三宅勇介インタビュー:AI編(その3)
(前項より続く)
四元:「すべての詩の文章を『引用』で作った自由詩」、もう実際に書かれていますよ。たとえば谷川俊太郎の「日本語のカタログ」。ちまたに氾濫する日本語の断片をカタログ化して並べた作品です。最近の例では山田亮太の『オバマ・グーグル』。表題作はGoogleで「オバマ」を検索した結果表示された上位100件のウェブページからの引用だけでできた40ページ近い長編詩です。この詩集には、ほかにも雑誌「ユリイカ」の目次を再構成して作った「日本文化0/10」や、2010年4月22日時点に宮下公園内に存在した文字により構成された「みんなの宮下公園」、あるいは現代詩に関連するキーワードでウィキペディアを検索した結果から作った「現代詩ウィキペディアパレード」など、引用という手法を使った作品が多く収められています。
実は僕も引用だけの作品、作ってるんです。古今東西の詩から名詞だけを取り出し、それらをすべて登場する順に並べただけの「名詞で読む世界の名詩」。あと宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を再構成して作った『リサイクル「雨ニモ負ケズ」』もほとんどが引用ですね。いずれも『言語ジャック』という詩集に入っています。
ただこうやって引用詩の実例を前にすると、どうしても三宅さんのおっしゃっている「選択」、虚子の言う「選句とは芸術である」ということを考えてしまいます。つまりAIにこれらの引用をさせるとしても、膨大な素材のなかのどの部分をどう選びだすのかという点については、人間の関与が不可欠ではないのか。この選び出すというプロセスにはたぶん二つのレベルがあって、ひとつはAIに引用を命ずる際のアルゴリズムの組み立て方、もうひとつはそのアルゴリズムによって「機械的に」選び出された引用のなかから、さらにある特定の部位を選び抜く作業です。この後者の作業の延長には「編集」という要素も入ってきますね。
つまり何を素材にどう引用するのかという「発想」「企画・構成」「選択」「編集」という作業を果たしてAIはできるのか。むしろそれこそが詩を詩たらしめているいわばポエジーの本質であり、少なくともいまのところ人間にしかできない部分ではないか、というある意味古典的な議論なのですが、このあたり三宅さんはどう思われますか?
引用ということを突き詰めてゆくと、およそすべての詩歌は引用じゃないかとも思えてきます。何を引用しているかといえば言葉を引用している。それがすでにテキストとして発表されている場合には「引用」と呼ぶわけですが、そうでない場合であっても言葉である以上は多くの人によって話されたり書かれたりしているわけで、なにも詩人が一から発明したものじゃない。万人に共有されている言語の一部を選び取り、並び替えて、繰り返すという本質においては引用と変わらない。詩はその手腕というか裁き方にこそ宿っていると言えるのではないか。
ここであらためて自由詩と定型詩という問題に戻ってみたいと思います。定型詩においてはアルゴリズムという概念がごく自然に腑に落ちます。五七五であれ、五七五七七であれ、あるいは季語とか二物衝突とかいうもの約束事や概念がアルゴリズムであるとも言えるのかもしれません。でも自由詩にとってアルゴリズムってなんなのでしょう?
もしかしたら自由詩とアルゴリズムとは相容れない対立概念ではないのでしょうか?すべての約束事から自由であろうとするものが自由詩なのだとしたら、自由詩にアルゴリズムを与えた時点でそれはもはや純粋な自由詩なのではなくってしまうのではないか。
あるいはこう言ってもいいでしょう。自由詩の詩人は、一作毎にかりそめの定型を作り上げる。自由詩とは、この世でまだだれも試みたこともない発想や構成やリズムや修辞をその都度探しだしてはでっち上げる、一度限り使い捨てのアルゴリズムである。その大半は見るも無惨な失敗に終わるけれども、稀に成功して自由詩という総体が更新される。しかしその成功はフォーミュラ化して繰り返すことはできない。それだと擬似的な定型に陥ってしまうから。次の作品ではまた更地から出直さなければならない。
