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秋の和歌紹介

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に続き秋の歌を紹介していきましょう。百人一首から!


吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ
詠み人:文屋康秀(ふんやのやすひで)
現代語訳:山から秋風が吹くと、たちまち秋の草木がしおれはじめる。
なるほど、だから山風のことを「嵐(荒らし)」と言うのだなあ。

漢字遊びも取り入れた面白い歌。小野小町の恋人であったと言われる男です。「むべ」は「なるほど」という納得の意味。「なるほど嵐はだから"荒らし"というのだなあ」というのと、「山嵐を「嵐」という漢字で表すのだなあ」、という二重の意味にとれます。歌合で発表された歌だそう。こんなの来たら勝てませんね。嵐が来て季節が変わっていく様子を、秋の歌にしては珍しく激しめに表象しているように感じます。秋は寂寥感溢れる抒情的な歌が多くなっていく中、私はこの歌の激しさが好きです。激しい人って、面白い。紅葉や夕暮れや月に想いを馳せるのではなく、嵐に想いを馳せる。確かに私も、秋は台風の季節だと思っている所があります。台風がやってくる毎に、どんどん寒くなっていく秋から冬の移ろいを感じ呆れるような気持ちになります。

月みれば ちぢにものこそ かなしけれ わが身一つの 秋にはあらねど
詠み人:大江千里(おおえのちさと)
現代語訳:月を見ると、あれこれきりもなく物事が悲しく思われる。私一人だけに訪れた秋ではないのだけれど。

「ちぢに」というのは「千々に」で、さまざまに、という意味。その後の「一つ」との対比になっています。本当は「わが身一人の」となる所を「千々に」と照応させるために「一つ」としています。対比、というのも歌に奥行きを持たせるポイントですね。この句も、上の句と同じ歌合で発表された歌だそうです。白楽天の「燕子楼(えんしろう)」という詩を踏まえて作られた歌です。秋は寂しさの象徴。秋の歌は春の歌とは違って、なんだか色々小洒落感を句に入れる余裕もなく寂しさを全面に押し出した句が多い気がします。それほど、平安貴族たちにとって秋は憂いの季節だったこと。平安時代というのはシステム上、自動総メンヘラ製造時代ですので基本的に皆感傷的なのですが、秋はまた一層すごい。でもそれは現代でもあまり変わらないような気がします。気候が人の情緒を左右する。基本的に寒くなっていくと人はメランコリックになる。これは当然のこと。真夏にメランコリックになったとしたら、それは効きすぎている冷房のせい。と私は思っています。

きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む
詠み人:後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)
現代語訳:こおろぎが鳴いている、こんな霜の降る寒い夜に、むしろの上に衣の片袖を自分で敷いて、独りさびしく寝るのだろうか。

衣かたしき、とは、「衣片敷き」で、平安時代は、男性と女性が一緒に寝る場合は、お互いの着物の袖を枕代わりに敷いていました。「片敷き」は自分の袖を自分で敷く寂しい独り寝のこと。うるさいですね〜。彼らが毎日1人で寝ている独身の我々の寝床を見たらひっくり返るくらい寂しく感じるのでしょうか。どうかひっくり返らないでくれ。
最近、眞子さまと小室圭の話題で本当によく「生まれが」「血が」「皇族が」みたいな話がされがちだけどさ、千年前の貴族たちがコレなのに、今更何が血統ですか?何が生まれですか?平安貴族って全員あまり品がなくて狂ってますが?と思います。皇族だからって/皇族と結婚するからって血の一滴まで純粋無垢じゃなきゃいけないの?怪しい人と結婚しちゃいけないの?平安貴族がコレなのに?と思います。暴論だけど、そう思います。みんな暴論なので。小室圭さんのことを考える前にみんな一回平安貴族について考えて心を落ち着けて欲しい。






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