文学が何故「役に立つ学問」か

大学の時の恩師が、

「そうすることで実際に権力が動かなくても、社会で起こっている全ての“おかしなこと”に疑問を持つこと。出来ればそれを発信すること。それが、人文科学の使命なのです。ここに意味があるのです」

授業でこう言っていて、ああ、この言葉が全てだと思った。これで過不足無い。文芸がやって来たこととやっていくことはこういうことだ、と言える。

経済、法、天災、戦争、病、生死。この世に絶対に存在する「どうしても抵抗し難い何か」に対してどう向き合うか?その手段として文学は非常に有効である。手段の一つとして世界的に一般的なのは「神」である。しかし、日本では「神」は一般的ではない。古来より文字や文化が隣国とは一線を画した形で独自に発展してきた日本の要因の一つではないか。「神」が一般的ではないと言うより、絶対神が居ない、と言った方が近いかもしれない。絶対的な信仰対象が居ない場合、人間には他の何か「絶対的なもの」が必要になってくる。それが音楽であり、文学であり、踊り、絵画、彫刻であったかもしれない。文化/芸術と呼ばれるこれらは、「神」の代わりになり得てきたのだ。自分のちょっとしたストレスや「抵抗し難い何か」へ向き合う方法として、芸術は余りにも当たり前に人類の選択肢の一つになって来たのだ。わかりやすく言うと「話を聞いてくれる相手」のようなものだ。しかし、24時間365日一緒に居て只静かに頷くだけで話を聞いてくれる神のような人間は居ない。ほぼ不可能だ。しかし、文学等の芸術は定点的に「話を聞いてくれる相手」になり得る。文学に絞ると、一人暗い部屋の中で咽び泣いている時も、ふと文庫本を取り人が書いた物語を読むことで浄化され救われる。人と寄り添える。少しだけ、孤独ではなくなる。愛する人を喪失した時どうすれば良いのか。村上春樹『ノルウェイの森』を読めば良い。物凄く簡略化するとこういうことである。芸術はこのように人間が生きる上で絶対に必要なものなのだ。

そう考えると、ある時はインフラより必要なものなのだ。これをわかっていない人間が多過ぎる。「文学が何の役に立つか」「意味が無い」等と言う発言は、上記のことが当たり前にわかっていれば出てこない筈なのだ。がしかし、未だにそういう旨の発言をする人間がいる。毎回驚く。文学部廃止が文科省で唱われていた時期、またある教授はこう言った。

「文学部廃止なんて何を考えているんでしょうか?
古来から人に何が起こり、何を思い、どんな感情になり、どういう行動を起こしたか、人々がそれをどのように表現してきたか。そのとんでもない記録の数々を研究し、一語一語から膨大な情報を読み取り、咀嚼する。世の中で一番必要な学問ではありませんか?」

全くその通りである。有用性が無いわけが無いのである。そしてこれはSNS上の「わかりやすい文章」ではあまり意味がないのだ。純文学のように、複雑で、1日かかっても、下手すれば何十年かかっても断定し切れない、理解に時間のかかる文章。しかし作品として成り立つ美しい文章。そういうものを読み、抽象を具体にし、永遠と悩み、想像力を養い、心を豊かにして、自らや家族や他人と向き合う。こういうことが全員出来れば、人間はしょうもない嘘をつくこともない。暴力を振るうこともない。凄惨な殺人事件を起こすこともない。

学問とは、ただむずかしき字を知り、解げし難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦よろこばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴とうとむべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬たとえば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言もんごん、帳合いの仕方、算盤そろばんの稽古、天秤てんびんの取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。福沢諭吉『学問のすすめ』

福沢諭吉は明治の初めにこう言ってこれはベストセラーになった。経済的成長が急がれる当時の日本ではこれが支持されるのは当然のことだ。これは間違いではない。

自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わなくてはならないでしょう。夏目漱石『こころ』

しかし、漱石は『こころ』でこう書いた。現代=明治(近代)である。近代以降人が自由の代わりに手に入れた淋しみ。そうして引き起こされたKの自殺という大事件。まだ文壇の社会に於ける地位が非常に高かった当時の日本で国民作家・漱石の『こころ』が示すこと。(『こころ』は新潮文庫版で2016年までで700万部を超える発行部数、作品として「日本で一番売れている」本らしい。)
文学は、弱き者や弱っている者に寄り添うことで、社会への態度を主張する分野なのだ。

だからこそ、市場経済第一に考える人々は、この「物事をお尻から見る姿勢」にイライラする。それもよくわかる。
「日本にカジノを作って、税収入などで国家や地方自治体への新規財源の創出や赤字国債の削減による財政健全化を測ろう!」
「ギャンブル依存症問題が…」
「そういうことを話しているんじゃない」
単純に言えばこういうことである。しかし、この態度をとる人間が居なくては第二次世界大戦や水俣病の二の舞なのである。物凄く単純に言うと。事態はもっと複雑だが…

文学の意味や有用性が見直されている。そんな中こういったことを「知らない人」「考えたこともない人」が大人にも多いことに、大人になって吃驚しているので、書いてみた。

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