見出し画像

森山至貴 X 四元康祐 往復書簡 「詩と音楽と社会的現実と」:第十回

Vol 18 from M to Y

倒れ込むようにして新年度に突入し、気がつけば半月が経ってしまいました。昨年度のうちに終えておくはずだった仕事は終わらず、しかし「さあ、年度が変わって仕切り直しです」とばかりに新しい仕事が湧いて出てきました。とは言え、新しい学生を大学に迎え、そのキラキラした(それでいて射るような)視線に晒されつつ授業をはじめると、少しだけ若返った気持ちにもなります。

先日ラジオを聴いていたら、パーソナリティの人がこんなことを言っていました。森友・加計問題でも、自衛隊の日報問題でも、国会の議論は「質問に答えず、時間切れに持ち込めば勝ち」というルールになっているが、こんなものを見た若者が選挙に行って投票する気になるとはとても思えない。18歳から選挙権を認めることにしたのにこれでは、「大人」としては情けなくて仕方がない、と。まことにおっしゃる通りで、授業でどんなに「事実と論理に基づいて正しさを追い求めなさい」と教えたとしても、「無理を通して道理を引っ込めろ」というメッセージを寄ってたかって政治家が発しているとしたら、有権者意識もシチズンシップ教育も宙に浮いてしまうでしょう。まさに選挙権を行使できるようになったばかりの学生を相手にしている立場の人間としては、頼むからまともに議論をしてくれ、と言いたくもなります。

ただ、「政治家はどうしてまともな議論ができないのか」という問いは、もしかしたら現実政治のろくでもなさを穿っていないのかもしれない、とも思ってしまいます。政治学者でない私は議会制度のしくみや政治の慣行については知らないので、あくまで私見ではあるのですが、そもそも、「議論をするということ自体がけしからん」と思っている人が、一定数いるのではないか。そう言えば、ここのところ学問の自由を侵害して恥とも思わない政治家や、基本的人権の尊重が明記されない「公共」の教科書など、「黙って誰かの言う通りにする」ことを善とする規範を人々に浸透させたい人が一定数いるがゆえの決定が、少なくとも私のかかわる教育の分野では散見されます。

私がここで考えてみたいのが、この「黙って誰かの言う通りにする」ことと、「和を以て貴しとなす」の異同についてです。個人の意見は引っ込めろ、という点では両者は同じなのですが、「では誰の意見を通すのか」という点では、両者は異なるように思えるのです。聖徳太子の時代にどういう意味で使われていたのかはわかりませんが、現代日本で「和を以て貴しとなす」という時、最終的に通るのは「総意(ルソーなら一般意志と呼んだでしょうか?)」、あるいは「多数意見」だと思います。もっとも日常的な言葉遣いにしてしまえば、「みんな」の意見が通る、というわけです。

ところが、「黙って誰かの言う通りにする」の「誰か」は、おそらく「みんな」ではありません。特定の人物、それも「普通」の人や「弱い」人、ではなく「偉い」人のはずです。ここで私は、天皇の生前退位をめぐる議論を思い出します。コメンテーターと呼ばれる人たちは、こぞってこう言っていました。「天皇が言ったからその通りにする、では国民主権の原則に反する。だから、天皇の意志を尊重できるよう、あくまで国民の自発的な議論において生前退位を可能にすることが望ましい」…私はここに、日本流の「忖度型国民主権」を見出します。誰かの言うとおりに自発的にふるまうことが主権の行使とされる、というのはなんとも奇妙な心理機構です。「内なる天皇制」ここに極まれり、という感じでしょうか。

厄介なのは、行政権も立法権も持たない天皇に対してだけでなく、これらにかかわる「権力者」に対してまでこの「忖度型国民主権」が発動してしまう場合です。現政権与党や首相に対する官僚やら国会議員やらの常軌を逸した忖度は、まさに忖度として「自発的に」おこなわれている(と少なくともアピールされて)いる。正誤や是非について議論する時、立場や権威によらずその参加者は対等であるべきで、その対等性こそ議論と結論の正当性を担保する、というごく基本的な(と私には思われる)原則がどこかに吹っ飛んでしまっている。「虎の威を借りてこそ狐」みたいな風潮には、心底うんざりします。私はただ狐としてありたい。この往復書簡で何度も話題になっている四元さんの「旗」という詩も、まさにそのようなことが表現されて(も)いる詩ではなかったでしょうか?

