亀霊ブックジャケット

あらゆる詩的ジャンルを横断する「日本語詩歌人」三宅勇介インタビュー:快楽と自虐、ユーモアと批評について(Part1)

2008年の『える―三宅勇介歌集』、2009年の『歌集 棟梁』に続いて、2017年2月に上梓された『亀霊』は、短歌、長歌、旋頭歌、俳句、行わけの詩のみならず、日仏両国語や神代文字での表記、タイポグラフィー、はては人工知能の書く短歌のシミュレーションまで、ありとある詩的表現の可能性を360ページの大著にぎっしりと詰めこんださらにその上に、なんと11本もの本格歌論を別冊仕立てで添えた前代未聞破格の「詩集」だ。内容だけでなく、漫画家でもあるしろうべえ氏率いる「となりの人間国宝」出版社しろうべえ書房とタッグを組んだ製本も凝りに凝っている。jprでは創刊を記念して、異色のオールラウンド詩人三宅勇介へのロングインタビューを実施。その模様を二回にわたって掲載する。(聞き手:四元康祐)

――歌集『棟梁』には食べ物に関する歌がいくつも収められています。

残党を狩るごとく口腔内のフォワグラ舌で拭ひたりけり
必ずや小さき逡巡来りけりカツ丼「並」を頼みし後に
スパゲティー・ボンゴーレの皿開かざる浅蜊をフォークでくすぐりたりけり
アラスカの中華料理の皿の上餃子もやはり厚着をしたり

――新詩集の『亀霊』にも「牛丼」「椎茸」「松茸」「からあげ」「牡蠣フライ」「謀略」(回転寿司を扱った詩)「ゼリーフライ」など、食に材をとった詩が目立ちますが、食べること、お好きなのですか?

はい、大好きです。若い頃は完全にご多分にもれず、質より量、しかも安くて旨いもの、でした。最近、というか、四十代に入ってから、料理というものに尊敬の念を持つようになりました。本当に素晴らしい料理は芸術だと思いますし、シェフは芸術家だと。ただ、わたしはいわゆるグルマンではありませんし、味の違いが分かる男でもありません。ただ、本当に料理を極めようとして、なおかつ冒険しているシェフがいると、詩歌と同じく、その姿勢に感動しますよね。昔、有名なフレンチ評論家が、こんな感じの事を言っていたと思います。「自分はどこそこにうまい料理がある、と聞いてもあまり心が動かない。だけど、ものすごい料理を作る人がいる、と聞くと、居ても立ってもいられなくなる」と。つまり結局は人に興味があるのだと。なんとなく分かる気がします。とはいえ、日頃からいつも旨いものを食べているバルザックみたいな生活をしているわけではありません。凄い料理と料理人に憧れがあるだけで、普段はB級のものをガっついております。

――穂村弘さんは、かつて新宿紀伊国屋書店地下一階の居酒屋で熱々の牡蠣フライを頬張りながら、現代詩人たちの暗い禁欲性とは対照的に、歌人たちが明るく大らかな生の肯定感に溢れていることを指摘されました。三宅さんの作品にもそれが感じられます。食べることと言葉で遊ぶこと、自分のなかでどんな風に結びつき、あるいは鬩ぎ合っていると思われますか?

食べる、という場面というのはものすごく詩歌になりやすい、と思っております。一つは、それが人間の最も根源的な営みであり、読者の共感を得やすい題材でもありますよね。そして、よくよく考えてみると、もの凄く「滑稽な」事ですよね、食べることって。どうせ、全部、出ちゃうんですから。でも本質的に「滑稽」なことに、ものすごく人生の時間を割き、大切にしていることが詩歌とぴったり合うのではないかな、と思います。穂村さんのいう、「生の肯定感」というのも、実に頷ける話です。ただ、今の文脈とはちょっと違うんですが、永田耕衣の、

あんぱんを落として見るや春の土

などにもものすごく魅かれます。これなんかは下手すると、「食べ物を粗末にするな!」とか怒られそうですが(笑)、でもやっぱり、「あんぱん」という食材のある種の滑稽さが詩歌を成立させているのかな、と。食べるという行為と、食材そのものが詩になり得る要素を持っているので、詩歌人としてはおいしい素材ですよね。

――自分のホームベースはあくまでも短歌にあって、アウェイの他流試合として俳句や詩に遠征しているとお感じですか?それとも自分はあらゆるジャンルを越境する自由な詩人であるとお考えですか?

