作曲家 篠田昌伸 特別寄稿:『言語ジャック』音楽化をめぐって
2015年1月、自分は焦っていた。「創る会合唱団」への新作の締切りが迫り、そろそろタイトルを、と打診されていたからである。初演予定は1年後の2016年1月であった。現代音楽の室内楽等であれば、締切りは早くても初演の1ヶ月前で演奏家に渡り、2、3回の合わせを経て本番を迎えるのが通常だが、合唱だとそうはいかない。
「創る会合唱団」に前回書いたのは、平田俊子氏の「(お)もろい夫婦」を題材にした組曲であった。当合唱団のメンバーは主に30代から50代の働き盛りの方達で、彼、彼女らに歌わせるのに、こんなにあつらえ向きの、ユニークで破壊力のある詩は他にないだろう、と思って選んだものだった。その際はまさに痛快なパフォーマンスとなったわけだが、その団体から、2度目の委嘱を受けるとは思っていなかった。「(お)もろい夫婦」を凌駕するような、彼、彼女らに相応しい詩に出会えるのだろうか、もしくは違った毛色のものにするべきだろうか。迷っているうちに年を越し、いまだテキストも選べないままにタイトルの打診をされてしまった。
詩を選ぶ際には、たいてい職場近くの池袋ジュンク堂で1時間近くねばり、その時々に必要な詩とともに、書棚全体を見回し、新しいものや、前回来たときから残っているものもチェックしつつ、なにか別の機会があった時にはまた使えるようにと、確認するように見ていく。不思議なことだが、そのように軽くチェックしながら、1度目の邂逅ではなんとなく流していたものも、次の機会、また次の機会に見返すと、言葉が輝きだすことがよく、ある。やっぱり無理か、と思うことも同じくらいはあるのだが。
現代詩文庫四元康祐詩集、は、そうやってチェックした際に、きっといつか使えるはず、と購入していたものだった。現代詩のなかで、そのラディカルさ、ユーモア、明るさ(?)において、他のものとは一線を画していて、ここぞというときのために、とっておいたものだった。
だから、作曲家の森山氏が「笑うバグ」を題材に書かれたときには、本当に、しまった、と思った、反面、同じようなところに目をつけていた作曲家が他にもいたことを嬉しくも感じた。「笑うバグ」は四元氏のデビュー作でありながら、その新鮮さ明解さにおいては、随一のものだろうという思いがあり、題材にするならこれと決めていたのだ。
同一の詩に、複数の作曲家が作曲してそれを並べる、といった企画がよくあるが、自分はそういうものに全く興味が持てない。そうやってできた結果を聞くことは、作曲家がどのような戦略をもってそこに挑んでいるか、を聞くだけになり、詩への関心はほぼ無くなるだろう。それは、クラシック音楽の演奏家が、既に知っている作品を、いかに演奏しているか、という、演奏のみに焦点を絞って聞くことに似ており、いかにもクラシカルな発想なのだ。自分は、そうではなく「作品」を聞きたいのだ。作曲家が詩と出会いそれが作品化されるのは、ある種の一期一会であり、偶然でありながら必然性をはらんだ奇跡であるべきだと、常々考えていた。それが、「笑うバグ」を断念することには直接は繋がらないとしても、自分はやはり、また別のものと出会わなくてはならない。
「言語ジャック」には、多分出版当時には出会っていたと思う。しかし、初見ではこれをどのように料理するべきか、すぐさまイメージすることが出来ていなかった。また、多くの言葉の遊びのような要素(実際はそんな軽いものではなかった)を見て、その当時はそこまで画期的なものに見えていなかったのかもしれない。ほどなくジュンク堂から姿を消していた「言語ジャック」を、再び目にしたのはアマゾンのサイトだった、同時に「日本語の虜囚」の存在も知ることになった。
そうして再び出会った「言語ジャック」は、自分にとって、まさに題材の宝庫であった。こんな魅力的で戦略的で新鮮な詩集があるだろうか。外面的なユーモアとはうらはらに、深い思想にも支えられているし、他の誰もこのような視点で書いていないという点で、エポックメイキングな面さえもある、このような詩に是非向き合いたい、と思った。そして、先方に、タイトルは「言語ジャック」になります、と伝えて作曲を始めた。