しかしながら、「和をもって尊しとなす」と「黙って誰かの言う通りにする」は、現実には接近し、混同されているようにも思えるのです。なぜなら、ここで言う「誰か」はいつも「みんな」の一員に擬態しているから。「虎の威を借る狐」が増えれば、虎の意見と狐の意見は見分けがつかず、そして虎が狐のふりをすれば、さらに見分けがつかなくなる。「天皇は国民の象徴」とはまさによく言ったもので、「忖度」はそれが批判された時に「いやでも、忖度された側も別に特別な存在ではないですから」とその批判をかわすところまで含めて「忖度」なはずです。

ここではむしろ天皇のあり方よりも首相のあり方を問題にすべきかと思います。正確には、「虎の威を借りてこそ狐」と思っている狐と、肝心な時に狐のふりをする虎の共犯関係。だとするならば、狐は狐、虎は虎(ただし、虎は狐が選んだ期間限定の虎)、とはっきり分けることに立ち戻るべきなのかもしれません(「社会契約」とはそのようなものだったはずです)。首相の妻を吊し上げてもしかたないですが、「悪いのはみんなの共犯関係」というだけではまさにその共犯関係に陥った「みんな」を再度立ち上げてしまう。ここは愚直に、「虎は虎、狐は狐」と決めたのは狐、という基本に即して、個別の責任や罪を判断していくべきなのでしょう。

脇の甘い社会時評めいたことを書いてしまいましたので、四元さんの詩作をめぐる議論に話題を変えたいと思います。と言っても、ここまでの道のりでも、すでに少しだけ種を蒔いておきました。つまりこういうことです。「和をもって尊しとなす」と「黙って誰かの言う通りにする」の差異、という論点を加えることで、詩というものの位置を再測定することが可能なのではないか。

四元さんは、「内なる天皇制」的な要素なしの詩作は不可能ではないか、とお書きになられています。四元さんは「中動態」という言葉もお書きになっていますね。しかし、私にはこの2つの表現は、違うものを指しているようにも思えるのです。すなわち、前者が「黙って誰かの言う通りにする」型で、後者は「和をもって尊しとなす」型。ちょっと牽強付会気味なので、そして誤解を招きそうなので、違う表現にずらして書いてみます。前者は「隠蔽された二人称」型で、後者は「無人称」型。無防備に言い切ってしまうと、無人称的な普遍性に到達することと、二人称(とその権威)を隠蔽することを混同しなくてもよいのではないか。例えば意味なき難解さによって虚仮威しをしている詩こそが「内なる天皇制」に依存したものであって、他方歌合わせや本歌取りは、詩の人称性を薄めていって無人称的な普遍性に到達しようと目論みているのである、とか。これはあまりにも牧歌的に、そして拙速に「あるべき詩」を「内なる天皇制」から引き剥がしているように、四元さんには映るでしょうか?

