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ルックバック、現実とフィクション、近代漫画の夜明け

仕事でイラつき過ぎて気付いたら全員殺していたなんてことになりかねない状況なので、心を落ち着かせるために文学のことでも考えよう。

タツキの読み切りを読んで、今村夏子のピクニックを思い出した。いや全然違うんだけど、こういうのは日本人にしか描けない創造と破壊だ。ということ。

私は、史上最悪の文化テロへの明確な怒りと、それはサブテーマとは言わんばかりの、絵、設定、関係性、キャラクター、時間の進め方、コマ割り、その十全十美の仕上がりに、ただ冷静に、驚いた。
Twitterで、「現実のある事件に即しているとかいう考察ムリ」みたいな意見が散見された。え、そうなんか…。
フィクションは、常に現実とフィクションの間を彷徨っている。フィクションを通してフィクションを描きたいか、フィクションを通して現実を描きたいか、というのは作品により異なるが、ルックバックは明らかに後者だろう。君の名は。がそうであったように。日本には、こんなにも解像度の高い、フィクションを通した現実の描き手がたくさん居るのに、大衆にはそれが「ムリ」な人も多いようだ。バカなジジィに、君の名はと3.11の話をしたら「そういうんじゃないんだよ!」と怒られて話を遮られてから、私はそういう人との向き合い方を考え直したけれど、まあ普通に、考えたくないのだろう。考えることを辞めてエンタメを楽しみたいのだろう。わかるよ。現実を見たくない気持ち。うそ。全然わからないけど、わかることも可能だよ。でもあなたたちみたいな人がこれ以上増えたとき、文化は死ぬ。文化が死ぬ時は人が死ぬ時なので、人も大量に死ぬ。

でもさあ、もう日本の漫画文化って、サブカルチャーの1つに数えるようなものでもないという領域まで来てない?浦沢直樹とか、浅野いにおとか、水城せとなとか、東村アキコとか、少なくともこういう人たちは、漫画文化の底上げを意識的に行ってきて、そしてそれは受け手の啓蒙という意味においても成功してきたし。先人たちが作ってきたそういう歴史の流れの中でのルックバックは、近代漫画の夜明け的存在だ。(ここでいう近代とは、平成中期〜後期くらいの…) 
そしてそういう意味では『ルックバック』は横光利一の『蝿』であり遠藤周作の『沈黙』であり今村夏子の『ピクニック』であった、ということ。完璧すぎてウケちゃうくらい完璧だった。その偉大さに、少し、泣きました。





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