少女漫画、虚構と現実のバランス論①水城せとな先生編

水城せとな先生が漫画の中で我々に現実を突きつけ始めて久しいが、天才漫画家たちは常に、虚構(ファンタジー)と現実のバランスの取り方が素晴らしい。

よく考えれば水城せとな先生が漫画で現実を突きつけてきたのは、結構ずっとだったかもしれない。以下は私が読んだ順番も可也関わっている。

放課後保健室…これは希望で終わった。虚構だった。完全な現実ではなかった。水城せとなという作家を知るきっかけだったこともあり、ちょっと本当にかなりの衝撃作ではあったが、まあ虚構だった。


窮鼠はチーズの夢を見る・俎上の鯉は二度跳ねる…これもまあ虚構だった。限りなく現実に近いが、結末には希望・願望の全てがそこにあった。(だから、かなり良だった)

失恋ショコラティエ…これは完全に現実だった。もし虚構ならば、サエコさんは旦那の子供も身籠もらず、離婚をして、ソータくんと結ばれる。このあたりから、「あれ…?」という気持ち。

脳内ポイズンベリー…キターーーー!水城せとな(敬称略)、完全に、虚構を描くということ、辞めてるーーーー!!!「はーーーい、淑女たち、これが、現実の全てでーーーす!」ドーン!!!みたいな。脳内ポイズンベリーの最終回の最後のコマ、今まで少女漫画読者人生長いけど、あのコマがあるか無いかで人生変わる衝撃。読んだ後、私も「フー、まあ、なるほどね、まあね、そういうパターンね」みたいな態度で居ましたが(ワンルームに1人で)、内心「え…?今の何…?嘘…え、今の、何…?」と思い、そして今でもたまに、「脳内ポイズンベリーの最後のコマのことを思い出して放心状態になる時間」、あります。これは、只の「どんでん返し」とかでは無いわけです。

一応失恋ショコラティエや脳内ポイズンベリーを掲載雑誌の分類に依り少女漫画という位置付けにしておきますが、少女漫画、少女、オトナ女子という読者層を想定して描かれる漫画というのは、セオリー、パターンがかなり明確にあり、その通り、読者の想定通りにいく、ということが少女漫画を読む醍醐味で、欲を満たしてくれる気持ち良い瞬間で、たまにある「どんでん返し」もセオリーの内の大喜利の1つだったりするわけで、どんなに設定や登場人物が変わっていたとしても、「ああ、この作品も、最終的には、セオリー通りで、良かった〜」とホッとして終わる。これが少女漫画、下手すれば漫画という名の付くものの全てが担ってきた役割なわけですが、『失恋ショコラティエ』くらいから、水城せとな先生の作品はこの役割を大きく逸脱している。今現在だって、『世界で一番、俺が○○』という、1巻からセオリーガン無視の、「今まで世界に無かった」漫画を描かれておられます。

他に虚構と現実のバランスという点で見てみよう。

と、思ったが、長くなりそうなので、分けます。

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