KKH(カラコルムハイウエイ)17日間の旅 (1994年)
もう、30年も前のことになりますが、中国の烏魯木斉からカラコルム山脈を越えてパキスタンのイスラマバードまで旅行をしました。この旅行記は、1人旅のため割とマメに日記を書いていまして、当時パソコン通信(ニフティ)でアップロードしたものです。
昔はインターネットもなく、このルートの情報は少なかったですが、現在は情報はあっても政情不安等があり、行くことが難しいことに変わりはないと思います。しかし、三蔵法師玄奘が長安から辿ったオアシスの街、カラコルム山脈の厳しい自然、パキスタン北部の美しい桃源郷などがある魅力あふれる地域です。30年前の情報ですが、かつて中国は今のように発展するとはだれも想像していなかった時代であり、懐かしく思い出されます。
興味があれば読んでみてください。
また、この地を目指す旅行者の方の参考になれば幸いです。
SUBJ:KKH(カラコルムハイウエイ)17日間の旅
はじめに:
5年前(※1989年)に鉄道で、西安、蘭州、吐魯番(トルファン)などを経由し、新疆ウイグル自治区の烏魯木斉(ウルムチ)まで行った。その旅行は、私の初めての海外旅行だった。船、鉄道、バスを乗り継ぎウルムチまで行き、鉄道で上海まで引き返した。
当時、ウルムチからカザフに伸びる北彊鉄道は開通しておらず、鉄道はウルムチ止まりだった。そのときは私もウルムチより西の世界について知らないことが多く、ソヴィエト連邦の共和国が向こうにあるというぐらいしか頭の中の地図に描けていなかった。
今回のコース、ウルムチからパキスタンに向かうルートがあると知ったのは、その旅行中、トルファンで出会った旅人が話してくれたからで、彼は『パキスタンと中国との国境は、6月にならないと開かないのでこのトルファンで待っている。』と言う。私はそれを聞いて、まず第一にパキスタンに通じる道があるというのが驚きだった。そもそも中国とパキスタンは接していたかどうか、、、。第二に、あと3ヵ月もこの人はトルファンで待つというのか、、、(そのとき2月中旬だった)ユーラシア大陸のど真ん中のオアシスの街で、そんな気宇壮大な話を聞いていて、自分もいつかそんな旅をしようと思っていた。
それから何年か経ち、ウルムチからカザフのアルマアタ(現アルマトイ)への鉄道が開通するという記車を鉄道雑誌でみた。そこで思いついたのは、その鉄道でウルムチからモスクワまで行き、上海ーモスクワを完全走破することだった。しかし、この区間を通して乗るのは外国人は無理(当時)とのこと。残念だったが、ふと、あの旅人が言っていたパキスタンへのルートを思い出した。そして、その後本屋で見つけた”シルクロードの歩き方/オーシロカミさん”を読んで、ぜひとも行こうと思った。
旅行期間は17日間。(5月27日~6月12日/1994年)少し行程的には短すぎるが、サラリーマンにしては長すぎる(らしい.
・・)。時間が限られているので前回と重なる部分は飛行機を利用することにし、初めて訪れる所は陸路、風景を眺めながら行くことにした。
タイトルのカラコルムハイウエイとは中国の(カシュガル)とパキスタン北部のギルギットを結ぶ道路で1966年に両国が建設を計画し、1978年に開通。1982年より、他国の旅行者も通行が可能となった。いわば現代のシルクロードなのである。
以下は、今回の旅行日記より、KKH (カラコルムハイウエイ)沿いの町や、旅先で出会った人達について記したものです。日記の性格上、主観的な内容になっております。(客観的にするとほとんどガイドブックになってしまうので・・・)
カラコルムハイウエイについては、情報や資料も多くはないので、この地の旅行を計画されている人に少しでも役にたてれば幸いです。
1. <大阪 - 北京>5/27
出発はいつもの伊丹空港から。空港に来てしまうと、昨日までのサラリーマンの生活からすっかり離れた気分になれる。そんな切り替えが自然にできる自分を我ながら不思議に思えるほどだった。
中国国際航空CA922便、機種はボーイング747。北京行だったが、上海経由であることを機内で知った。上海で一旦飛行機を降り、入国手続きをしてから、北京に向け飛び立つ。5年ぶりの上海との再会は、非常にあっけないものだった。思えば、私が初めて見た外国の街は、鑑真(ガンジン)号のデッキからみた、霧に包まれた上海だったのだ。