ときどき短歌や俳句の世界で一晩に千首(句)詠んだとかいう話がありますね。以前から詩人仲間で話していたのですが、あれは定型だからこそできることで、自由詩には無理なんじゃないか。仮に出来てしまったとしたら、それはその場限りの定型を利用してのことではないか。僕が「新いろは歌」を作りながら襲われた憑依感覚はそれに近い現象だったろうし、山田亮太さんが『オバマグーグル』を書かれたときも、同じような感じだったんじゃないか。ウィキペディアを引用してゆく作業ならいつまでも続けることができますからね。けれどもどこかにそれをモニターしているもうひとりの自分がいる。その自分が書いている自分をモニターし、指図し、あるところで「もう十分だ。ストップ」と宣言する。実はその感覚、一篇の自由詩を書いている最中にも意識の底に脈打っている気がするのですが・・・。
三宅: 四元さんの『言語ジャック』に収められた、「名詞で読む世界の名詩」、それから『リサイクル「雨ニモ負ケズ」』大変刺激的で考えさせられる詩です。「名詞で読む世界の名詩」は、題名からして洒落が効いていて面白いんですが、例えば、作者の名前を隠して、「この詩は誰の詩だ?」なんて推理するのも楽しそうです。よく、ジャズ・ファンの間で行われる、「ブラインド」と言われる行為、つまりレコードやCDの演奏を聞いて、「これはコルトレーンだ、」とか、「ロリンズだ」とか、当てる行為に似ているような。寺山修司とか、すぐわかりそうですよね。単語が独特だし。
さて、AIの方に話を戻せば、四元さんが寺山修司の「少年時代」から、この名詞を選び出したというのも、四元さんというフィルターがかかっているわけですよね。四元さんの言葉を借りれば、「発想」「企画・構成」「選択」「編集」という事をすべて、「少年時代」を素材にしながら、四元さんが行い、プロデュースしたわけです。もし、四元さんが、あるアルゴリズムを作って、寺山の「少年時代」から名詞を取り出して、並べよ、とAIに命じたとして、出て来たものが、この「少年時代」からの違う名詞だったとしても、やはりこれは四元さんの作品ではないか、ということは私も全面的にアグリーします。
私が『歌論』の中の「アンドロイドは電気短歌の夢を見るか?」で、コンピューターグラフィックを例に挙げ、完全に「人間性」をAIが得るまでの過渡期においては、つまり人間がAIを使いながらも、創作のおいてそのイニチアシブを持っている限り、創作者は人間ではあるが、ただ、創作の実体は変わる可能性がある、つまり、「作る」から「選ぶ」方向に行くんじゃないか、と述べたのも、四元さんとほぼ同じ事を言っているんだと思います。
ただ、四元さんの、『リサイクル「雨ニモ負ケズ」』を読んでいると不思議な感覚にとらわれます。この詩の中の、
1 散らばった行を1カ所に集めます
2 水に晒して助動詞を洗い流し、重複部分を取り除きます
3 まだ使えそうな素材を選び出します
4 素材を自由に使って、あなただけの素敵な小物をつくってみましょう
5 残った材料は大切に保管しておきましょう
というフレーズは、四元さんがAIに命じるアルゴリズムだ、と捉えてもさほど不思議がないようにも思えるからなんです。そういう意味では、やはり、すべてが四元さんという人間が作った詩にもかかわらず、これらの「引用」という行為が、人間がAIを使う、という留保はあるものの、過渡期におけるAIによる自由詩と親和性があるとも思うんです。
先の「アンドロイドは電気短歌の夢を見るか?」で、ではその過渡期なるものはいつ終わるのか、という事に関して、AIが完全に人間の心を持ち、「短歌」を自分で作りたい、と思うようになったら、そのときAIは歌人(もちろん詩人でも俳人でもいいのですが)になるのではないか、と書いたのですが、その感想は今は少し違います。
「AIは完全に人間の心を持てるのか?」という問いはかなり前から議論されているみたいですね。もちろん私はその方面に科学的にくわしいわけではないのですが、ブラックホール研究で有名な物理学者のロジャー・ペンローズは、『皇帝の新しい心』で、AIが人間の心を得ることに関しては否定的です。昨今のテレビ報道などでも、AIは人間の心、すなわち脳を完全に再現できる、シュミレートできる、という科学者がいたり、いや、無理である、という科学者もいます。まだまだ理論的にも手さぐりな状態なようです。しかし、仮に心を完全にシュミレートできたAIが出来たとします。もちろん、かれらは自分のアイデンテティを知っているはずです。つまり心は持っているけども、人間ではない、と。さて、そのようなAIが本気で、人間の言葉で、詩や短歌や俳句をつくりたい、と思うでしょうか?しかも極東の辺境な日本語で?
