タコピーの原罪と幸福論と現実逃避
以前、「幸せの話より平和の話をしてくれ」という記事を書いたが、最近それと似たようなことを考えた。
『タコピーの原罪』について宇野常寛が「人生にしか興味のないバカたちの話だ」ということを言っていて、(ほんとうに、そうだ)と思った。宇野常寛のアニメ・漫画評論には毎回(ほんとうに、そうだ)(ほんとうに、そうだなあ)としか思えないので、今回も通例通りだったことはさておき、タコピーは確かに、「宇宙人に出会ってるのにそんなことより毒親と自分の人生?」「すごく面白い道具を手に入れたのに、そんなことより自分の人生?」「センスオブワンダー1つもなし?」ということ。「虐待されているから、子供だから人生にしか目が向かないんでしょ」というけれど、「それは子供の想像力を舐めすぎている。子供だからこそ、虐待されているからこそ逃避するということが無視されている。子供だからこそ今抱える自分の家庭問題の根本解決より、宇宙人やひみつ道具に集中が逸れる。同時にそれが可能性であるのだ」と。
虐待や学校での犯罪被害は重大で、宇宙人やひみつ道具に逃げている場合じゃない。賢い子供ならそのことを理解しているはずだ。それも理解できる。けれど今我々があーだこーだ言いたいのは「現実に同じことが起こった場合、どうか」という検証の話ではなくて、あくまでフィクション論からヒトの営みを考えることだ。
確かに、「人生にしか興味のない人」というのはたくさんいるなあと思う。
私は、「女性の幸せ=結婚・出産 っていう風潮乙」
とか、「幸せの定義なんて人それぞれで…」
とか、もちろん思うけど、いやあそれより何よりそもそもそんなことにあまり興味がない。幸福論に興味がない。
自分が果たして今幸せか?他人は今幸せか?に、他所の人ほど興味がない。これは現実逃避か?
自分が今幸せかどうかより、ロシアの情報統制とか、パレスチナ問題とか、バンクシーとか、天皇制とかの方が興味がある。これは現実逃避か。
幸福論に興味がないから、文学部に入った。幸福論に興味があれば、経済学部や法学部を選んだだろう。
文学部に入って、文学のことばかりを勉強するのかと思いきや、授業では、ベラスケスのラスメニーナスを観た。相模原障害者施設殺傷事件をやった。沖縄問題をやった。ジブリ映画や、ディズニー映画をたくさん観た。そしてそれから、漱石や、鷗外や、志賀をやった。
そこにあるのは、幸福論などではなかった。人間がなぜ人間か、どこからが人間でどこからが人間ではないか、誰だったら殺して良いか、誰も殺してはいけないか、誰がそれを判断するのか、今見えているものは一部なのか全部なのか、なぜオイディプスは父親を殺したか、武士道とは何か、人文科学とは何か、なぜ人が書いたものを読まないといけないのか、とかの話だった。
文芸は、決して幸福ではない。そして意外なことに、不幸でもない。その、外側にいる。
太宰とか不幸を描いてるじゃんて感じかもしれないけれど、太宰は不幸を描いていると言えるか?太宰の作品はどちらかというと悲劇より喜劇だ。太宰に限らず他の厭世的な小説だって、所詮はただの小説なのだ。小説という枠組みさえあれば、その中では人は薬物中毒になっても逮捕されても不倫をしても切腹をしても気が狂っても良い。単なる創作なのだから。小説の素晴らしさとは、法律の中で生きられない人、医学の中で生きられない人、経済の中で生きられない人も、小説の中では生きられるということだ。
(それが作家自身の虚実の境を曖昧にし、「単なる創作」の枠を超えたことは、また別の論点だ。)
そしてそれは、個人の人生がどうとか、幸福がどうとかを超え、社会の変革や、時代の象徴になってゆく。
創作という現実逃避を通じて、痺れるような現実を体験することが出来得る。
人生以外にも楽しいこととか面白いことってたくさんあるよね。現実逃避を舐めてはいけない。自分の人生の現実のことしか考えていない人間には、『こころ』の先生が何故死んだかこれっぽっちもわからないのでしょう。一生をかけても、眞子さんがなぜ小室圭さんと結婚したかわからないのでしょう。