隅田有_クロッシング

隅田有『クロッシング』:永遠の「よそ者」のためのパスポート

昨年、雑誌「びーぐる」31号の「土地の詩学」特集で、僕は隅田有の詩について次のように書いた。

この文章の最後を、私が読んだ限りもっとも新しいタイプの「地名詩」であると思われる作品で締めくくろう。隅田有の「ナリヒラ」である。その冒頭部分。

肉襦袢のような気泡緩衝材 もしくはプチプチ
好きなだけ潰しなさいって陽気にお前
いっこ潰しては雨上がりの白玉
またいっこ潰してはサクランボゼリー
次々と発送されるコンテナは
ネットワークを経由してほぼ正確に投下される
僅かに逸れて川に落ちる
さて
無数のコンテナの宛先に
(俺)の名はありやなしやと

これだけでは「ナリヒラ」の所以は想像つかない。ただ、「気泡緩衝材」「コンテナ」「発送」といった単語がうっすらと港湾の物流を想起させるだけだ。このあとも「気泡緩衝材につつまれた/お前の熟れた水門と/和毛でふち取られた下半身は/口に含まれることを待つ/砂糖壺の中の真夏だ」といった感覚的な言葉が続いて土地勘は得られない。だが後半になって、

(俺)は唐突に
言問いの橋に取り残される
水位はゆるやかに上昇し
避難区域は水没した

「言問橋」が登場した途端、それが隅田川沿岸の光景であり、題名の「ナリヒラ」は、「名にし負わばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と詠んだ在原業平であると同時に、その界隈の地名としての「業平」でもあることに思い当たる。

詩の最後は「不始末の数々は/送り返してくれないか?/ウォータープルーフの袖にくるんで/哀しい歌は添えないで」とあって、恋の歌を送り続けた歌人としての業平のイメージに回収している。「ウォータープルーフの袖」では、涙で濡らすこともできないのだが。最初の方にあった「(俺)の名はありやなしや」が業平の歌に引っかけてあったことにも気づく。そう云えば、作者の名前もまた「隅田」ではないか。この作品が収められている第一詩集『クロッシング』の題名にもまた、「越境」という一般的な意味と同時に、端的に「橋を渡る」という行為が重ねられているのではないか。

ここでは地名が重層的に記号化されている。それは詩の迷路にさまよいこんだ読者を導きながら、千年の時を貫き、詩的な想像力を「ネットワークを経由して」「発送」する。一見極めて感覚的と思われたこの作品は、同時に知的な策略に満ちていたのだが、その甘美な謎かけを解く鍵こそが地名であったのだ。

           「びーぐる」31号 特集「土地の詩学」より

この小文を書いたときには、それまでよく分からなかった隅田有の詩がようやく読み解けたような気がして嬉しかったのだが、いまあらためて彼女の第一詩集『クロッシング』を読み返してみると、やっぱり分からないところだらけだ。

たとえば「ナリヒラ」同様、地名と歴史の重層性を扱った「セキガハラ」。

盆地の北には川が流れ
橋を渡る栗拾いたちの列は先頭も末尾も霧の向こっかわ
天下取りの戦は朝から睨み合って
昼過ぎには決着がついた
けれど子供時代はそんなふうには過ぎてゆかない
毬毬(いがいが)をソックス畳むみたいにひっくり返して
一列に並べると小さな首塚
この栗全部
かつては一人の子供だった

槍玉に上がるものはどんどん手放し
裂けた毬毬を串刺しにして
不謹慎な墓標を立てた
両陣営を巡るスタンプラリー
参加者には特別の不利益があります!
切断された性が
古の戦場を這いずり回る
そんなことはお気になさらず
押せよ、押せ、スタンプラリー
灰色の目をした栗拾い達に
あっという間に取り囲まれて
抜かりありました
相済みません

子供がいる、ということは分かる。その子がなにかふたつの敵対する力の間をいったりきたりしているらしいということも。でもそれ以上はよく分からない。あるいは詩の中には謎を解くヒントが秘められていて、分かる人が読めば分かるのかもしれないが、少なくとも詩人は読者に親切ではない。ほとんど読者というものを意識していないかのようにも見える。それでいて、どこか痛々しい、切迫した気配だけは伝わってくる。まるで暗号によって救いを求めているかのようだ。

詩集『クロッシング』は「初」「男」「女」「雑」「切」の章に分かれていて、上に挙げた作品はいずれも「男」に属する。「初」には「手引き」という詩が一篇だけ載せられている。これを手引きに、詩集を読み進めよということか。そしてそこにも「子供たち」が登場する。「アガメムノーンよ/子らを想え」とか、「オレステースよ、戦う姉の姿を見たか?」という一節も。