北京までは国内線扱いである。北京時間19:42、高度9600m、上海までは曇りだったが、現在、機窓から見える夕焼け空は壮大である。オレンジ色の空から徐々に上空の方へ澄み切った透明な青空色にグラデーションがかかっている。今見ているのは西の方角、つまりこれから旅をする所の空・・・中国大陸よりも、圧倒的に大きな晴天が大地の上に広がっている。幸先はいい。明日からもこの調子でいってほしいものだ。
20:30頃、飛行機は北京首都空港に到着。荷物をとって到着ロビーに出る。出迎えの人達で賑わっている、喧騒と言った方がいいかもしれない。久しぶりの中国の喧昼に懐かしさを感じる一方、日の暮れてしまった異国の地に放り出されてしまったという実感が徐々に薄いてくる。
さて、今日は空港近くのホテルを予約しているので、まずそこに行かねばならない。さっきからずっとタクシーの客引きが付きまとっている。若干の英語をまぜた高速中国語だ。
『悪いけど何を言ってるのかまったくわからんよ』空港のカウンターでホテルの場所を聞こうと思い、客引き氏にインフォーメーションまで案内してもらう。行ってみるとカウンターの人に「あなたが***さん?」と言われ、そうだというと「迎えの車が来ている」と言うから驚きだ。客引き氏はそれを聞いて、両手を挙げて大いに残念がっていた。
ぼろいバンに乗り、ホテルに向かう。窓からの北京の風をうけながら吸う、大阪以来のたばこがうまい。
ホテルはMoevenpick (メーヴェンピック)。明日の出発が早い時間なので、予約したのだが、ちと高級すぎた。シングル13000円!!!
とりあえず部屋に籠るより、酒が飲みたい。実は今回の旅行は、酒が大いに問題なのだ。自由に酒が飲めるのはせいぜい中国内だけだろう。さっそくホテルのバーに行く。ちゃんと演奏もあり、雰囲気もいいところだ。しばらくいたが一人でいるのも居心地が悪くなり、部屋に戻った。
2. <北京 ‐ 烏魯木斉>5/28
昨日はホテルのバーで、けっこう酒を飲んだ。今のうちに飲んでおかねばと思ったからだ。部屋のテレビは、なんと日本の衛星放送が受信できた。
朝7:00頃、ホテルのバスで空港へ向かう。空港前には、アップルコンピュータなどの企業の看板がならんでいて、西側諸国の空港と同じだ、あっそうそう、空港ではチャンと空港施設利用税のようなものをとられる(15元)。これも資本主義の世界と変わらない。
<北京首都空港にて>
ボーディングパスを受け取り、搭乗を待つ間ぶらぶらしていると、”なにかおかしい”のである。この風景が。やはりなにか足りないものがある。「そうだ!タンツボがない」公共の場所にはかならず、部屋の隅や柱のそばに置かれているアレ。5年前の上海駅で夥しい数のタンツボをみてびっくりして以来、あるのが当り前と思っていた。
中国では空気が乾燥しているため痰が出やすいのである。人々は、実にうまくタンツボを使いこなしていた。さりげなくツボに近づき、あっという間にタンをツボにはきだして何事もなかったように歩き去る。これはなにも名人だけでなく、私の見たすべての人ができることだった。おじいちゃんから子供まで、おばちゃんも美しいおねえさんもである。「・・・うーん、まさに達人・・・」と言わしめるテクニックもあった。駅をあるカップルが歩いていた。女の子がけっこうかわいらしい子だったので、何となく2人を目で追っていた。すると女の子が少し立ち止まった、次の瞬間彼女は鼻を片方づつ押さえ、ハナミズをタンツボに「びゅっぴゅつ」と命中させた。まるでテッポウウオが獲物を射止めるがごとくの妙技だ、わずか2、3秒のことであった。
直後、何事もなく続く光景を見ながら、一人感心していたのでした。
話がそれてしまった。まあ、タンツボは見当たらなかったという事です。次に「あっ」と思ったのは、自動販売機があったことだ。カップコーヒーの販売機で、5元ほどだった。1元硬貨というのが、最近できたというのは知っていたが、自動販売機まであるとは・・・ちなみに、それでコーヒーを買う人は一人もいなかった・・・中国の近代化は目覚ましいものがあると感じた。
烏魯木斉までは中国北方航空CJ6901便。この便が唯一、まともな飛行機で烏魯木斉に向かう便である。一週間に一便のみ。ほかの新疆航空の便は小さなツポレフでしか飛んでいない。
機種はマクダネルダグラス82型。北京を飛び立ち、4時間で烏魯木斉に到着する予定。機内食も飲み物のサービスもあった。見かけは御世辞にもいいとは言えないがなかなかおいしい料理で、乗務員も親切だ。外国で国内線に乗るのは初めてだった。中国北方航空MD 82は少し古そうだったが、まるでバスの中のような砕けた雰囲気も私は気に入った。米国北西航空なんかよりずっといい。