さて、とはいえ「言語ジャック」から、全ての詩を使えるわけではない。まずはなんといっても、詩集のタイトルをそのままかたる冒頭の詩である。2作とも、既に固定されている言葉をジャックしていく試みだが、ジャックする相手が、一方は公共交通機関、他方は日本の古典というのがとてもニクい。ただその性質上、常に2つの文が並列されているというユニークな特徴がある。これ を、どのように合唱にすべきだろうか?前作「(お)もろい夫婦」の終曲「タコ焼きブギ」にて、2つの異なる文を男声と女声と完全に並置した場合、言葉が両者とも聞き取れるだろうか、という実験をした。そのことが頭をよぎった。
「新幹線・車内案内」は、もとの文をジャックするために、音韻を同じくしながら意味を脱臼する方法がとられ、その脱臼が次第に激しくなっていく、という過程がみえる。それにならって、2つの文を初めは完全に同時に歌い、次第にそれが分解されていくという過程を聞かせていく、という方法をとった。そのようなことは、合唱でこそ実現可能なことだ。後半になると分解の度合いはどんどん増してゆき、多分言葉が聞き取れないほどのカオスとなる、それを回収する最後の爆破スイッチは、ピアノの最低音に託してみた。
「日常の細道」の方は、音韻ではなく、助詞等を残しながら、中の名詞を現代語に変換していく試みだろう。ところで、合唱の中では、ソロ、という役割を設けることができる。そこで、原文を歌うソロと、変換されたふり仮名を歌うソロに、別々のメロディーを託し、その周りをハーモニーで包む、という図式が自然と思い浮かんだ。そもそも文自体が独白であるので、ソロという媒体がいかにも相応しい。最後は何事もなかったかのようにハーモニーの中へ消えてゆく。しかし、そのハーモニーは疑問形だ。
さて、次に選んだのは、詩の形としては最も実験的な「魚の変奏」である。そもそも「変奏」という言葉が、既に音楽からきているものだ。元となる原詩も充分にユニークなものだが、そこから、子音のみを変える、母音のみを変える、という発想はとても「音楽的」だ。詩の構成を下敷として、様々な容態を試みた。
原詩は完全なるユニゾンにて、調性のあるメロディーを全員で歌う、これが原詩であることを認識してもらうためだ。直後、そのメロディーから音程のみを奪う。リズムだけとなった語りに、それをなぞるようなピアノに出鱈目な音程を与えてみる。声をつかう作品でよくやることだが、「歌」と「語り」を並列におくことで両者の間を自由に行き来することをこの曲では多くおこなっている。音程や調性のあるものを楽音、ないものを非楽音とするならば、楽音と非楽音を並列で扱うことは、今日の音楽では最早当たり前となっている。続く、子音による変奏、では、変奏詩を歌わせると同時に原詩を語らせる、という方法をとった。さらに母音による変奏、では、母音のみを抜き出して音程をつけたものと、原詩、変奏詩の語りを同居させてみた。そして最終連では、冒頭のメロディーとともに、すべての変奏詩をランダムに語らせることによるカオスを作ってみた。
言葉を直接ジャックする詩としては、この3つで充分だったかもしれない。しかし詩集「言語ジャック」には、他にも、もったいないほどのアイディアが溢れている。ここでやめるわけにはいかなかった。ただ、興味があるものを全て選んでいたら、音楽としては異様な長さになってしまう。また、その頃、「日本語の虜囚」所収の「新伊呂波歌」に惹かれ始めており、終曲にはこれを持ってきたい気持ちが強くなってきていた。最終的には、「名詞で読む世界の名詩」抜粋と、「声vs文字」を選ぶこととなった。他にも迷っていた詩を列挙すれば、リサイクル「雨ニモマケズ」、俺の「な」、現代詩漫才、言葉苛め、リレー「自分の範囲」、等があった。今後別の機会で再び出会えることがあるだろうか。
「名詞で読む世界の名詩」では、20以上の詩が並べられているが、1曲とするにはいささか量が多い。抜粋の際は、様々な文化を垣間見れるように次のように選んだ。中原中也、ランボー、スカギット族、ロルカ、萩原朔太郎、ディキンソン、旧約聖書。名詞のみを抜きだすことで浮かび上がるのは、詩そのものよりも、詩人本人が置かれている言語、文化、環境だろう。このようなラディカルな視点で並べられた言葉に音を付けることで、詩に個人的な感情をのせて解釈するようなロマンティックな作曲法から、離れることにができる。中也や朔太郎には今までも、これからも多くの作曲家が対峙していくだろうが、それとは離れた視点から作曲できることに喜びを感じながらつくっていった。組曲としては「魚の変奏」での喧騒を一旦リセットするような形で、間奏曲的にこの名詞達が挟まれることになった。