そうですね、私は短歌から始めたので、一番付き合いが長いのは短歌といえますが。正直、自分で「歌人」と名乗るほど、短歌や和歌の事を知っているわけではないんで、どうしても自分を「歌人」と定義することに照れがあるんですね。どうしても自分が、いわゆる「専門歌人」であることが想像できないんです。かといって、もちろん、「俳人」でも「詩人」でもない。自分で定義すると、「日本語人」になるのかな、と(笑)。

ただ、一つ言えると思いますのは、俳句しか興味のない、「俳人」、短歌しか興味のない「歌人」、現代詩しか興味のない、「詩人」というのは、あまりに悲しいのではないか、と。作る作らないは別として。やっぱり、素晴らしい俳句にあったら、こんな句作ってみたいなーとか、素晴らしい詩に出会ったら、こんな詩、作ってみたいなー、とかものすごく自然な事だと思うんです。評価されるかどうかは別として。

――三宅さんの食の歌の魅力は文語の伝統的な言葉遣いとカタカナの食材とのコントラストにもありますね。最初から文語でお書きになっていたのですか?

もともと齋藤茂吉の短歌に出会って、短歌を始めたのですが、最初は文語はやはりむずかしく、(今でも難しいですが)、第一歌集は口語で短歌を作っていました。今も若い人なんかは口語の方が多いかと思います。ただ、ある時から口語と文語の詰め込む情報量の違いとか、読後感の違いなどから、短歌においては少しずついわゆる文語(といっても、近代文語というか、本当の平安文語とはまた違うと思いますが)にシフトするようになったのです。ところが、やはり口語の破壊力とか、ある種のリズム感というのか、そういうものを手放したくないところもありまして、それが、口語長歌をつくるきっかけになり、自由律の詩をつくるきっかけになっていきました。ですから、いろんなジャンルに手を出してみた、というのももとを正せば、文語との格闘から生まれた、と言えるかもしれません。

――いま一番食べたいものは何ですか?

そうですね、やはりこの流れでいくと、「あんぱん」でしょうか(笑)。

――三宅さんはまた「女」や「車」に関する作品も多く作られています。

余の顔の余程可笑しくも思ふらむパブの娘は笑ひ転げたり
放心のホステスの指焦がすため灰は伸びゆく虚数となりたり
「空海」てふキャバレー行きし夜もあり書道のうまき女と語りき
高速でハンドル切ればタイヤ鳴り幻聴のアリア耳を撃ちたり
アクセルを踏んで雲海振り切れず
自転車の足裏であるゴムタイヤ全身細き肉球なりしか
駐車場にアルファロメオが停まりたり四肢は地面に一点で接す

―― 女や車もお好きなのですね。

官能的快楽くくりで攻めてきましたね(笑)。
ええ、どちらとも、普通の男の子ぐらいには好きです(笑)。
まず、「女」の方ですが(笑)。

これもある人から聞いた話ですが、「男には二種類しかない。好きか、大好きか」どっちか、といえば、ぼくは、「大好き」の方ではなく、「好き」の部類かな。つまり、もともともてないし、ある種の防衛本能がすぐに働いてしまいますね。いろいろな。だから、まあ、女性からみれば、「つまらない男」でしょう、きっと。でも、それなりに面白いエピソードもありますので、また四元さんと飲んだ時にでもじっくり(笑)。

「車」に関してですが。やはり、旧男の子としては、好きですよ。ぼくが小学生の頃はちょうどスーパーカーブームでして。一番最初に買ったのがワインレッドカラ―の中古のアルファロメオでした。でも結婚してから、子どもが出来てからは、そういう官能的な車ではなく、ベビーシートが取り付けられる中古の日本車に早変わり。そういう意味では本当の車好きではないのでしょう。でも、いつかポルシェとか乗ってみたいなー。ちなみに今は車を持っておりません。

――ある種の批評性を帯びたパフォーマンスとして、女や車をあえて歌の題材に取り上げているのでしょうか?ただ、女や車に材をとった詩はあまり見当たりませんね。詩は現世的な快楽とはウマが合わないのでしょうか?