ちなみにこの中国北方航空のような、中国国内を飛ぶ航空会社が20以上もある。
機内では窓側ではなかったので、地上の様子をほとんど見られなかったのは非常に残念だった。乗り物ならなんでも窓側を好む私には4時間がとてもたいくつに感じた。
しかし4時間とは・・・前は上海からぎゅうぎゅうの列車と、きったないバスで何日もかけてきたのに。飛行機とはあっけないものだ。
烏魯木斉空港から市街まではけっこう遠い。北京のホテルとここまでの飛行機は日本で予約したが、これからはまったく行き当たりばったりだ。バスを探したが、バス停が見つからなかったのでついタクシーを使ってしまった。かなり時間をかけて値切って40元(480円)。今日はとりあえず、地球の歩き方に出ていた紅山賓館に泊まることにした。部屋はシングルで1泊144元(1700円)。あとで考えれば破格の贅沢だった。
部屋に荷物をおいて、すぐに喀什(カシュガル)行のチケットを買いに出かける。空港からタクシーを使ったのはバス停を探すのが面倒だったこともあるのだが、それよりチケット売り場が閉まってしまうとこの町で足止めされてしまうからである。なにせ旅行期間が短いので1日たりとも無駄にはできない。
烏魯木斉から喀什へのバスについては不明な点がいろいろあった。まず、1番重要な所要時間、そして値段、毎日運転されているのかどうか、これらは本によって書いていることがばらばらだ。LONELYPLANETでは60元で1日1本(夏は2本以上)所要3日とある。地球の歩き方では、あるページに3泊4日と書いてあるかと思えば2泊3日と書いてあるページもある。寝台バス(?)168元。寝台バスというのも想像がつかなかった。
30分ほど歩いていく。チケット売り場は碾子溝バスターミナルの隣の建物で中にはいると静まりかえったホールに窓口が10個ほど並んでいた。戸惑いながら窓口にいった。応対した女の子は私がまるで中国語を理解しないことにあきれて、ロシア語のカウンターに連れていった。そこには先にイギリス人夫妻が並んでいた。窓口の服務員とえらくもめていたが、そのおかげで彼等が自分と同じく明日喀什に行こうとしていること、それと自転車をどうやってバスに乗せるかを話していることが分かった。その後彼等は自転車を広いホールに預けて帰ってしまった。
英語の話せる服務員だったのでわりとすんなりチケットを手に入れた。所要時間を尋ねたら、34時間だという。それは願ってもいなかったことだ。なぜなら、少なくとも丸一日分、スケジュールに余裕ができるのだから。寝台バスの下段は売り切れだったので上段で164元(保険3元含まず)。座席バスもあるのだが、長時間だからその程度の贅沢はいいだろう。喀什まで1480kmもあるのだ。日本で言うなら東京から鹿児島ぐらいあるんじゃないかな?
切符を手に入れて、「よし、明日は喀什に向けて出発だ!」窓口の上に大きなバス路線図があったので、ルートを確認しようと見ているとウイグル自治区以外にカザフの都市もある。道理でロシア語のカウンターがあるわけだ。。。今購入したチケットには第100次車といてある・・・あれ?路線図にはそのバスば”莎車行”となっている。
おいおい、ちゃんと喀什行だと言ったのに、間違ってるじゃないか。莎車なんて聞いたこともないぞと思い、窓口に行くと「それは喀什行だから問題ない」と言う。すぐに服務時間が終わってしまい、やむなくターミナルを後にする。
5年ぶりに、本場のシシカバプーをたらふく食って、ホテルに戻った。今日は早く寝よう。明日のバスが気になるが、あのイギリス人夫婦も乗るはずだから早くターミナルに行って彼等を見つけて一緒のバスに乗ればいいのだ。私の心はもう、タクラマカン砂漠を走るバスに乗ってしまっていた。
3.<烏魯木斉 ‐ 喀什>5/29
早朝、ホテルをチェックアウトしバスターミナルまで歩く。朝は少し肌寒いくらいだ。
バス待合ホールには、バスの番号別に分けられたベンチが並んでいる。第100次汽車の看板には、やはり”莎車”と書かれている。隣に座っている人に、切符をみせて「これは喀什行きか?」ときいたが、わからないという顔をされた。今度は改札にいる服務員に聞いたら、ほとんど切符も見ずに「そうだ」とえらく簡単に言ってくれる。
”莎車”行きバスの改札が始まったので、バスに乗る。他の乗客を見廻すとみんな中国人だ。なかなか昨日のイギリス人が現われない!
