森山至貴 X 四元康祐 往復書簡 「詩と音楽と社会的現実と」:第6回
vol. 10 from M to Y:
四元さんからの手紙を読んで、日本語以外のアジアの言語での合唱曲(か歌曲)を書きたい、と一時期強く思っていたことを思い出しました。当たり前のことですが、日本の合唱曲は多くの場合日本語の合唱曲です。その次に多いのはラテン語か英語の合唱曲で、それ以外の言語で書かれた曲は数えるほどしかありません。言語が変わると言葉のイントネーションとリズムが変わるので、必然的にできあがる曲のスタイルも大きく変わってきます。私自身と聴衆の耳に新しく響く意外な曲が書けそうで、かつての私はそのような「新しさ」を強く求めていたのでした。今でも機会があればぜひ書いてみたいとは思っているのですが、なかなかその機会に恵まれず、実現はしていません…。
もちろん、その時想定していたアジアの言語の中には中国語も含まれていました。そして私は、中国語の合唱曲が書ける機会も与えられていないのに、中国語で合唱曲を書くこと固有の難しさに悩んでいました。四声の問題です。学生時代、中国語を学ぶ友人知人から四声の発音と聞き取りの難しさについて吹き込まれていた私には、そもそも自分には聞き分けられない複雑なイントネーションをどうやってメロディラインに反映していいのか皆目検討がつきませんでした。そののち、「歌にするときにはイントネーションの細かい部分は全部捨象されるんだよ」と聞いて、なんだか肩透かしを食らったような気分になったのを覚えています。もっともこの説明が本当に正しいのかを確かめられるだけの中国語の能力を、いまだに私は持っていないのですが。
よく考えてみれば、私だって日本語で合唱曲を書く時に、もともとの言葉が持っているイントネーションをいつも厳密に守っているわけではないのです。というか、どのくらい厳密に守るかの程度自体を、曲調によって自覚的に使い分けています。もちろん、「雨」と「飴」のようにイントネーションが違うと意味が変わってしまう単語には、正しいイントネーションに聞こえるようなメロディをいつもあてています。しかし、聴取しやすい語句には選択の自由度があります。私の場合は、シリアスな曲調ではとにかくもともとのイントネーションに忠実に、ポップス的な曲調ではあえて言葉のイントネーションと異なるメロディをあてたりします。その方がポップス的な「歌い上げ」感を演出できるからです。
要は、どのようなメロディがついているかは、私の場合ははっきりと、他の作曲家の場合もおそらく、作曲家がどのようにその詩を読んだか、ということの表明になっていると思うのです。詩に音楽をあてることが翻訳だとすれば、どのような曲がつけられたか自体がその詩に対する批評になっている、そう言いかえてもよいかもしれません。
ここに来て、鴻巣友季子さんの翻訳=批評論に私も突き当たったようです。そして、鴻巣さん(に限らず、名翻訳家と言われる人たち)に関する一つの謎が、四元さんの手紙を読んで氷解しました。たしか豊崎由美さんがおっしゃっていたと思うのですが、鴻巣さんをはじめとする名翻訳家たちは、小説のすぐれた目利きであって、しかも名エッセイストです。岸本佐知子さんしかり、柴田元幸さんしかり。なんでかなあ、と思っていたのですが、すぐれた翻訳家はすぐれた批評の目を持っているから、と考えれば合点がいきます。常識をふわりと飛び越える快楽にみちたエッセイは、名翻訳家たちのすぐれた批評の目ゆえに書かれたものだったのですね。
鴻巣さんや岸本さん、柴田さんに自らをなぞらえるつもりはありませんが、たしかに私も合唱曲を書く作業とは翻訳の作業だな、といつも考えています。非音楽的なものを音楽に翻訳する、というよりは、日本語という言語を音楽という言語に翻訳する、という方が私の実感には近いですね。というのも、私は音楽を一つの言語だと思っている節があるからです。和声や対位法は文法、個々の音楽的要素は単語、定型的なコード進行は慣用句…呪文のようにしか聞こえなかった外国語も学べば言語として聞こえてくるように、音楽に親しめば親しむほど、それゆえ今の私には昔以上に強く、音楽は言語であるように思えます。むしろ、ルールを逸脱するかのような意味上のジャンプや言語的な実験を含む詩の方が、そこら辺の音楽よりもむしろずっと四元さんのおっしゃっているだろう意味で「音楽的」だ、という気すら私はするのです。