女や、車の題材を取り上げるのはやはり、批評性というよりも、潜在的な憧れ、でしょうね。四元さんが見抜いたとおり、食、女、車とくれば、これはもうラテン性気質ですよね(笑)。ラテン系日本人とお呼びください。とはいうものの、多分、特に女性に関してはなにもわかってないでしょうね。よく、小説家でいるじゃないですか、「女性が描けてない」と批評されちゃうパターン。あれと同じで、ぼくは多分、詩歌でうまく女性を描けていないと思います。記号になっちゃっているかな?それが、詩で女性を書かない、あるいは書けない理由かもしれません。女性を描けてないのがすぐばれちゃう。笑娘なら描けるんですが。車の方なら詩にできる気がします。四元さんの詩では、すごく女性がリアルだし、官能的だと思います、お世辞ぬきで。だから、現代詩はもちろん、現世的な快楽とウマが合うと思います。しかし、怖いインタビューですね。なんか、自分の限界を知らされるというか。。落ち込んできた(笑)。

――その一方で、「巡査」や「妻」も不穏な気配をまとってたびたび登場します。

六感で職務質問するために潜む巡査の闇を見極む
自転車の盗難届けに自転車が無ければ歩けと老巡査言ひ
猥褻な画像のごとく宵闇にいつも巡査が潜みたるとは
職質や外套の下フランスパン
桜仰ぐ巡査の横顔赦しけり
妻笑ひ野干(やかん)の牙を光らせりパブの女の事問ひつめつつ
妻は目に怪火を浮かべてその身には帯電し易き静寂を纏ふ
陽炎やあれは若き日わが妻か
TVに動かぬ妻の寝釈迦かな

――なにかトラウマがあるのでしょうか?ご家庭では亭主関白ですか、それともかかあ天下?

そうですね、巡査、というか、おまわりさんとか、「奥さん」とかこれもまた、怖いようでいて、こんな事いったら怒られちゃうかもしれませんが、なんとなくネタにしやすい存在で。これも、皆、共通する「あるある」ネタなんでしょうが。

「巡査」さんに関して言えば、トラウマがあるというほどでもないんですが、個人的には権力の末端というものに、実は底知れぬ恐怖を感じるです。「あ、今、権力はこういう形で現れるんだな。」とふと実感する時は、なにかホラーみたいに怖いというか。「妻」に関して言えば、四元さんが、『妻の右舷』のあとがきで書いてらっしゃる通り、「自分にもっとも身近な他者」ですよね。人生を戦ってきた戦友であるけども、本質的にはなにも理解していないかもしれない。たとえば、ぼくが「俺ってこういう人間だよね。俺という人間の本質ってこれだよね」と思っていたとしても、妻の目に映っている自分はまったく違っていたりする。というか、そういう事の方が多いような気がします。逆もまたしかりですが。でもそれでうまくいけばいいわけで。完全に理解し合うなんてありえないし、自分の事すら自分で理解しているか疑問なわけで。

というわけで、どちらかというと、我が家は「かかあ天下」と思います。
(四元さんの妻の詩、『家の方へ走っていくバス』、『雪と炎』、ファンです)

――これらの歌を読んでいると、なす術もなく快楽に惹かれてゆく三宅勇介と、それを禁止または処罰する権力の影に怯える三宅勇介の、ふたつの姿が同時に浮かび上がってくるようです。そこには自分を突き放してみる一種「自虐」のまなざしがありますね。三宅作品の特徴のひとつであるユーモアもそこから立ち昇ってくる気がします。

自動ドアまだ開く前にぶつかりて春の嵐に押されたふりをす 
ピスタチオ剥くこと能はず憤怒して殻ごと指で押し潰しけり
古代料理喰ひつつ思ふ古代ではわが如き肥満体輝きにけむ
すき焼きに値段の違ふ肉を入れ安き方から家族に勧む
大盛りのカレーを二杯食ひ終はる行為は野蛮と呼ばねばならぬ
学祭のチアリーダーの演技見るため娘たちだしにしてゐる自分は悲しも
夏痩の意味がわからぬまま壮年
半ズボン渋谷でボタン急に飛ぶ
「屁には屁を」言ひ終はりし時そこら中放屁の音が炸裂したり

――職場や家庭でも積極的に笑いをとってゆくほうですか?

