三宅勇介インタビュー:AIはどこまで詩に近づけるか(その4)
四元:三宅さんもRoger Penrose (1931年英国生まれの数学者、宇宙物理学者。量子力学の理論を脳内情報処理の仮説に応用した「量子脳理論」を提唱している)読まれてたんですか!実は僕もいま読んでいるところなんです。昨年の夏、意識の成り立ちについて調べていたら、オーストラリアの哲学者David J. Chalmersという人の The Conscious Mindという本にぶつかり、そこから Giulis TononiのPhi(Tononiは精神科医ですが、この本ではガリレオを語り手にして、ほとんど散文詩のようなスタイルで人間の意識の本質に迫っています)を経てPenrose、そこからさらに派生して量子力学の入門書を漁っています。レプトンの二重構造実証でノーベル賞をとったLeon M. Ledermanという人のQuantum Physics for Poetsという本(!)とか。僕の場合はあくまでも自分が詩を書くときの発生装置としての「意識」への興味から出発して、脳理論やAIや量子力学、はては宇宙の起源みたいなところへ興味が発展していったのですが、三宅さんの場合はどんな感じでしたか?
三宅:私は完全文系人間なんで、すべて理解しているわけではないのですが、物理や数学にあこがれみたいなのはあるのです。ペンローズの、「量子力学を脳科学に応用する」なんてよくわからないものの面白いと感じますよね。この理論は現代ではもしかして古典の範疇に入るのかもしれませんし、日進月歩で、人工知能や人工意識の研究は進んでいると思うので、一趣味人の感想には違いないんですが。
四元さんの、詩を書く時の発生装置としての「意識」への興味から、脳科学やAIや量子力学や宇宙の起源への興味につながっていった、というお話、大変興味深いです。四元さんみたいに系統だった感じではないのですが、ぼくがペンローズに興味を持ったのは、日本でもブームになった、スティーブン・ホーキング絡みだったと思います。ホーキングのブラックホールは蒸発するとか、そういう話にSF的に興味を持ったのですが、ホーキングとともに、一般相対性理論が破たんする特異点の存在、ブラックホールの特異点を証明した、という、わけはわからないものの、なんだか面白そうなことをやっている科学者、みたいなところから興味をもったんだと思います。ペンローズのAI理論には最初はあまり興味もなく、へえー、そんなこともやっているんだ、ぐらいな感想しかなかったんですが。昔、なんとなく買っておいた本が後から非常に自分にとって大事になってくるというか、結びついてくる、みたいな体験、四元さんもあると思うんですが、そんな感じです。
ところで、宇宙の起源って言う話が出ましたが、ぼくも同じような興味を持つので共感するとともに、最近興味があるのが、言葉の起源なんです。それが、この後のご質問の「縄文語」とも絡んでくるのですが。いつも不思議に思ってしまうというか、皮肉に思ってしまうのが、現代物理学では、ビック・バンの零コンマ何秒(もっと小さいでしょうが)後のことは解明されているのに、もっとずっとのちに生まれたというか、宇宙の歴史に比べればつい最近といっていいはずの「言葉の起源」に関しては現代科学を持ってしてもわからないという事実ですね。それこそ、その起源に関しては、詩人の感性に委ねられていたというか、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』の、原始人が海をみて「う」と言ったとか、そういう話だったと思うんです。百年前ぐらいでは、パリの言語学会では、言語起源論を禁じていた話は有名ですが、しかし、昨今は、脳科学などの他ジャンルの科学との「コラボ」によって、少しずつその解明がすすむのではないか、とも思われます。これも素人考えなのですが、そして一趣味人の考えには違いないのですが、それこそ、人工知能、人工意識の研究とともに、進むのではないかな、なんて思っているのです。
宇宙で最初にうまれた星、「ファースト・スター」が誕生した経緯をコンピューターをつかってシュミレーションし、示唆した科学者たちのドキュメンタリーを見たことがあります。宇宙の歴史には第一世代の星の存在が不可欠で、ダークマターの周りで「ファースト・スター」が誕生したと。宇宙が今の形になるために、「ファースト・スター」が重要な意味を持つと。
そんなことらしいのですが、ドキュメンタリーでは、日本の物理学者がコンピューターでシュミレーションしながら、星が形づくられるのを示していたと思います。それを見てわくわくしましたね。実は、我が家の愛犬ゴエモンの眠る姿と「ファースト・スター」を重ね合わせた歌が、今回の『亀霊』にもあるんです。笑
眠る犬 最初に生(あ)れたる星よりも先に凝結したる丸みや
自分で自分の作品を解説したら虚子に怒られそうですが、今、私が興味があるのは、「最初に生まれた言葉」、つまり、言ってみるならば、「ファースト・ワード」です。それをシュミレーションで解明することは出来ないか?というのが私の興味あるところです。ではどのようにシュミレーションするのか?