「音楽」と言語の不思議な反転にそのまま連結するように思いついたことを書いてしまえば、散文の方が韻文よりもルールが後景化するから「音楽的」だ、とも言えないでしょうか? 雑駁な言い方をすれば、ルールって(私のような音楽家はともかく、「普通」の人の実感からすれば)どちらかというと音楽よりは言語の領分、という気がするのです。もともとは韻文の方が音楽っぽいと私も考えていたはずなのですが…散文と韻文、どちらが「音楽的」でどちらが「言語的」なのか、よくわからなくなってきました。わからないついでにボールを四元さんに投げてしまいますが、「言語」の持つ拭い難い「言語っぽさ」って、なんなんでしょうねえ。四元さんは、言語の持つ紛れもなく「言語」としかいいようのない質感をどんな時に愛で、あるいは憎むのでしょうか?
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率直な不安を書きつけるところから、四元さんから受け取った問い、「詩はクィアか?」に応答しなければなりません。ついさっき、私は詩こそ「そこら辺の音楽」よりもずっと「音楽的」だ、と書きました。私は、この「そこら辺の音楽」に自らが書く音楽が含まれているかもしれない、ということに不安をいだきます。なぜなら、私の考えでは、もし私が「そこら辺の音楽」を書いているのならば、私は詩のクィアさを、(クィア・スタディーズの研究者であるにもかかわらず!) 自ら消去してまわっていることになるからです。
今、こっそりと四元さんの問いに対する応答をしてしまいました。そうです、私ははっきりと、「詩はクィアだ」と思っているのです。かつてジュリア・クリステヴァという文学理論家が、詩的言語はルールまみれの「正しい」言語=男性的な「法」に基づく言語を転覆する、ある意味「女性的」で革命的なものだ、と主張しました(『詩的言語の革命』、私の要約は暴力的なまでに目が粗く誤解に満ちているかもしれませんが)。のちにクィア・スタディーズの理論家の一人であるジュディス・バトラーがクリステヴァの立論の矛盾を手厳しく批判しましたが、それはむしろ、「法」の転覆の可能性の在り処を見誤らない、という強い意図ゆえのことでした。そして、そのような転覆に与えられた名が「クィア」なのだとすれば、詩の「ルールを逸脱するかのような意味上のジャンプや言語的な実験」はやはりクィアだ、あるいはクィアな言語実践をこそ詩は目指すべきだ、と言いたい誘惑に、私は駆られるのです。
だからこそ、私は詩の持つ転覆の可能性を、音楽がみすみす弱めてしまうことを憎みます。言い換えれば、詩の持つ優雅で挑発的な飛躍を、手垢にまみれたコード進行や「いかにも合唱曲」的な様式感で「歌」にしてしまうことを憎みます。なぜならそれは、詩が遠ざかろうとしていたはずの「法」の支配に詩を屈させてしまうことにほかならないからです。正直に言って、私は「どうしてこんな面白い詩をこういういかにもありがちな合唱曲に仕上げてしまったのだろう」と他人の作品に対して不満を持つことがあります。そしてそれ以上に、私自身の作品がそのような作品になってしまうことを恐れているのです。詩のクィアさを私の書いた曲が台無しにしてしまうとしたら、私にとってこれ以上の恥辱はありません。
とは言え、それでは既存の音楽の文法を全く無視した、例えば「現代音楽」的な合唱曲を書けばよいかというと、それはそれで聴衆の拒否反応を生むだけだとも言えます。だとすると、「法」に、すなわち耳馴染みのよい音楽を作るためのルールに狡猾にも乗っかりつつ、そこからの転覆の瞬間をしぶとく狙う、それがもっとも見込みのある戦略だと言えるかもしれません。後付けにはなりますが、まさに『さよなら、ロレンス』という曲は、そのようなものであった気もします。
そもそも、四元さんの詩そのものが、(広い意味での)言葉のルールに当たり前のように従っているふりをしながら、そんな誤解に浸って詩を読む者をあらぬ方向へ弾き飛ばす、という戦略に基づいて書かれているようにも思われます。「詩を読みつけない人も一読して面白いと思うタイプの詩」とまとめてしまうと安易に聞こえますが、四元さんの詩の魅力の中には、ある種の計算に基づくしたたかさがあるとも、やっぱり私は思うのです。それともこのような読みは、「絶対無分節」を志向する四元さんの詩作への態度からすると、大きく的を外したものなのでしょうか?
