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君と見たはずの公園の星は見えなかった 第2話「記憶の檻」
闇の中に一筋の光が見えた。
僕はその光に手を伸ばすが、足元から伸びる黒い影がその光を飲み込む。
「……助けて!!!」
自分の叫びが耳元に響いた瞬間
君野の意識は闇に引きずり込まれた。
ハッと息をつきながら
僕は目を覚ました。汗で濡れた髪が額に貼りつく。
胸を押さえながら、彼は悪夢の感触を振り払おうとしたが、一体夢で何をみたのかは覚えていなかった。
「はあ…はあ…変な夢…。」
じっとりとした汗が僕の体を不愉快にする。
けれど、その声も内容も霧がかったように思い出せない。ただ、胸の奥にじっとりと張り付いた恐怖だけが残っていた。
「なんかすごい寝癖…。」
手櫛で髪を整えようとしたが、無駄だとすぐに諦めた。
鏡に映る自分はひどい有様だ。
右側だけ爆発したようなバリバリの寝癖が謎の芸術性を生んでいる。
部屋の窓から差し込む朝日が眩しい。
外では小鳥のさえずりが響いている。
現実に戻ってきたと受け入れるとその恐怖もスっと消えていった。
薄暗い部屋の中は、まるで時間が止まったようだった。
床には脱ぎ捨てられた制服のシャツや靴下が無造作に散らばり
机の上は空になったペットボトルや開けっぱなしの教科書で埋もれている。
引き出しから半分はみ出したノートが無惨に折り曲がり
その上に置かれたコンビニのレシートが風に揺れた。
母親任せのその部屋だが
勝手に物が移動し場所が全くわからなくなると身勝手にイライラしてしまう。
とりあえず、部屋を出て顔を洗いにいこうと、2階から玄関に続く階段をおりた。
居間を通り過ぎようとした時、
それに続くドアの透明なガラスの小窓から
何やら見かけないセーラー服の少女を発見した。
僕は思わずそこから顔を出し、何事か?と覗く。
「あらおはよう。君野くん。」
「おはよう…誰、ですか?」
キッチンの前にある食卓テーブルに座る
眼鏡で黒髪で、一つ結びの三つ編みの少女。
母親と仲良さそうに話していたようだ。
こちらに優しく微笑している。
見た目は地味だがかわいい女の子だ。
「やだ吉郎(よしろう)。またそんな寝ぼけたこと言って!早く顔と歯を磨いてきなさい!」
「…うん。」
母の言葉に大人しく従う。
あれ?僕、なんかまた忘れてるのかな…。
洗面所に向かうと、
歯ブラシにミント系のクリームを塗って咥えた。
キッチンの楽しそうな2人の話し声が水回りのこの部屋にも聞こえてくる。
今日から転校してくる知らない従姉妹とか?
でも、僕が彼女を知ってる前提で話していたような…。
いくら考えてもその子が誰なのか、検討もつかなかった。
とりあえずこの格好は、恥ずかしい。
と、寝癖を整え君野は部屋に戻って半袖の白いシャツに黒い制服ズボンを着込んだ。
母が日課の庭の園芸いじりに戻り、僕は改めてその女の子と向かい合う。
パンを焼くトースターがチチチチ…と静かな音を立て
リビングのテレビでは情報番組のミニコーナーの占いが流れている。
僕がパンをトースターから途中で取り出そうとした瞬間
その子は先にそのつまみを「0」にもどし電子レンジの稼働を止めた。
僕が驚いていると
「ちょうどいつもここで止めるよね。」
「あ…すごいね。」
そして流れる作業で
まるで僕の専属メイドのように食卓の真ん中にあったハチミツの蓋を開けて
僕のパンにかけてくれる。
僕はたまに、パンにふりかけをかけて食べるが
今日ははちみつの気分と、なんでわかるんだろう。
「勘?」
「ううん。今日ははちみつかなって。それに、今2枚目たべるなら気分は「のりたま」かなって。」
「すごいね…それ、なんか占い?」
「違うの。私あなたの恋人。ここに毎日のように来ているから知ってるだけ。」
「ほいひほ!?」
僕はパンを咥えたまま驚く。
しかも、え?毎日?
