四元康祐+豊田和司+白島真=細見和之の輪@大阪文学学校⇒神戸新聞
細見和之さんが、神戸新聞の詩集評で僕の新詩集『単調にぼたぼたと、がさつで粗暴に』と『小説』を取り上げてくださった。それだけでも嬉しいのに、もっと嬉しいのは同じ記事のなかに中学一年生からの友人豊田和司の処女詩集が取り上げられていることだ。
『あんぱん』。四月に帰国して初めて手に取ったのだが、まさかこの歳になって彼が詩を書き始め、ふたり並んで新聞で活字になるとは夢にも思わなかった。人生、なにが起こるか分からない。でもこんな嬉しい「事件」はめったにあるもんじゃないだろう。
『あんぱん』に載っているのはどれも平明で、読むものに対して開かれた作品だ。ちょうど届いた「現代詩手帖 5月号」の「大岡さんに教わったこと」という追悼エッセイのなかで、高橋順子さんはこんなことを書いている。
「意味のしっぽ」というのは大岡さんの言葉だったか、ご自分の詩にはそれがついている、というようなことを書いた。もちろん詩を書こうとする計らいを捨てたときには、このしっぽは消えることもあるのだが、最初から意味を切り捨てているような詩には嫌悪感を示されたと思う。私も同感であって、いま大岡さんがお元気でいてくださったら、現代詩はもう少し人びとの側にあるようになっていたのではないか。
豊田の詩にはどれも「しっぽ」がついていて、しっかりと「人びとの側」に立っている。賢く忠実な犬のように。大岡さんが怒り、不機嫌でもあったと高橋さんが伝え、彼女自身もそう思っているらしい「しっぽレス」な現代詩の状況のなかで、そういう素朴な詩は、それ自体で鋭い批判精神を発揮する。
以前は僕も、読者を省みない現代詩のオタク性に辟易するあまり、「しっぽ」のついた詩はただ「しっぽ」がついているというそのことだけで肩を持ったものだ。でも今はもう少しシビアに見るようになっている。コアな現代詩への反動で、過度に情緒的で甘ったるい詩が目立ってきたからだろうか。「癒し」を求める人びとの欲望が、現代詩で満たされない分、その裾野にあふれ出しているという印象だ。そういう詩にもやっぱり「意味のしっぽ」はついている。時に過剰に、時にはクリシェに塗れながら。
どんなに立派な「しっぽ」があろうとも、やっぱり本体がしっかりしていないと駄目だと思う。いやむしろ「しっぽ」があればあるほど、それに抗って意味を超え、単なる感慨や「呟き」ではない「表現」へとテイクオフする必要があるはずだ。そしてそれを可能にするものは、なによりも日本語を操る技術の高さ、その一点に尽きるだろう。
中学・高校時代に時間の経つのを忘れて話し合ったように、一度豊田とそれぞれの作品を前に合評会を開いてみたいものだ。お互い老体に鞭打ちあって、切磋琢磨の研鑽に励もうではないか。
ところで同じ記事にいる第三の詩人、白島真にも、先月初めて会った。場所は大阪文学学校、「第三回びーぐる詩祭」。ひときわ大きな声で自作を朗読している男がいると思ったら、それが白島真だった。さすが絶叫の歌人、福島泰樹の友人である。その集まりに細見さんは京都で開かれていたヘブライ語の勉強から遅れてやってきたが、考えてみれば彼はその文学学校の校長先生でもあったのだった。
なんとなく友達が繋がっていきますね。細見さん、どうもありがとう!
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