とはいえ、そのようにしてみると、意図してかどうかはともかく、和泉式部の地上性とか水平性も、また違った見え方をしてきます。和泉式部は、全てを現に存在する要素の中で書ききることに長けていた。隠蔽された二人称的な対象(=内なる天皇?)はどこにも存在せず、それゆえに、それは、孤から公へと突き抜けるための、第一関門を少なくとも突破していたのだ、と。とはいえ、この説明図式をどこまで拡張できるかは疑問です。じゃあ『源氏物語』はなんなんだ、とも言われてしまいそうです。あれは空虚どころか執拗に「中心」の存在を描く物語ですからね。しかしそれもまた、隠蔽された二人称的な対象を徹底して暴露することで、無人称的な世界へと物語を昇華させたのだ、くらいのことは言えるかもしれませんが…。

あるいは、全く違う切り口から「隠蔽された二人称型」と「無人称型」の対比を救い出してもいいかもしれません。すなわち、両者の分かち難さ、奇妙で混乱した混線の中でもがくことこそが、詩作なのではないか、と。この感覚は作曲家としての私にも直感的に納得できるものです。「上手く書ける」ことが「権威付けられた(隠された)雛形に接近する」ことであってしまうような磁場において、しかしいかに書くことが「そのようにしか書かれ得ない」という事態として普遍性を獲得できるか。それは、もしかしたら詩作を離れて、創作一般にかかわる論点なのかもしれません。と、風呂敷を広げたままたたまずにおいておいて、もう少し考えてみようと思います。

四元さんと和泉式部の関係、面白いですね。ここで、「相聞歌」という単語を選択した四元さんは、和泉式部を一種の雛形として(内なる天皇として?)参照し取り込む、というよりは取り込まれることをなんなく回避しているように思えます。だって「相聞歌」はまさに水平な平面上での実践に違いないわけですから。

とは言え、四元さんの二元論に私の二元論を無理に接ぎ木したせいで、自家中毒が行き過ぎてしまったようです。「天皇制」という言葉の曖昧な多義性の周辺でぐるぐると回っているついに、「空虚な中心」の威力に取り込まれてしまったかのようで、頭がくらくらしてきました。もう少し社会学的に厳密な仕方でここまでの議論を書き換えられないか、少し考えてみることにします。

2018.4.18

PS 全くもってミーハーなことなのですが、詩人の伊藤比呂美さんが、本年度から私と同じキャンパスに(期間限定で)ご着任なさり、すでに何度かキャンパス内でお見かけしました。この往復書簡でも話題にのぼりましたし、『日本語の虜囚』の五十音表などの記憶もあり、私は勝手に親近感を抱いてしまいました。もちろん、唐突に話しかけたりはしませんでしたが…。

Vol 19 from Y to M

前便で森山さんがご指摘になった、「黙って誰かの言う通りにする」ことと「和を以て貴しとなす」ことの違い。前者における「誰か」がえてして「偉い人」となり、権力への無批判的な盲従をもたらすのに対して、後者においては「みんな」の意見が優先されるということ。なるほどその通りだと思います。思うのだけれど、「みんな」の意見というところが曲者だとも思うのです。「みんな」を構成する個人ひとりひとりの強度、それがよほど強靭でなければ、「みんな」はたちまち空洞化してしまう。森山さんのいう「忖度型国民主権」になってしまう。

忖度の対象は、総理大臣から職場の上司、学校の先生、ひいては町内の古株に至るありとある階層に序列された「権力」です。僕らは物心つく前から、自分を取り巻く様々な関係性の網の目に繊細であり、その秩序と調和を乱さないことを最大の美徳として刷り込まれてきています。あまりにも深く刷り込まれているので、普段は自覚することも出来ないわけですが、たまにその和を乱す者が現れると、「空気が読めない」などと言って攻撃する。ところがそういう異端者が(その異端性ゆえに)集団のなかで優位な立場に立つと、打って変わって甘やかす、卑屈なほどへり下る。そういう極端な振幅を繰り返している気がします。

その傾向は僕が日本にいた頃(もう三十年以上前のことです)よりもひどくなっているんじゃないかなあ。「〜〜させていただきます」という言い方が広がっているでしょう?国会の質疑でも「お答えさせていただきます」とか「回答は控えさせていただきます」なんて連発していましたよね。そこには個の主体性を打ち消そう、薄めてしまおうとする気配がありありです。「私は〜〜します/しません」とは言いたくない、あくまでも「あなたの同意/責任によって」私がそう「させていただく」という恭順な受身のポーズを取りたがる。それでいてやっていることは慇懃無礼極まりなかったりするわけですが。一体いつから日本人は自らの主体性をこんなにも恐れるようになってしまったのか。「滅私」の伝統は「万世一系」同様永遠不滅なのでしょうか。