ただ、「そうだ、AIがそんな事を思うはずはない、だから、人間の詩歌の創作という行為は安泰だ、」というのも少し違うような気がします。
ここで、少し話は飛ぶのですが、最近、藤井聡太四段で話題の将棋や囲碁の世界を例にとり考えてみたいのです。(将棋と詩歌は違うだろ、と突っ込みが入りそうですが)藤井さんが将棋の学習においてAIの活用を積極的に活用していることも話題になりました。囲碁や将棋の世界で、人間とAIの対戦はかなり日常的だし、最近は人間の方が部が悪い、なんてこともよく知られている通りです。
さて、そのような中でも、「AIは自分の意志で、つまり、将棋や碁をやりたいからやっているのか?」という問いはあまり問題にならないようです。もちろん、現時点では、AIが「囲碁や将棋がやりたい」と自発的な意志を持っていないことは明白なのですが、一方で、人間が学ぶような手を打っている、見た事のないような手を打っているとするならば、その「棋譜」はやはり大変な「文化遺産」ではないのか、とも思うのです。加藤一二三さんが、「自分の今までの棋譜は文化遺産になるだろう」というような事を仰ってたと思います。ぼくも本当にそう思います。では、今、人間のアルゴリズムで動かされている(自分自身で学習もするようですが)過渡期のAIが、誰も考え付かなかったような「棋譜」を作り出したとしたならば。。それもまた貴重な「作品」であるに違いないとも思うのです。
詩歌に話を戻しましょう、そして、四元さんの問いに戻るならば、「今のところ」詩歌の創作において、「発想」「企画・構成」「選択」「編集」という作業は人間にしかできないのではないか、という所は私も賛成です。ただ、もしAIと「コラボ」しながら、詩歌を作るならば、創作の行為の在り方や「ポエジー」そのものが変わってくるかもしれない、というのが私の意見です。
「詩とは結局のところ比喩ではないか?」と言ったのは吉本隆明でしたっけ?その言葉は普遍性をもっていると思いますが、それはある意味古典的というか、現代詩を掬い取るには、あまりに現代詩が多様化しすぎているとも思います。「詩となにか」という事を定義した途端に零れ落ちてしまうものが沢山ある。逆に、「詩とはこうだ」と作り手が提示して、「これは詩だ」と受け手が思えばなんでも「詩」になってしまうとも思うのです。
数年前ですか、新聞記事で読んだんですが、人間が、AIに、「すべての世界や自然界の事象からもっとも興味深いものを挙げよ」と命令したら、猫の顔がプリントアウトされてきたそうです。ぼくはこの事にユ-モアを感じるべきなのか、ぞっとするような感覚を覚えるべきなのか、とまどった記憶があります。(『亀霊』でも詩にしましたが)しかし、「選択した」という事実は、立派に「心」をもっている証拠だと思います。今、その同じAIに、「もっとも興味ある日本語の詩集はなにか?」と尋ねたら何と応えるでしょうか?その答えによって、AI時代のポエジーが占えるかもしれません。
[One of the neurons in the artificial neural network, trained from still frames from unlabeled YouTube videos, learned to detect cats.]
https://googleblog.blogspot.de/2012/06/using-large-scale-brain-simulations-for.html
ところで、シンクロ二シティとも言うべきか、さきほどの「プリントアウトされた猫」について、四元さんも詩にされておりましたね。話題の『単ぽた』の中の、「白球の軌道」から一部分を挙げさせていただきます。
コンピューターはすべてを見切った挙句に猫の顔の幻を吐き出したそうだが
もしかつて書かれた詩がこの世のサムネイルだとしたら
その集積からどんな残像が生まれるだろう
この詩、この語句、きわめて暗示的だと思います。四元さんがおっしゃった、「引用ということを突き詰めてゆくと、およそすべての詩歌は引用じゃないかとも思えてきます。」という言葉ともリンクしているように思います。私も、この感想、実によくわかる気がするんです。「万人に共有されている言語の一部を選びとり、並び変えて、繰り返すという本質においては引用と変わらない。」、「詩はその手腕というか裁き方にこそ宿っている」、これらの四元さんの言葉に私も賛同します。そして、それをさらに言ってしまえば、人間の個人の「心」や「思想」というのも、実は、そうした万人に共有されている「心」のパッチワークではないか、巨大な「集合的無意識」にほんの少しの個人の心というものが浮かんでいるだけではないか、個人の独創性などは本当に限られたものではないか、とも思ってしまうのです。僕自身の思想も共感性も、今まで読んだり、見聞きしたり、体験したもののパッチーワークにすぎず、「三宅勇介」という人間の「心」もすべてそれらのパッチワークではないか、とも思えてくるのです。
