見出し画像

芥川龍之介『羅生門』プレゼン

全国民が読んでいる純文学の一つといえば、芥川龍之介『羅生門』だろう。

何故かというと、高校の教科書に載っているからである。私の知り合いで近代文学に興味の無い…というか純文学が「わからない」という人が、「『羅生門』が大嫌いだ。なんか急に仕事をクビになった男が老婆を襲って追剥ぎして突然終わる。何が面白いのか。あれを教科書でやって何の意味があるのか。」と冗談交じりに毒づいていたのが印象的だった。私は小さい頃から文学が好きで、文豪が好きで、純文学とはなんたるかを考えて生きてきたため、そんな発想には至らなかった。しかし恐らく、クラス40人同じ『羅生門』の授業を受けていても、私のような者の方が少数派であろう、とその時気付いた。なので多くの人は『羅生門』を初めて読んだ際の感想を「は?」の一言で終わらせる可能性が高い。そして興味も無いため人生の中でその後も特に『羅生門』を追い求めることもなく、死んでいくのである。しかしそれでは良くない。『羅生門』が何故凄いか、何故名作と呼ばれるか、何故『羅生門』を高校生に読ませる必要があるのかを、もっと国民は知らなければならない。そして人は、『羅生門』のことを人生の節々で振り返る必要がある。
今回は、なるべく純文学が苦手な人にも読んでもらえるよう、ポイントを2点のみに抑え、日本人に最も読まれている純文学のひとつ『羅生門』のプレゼンをしていこうと思う。(普段から文学に傾倒している人にとっては当たり前のことばかりを書いていくのでご注意願いたい。)

羅生門のココが凄い

①「門」という舞台

これが秀逸である。『羅生門』 は羅生門という門の下が舞台になっている。

ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。

これが有名な『羅生門』の書き出し部分である。
広い門の下に、下人の男1人、そして後に登場する老婆1人。門という舞台に、登場人物はこれだけである。主人公の下人が明日を生きるために悪事を働くか否かの境界。善と悪の境界。そして「暇を出された」下人の生と死の境界。そして今日を境に人生が一変したという昨日と今日の境界。明日へ繋がる境界。この作品は多くの境界の物語なのである。それを表現するため門という舞台を用意した芥川の、一見平凡な非凡さ。文学表現はもとより、小説で舞台が作品そのものを表現しているということが素晴らしい。

②道徳教育台無し

この作品で描いたテーマとして一般的なのは、「生きるために犯罪を犯す人間のエゴイズム」だが、果たして高校生の教科書に載せていいものなのかという疑問が残る。我々は小学校からの飽きるほどの道徳教育で、散々悪事を働いてはならないことを教え込まれる。たびたび、教師たちは「どんなことがあっても」悪事を働くことはダメだと言う。しかし、『羅生門』では主人公が生きるために悪事を働く。私は高校生当時、この点に衝撃を受けた。気持ちが良かった。今までの道徳教育台無しの、欲まみれの悪の世界が教科書に載っていることに。老婆も悪事を働いていると知った瞬間、下人は悪事を働く「勇気が出る」。そして引剥に至る。決してこの犯罪は正義だという風には描かれていない。しかし、老婆は、卑しく、醜く描かれる。

すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。眶の赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。その時、その喉から、鴉の啼くような声が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。

というように。私は、老婆のモデルが芥川の育ての親、伯母のフキ説を支持している。芥川を溺愛するあまり、芥川の当時の大失恋の原因となってしまった伯母への憎しみを『羅生門』で描いたという説だ。ここまで老婆を醜く描くのも納得がいくからなのだが、そうでなくても、醜く卑しい、自分勝手なエゴイストを下人が襲う、という構図が存在する。先程の説をイメージするとわかりやすいと思うのだが、自分にとって醜く憎しい、しかし離れがたい誰かを、酷い目に遭わせてやりたいという欲望を持つことは、誰にでもあり得ることだ。そういう時、多くの人は我慢したり、他のことでストレス発散するところだが、芥川は『羅生門』を書いた。

こんなことが信じられるか?と私はいつも思う。焦る。
いくらなんでも鬼才過ぎる。芥川は人呼んで鬼のような天才、鬼才だが、『羅生門』にも芥川が鬼才たる所以を見出すことができる。
もし自分が作家で、行き場のない苦しみ、憎しみ、どろどろした体内の膿を表現するとき、門を舞台にして下人が追い剥ぎをする話は書かない。しかし芥川は書く。完璧に無駄のない表現でキメる。一文一文考察の余地があるくらい、洗練された文章で。

芥川のこととなると少々取り乱してしまうのでこれぐらいにするが、大きく言ってこの2点が私が今推したい点だ。この2点に注目しもう一度作品を読むと、感想は「は?」ではなくなるかもしれない。青空文庫でも読めるので、是非読み返して欲しい。

#文学 #日本文学 #純文学 #読書

いいなと思ったら応援しよう!