「え、でも…。」
「君野くんはなぜが私のこと覚えられないみたいね。ほら、4月の事故が影響しているのかなって…。」
確かに、あれから酷い物忘れやど忘れ、記憶障害は多い。
それは2ヶ月前の4月の終わりの出来事。
僕は何回言われても
このとんでもない事故のことを忘れてしまっている。
この「忘れてしまっている」というのは、
事故そのモノのこと。そして母親からその後、何回も事故の話を聞いているらしいが
それがなかなか覚えられない。
その事故は確か…僕が誰かの家に遊びにいって2階の欄干から一階へ落ちたって話。
そのせいで僕はこの学校に入った目的のサッカーとその未来を失った。
だから、過去の記憶も何も覚えてない。
覚えてないながらも、周囲の期待の声からするに失ったものの大きさは計り知れないというのがわかると、
ひどく落ち込んで一時期は自分を見失っていた。
でも、それもなくなってくると記憶がないことが今
その克服につながっている気がする。
変に今あったらまだまだ鬱になっていただろう…。
いや、それより
「恋人なの?本当に?僕じゃあなんで…。」
いくらなんでも人一人の存在を忘れてしまうなんて、そんな話あるだろうか…。
彼女はニコニコと笑っている。
ストーカーなんて物騒なことは僕に限ってないはず。
お母さんとあんなに親しげに話していたし…
きっと僕の頭がまだおかしいだけなんだ。
「嬉しいよ。僕に恋人がいたなんて。忘れちゃっててごめんね。」
「ううん。いいの。だって君野くん毎回私を好きになってくれるから。」
その言葉に顔が火照る。僕、今ラブコメの主人公みたいだ。
「行ってらっしゃい!」
母に見送られ、僕たちは仲良く歩きながら学校を目指す。
桜谷さんは本当になんでも僕を知っている。靴をどっちから履くのかも、靴を履く時靴べらを使うのも変な言い間違えも…。
過去のことは何も覚えてないけど僕って幸せだったんだな…。
そんな風に思いながら、登校しているととある公園に差し掛かった。
「君野くんはさ、昔の自分のこと覚えてない?」
「うん…。覚えてない。」
「そっか。じゃあここは?」
と、一つの小さな公園に通りかかる。
「私たちが出会った場所よ。」
「ああ、さっき朝の会話の中で言ってたところだね。」
「うん。でも、ほとんどの遊具撤去されちゃって。その頃とはもう見る影もないの。」
君野はその公園を見渡す。
広さの割に、遊具が所々取り除かれたように設置されている。
まるで今の僕の記憶力のようだ。
桜谷さんが言うに僕たちは小学一年生の頃初めてこの公園で出会ったらしい。
でも、そこから特に感じることはなく、
漠然と、小さい子なら大きく見える遊具と公園だと感じただけだった。
「昔はね、ここにツルツル山があって、助走をつけて走らないとその上に登れないドーム型の遊具があって、君野くんと一緒に登ったのよ。」
と、桜谷さんが今日イチのテンションで語る。
彼女はもっと小さな少女になりきったように
そのまま公園の中に入り、フェンス近くの一つのベンチに座った。
「それにここのベンチ。私と君野くんの薔薇の思い出の場所よ。」
「薔薇の思い出?へえ。ここでどんなことをしてたの?」
「私がここで泣いていた時、君野くんが雑草の花束を持って私に声をかけてきたの。君野くん、なんて言ったと思う?」
首を傾げる動作をする。桜谷さんはニコッと可愛らしく笑い
身振り手振りで説明してくれる。
「笑顔の君にこの花は似合うと思うんだって言ったのよ。」
「あ、桜谷さん学校遅刻しちゃうよ。」
「そうね。いきましょう。」
桜谷さんがベンチから手を伸ばしてくる。僕はその手にドキッとして一緒に手を繋いだ。
なんて幸せなんだ。
なんで僕は彼女に会うまでひとりぼっちだと思い込んでいたんだろう…
しかし、桜谷さんの僕との思い出話はこれだけでは終わらなかった。
その後も歩きながら、昔の僕は駅前のリンゴジュースが好きだったとか、昔の僕はこの音楽が好きだったとか…これでは僕の過去のガイドツアーだ。
今の僕の話が一切出てこない。
「ねえ見て君野くん、あのお菓子屋覚えてる?昔一緒に…」
「あの!僕も質問していいかな?桜谷さんって何が好きなの?」
なら質問するしかない。でもきっと今の僕を知っていけるなら彼女の執着もなくなるはず…
「そうなんだ。薔薇が好きなんだね。でもなんで好きなの?」
「君野くんが今度薔薇をプレゼントするねって言ってくれたから。」
「それはいつの話?」
「雑草の花束をくれた時。」
「そ、そっか…。」
僕は頭を抱えた。
でも、教室の現実は僕にもっと厳しい。