「声 vs 文字」は、女性が声、男性が文字、となり、お互いを貶し合う(?)形で書かれている。ここでは、「混声」合唱であることを最大限活用できる。声側を女声に、文字側を男声に、完全に振り分け、言い合いをすることとなった。これは「(お)もろい夫婦」でも試みたことだ。音楽的には、皮肉っぽさとユーモアを含んだ無調の音を選ぶこととなった。
このあたりで既に4月になっており、個人的には、他の締切りにも同時に追われることになった。夏までの間に、ピアノと朗読による「おやすみの前の・・」(手塚敦史)、特殊奏法フルートとピアノの「変化球の打ち方」、トランペットとギターによる「shadow work-shadow play」をなんとか書きつつ、「新伊呂波歌」への準備を進めていった。
「日本語の虜囚」は、「言語ジャック」周辺の四元氏の思想の有りようを赤裸々に告白したものだろう。これを読む前と後では「言語ジャック」の読みかたが変わってくるような、いわば思想書のようなものとして読んだ。そのなかにひらがなのみでかかれた「詩」がいくつか収録されている。これを、「新伊呂波歌」の導入にできるのではないか、と思った。
「ことばうた」は、定型詩のような形をしており、「わたしは ななしの ことばです」と始まる、謂わば言葉を擬人化した、言葉そのもののモノローグのような作品だ。1~3曲目で、さんざんオモチャにされた「ことば」は、4曲目で名詞となり、5曲目では男女に分けられ、6曲目でとうとう人格をもって自らを語りだす、という組曲としてのストーリーが見えてきた。ここで初めて「自己」を意識する、この曲のみアカペラの「美しい」ものにしよう、と決めた。そして、それはまた終曲「新伊呂波歌」で解放されることになる。
「新伊呂波歌」を、「名詞で読む世界の名詩」のように、どのように抜粋するべきか、大いに悩んだ。いくつかの詩に試しに音をつけてみたりもしたのだが、しかし何故その詩だけにつけているのか、そこには必然性はどうしても見つからず、それらは自分の好み以上の何物でもなかった。
それならば、いっそのこと全部を使ったらどうだろうか。その恐ろしい考えは初めは朧げだったが、考えれば考えるほど、これは46音分すべての詩を作ったことに意味があるのではないか、という思いが強くなっていった。そろそろ覚悟を決めなくてはいけない、自分ってこんなにMだったろうか、しかしもう、やりきるしかない。
実際、音づくりをするにあたって、46編をどうやって色づけするべきだろうか?一つひとつの詩の性格に、いちいち違う性格の音をその都度つけていく、ということが可能だろうか? 冗長になりはしないだろうか?
出した答えは、46編が、いろは、ならぬ、あいうえお順にならんでいることを生かし、各行(あ行、か行等)ごとに詩をグルーピングして、5編ごとに音楽的な性格を無理矢理当て込む、という方法だった。それぞれの行に1つの音楽的特徴を与え、その中で5編かけて変奏させていく。これによって、この長い長いテキストに形式を与えることができる。ひとつの制約のなかでの、ある種技術的な美しさをもった、これら伊呂波歌を統制するのは、また別の技術なのではないか。というのは、少々言い訳じみているとしても、ひとつの方策として、とても有効にはたらいた。
それぞれの行の音楽的制約を列挙していく。「あ」行では、ひとつの旋法(リディア)の様々な移高によるメロディー、「か」行では、狭い音程内での半音階的なメロディー、「さ」行はウィスパーヴォイスと無声音、「た」行は常に1文字ごとにパートをバラバラにすること、「な」行は和音によるコラール、「は」行は語りを中心にすること、「ま」行はそれぞれのパートでのソロとアンサンブル、「や」行は幅広いポルタメントから狭いトレモロへの移行、「ら」行は様々な種類の音階の上行形、最後に「わ」と「を」で全音域のクラスターによる曲全体のクライマックスをつくり、「ん」はハミングの中、この長い伊呂波歌の旅を静かに終わらせる、といった構成になった。
かくしてなんとか「新伊呂波歌」が出来上がるころには、9月も末を迎えるかという時期になった。「新伊呂波歌」だけでも約20分、前の6曲で30分、正味50分かかる大作となってしまった。オペラや音楽劇でもないのに、こんな内容で50分、にもかかわらず、「創る会」合唱団の皆さんはとてもあたたかくこの曲を迎えてくださった。
さて、来る12月、東京混声合唱団にて、この曲の全曲の再演がなされる。こんな曲が再び、他の団体で演奏されること自体奇跡だと思うが、楽しみにその日を待ちたい。
http://toukon1956.com/?event=東京混声合唱団第245回定期演奏会