森山至貴の『旗』初公開!
5月5日付の当ニュースにてお伝えした「美しすぎるハッカー犯罪」、森山至貴による合唱曲『旗』の音源がついに入手できた。まずはこちらからその調べに耳を澄ましていただきたい。
(2016年12月11日豊洲ホールでの演奏風景)
同じ森山(曲)+四元(詩)による合唱曲でも、2012年に初演され朝日作曲賞を受賞した「混声合唱とピアノための『さよなら、ロレンス』」とはかなり趣を異にすることが分かるだろう。(『さよなら、ロレンス』の演奏映像はこちらから)
https://www.youtube.com/watch?v=juUktmaaZCI&list=PLXgpNyter2L3AMcZSE7mi0LYhZoWNkoNb
極度にシステム化された現代社会の持つ冷やかな暴力性を秘めた『さよなら、ロレンス』の歌声に比べて、『旗』の歌声は痛切なまでに美しい。だがその美しさが、詩としての「旗」に籠められた「怒り」とどう関わりあうのか、詩人としては気になるところだ。というのもこの作品、もともとは散文とセットになった一種の社会批評であるからだ。
旗
今年の夏、ドイツはどこもかしこも黒赤黄三色の国旗だらけだった。ワールドカップのせいである。だが考えてみると、この国で国旗を見たり国歌を聴いたりするのは大抵サッカー場だ。子供たちが通っている学校の行事でも見かけることはほとんどない。
以前住んでいた米国フィラデルフィアには、ベッツィー・ロスの家があった。最初に星条旗を縫い上げたといわれている女性だ。独立戦争によって二度も夫を亡くした彼女は、9・11以来巷に溢れ出した星条旗を見てどう思うだろうか。
旗が旗として成り立つためには、旗竿と風がなくてはならない。しっかり括りつけられていなければあっけなく吹き飛ばされてしまうだろうし、風がなくては様にならない。彼方への憧憬と此処に踏み留まろうとする意志、その相克のなかでこそ旗ははためく。
だがそれを見つめる人の眼差しがなければ、はためきは虚しいだろう。ふだん私達は俯きながら歩いている。偏狭な国家主義の強制も狂信的な宗教の陶酔もない場所で、黙って空を見上げている人の顔はどんな旗よりも美しい。
*
わたしから溢れて
わたしを超えていくもの
気高さへと
心を駆り立てるもの
だれの手にも触れられない
空の青さ
旗を見上げるとき
わたしはひとりでいたい
だれにも強いられずに
自ら己れを
真っ直ぐな竹に括りつけて
風に晒されたい
(『現代ニッポン詩日記』より)
そこで、近々森山至貴さんと往復書簡を始めようと思っている。音楽という切り口を通して現代詩を深く読みこむと同時に、社会学者の立場から現代ニッポンを醒めた眼で観察している森山さんと、どんな対話が始まるのか。楽しみだ。
『現代ニッポン詩日記』(澪標)
http://miotsukushi.co.jp/newbooks/index.html