『もし手違いでカザフやキルギス行だったら冗談ではすまないぞ!』の不安で頭がいっぱいになったそのとき、彼等がバスに乗ってきた。イギリス人夫妻は私をみつけて、ウインクした。その瞬間私がどれだけ救われた気持ちになったか、彼らには知る由もないだろう。
私が彼らの登場を必死で待っていたとき、二人は自転車をバスの天井に一生懸命括りつけていたのだった。フンジェラーブ峠を自転車で越えるというすごい人達だ。
出発間際に日本人の女の子2人が乗ってきた。バスの外国人は合計5人となる。
烏魯木斉を出発したバスは砂漠の中をひた走り、約3時間ごとに休憩をとる。食事は食堂があるところにバスが止まるので、降りて各自かってに食べる。
出発してしばらくは砂漠の景色が面白かったが、あまりの単調さにすぐに飽きてしまう。
寝台は背中から頭に少し傾斜があるものの、ほとんど寝ている状態で、景色をみるのにもいい角度ではないし本も読みにくい。乗客は皆たいくつそうにしている。ジョン夫妻は私の寝台のちょうど真下に座っている。ときどき下を見るがほとんど寝ている。女の子2人は前の席だ。見てみると、なにやら一生懸命本を読んでいた。何を読んでいるのかと思ったら、なんと”地球の歩き方スペイン編”だった!!まさかここから陸路でスペインまでいくのか!?と思って聞いてみると、パキスタンからトルコ、シリア、ヨルダン、イスラエルを経由しエジプトへ行き、さらにチュニジア、モロッコからスペイン、フランス、イングランド、アイルランドまで行くという・びっくり仰天、超弩級の強者だった!
<旅の装備>
旅の装備は、その人の旅のスタイルにより大きく違うものになる。
スーツケースにクリーニングされたシャツを入れて出掛ける旅もあれば財布とデイパックだけというのもある。だがこのKKHではスタイルなんか選びようがないだろう。スーツケースやハイヒール、おしゃれな服などもっての他だ。高級なホテルもないし、スーツケースを転がす平らな地面やない。当然バックパッカーぱかりである。
バックパッカーの持ち物については、黄色い表紙のガイドブックに載っているので、今回私がKKHで持っていて特に良かったと思うものを挙げて見ましょう。
1. フィシングベスト・・・・
私は釣をしたことがないのだが、これは重宝した。出発1月前にアウトドアショップで買ったポケットが12個もあるものを常に着用していた(旅行中に発見したポケットもあった!)。このベストに薬、貴重品、非常食、それにガイドブック(サバイバルキット KKH編)などを入れていた。バスに乗ったりすると荷物が必ずしも近くに置けるとは限らない。
へたをすれば、屋根に載せられることもある。こういう時に最低限必要なものを手元から取り出せるようにしておくのは大切なことだ。
2. 方位、高度、気圧の計れる腕時計。・・・カシオ製。略付からは高度がぐんぐん上がり、フンジェラーブ峠では4700mにも達する。パスの中では結構暇なのでどんどん上がる高度を見ているのは暇つぶしにもなる。
方位計でバスがどの地点を走っているかがそれでわかるのも楽しい。私の持っていたものは実は高度4000mまでしか計測できないものだったので、フンジェラーブ峠付近ではERRORになってしまった。パキスタンの宿で会ったスイス人が私の腕時計をみて、「それは4000mまでしか計れないだろう、おれのは6000mまで計れるんだぜ(カシオ製)
」「えーっ、こんなのあったっけ?」(スイスで買ったとのこと)
これがあれば、バスの車窓に次々と追ってくる山々を見ながら峠にさしかかる世紀の腰間を堪能できるでしょう。
3. 登山用のシュラフカバー・・・・
パキスタンに入ると本当に小さなホテルしかない。必ずしも清潔なシーツを与えられるとは限らない。南京虫にやられている人が随分いた。虫に刺されると、大切な体力が消耗してしまう。暑い季節ならぜひ、ゴアテックスのシュラフカバーを携行することを薦めします。
4.<烏魯木斉 ‐ 喀什>5/30
夜も砂漠をひた走り、庫車(クチャ)、阿克蘇(アクス)を過ぎ、巴楚(パソ)という町で停車する。