また素人考えなんで、笑って読み飛ばしてほしいのですが、まず、日本語なら日本語で、最初に記録されているところから、現代までの言葉の「変化」を、すべて分析する。それを、言葉のうまれた時代であろうところまで、逆に「変化」をシュミレーションしながら遡るのです。そこに「ファースト・ワード」が生まれるのでは?これがまず三宅流言語学的なアプローチです。笑
次は三宅流心理学的社会学的なアプローチです。人工知能、人工意識の研究で、逆に人間の「心」や「意識」が浮き彫りになるはずです。その「こころ」「意識」の原始の状態をつくる。それが原始的なコミュ二ティーにおいてどのような作用が起こるのか。そこから、最初に生まれた言葉を再現できないか?
最後は三宅流人工知能、人工意識研究的アプローチです。フェイスブック社のAI研究で、AI同士が人間のわからない言葉でコミュニケーションを取り始めた、なんてニュースがありましたね。具体的にどのような事なのかくわしくわかりませんが、それはもう人工知能の段階ではなく、人工意識のフェ―ズだと思われますが、意識と意識がはじめてぶつかり合う場面、これこそが、人間の原始のコミュニケーションの近似なのではないか?AIとAIがはじめて使う言葉こそが「ファースト・ワード」の近似なのではないか?そんな予感がするのです。だから、もしかしたら、最初に発せられた言葉は、「う」ではなく、最初に「意識」を勝ち得たAIとAIが顏を見合わせて(?)にんまり笑い、(悟りを開いたブッダのように)、そしておもむろに、「you got it?」(なんてね。なんで英語だが 笑)まあ、馬鹿な詩歌人のたわごとなんですが。
四元:ChalmersやTononiの本を読むと、AIのようなIntelligence(知能)と、人間特有のConsciousness(意識)を明確に区別していますね。乱暴に言えば、知能とは外界からの作用に対する機械的な反応パターンであって、そのメカニズムは古典的な物理学によって説明できる。たとえばある光の波長が700nm前後であったなら、それを「赤」という色として認識し、日本語の「赤」という言葉で呼ぶ、さらにはそれに連なる概念として「血」や「止まれ!」や「共産主義」といった言葉も召集される、というような一連の反応です。これに対して、意識とは赤いものをみて「赤だ」と感じるその感覚そのもの、「意識のクオリア」と呼ばれるものですね。これは身近なものでありながら、古典物理学ではその存在すら証明できないし、ましてやそのメカニズムは解き明かされていないので「意識のハードプロブレム」などと呼ばれています。これに比べるならば、AIで知能を再現することは比較的「イージーなプロブレム」だというわけですね。知能と意識の違いを説明するために「灰色の部屋のマリー」だとか「ゾンビ人間」などという思考実験もあるようですね。
この知能と意識の違いを我々のこれまでの論議にあてはめるとしたら、どうなるでしょう?たとえば定型など詩を作る上での約束事は「知能」のレベルで対処できるけれど、そこに何を盛り込み、どう取捨選択してゆくかという作業は直接「意識」の領域に関わってくる、よってAIによってそれをシミュレートすることがより困難である、などというのはこじつけが過ぎるでしょうか?
