田有里「レモンスカッシュ」
――いっしょにいよう――
ひかる朝露の在処を知って
あなたの白い吐息にふれる
村上由起子「裏庭」
体を預けたバスタオルに
水の気配と浮かび上がるいくつかの産毛
あまにりも微弱な言葉が聴こえる
久石ソナ「ゆすられて」
雨、季節、息、そして体。これらの一節は新古今集の和歌の現代語訳のようにも見えるし、逆にこれらをもとに一首を詠むことも想像できる。あれ、こうしてみると、皆さん女性ですね。ジェンダーの要素も時間をこえて現代詩を古典に繋いでいるのかしら。
野崎有以さんの「Sへの手紙」も、基本は「わたし」が「あなた」に呼びかける昔ながらの体裁に従っているが、そこに「あなた」の実体性は希薄で、和歌特有の相手に和そうとする自己消却願望は見当たらない。むしろ近代の(ランボー風な)主体性が強調される。
私はもうすぐ一番強い駒(Genuine Queen)になる
途中に挿入される散文風の4行は和歌における詞書を詩の内部に取り込んだもののようだし、「キング」にnaked、「クイーン」にfake、「行かないと」にknightのルビを振る手法は現代版掛詞とも言える。
ルビを過激に使いこなしているのは永方佑樹さんの「渋谷ディニスクランブル」だ。地の文は「しぶやところどころ地割り」のルフランが印象的な、俳文風の擬古体で、そのとなりにびっしり蟻の行列のごとく振られているのは、2017年4月20日12時46分から13時2分にかけて実際に渋谷交差点で採取されたらしいアナウンスや演説の声。
時雨をこばむ(お腹の中に集まれ!)此の者かろく(東京都知事小池)、人語を(百合子です)失笑(やさしさ)けわいし(あふれる街に)、終焉(したいと)結局藪の中(思っております)。
僕も「言語ジャック」という作品のなかで、新幹線の車内放送や芭蕉の『奥の細道』の一節に、詩的なテキストをルビで添えるという試みをしたことがあるけれど、これはその裏返しだな。現代日本の日常から否応なく聞こえてくる薄っぺらい余所行きの表層言語を、深層的な言葉の上に貼り付けている。読んでいるとまさしく渋谷の交差点のど真ん中に立ちすくんでいるような気持ちになるが、ところどころの地割れの裂け目から、日本語のマグマが噴出する。
鈴木一平さん「すべては、明るく」は、ルビではないけれど、行ごとに異なるテキストを配して、一篇のなかにふたつの詩を織り込んでいる。ルビではない書いたけれど、それはあくまでも活字の大きさの話であって、よくみれば、ひらがなで添えられた第二テキストは、ゆるやかに漢字交じりの第一テキストの音に対応しているのだ。その終わりの部分。
き こ え て
色づけて、聞こえない声、耳をふさぐ手、爪を立て
み き に てをあて あ ふれるうろ
鱗をはがし、鳥の目は、手当てする血に震える後ろを
こ を
野に置いた
おわかりだろうか。「聞」に「き」、「声」に「こ」、「手当て」に「てをあて」などと対応させている。そして最後の一行「野に置いた」でふたつのテキストが束ねられる。これは大変な作業だが、うまくできたときの興奮は、僕にも「新いろは歌」を作ったときの経験から想像できるのだ。それにしてもこんな突拍子もないことを、鈴木さんはどうやって思いついたのだろう。
十田撓子さんの「琥珀色の夕べ」は東北の鉱山労働者を歌った一篇。言葉の背後に、詩的な美辞麗句を厳しく拒む過酷な現実が横たわっていて、はっきりと新古今的言語本位な耽美主義とは一線を画す。同じく日本の近代化の裏側を詩にし続けている新井高子の仕事を思い出す。
鉱山(ヤマ)の事務所の前を行くと
戸口で女が泣いている
風呂敷包みを抱えて
誰にともなく呟いている
「計算台の人、今日は帰ったんだト」
尾久守侑さんの「天気予報士エミリ」は、radikoだとか閉館する渋谷パルコだとか現代の風俗を散りばめながら、その実、『伊勢物語』のような歌物語の気配がする。だとすれば作者は平成の業平か。段落ごとに語り手が「わたし」と「俺」を往還するのも相聞歌の伝統に則っている。絵画的で一瞬のうちに静止し凝固しがちな日本の短詩を、いかに動かすか、旅をさせ、時には疾走させるかということに、我らが先達たちも腐心してきた。その結果が歌物語であり、連歌であった。別の言い方をすれば、詩の中にどうやって散文脈を取り込んでゆくかという課題。その点で、この作品は川口晴美の『Tiger is here』を連想させる。
金井裕美子さんの「黒髪」も、端正な行わけの抒情詩のように見せかけながら、その実「鬢付け油」だとか「柘植の櫛」だとか時代がかった小道具を持ち込んで、ちゃっかりとフィクションしている。与謝野晶子をコスプレしているのかな。この終わり方の演技のしたたかなこと。
この世が 背後が
映りこんでくるしずかな鏡に
歳月の長さ
黒い髪を梳かしている
最後になったが(ですよね)、山崎修平さんの「わたくし宣言」はこのなかではいちばん「現代詩」している印象だ。なのに定家の呪縛や恐るべし、僕にはその一行一行が、独立した歌のように読めてしまうのだ。たとえば、
鉄骨が粒度と添い寝をする朝に何も口にしていない番いの鳥を愛したことを
あるいは、
さよならの後に虹彩は放たれてどぶの悪意を放つ人の群れ 好きか?
これっていま流行の「偶然短歌」的な現象なのか、それとも偶然なんかではなく、明確に意図された戦略なのか。いずれにせよこれらの行を、あたかも新古今のようなアンソロジーか、啄木流の連詠のように読んでゆくと、それぞれが重なりあってそのモンタージュのなかから反語的な、けれど紛れもない「わたくし宣言」が聞こえてくる。
きっとここに登場した11人は、日本の詩の新しい書き手のなかのほんの一握りに過ぎないのだろう。そう思うと詩に元気がないとか、人気がないという声がちゃんちゃらおかしく思えてくる。足りないのは詩そのものではなく、なにか別のものなのだ。それにしてもこの11篇、添えられたアンケートも含めて丸ごと英訳して、Poetry International Webに掲載したくなってきた。世界中で、同時代的な共感と新鮮な驚きを呼ぶんじゃないかな。