言語がルールにのっとってなされざるをえない実践なのだとすれば、言語と四つに組んで創作活動をする四元さんにとって、このルールはどのような意味を持つのでしょうか。枠なのか、壁なのか、踏み台なのか、足枷なのか、天井なのか。それとも、優れた詩人は言語にルールなどないかのように言語を扱うことができるのでしょうか?
2017年10月19日
ちょうど1週間前は最高気温が30度近くあったにもかかわらず、今日は10度にも満たない東京にて。
vol 11: from Y to M
もう何年も前に、初めてお会いした時にお聞きした(らしい)質問に、改めて答えていただきましたね。
森山さんにとって、音楽は言語であり、作曲という作業は、日本語という言語を音楽というもう一つの言語へ翻訳することなのだと。そしてその翻訳には、元の言語=日本語の詩をどのように読んだかという批評の要素が入っている……。
そして今回新たに投げかけたもう一つの問いかけに対する、明快な回答も。すなわち、「詩とはクィア」であると。クリスティヴァもバトラーも知りませんでしたが、「詩的言語はルールまみれの『正しい』言語=男性的な『法』に基づく言語を転覆する、ある意味「女性的」で革命的なものだ」というくだりには思わず頷いていました。
ルールからの逸脱、意味からの跳躍、言語実験。そのような「転覆」に与えられた名が「クィア」であるという考え方は、『単ぼた』と『小説』を並行して書きながら、口語自由詩における「自由」って何だろうと自問し続けてきた僕にとっては、目から鱗であると同時に、励ましのようにも感じられます。
そうか、詩ってクィアだったんだ。詩人とは、言語的な(時には社会的にも)クィアを宿命づけられた存在だったのだ。そう考えると、いろんなことがストンと腑に落ちる気がするのです。例えば僕の最初の詩集のタイトルのことなんかも。当初は『日本経済新聞への脚注』と呼んでいたのを、出版社に難色を示されて、悩んだ挙句苦し紛れに『笑うバグ』としたわけですが、あの「バグ」とはコンピュータ・バグのこと、そこにはすでにシステムからの逸脱や、体制転覆の気配が漂っていたのだなあ、などと。
実は中国の後でトルコの詩祭に行ったのですが、そこでも詩における男性性と女性性についての話題が出ました。(だいたいこういう議論が一番盛り上がるのは、正式なシンポジウムの席ではなく、移動中のバスに揺られながらですが。)
トルコの現代詩には、古代からの口承歌謡の伝統と、中世のオスマントルコ時代に入ってきたアラビア文字による技巧的な定型詩の、両方の要素を兼ね備えている、という話を聞いたのがきっかけだったかな。僕はそれを受けて、この往復書簡の前便でも書いた、日本の詩歌におけるうた=和歌=ひらがな=女文字の流れと、詩=漢詩=漢字=公的言語という流れとの鬩ぎ合いについて話しました。その一例として、紀貫之の『土佐日記』の有名な冒頭、「男もすなる日記といふものを女もしてみむとするなり」を紹介すると、傍らで聞いていた女性詩人が身を乗り出してきて、中世フランスにおけるトルバドール(吟遊詩人)について語ってくれたり・・・・・・。彼女は南仏トゥールーズに住んでいて、フランス語ではなく、トルバドールも使っていたロマンス語、オクシタン語で詩を書いている人だったんです。