三宅:四元さんが提起された、「意識」と「知能」の違い、凄く明確ですね、わかりやすいです。今まで、たしかに、議論においてすこしごっちゃになっていたようです。でもわれわれが議論してきた文脈において、実は同じ事を言えるのではないか、と思えるんです。というか、この概念でいえば、より今までの議論がすっきりするのではないか。
四元:最後にふたたび三宅さんの人工知能短歌に戻りたいと思います。
焼き鳥の串突きつけて説教をするヒトの目の焦点合はず
その人の目をよく見ればその眼窩ぽつかりとしたる空洞なりけり
焼き鳥の頭部は透けてその脳に人工知能が埋め込めてあり
焼き鳥が短歌を歌へば五七調ならで二進法であるなり
短歌これ二進法で進む時歌やがて縄文語に近づく
これらの歌は、「三宅勇介の振りしたる人工知能による短歌」と題されていますが、実際には「人工知能の振りをしたる三宅勇介による短歌」として作られたわけですよね。具体的にはどのような作業をなさったのですか?そしてそのような作業が「やがて縄文語に近づく」とはどういうことなのでしょう?そもそも「縄文語」って、何なのですか?
三宅:さきほど、「ファースト・ワード」の話がでましたが、日本語の起源というものにも、詩歌という枠を越えて興味があるのです。国語学者、大野晋さんの「日本語の起源がインドのタミル語説」、というのは有名ですが、(日本の言語学界の中では、その説がどういう風に捉えられてきたのか、といった事はさておき、)非常に面白いな、と思うんです。万葉集よりも全然早い時期に成立した、インドの『サンガム歌集』は五七五七七の形式をもっています。大野さんは、日本の五七五七七の由来がそこにあるのではないか、という論文も書いています。また、タミル語にも「係り結び」があったり、日本語の単語との数かずの一致なども非常に興味深いのですが、大野さんは言語学的なアプローチはもとより、タミル語が日本に到着するまでの海路を予想し、その経路の途中と思われる島などにのこる墓の様式などを日本の古代の墓のそれと比べて、考古学的にも調べていた、と記憶しております。また、必ずしも、インドから直接、タミル語が伝わらなくても、その前の共通の祖先語が、途中で枝分かれして、タミルと日本に散らばったと考えてもいいわけですよね。とにかく、真実はともかくロマンあふれる学説だと思います。
もうひとつ、面白いな、と思ったのが、日本人の遺伝子の分子遺伝学的アプローチによる日本語の起源の探究です。﨑谷満さんという方の書いた、『DNAでたどる日本人10万年の旅』という本が非常に面白いのですが、この説も、日本の日本語言語学界で、どのように受け取られているのか、全く定かではないのですが、非常に説得力があるな、と思ったのです。日本列島には様々な遺伝子的ルーツを持っている人が集まっている。つまり、現生人類がアフリカで発祥し、そこから、様々なルートで、日本に祖先たちが辿りついたわけですが、日本人のもっとも分子遺伝子学的に多いのが、D2系統で、これはビルマ・チベットの辺りから西九州の長崎あたりを経て日本に来たとされています。そして、このD2系統が新石器時代の縄文系ヒト集団に由来する、というのが、学界のコンセンサスらしいです。ちなみに、大野さんの説に従い、もし、日本語起源が南からからもたらせられた、とするならば、C1系統の南方系遺伝子を持つ人が多そうですが、どうやらごくわずかのようです。