何か不祥事があった場合、本人だけでなく周囲の「関係者」がやたら謝ることも、個の主体性が希薄であることの現れです。組織としての管理責任や、家族としての教育上の責任を示しているつもりでしょうが、裏を返せば集団が個人を包みこみ、その責任を共有することで、個の主体そのものを溶解させている。「謝罪会見」と称する我が国独特の儀式のたびに、その不祥事に関わってもいなければそれを防ぐ術ももたない第三者が、ただ「関係者」だというだけで深々と頭を下げる場面に、偽善を装った真綿の押し付けがましさを感じるのは僕だけでしょうか。

このような精神風土のなかで、「立場や権威によらず」対等に議論することが難しいのは、当然かもしれません。対立を恐れ、「ノー」と告げることを回避して、結論を曖昧さのうちに宙づりにするという行動パターンは、僕らの言語にも織り込まれています。日本語においてしばしば主語が省かれ、相手との関係によってさまざまな人称代名詞が使い分けられ、肯定・否定の決定が文末に来るというのはよく指摘されることです。語尾の微妙な変化によって、丁寧やら尊敬やら謙譲やらを表現するというのも象徴的です。関係性を排して、事実を事実のままに表明しようとすると、僕らの言語はぶっきらぼうで居心地の悪いものになってしまう(と敢えて語尾のクッションを捨てて、断言に踏みとどまってみます)。

これに比べると英語やドイツ語はほとんど常に言いっ放しだし、相手が大統領でも職場の後輩でもYou/Sieの一本槍、文構造のなかにその場の関係性が入りこむ余地は極めて少ない。伊丹十三氏はウィリアム・サロイヤンの『パパ・ユーアクレジー』という小説を人称代名詞を一切省略しないという大胆なやり方で翻訳して見せましたが、その意図を本人はこう解説しています。

西欧人というのは確立した自我を持っているから、その言語において主語を省略しないのか、それとも、逆に主語を省略せぬような言葉を持ってしまった事が彼らをコギトの世界へ追いやるのかは、わたしにはよく判らないが、いずれにせよ、西欧人における自我の確立と、省略されぬ人称代名詞とが、どこかで深く結びついていることだけは確かであると思う。

 そしてまた、

西欧文化というものは主体と客体の断絶の文化であり、日本の文化は逆に主体同士が距離を否定し、自分をゼロとすることによって相手と空想的に一体化しようと目論む母子原理の文化である。このように英語と日本語は主体の扱い方について決定的な差異があり、訳者のなしうる最善のことは、距離の言語を距離否定の言語に無理矢理移しかえた時に生ずる、ぎくしゃくとした軋りや歪みそのものを、ある程度訳文の中に保存して『達意の日本語』を捨ててしまうことである。

自我が確立され、主体と客体が情け容赦なく断絶された文化において、言語は明示的かつ論理的であることを余儀なくされます。我が国の官房長官が、食い下がる女性記者の質問に、のらりくらり意味不明の回答を繰り返すという場面が最近よく見られますが、このような状況は西欧文化においては絶対に起こり得ないでしょう。政治的な立場に関わらず、その場にいる全員が混乱と恐慌に陥るでしょうし、そもそもあういう答弁をしゃあしゃあと行う人物が官房長官に任命されるという可能性自体がゼロだからです。 

『うたげと孤心』の大岡信は、伊丹十三が「距離否定」、「自分をゼロとすることによって相手と空想的に一体化しようと目論む母子原理」と呼んだものを、端的に「近さ」そして「自己消去」というキーワードで論じています。