さきほど、ポエジーという言葉を使いましたが、私の「ポエジー」の意味は少し四元さんの意味したものと違いましたね。四元さんの今回の、「ポエジー」という言葉は、そうした詩人の行為そのもの、「発想」「企画・構成」「選択」「編集」、という行為の意味をさしているのだと思います。そうした詩人の「能動性」こそがポエジーではないか、と。
そして、「すべての約束事から自由であろうとするものが自由詩なのだとしたら、自由詩にアルゴリズムを与えた時点でそれはもはや純粋な自由詩なのではなくなってしまうのではないか」、「自由詩とは一度限りの使い捨てのアルゴリズムである」という四元さんの言葉は、詩人の「能動性」に基づいた、一回限りの「奇跡」こそが自由詩なのではないか、ということを意味しているのだと思います。
井原西鶴の矢数俳諧は有名ですよね。住吉神社で、一昼夜で23500句の独吟したという。ぼくも何年か前まで、これってギネスブックものではないか、(載ってるのかな?)、現代俳人が挑戦したら面白いのではないか、なんて思ってましたが、最近は、AIの研究者が挑戦したらどうかな、なんて思ってます。なにか、面白い事が生まれるのではないか、と。
前回、話に中島裕介さんの歌集の例を挙げましたが、批評会で、私は次のような趣旨の発言をしました。
「たとえば、今の時点では現実性はないが、スーパーコンピューターを使って一日に何万首作る。そこから、人間が選ぶ作業をすれば数日で歌集が出来あがるのではないか、」と。
今でも、その感想は変わらないのですが、近い将来、AIとのコラボをする歌人や俳人は、あらわれてくると思います。齊藤茂吉の歌の総数は2万数千首ともいわれてます。それを一年で塗り替える歌人が出てくるかもしれません(もちろん、数の問題ではないのですが)。
四元さんの、定型だからこそそれらは可能であり、自由詩では無理なのではないか、それができるのはその場限りの定型を利用してだからではないか、というご指摘、非常に鋭く、説得力があると思います。ただ、四元さんの言葉の根源にあるもの、言いたかった事というのは、どちらかというと、フォルムの話よりも、つまり、定型詩と自由詩のどちらが、アルゴリズムとして作りやすいのか、(あるいは自由詩にはアルゴリズムが成り立たない)、ということよりも、さきほどの、詩=人間の能動性に基づいた一回きりの「奇跡」、ということの方なのではないかな、という気がしているんです。そうだとするならば、定型詩においても実は同じ事があてはまると思うんです。定型詩も自由詩も、「詩」の一部であり、同じポエジーを担うものですから。
田村隆一の「詩神」という詩がありましたね。
茂吉のpoesieの神さまは
浅草の観音さまと鰻の蒲焼
かれには定型という城壁があったから
雷門へ行きさえすればよかった
ぼくの神経質な神は
いつも不機嫌だ 火災保険もかけてない
小さな家と
大きな沈黙
この詩も21世紀的な観点で見ると、また味わい深く思えます。四元さんの、「しかしその成功はフォーミュラー化して繰り返すことはできない」という言葉と、田村隆一の「神経質な神」が重なって見えます。
最後に、「能動性」と「受動性」性について書かせてください(最近、「中動」という言葉も耳にしますが)。
少し四元さんの議論と離れてしまうかもしれないのですが、基本的に、今の時点では、詩歌のAIにしても、囲碁や将棋のAIにしても、人間がAIに働きかけますよね。つまり、人間が「能動的」で、AIが「受動的」である、と。もし、AIが自分の意志をもってしまったら、つまり「詩をつくりたい」とか、「将棋をさしたい」と思うようになったら、それはもうAI以上のものかもしれない。定義的には、そういう意味で、AIとは、「受動的」なるもの、人間のコントロールが効くもの、と定義されるべきものなのかもしれない。しかし、AIが猫の顔をプリントアウトしたり、最近のニュース、中国のAIが中国共産党を批判したという出来ごとなどの、人間の、あるいは当局の予想を超えたAIの、言葉や物を「選択」したという事実は、AIの「受動性」のなかの「能動性」ともいうべきものを現しているのではないか、と思うのです。そうした、人間の「能動性」と、AIの「受動性の中の能動性」の波がぴったりあったときに、思わぬ「奇跡」が生まれるかもしれない、という気もしているのです。
(聞き手:四元康祐 この項呆れたことにまだ続く)
AI インタビュー前回分はこちらから
https://note.mu/eyepoet/n/n4c0bd5e474cb/edit
三宅勇介:Yusuke Miyake 1969年東京生まれ。
『亀霊』しろうべえ書房
http://shirobeeshobo.wixsite.com/home1/hon
『棟梁』本阿弥書店
http://store-tsutaya.tsite.jp/item/sell_book/9784776806462.html
『える―三宅勇介歌集』
http://sunagoya.com/shop/products/detail.php?product_id=436