オレステースは「王の王」と呼ばれたギリシャの総大将アガメムノーンの息子。母とその情夫によって父アガメムノーンを殺され、自身も命を狙われるが、姉エレクトラの手引きで脱出し、のちに父の仇である母と情人を殺す。そういう史実を踏まえて読み返すと、以下のくだりなどなんとなく意味深だ。

すなわち彼女は(愛すべき彼女は)
言葉を復しゅうに使うことを許さない
だから
母を語らない

「彼女」とは作者の分身だろうか。言葉を復しゅうに使う代わりに、詩を書くようになったのか。「セキガハラ」に登場する「両陣営」も、「彼女」の両親なのかもしれない。「PeRmanent ADdreSs LOST」という散文詩には、「ホンゴスアンチヨメ」と呼ばれる虚構の本郷三丁目をさまよう「私」と幼い「鬼」の姿が描かれていて、「あとがき」には、そこが「小中学校時代を過ごした」場所であることが明かされている。だとすればこの「私」と「鬼」は、作者とその弟であり、同時にエレクトラとオレステースの姉弟でもあるのだろうか。

「女」の部では、詩の語り手と作者自身との距離がもっと近寄る。そしてそこにも幼少時の記憶と、アガメムノンの妻とその情人に重なるような大人たちの姿が描かれる。たとえば「日時計」の次の一節。

階下の食堂では連夜
女優きどりのニシンが喜劇的な死を遂げていた
鶴嘴でめった突きにするのは
言い負かされた情夫だった
外階段に座って飽きもせず鑑賞するけど
五歳の私は泣きはしない

「五歳の私」は大人たちの争いを自らの空想のなかのお芝居に仕立て上げることで「泣きもせずに」生き延びることができたのかもしれないが、そのドラマはいまもなお繰り広げられていて、作者を詩へと駆り立てているようだ。けれどもそこに感傷に耽ったり、癒しを求める素振りはない。むしろ自らが抱え込んだこんぐらがったもの(字義通りの意味でのComplex?)を解きほぐし、クローゼットのなかの暗がりから外の世界へ出てゆきたいという強い欲望が伝わってくる。

そういう外部への欲望がもっとも鮮明に表明されているのが「雑」の部だ。スコットランド北部のオークニー諸島、ダマスカスの市場、ヨルダンからイスラエルへの乗り合いバスによる越境(詩集の題名である「クロッシング」はここから取られている)など、旅の詩が集められている。それらは「男」や「女」の部に収められた詩よりも、穏やかで、素直で、分かりやすい。

前述の「PeRmanent ADdreSs LOST」では、未来の本郷三丁目「ホンゴスアンチヨメ」に現在のイスラエルが重ねられ、周囲に分離壁を張り巡らし、外部を「非日本」として拒絶する都市国家という想定だ。内部に身内のいない「私」は日本から締め出され、「外国人」(むかしの言い方をすれば「非国民」)の身分だが、そのことを嘆き悲しむ気配はない。幼い鬼の手を引いて、半年がかりでビザを手に入れるのも、郷愁のゆえではなく、ひたすら「旧真砂図書館」で『泣いた赤鬼』『紅葉狩』『桃太郎』などのテキストデータをスキャナーで取り込むためだけだ。それが叶えば、あとはUSBスティック片手に、観光客気取りで「うどんカルボナーラ」を食べたり、鬼に爪きりの土産物を買ってやったりしている。

国境の外に分類された私たちは今後、徐徐に姿を変えてゆくだろう(けれど何故?)。吸収される者として新たな名前を与えられ少しずつ言葉を手放しながら、静かに生き続けるだろう(どうやって?)。私は優しい鬼の手をぎゅっと握る(私たちはかつてもストレンジャーではなかったか?)。もう片方の手には澪標のようなメモリスティック。早くも遊離し始めたデータは失われるままに任せ、しばしの間、よそ者の時間を慈しむのだ。

「よそ者」、「ストレンジャー」、「外に分類された私たち」。それは古今東西に共通する詩人像の原型のひとつだが、この詩集の前半に配された幼少期の孤独で不安な感覚とも響き合う(「わたしたちはかつてもストレンジャーではなかったか?」)。隅田有にとって詩とは、大人になってから言葉で書かれたものであれ幼い心のなかで空想されたものであれ、「よそ者」を同化と吸収から守り、絶えず移動させることによって永遠の「よそ者」たらしめる旅券のようなものであるのかもしれない。

隅田有『クロッシング』(空とぶキリン社 2015年)http://toburin.cart.fc2.com/ca1/54/



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