ここで事件が発生した。運転手が乗客に乗り換えると言い出したのだ!それはあまりに唐突だった。中国人達はみんなそそくさと乗り換えてしまった。ところが、女の子ニ人が敢然とそれに反対し、バスを降りようとしないのだ。イギリス人達と私も一応抗議するかまえをみせるが、彼女らのパワーはひときわだ。運転手は、「喀什に行くなら乗り換えろ。」と言っている。バスの中の空気は、だんだん緊張に満ちてくる、一触即発だ。連転手の他にも、3、4人のおっさんが『おまえら、いいかげんにはよ降りんかい』という顔をして、ロ々になんか言っている。イギリス人達はとうとう自転車を降ろし始めてしまったが、女の子達はまったくゆずろうとはしない。
「私たちはこのバスにお金を払ったんだから、このバスで喀什まで乗っていく!」と中国語でまくしたてる。中国語でよくそんな喧嘩ができるなあと感心しつつ、私も一応抵抗運動を続ける。
結局10元ずつ払戻しさせた。彼女たちのおかげである。
座席バスに乗り換えて、また喀什に向かう。切符に記されていだ”莎車”というのが実ばヤルカンド”のことであり、服務員が”問題ない”と受け合った理由もこの出来事で察しがついた。でもそんなことより、さっきの喧嘩でみんな疲れていた。砂漠の中の、あんな小さな村で旅行者がたよりにできるものなど、なにもないのだ。あるのは自分の精神力だけだ。
旅行の一月前にBBCニュースで新彊ウイグル自治区に政治犯を100万人も収容しているという噂のある収容所について報道していた。またこの近くには核実験場もあるだろう。そんなものが秘密にできる所なのだ。
うっとうしい外国人5人ぐらい、始末するのも簡単なことだろう。彼女らはもう中国に来て2ヵ月も旅行をしていて、こんな喧嘩は日常茶飯事だと言っていた。
無事、オアシスの街、喀什に到着。バスは天南路の長距離バスターミナルに着いた。ところがバスを降りてすぐ、こともあろうにみんなとはぐれてしまった。仕方なく一人でホテルに向かう。市バスは路線が分からないので、歩いた。
目指すホテルは其尼巴合賓館。バザールを通り抜け30分ほどで着いた。
「ドミトリーはありますか?」「あります」ということで、この其尼巴合賓館では3泊ドミトリーに泊まることにする。1泊15元。(180円)
部屋に行ってみると、4人の先客がいた。といっても荷物が置いてあるだけだった。ベッドを決めて、シャワーがあるのでさっそく使う。「ちゃんと、お湯がでる!!ラッキー!」幸せな気分になった後、部屋で荷物の壁理をする。あのイギリス人も女の子たちもこのホテルにもうすぐ来るだろうと思っていた。パキスタンに向かうなら、このホテルは便利だからである。でも彼等は来なかった。また一人ぼっちだ。
5.<喀什>5/31
同室の4人は昨日遅くまで部屋に戻らなかった。
朝起きると彼等はすやすやと接ていた。彼らを起こさぬよう、朝飯を食いに出掛けた。喀什の街はすでに人々が往来し。活気がある。憧れの喀什の街を散歩し、”今、たしかにシルクロードの街に来ているんだ!”という感触に浸っていた。
喀什は烏魯木斉よりもはるかに小さい街だ。地球の歩き方の紹介にはこう書かれている
『ウイグルのおじいさんが得意気に買った「ここに来なければ新疆に来たことにはならんよ」』
明らかに烏魯木斉とは違う。バザールを歩くと烏魯木斉の街のような人工的な雰囲気はない。
シルクロードの要衝としての歴史的な営みが作り上げた、ごちゃごちゃの街だ。それに人々の顔も違う。街行く人は大方ウイグル人だ。漢民族の文化はあまり感じられない。バザールの路地には色とりどりの野菜、イスラム食堂の店先からは人々の談笑する声、金物屋の金づちの音。・・何世紀もこのような光景が連綿と繰り広げられて来たのだろう…・・三蔵法師が訪れ、マルコポーロが通りすぎていった街。そして今、私がこの街にいる・・・
<バザールでござる>
喀什のバザールで目についたのは鍋、衣類、爪切など、日用品がほとんどだ。お土産になるようなものはあまり見当たらない。