森林に取り囲まれた狭い土地に、外部から遮断されて集団生活を営むというのが、ここでの基本的な生活形態であったから、人間関係においても「遠さ」の感覚は育つことが困難であり、意思の伝達も、「近さ」を前提にした情緒的で省略語法の多いーーわけても、源氏物語などで最初私たちを驚かせるあの主語の省略、主格の朧ろさという特徴のごときーー伝達形式をとる。 
 こういう「近さ」を前提とする精神風土においては、人間を超えた絶対者への関心が生活習慣の中で維持されるということは、困難で例外的なことであろう。(『紀貫之』)

草原や砂漠で生活する人々の文化と比較しつつそのように述べた大岡信は、「近さ」の文化から生まれた我が国独自の詩の本質を次のように指摘します。

総じて言えば、漢詩が作者の「自己主張」を当然の条件とするのに対し、和歌はむしろ、作者の「自己消去」をごく自然に招き寄せる詩だとさえ言えるのです。「自己消去」、しかしそれによって詩人は何を求めるのか?詩人は自己を主張する代わりに、たとえば彼を取り巻く自然環境の中に進んで融けこんでゆき、そのことによって「自我」と一体化しようとするのだと言えるでしょう。(『日本の詩歌 その骨組みと素肌』)

このような文脈において、「和歌」とは、「漢詩」に対しての「やまと歌」であると同時に、相手と「和する歌」、本質的に協働性や集団性を孕んでいる歌だという主張がなされるのですが、大岡信はその背景として平安時代における政治体制を挙げています。

古典和歌の世界では、詩人たちの属する社会自体、きわめて強固な秩序によって統制され、美意識も趣味もみな共通の基盤の上に成り立っていましたから、「自我」の自己主張は、当然きわめて困難だったのです。
 平安時代という四百年も続いた時代は、概括して言えば藤原家という一大豪族の支配下にあった時代であり、他の氏族出身者はもちろん、藤原家一門の者でも、突飛な行動や表現は容易に許容されないような、その意味では「同質社会」というべき社会でした。そこにもまた、詩的表現における自己主張の乏しさの原因がありました。 (同上)

僕らの議論にとって大変興味深いのは、そのような藤原家の支配体制が摂政関白制度と呼ばれるものであったことです。「摂政」とは、娘を天皇に嫁がせ、その娘の生んだ皇太子=幼い新天皇の外祖父という地位を得た者のこと。その新天皇が成人しても、天皇の代わりに外祖父が直接政治を執行するのが「関白」。いずれも「民間人」が天皇との婚姻関係を利用して絶対的な権力を獲得するというものです。

これ、まさしく森山さんが前項で『「虎の威を借りてこそ狐」と思っている狐と、肝心な時に狐のふりをする虎の共犯関係』と呼んだものの原型ではないでしょうか。

明文化された法による統治が進められた律令制時代に比べると、血縁や縁故に権力の基盤を置く摂関政治の社会は、閉鎖的で内向的であり、その内部で均質性が醸成されてゆきます。その点もまた平成のニッポンを想起させるではないですか。政界、特に与党には二世・三世の世襲政治家が目立つし、社会全体としても価値観の均質化が加速しているように思えます。僕が生まれ育った昭和の時代には、まだ敗戦の余韻というか、戦前の体制が崩壊したあとにぽっかりと広がった空虚な開放感が残っていました。モンブランの万年筆にせよ、イブ・モンタンのシャンソンにせよ、海外の文物への漠然とした憧れも共有されていましたが、今ではそんなものは時代遅れの懐古趣味でしかないのでしょう。若い世代では留学や海外駐在を希望するものが少なく、大学の外国文学部にも閑古鳥が鳴いているらしいじゃないですか。千年のときを隔てて、僕らは第二の平安時代を生きているのかもしれません。