サッカーができなくなった僕に、桜谷さん以外仲良くしてくれる人がおらず腫れ物扱いだ。
友達を作るのが遅れたのと、まだ4月だったからか
頭を打った影響が強かった頃
教室がわからなくなってトロイ奴と思われたんだ。
だから、すがりつけるのは桜谷さんしかいない。本当にこの子が隣でよかった。
「桜谷さん、僕たちって中学生になって再会したんだよね。」
「そう。私は小1で君野くんと同じクラスだったけど、私が3ヶ月で転校しちゃったから。再会したのは今年の4月からよ。事故の少し前から私たちは付き合ってるの。」
と、いつも聞かれてると言うように彼女は答えた。
「いつも僕たちってどんな話してた?」
「こんな話。君野くんが疑問に思うことを私が答えてるのよ。」
と、答えた。
僕たちはここまでどううまくやってきたのだろう。
謎が深まるばかり…
それから2日3日経過しても桜谷さんの様子は変わらない。
何をしても僕ではなく、
「過去の僕」
に行き着くのだ。
それにだんだんとイライラが募っていた。
その4日目…
「もういいよ!」
突然、教室で話していると君野くんが大声を出した。休み時間だったクラスの何人かがこちらを向く。
「もういいよって、どうしたの?」
「ごめん。大声出して。でももう過去の僕の話、もうしないで。本当に、何も覚えてないから…。」
「どうしてそんなこと言うの?」
「昔の記憶がなければ僕にとっては、その過去の僕も他人だからだよ…。お願い桜谷さん。僕のことを見て。」
「私のこと嫌いなのね。」
「違う!嫌いなんかじゃないんだ…。」
その言葉に実際は心の中で葛藤していた。
いま桜谷さんを好きかどうかと言ったら疑問だ。
いまいち噛み合わないことがもどかしい。
好きになりたいんだ。
だから今の僕と向き合ってほしい。
でもこの気持ち、どうやったら伝わるのかな…。
僕は顔を伏せ唇を噛み締めた。そして、一つの結論しかないと感じた。
「ねえ、僕たち本当に恋人同士なんだよね。」
「そうよ。それがどうかしたの?」
と、その言葉に勇気を持って彼女の唇に顔を近づける。
すると、右手が前に出て塞がれてしまった。
「やめて。」
「どうして?恋人同士なのにキスできないの?」
「君野くんが文句ばっかり言うから。私の好きな君野くんはそういう事しない。」
「…何をしたって僕はもう、何も思い出さないよ。」
と、僕はため息をついてそのまま席を立ってしまった。
「…。」
なんで?怒っているの?
まただ
またこの結末。
リセットだ。
桜谷は頭を抱えた。
君野くんのこの時の行動パターンは二種類くらいしかない気がする。
私は今の君野くんを好きじゃない。
サッカーをしていた頃の彼が嫌い。
あの頃に戻ったらまた二の舞だ。
これはリセットだ。またやり直し。
どうせ運命は私の味方。ゆれては返す波の中の海藻みたいに、彼は大海原の泳ぎ方を知ることはない。
「ふふ。深く潜れば嫌でも見えてくるわ…。」
と口角が持ち上がる。その微笑は優しいものではなく、冷たいものだった。
次の時間になるとギリギリで戻ってきた君野に桜谷が話しかけた。
「ごめんね。さっき変なこと言って。ねえ、今日私の家に来ない?」
「え?桜谷さんの家?うん、いいけど。なんか、するの?」
君野がその言葉にドキッとする。
ようやく恋人らしい展開が待っていると思ったのだ。
「私ね、マジックできるの。イリュージョンマジック。だから君野くんにも体験してもらいたくて。」
「ええ!?すごいね!どんなの!?」
「秘密よ。手足縛ってもいい?」
その彼女囁きに、君野は一瞬混乱する。
見た目とは似つかない彼女からの刺激的な言葉にドキドキしてしまったが
すぐにマジックだと脳を切り替える。
「う、うん。でも僕狭いところ苦手で…。」
「大丈夫。すぐ終わるから。」
「なんか、そういう家系なの?お父さんがマジシャン?イリュージョンってことはきらびやかな衣装着てポーズとかするの!?」
「うん。そう。」
と、目をキラキラ輝かせ、体を前のめりで聞いてくる君野に桜谷は適当に流した。
どうせもう、この君野くんはこれで最後だ。明日の朝にはまた別人なんだから。
腹いせにたくさんキスしてやろう。そして脳裏にはまた、その作戦がうまくいった後の妄想が繰り広げられる
と、またいつもの過去の薔薇の思い出が桜谷の全身を包んだ。
静かに深呼吸し、目を開けて現実に戻る。
あの時感じた気持ちは幸せそのものだった。
それと同時に、
あの彼がこの世界のどこかにいれば、自分はきっと大丈夫だと思えるような不思議な安心感もあった。
そして、桜谷はまた、君野を自宅に招き
思い出せない過去の記憶を復活させる儀式を行うのだった。