職場では、仕事中はイメージとは違って、ものすごく真面目だと思います(笑)。
ただ、仕事あとの飲み会とかは、笑いを取りに行く方ですね、自虐的に。詩歌と一緒です。家庭ではどうでしょう?機嫌のいい時は取りにいきますかね、あと酔っぱらった時とか。

――現代詩の世界では「お笑い系」は肩身の狭い思いをしています。定型詩の方ではどうですか?笑い飛ばす、あるいは笑いのめすという行為には、自ずと批評性がこめられていると思うのですが、三宅さんのなかのユーモア精神と、旺盛に歌論をものにする批評性とは、どこかで通じ合っているのでしょうか?

そうですか、現代詩の世界では、「お笑い系」は傍流なのですね。吉岡実とか、石原吉郎も笑いはあるけど、どちらかというとブラックというか、陽性の笑いではないですよね。ねじめ正一さんとかの笑いもまた少し違うのかなあ。四元さんの、『単調にぼたぼたと、かざつで粗暴に』の、「広義の密約」なんて、本当に陽性の笑いだと思います。

短歌の世界でもやはり、近代短歌以降たとえばアララギ全盛の頃は、お笑い系はほとんどなかったと思います。前衛短歌以降においても「笑い」という側面はあったと思いますが、どちらかというと批評的な笑いであって、自虐的な笑い、とはまた少し違うような気がします。短歌というものが、詠う対象と自分の距離が近いというか、あまりよい言葉じゃないかもしれませんが、ナルシズムと紙一重のところにいる気がします。下手をすると自己陶酔になっちゃうというか。だから、はまれば、とんでもない名歌になる可能性がある一方、距離の取り方によってはとんでもなく陳腐になってしまう可能性があるというか。特に恋の歌などは難しいですよね。ぼくはほとんど恋の歌は書きませんが。ぼくの短歌もめちゃくちゃ傍流だと思います。メインストリームからかなり離れているというか。でも、それをひっくり返す理論をいつか構築したいと思っております(笑)。俳句の場合は、短歌に比べると、対象と自分が離れていますよね。より客観的で批評性を、俳句というジャンル自体が持っている、ということができるのではないでしょうか。

――短歌や詩の実作と、ほかの歌人の短歌批評をセットにして提示しようと思ったきっかけを教えてください。

短歌や俳句、あるいは詩って、(他の分野もそうだと思いますが)、最初から読まれる事を前提に作られると思うんです。作ることと読まれることが最初から1SETであることが宿命づけられていますよね。一時期、「歌壇カラオケ状態」と言う事を佐佐木幸綱さんがおっしゃられていたと思います。つまり、だれもが自分の歌は歌うけども、人の歌は全く聞かない状態。それはもう、作り手からの一方通行の状態で、詩歌の宿命を無視しちゃっている訳です。四元さんが、大岡信さんの「割れない卵」の文章を挙げておられましたが、それとまったく同じ状況ですね。「批評」とは、ほとんど、「読むこと」であると思います。歌会などで、ある他人の歌に関する感想を述べたら、それはもう批評への第一歩だと思います。四元さんの仰るとおり、ユーモアは、対象と距離を取ることによって生まれますよね。自分と距離をとれば、それが自虐になる。
ぼくが、歌集に短歌批評をSETした理由というのも、自分の歌集を読んでもらうんだったら、自分も誰かの事を読んだよ!ということを証明しなければフェアじゃないな、と思ったのがきっかけでしょうか。(パート2に続く)

三宅勇介:Yusuke Miyake 1969年東京生まれ。

『亀霊』しろうべえ書房
http://shirobeeshobo.wixsite.com/home1/hon

『棟梁』本阿弥書店
http://store-tsutaya.tsite.jp/item/sell_book/9784776806462.html

『える―三宅勇介歌集』
http://sunagoya.com/shop/products/detail.php?product_id=436


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