詩の話に戻りましょう。

詩を読み、詩を書こうとする人の心には、常に自由を求める気持ちが潜んでいます。たとえその詩が(たとえばエミリー・ディキンソンのように)内向的なものであったとしても、その内向性は閉鎖ではなく開放を目指し、深みの底から外部へと出てゆくことを夢見ています。詩には野性がひそんでいる、と言ってもいいでしょう。以前話題に出たクリスティヴァの言葉を借りるなら、「詩的言語はルールまみれの『正しい』言語=男性的な『法』に基づく言語を転覆する、ある意味「女性的」で革命的なもの」。人は社会の秩序や肉体の束縛から自由になり、超越的な世界へ出てゆくために詩を求める、それは古今東西変わらぬ真理だと思うのです。

けれども、もしもそうだとすれば、なんと皮肉なことでしょう。日本において詩がもっとも栄えたのが、外部性や開放性とは対極にあった摂関政治の平安朝であったとは。

大岡信は平安時代における和歌の隆盛の理由を、以下の二点に求めています。ひとつは当時の詩のもっとも優れた書き手の多くが、我が和泉式部を初めとする女性であったということ。一方男性歌人として名を成したものの大半が、紀貫之を初めとして、政治的な権力闘争から脱落した傍流(没落?)貴族の子弟であったこと。つまりどちらも、当時の社会秩序の中心ではなく周縁に位置し、均一性を強制する側ではなく、強制されてその息苦しさに耐えていた存在であったということ。だからこそ、閉塞の中で均質性への圧力が高まれば高まるほど、外部と自由への脱出口としての詩を求める気持ちも強まり、その精度が研ぎすまされていった……。

紀貫之の代表作である「土佐日記」が、左遷された先の土佐から京へ戻るまでのモラトリアムな船旅を舞台とした一種のロードムービーであることや、その作品内に散りばめれた空と水底との二重性なども、当時の詩人たちが生きていた閉塞感の裏返しであると読むことができそうです。

そして和泉式部に関して言えば、彼女の歌を特徴づけるふたつの要素、すなわち男女の恋と仏教的な無常観を、それぞれエロスの野性と死の超越性という観点から読み直してみたいという誘惑に駆られます。代表作のひとつである、

物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいずる魂かとぞ見る

という歌にしても、社会的な秩序と肉体の有限性で雁字搦めにされた原初的な生命力への挽歌と見えてきますし、

暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月

という歌には、死の絶対性をテコとして、現世を反転させ相対化させてしまおうという冷徹な意思を感じます。

森山さんのおっしゃるとおり、彼女は「隠蔽された二人称」の閉鎖空間を抜け出して、「無人称」的な公共空間へ自らを解放する術を備えていましたが、その原動力はエロスと死という形で現れた野性であり超越性であったと思うのです。ただ僕としては「無人称」ということばを、すべてに自己を仮託する能力という意味をこめて「全人称性」と呼びたい気持ちもあるのですが。

ところで和泉式部の場合、「隠蔽された二人称」を「内なる天皇制」と等式づけることには、格別のおかしみがありますね。彼女の『和泉式部日記』は冷泉天皇の息子である敦道親王との、まさに「隠蔽された二人称」を、生々しい肉体関係もろとも文学作品に昇華させたわけですから。この日記を書くことによって、彼女は「内なる天皇制」に対する「女性的な革命」を成し遂げたのかもしれません。

ずいぶん長くなってしまいました。いささか唐突ですが、次の問いかけをもってこの項を終わりたいと思います。社会学にとって、そして音楽家としての森山さんにとって、エロスの野性って何ですか?

2018年5月9日

シリアとの国境に近いトルコの古都、Halfetiにて

PS 先週、BBCのラジオ番組に出演して自作の詩を朗読したり、日本の詩歌における「夜」の意味合いについて語る機会があったのですが、そこでも和泉の「蛍」の歌を持ち出しました。よかったら聴いてみてください。


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?