こんな風に見てくると、歌と詩の問題も、決して日本に限ったものではなく、世界各地に共通する人類普遍な現象のように見えてくるし、その問題が現代詩人に直接関わってくることにも納得がいきます。
男と女、公けとわたくし、書くことと歌うこと、精神と肉体、中心と周縁・・・・・・。幾重にも重なり合うそれらの対立項を巡って繰り広げられる闘いと戯れ、引力と反発、交換と転覆。それらを存在の根源的なレベルで行われる「翻訳」=「転覆」とみなすこと。
詩を文芸の文脈ではなく、こういう社会学あるいは文化人類学の領域に置いてみると、なんともいえない解放感を覚えます。まるで文芸雑誌の檻の中に閉じ込められていた詩が、平原に放たれて野性を取り戻すかのような。僕がずっと探していた「自由」の根っこは、このあたりにあったのかもしれません。
(ここで好奇心抑えがたく、ジュリア・クリステヴァとジュディス・バトラーの著作のうち、キンドルで即読めそうなものを注文してしまいました。)
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早速クリステヴァを読み齧っていました。1965年にブルガリアからパリへ出て来た彼女を待ち受けていたのは、ロラン・バルト、ジャック・ルカン、レヴィ=ストラウスなど錚々たる顔ぶれだったのですね。大学の学長がモスクワへ行っている隙を狙って、ほとんど亡命同然にブルガリアを出国した彼女のポケットには、5ドルしか入っていなかったとか。けれども彼女が持ち出してきた最大の手土産は、当時の西側では誰も知らなかったミハイル・バフチンのロシア・フォルマリズム理論であり、カーニバルという観点からの新しい文学観だった・・・・・・。
読んでいて、久しく忘れていた夢を思い出しました。それは言語哲学や文化人類学、心理学、そして社会学などの観点から、詩学というもの複眼的かつ学際的に、けれどあくまでも学問的に問い直してみたいというものです。詩学って、アリストテレス以来(日本だったら紀貫之による『古今和歌集』の「仮名序」以来?)、学問と文芸の間の境界線上にゆらゆら揺らぐ陽炎みたいな存在だったでしょう?それをもう一度現代の知の最前線から捉え直してみたらどうなるのだろう。いまだったら、量子力学や大脳生理学、そして人工知能(AI)の観点も欠かせないでしょう。午前中そういう講義を聞いて、午後詩人たちも交えてお喋りをして、夜には詩の朗読や音楽の演奏がある、そんな詩祭があったらどんなに楽しいだろうと想像してしまいます。いつの日か、ぜひ早稲田大学で実現してみてください(もちろんそこでは森山至貴作曲による、中国語の合唱曲も披露されるのですよ)。
さて、今回森山さんから投げられてきたボールその1:「言語」の持つ拭い難い「言語っぽさ」とは何なのか?どんな時にそれを愛で、あるいは憎むのか?