さらに、騎馬民族の渡来系の弥生人がもともと日本にいた縄文人を駆逐した、ような印象を与える、江波さんの騎馬民族征服王朝説な感じではなく、もっと温和に、渡来系の弥生人と縄文人は融合していったらしいのですが、今、われわれが使っている言葉は、渡来系弥生人の母語である、オ―ストロアジア系ではなく、先住系縄文系社会で使われていた言葉だというのです。これにはびっくりしました。どちらかというと、今の日本語は弥生語なのではないか、と思っていたものですから。そして、原初の日本語は、長崎を経てD2系統が入ってきた事を考えると、古代長崎語がもっとも縄文語に近い、というわけです(長崎弁ではない)。めちゃくちゃ面白くありませんか?この説に触発されてつくったのが、「縄文語による短歌」です(ちなみに、大野説に触発されてつくったのが、「サンガム歌集カリットハイ九〇番に捧げる短歌」です。)また、違う研究ですが、で、日本語の起源がアイヌ語にあるのではないか、という説もありますよね。それに触発されてつくったのが、「機織りの神」です。それを全部混ぜあわせちゃったのが、「神代文字による短歌」です。笑 もっとも言語というものは決して混じらないそうですね。基本となる言語が基層にあって、それに乗っかっていく、というものなんだそうです。
スティーブン・ミズンの『歌うネアンデルタール人』や、『心の先史時代』などの、認知考古学の本も面白いです。ネアンデルタール人は言葉を持たなかったそうが、でも、今、ぼくが野心を持っているのは、矛盾するようですが、「ネアンデルタール人が短歌を作ったら?」という事を再現することです笑。
さて、四元さんの質問に戻りますと、縄文語とは、日本語の詩型の祖先とは?という事は大体今述べた感じなのですが、「ファースト・ワード」のところでも述べたように、これからは、日本語の起源を探る、という事に、AIや人工意識の研究がリンクしてくるような気がしております。
「三宅勇介の振りしたる人工知能による短歌」は、これまでの流れでいうと、「知能」ではなく、「意識」が必要そうですね。逆に、「人工知能の振りしたる三宅勇介による短歌」は、演算処理をスーパーコンピューター並みに持った三宅勇介による短歌、ということになりますよね。笑 どのように作業したか、というと、「AIとコラボして作った」と言いたいところですが、すみません、普通に三宅勇介がつくりました。笑
話は変わるのですが、今回、四元さんとのいろいろAIを問題提起にしながら日本語の詩歌について対話してきましたが、これ、21世紀における自由詩と定型詩についての新たなる議論だったのではないか、と感じております。
たとえば、戦後においては、塚本邦雄が大岡信と、岡井隆が吉本隆明と、短歌と詩について議論したりしましたね。
また、20世紀の俳句における主な議論は、定型か非定形か、季語なのか無季なのか、という議論だったと思いますし、短歌においては、定型か非定形か、文語か口語か、という議論だったと思います。しかし現在、定型非定形論は影をひそめ、俳句においては、有季定型、短歌においては、文語、口語の使い分けはあるものの、定型は揺るがないように見えます。
そうした中で、今回、AIを通して、一面において、新たなる「定型非定形」詩議論ができたと思っております。今後の議論につながれば、とも思います。
最後に、詩歌の枠を越えて声をかけてくださり、詩歌に関して、さまざまなヒントや示唆を与えてくださった四元康祐さんに改めて御礼申し上げます。
(果たしてこれで本当に終わることができるかどうか・・・・)
AIインタビュー前回分はこちらから
https://note.mu/eyepoet/n/n537e5d953576/edit
こちらの jpr News もご参照ください
三宅勇介:Yusuke Miyake 1969年東京生まれ。
『亀霊』しろうべえ書房
http://shirobeeshobo.wixsite.com/home1/hon
『棟梁』本阿弥書店
http://store-tsutaya.tsite.jp/item/sell_book/9784776806462.html
『える―三宅勇介歌集』
http://sunagoya.com/shop/products/detail.php?product_id=436
#三宅勇介