うーん、難問。でもなぜか、「嘘っぽさ」という言葉が浮かんできました。
言語がないと世界はいつまでも絶対無分節の混沌にあるままで、言語あるがゆえに世界を世界として認識している(井筒先生のおっしゃる「分節Ⅰ」の世界ですね)わけですが、この言語という刀、同じ現実をどんな風にも分節できてしまう。つまりああも言えるし、こうも言える。だからこそ詩なんかも書けるわけで、融通無碍というか、いい加減というか、額面通りに受け取るべきものじゃない。眉に唾つけて聞いたほうがいい。
そこに定型というものの意味もあるのでしょう。言語自体が極めて不定形なものだから、詩歌における定型はそこに輪郭を与える役目を担っている。はっきりとした輪郭を与えられることで、詩的言語は一層のびのびと、野放図に、その無節操ぶりを発揮できる(つまり、分節Ⅱの世界)。これは自由詩についても言えることで、自由詩の場合は、一回ごとにその場限りの定型を仮設しなければならないわけですが。
もっと広く捉えると、日常言語における言い回しや文法自体がそういう枠組みとして機能しているとも言えます。つまり森山さんのおっしゃる「ルール」ですよね。ルールを外してしまうと言語は器を失った水のように毀れてしまうし、陸地に揚げられた蛸みたいにぐったりとしてしまう。ある種の制約あればこそ、自由は際立つ。
現代詩人の中でこのことを一番意識していたのは、この春亡くなった大岡信さんでしょうね。高橋順子さんによれば、彼は独りよがりに実験的な自由詩(つまり「聴衆の拒否反応を生むだけ」タイプの作品です)を「意味の尻尾がない詩」と呼んで嫌悪してたんですって。「意味」そのものじゃなくて、「尻尾」って付くところがミソですよね。この「意味の尻尾」も詩歌における言語活性剤としての制約の一形態じゃないかと思うのです。
来週にはその大岡さんが始めた連歌の現代版「連詩」を、彼を偲んで彼の故郷三島で巻くために日本へ戻ります。連衆は谷川俊太郎、野村喜和夫、覚和歌子、そして大岡亜紀(娘さんです。本職は抽象的日本画家(!))という豪華な顔ぶれ。連詩には俳諧連歌みたいに細かいルールはないけれど、目の前に人間がいる、その人から詩を受け取り、その隣の人へと詩を手渡すという他者との交渉があることに変わりはありません。そこに最大の制約がかかってくる。つまりは人との関わり。それこそ社会的現実の基本であり縮図でもありますよね。そういう縛りをあえて引き受けた上で、いかに自分の歌を歌ってゆくのか?
それに対する一つの答えが、大岡さんの代表的著書のタイトルでもある「孤心と宴」という概念なのだと思います。孤心、その中に閉じ込められた個的で無法図でクィアな言語にとって、宴という「公共の場」はどのように機能するのか。「枠なのか、壁なのか、踏み台なのか、足枷なのか、天井なのか。それとも」・・・・?これが今回森山さんから投げられたボールその2でしたね。三島で、その問いと三日三晩向かい合ってこようと思います。
2017年10月24日
PS トルコは人も自然も素晴らしいところでしたが、昼間はビールもワインも飲めないのが玉に瑕でした。以前はそうでもなかったのに、エルドアン政権下で社会のイスラム化が強化されるに連れて、なんとなく自粛するようになったのですって。夜にはラキアという蒸留酒が供されて皆遅くまで飲んでましたが、それでもおおっぴらにやりすぎると、原理主義的な若者たちが棍棒を手に殴り込みにやってくることもあるとか。そう言われてみると、町中至る所に国旗が掲げられ、建国の祖アタチュルクの巨大な肖像画が掛かっていることにも気づきます。毎年少しずつ、でも着実に頭をスカーフで覆う少女たちの割合が増えてゆく。モスクの尖塔から流れる礼拝のボリュームが、競い合うようにうるさくなってゆく。どれも正式な法律による外からの強制ではなく、「自発的な」現象。でもそれを齎しているのは、明らかに強権的な政治体制。そしてそのような政治構造を可能にしたのは、2007年、2010年、そして今年と繰り返し行われてきた憲法改正だと言われています。
折しも日本では総選挙が行われ、与党が圧勝。改憲が現実のものとなりつつあるようですね。今日のトルコが、日本の近未来図のように見えてきます。もっともその傾向はヨーロッパにも広がりつつありますが。グローバル資本による均一化と、政治的な抑圧の強まる社会を、クィアとしての詩はどう生き延びてゆくのでしょうか?