ナイフ、帽子、ウイグル刺繍の財布。これらはお土産にいいのだが、前にトルファンで買ったのでちょっとなぁ・・・カセットテープを買うことにした。トルファンを訪れたときに、軽トラックの運ちゃんが車内でかけていた音楽がすごくよかったので、そのカセットを特別にプレゼントしてもらったことがある。その人にもらったテープは今でも大切にしていて、たまに聴いてはシルクロードに浸っている。
トルファンのバザールは喀什のものほど大きくないが、烏魯木斉よりウイグルらしい雰囲気があった。
そして、トルファンのバザールでは日本人旅行者がびっくりすることがある。それは、ロバ車の少年達が日本語をしゃべることだ。単語だけでなくある程度会話ができるほどである。彼等に聞いてみると、学校で習っているとのこと。
今回行けなかったのは心残りだが、最近では「のってちょんまげ」と言って誘い、バザールに着くと「バザールでござーる」というのが彼等の殺し文句である。さすがシルクロードだ。
食事を終え部屋に戻る。と、あのバスで一緒だったツワモノ女の子たちがいるではないか!彼女らは昨日、バスを降りて直後あまりの疲労からとりあえずパスターミナルの近くのホテルに泊まったのだという。唐突な再開だった。奇蹟の再開に感謝!!
バスのなかではそれほど長く喋っていなかったので、部屋で話すことが山ほどあり、夜12時頃まで話しっぱなしだった。また同室のイギリス人達(バスで一緒だった2人ではない。バスで一緒に喀に来たイギリス夫姜は個室に泊まっている。)がパキスタンから来た旅行者なので、いろいろとパキスタンについての話を聞かせてくれた。親切な人で、どこが良かったとかここは危ないとかをアドバイスしてくれた。
ここで登場人物の紹介をちゃんとしておこう。
まずツワモノ女の子は関東出身で、旅行前までは私のようにカタギだったが、思うところあってアイルランドまでの大旅行をしている。ひろこさんとりつこさんである。年齢は私と同じぐらい。(25歳)
イギリス人夫妻は男のほうはジョンでおくさんの名は分からない。でかくて一見怖そうだがやさしい。おくさんはすんごく美人。彼等はでかい体なのに菜食主義者である。昨日、彼等は私に「きみは中国語が分かるか?」と言ってきた。「チャイニーズレターのミーニングぐらいは一応・・」と言うと「実は我々はベジタリアンなのだが、中国でそれを伝えることができずに困っている」というので菜食主義者だと知ったのだ。メモに『不要肉類、我要菜果』と香いて、「食堂でこれを見せて下さい」といってメモを渡した。食堂でなんとかそれで通じたらしくよろこんでくれた。
デンマーク人の夫婦はなんとなくアバのビョルン夫妻に似ている。バックパッカースタイルが板についてるって感じなので、以下バガボンド夫妻と記す。
この其尼巴合賓館(発音が分からない。私はチニパハと言っていたが正しいかどうか?)には2つのドミトリーがあり、このドミトリーはパキスタン人以外の外国人が泊まるようになっている。10人部屋で、ユースホステルのように男女を区別しない。
6.<喀什>6/1
朝からひとりでホージャ墳までレンタサイクルで出かける。
ひろこさんとりつこさんはまだ疲れが残っていて、今日は部屋でたまった洗濯をするということ
50分ぐらいでぶら一っと行ける距離だ。ホージャ噴については、ガイドブックに多少の説明があるのでそちらを参考にしていただくことにする。建物の形状はイスタンブールのスルタンアフメットジャミーを小さくして質素にしたような感じだ。
自転車を返し、色満路をぶらぶら歩いていると、ビリヤードの台を道端に並べている所があった。通り過ぎようとしたら暇な中国人が勝負を挑んできたのでビリヤードをしてしまう。台が傾いている、玉が欠けているという悪条件の中で結構善戦した。ビリヤードをしていると、次々と10人ぐらいの人が集まってきて私に質問を浴びせてくる。見ず知らずの私とビリヤードをしようとする人達なのだから、その気さくさは相当なものだ。ポケットのガイドブックを「みせてみせて」という子供たちはガイドブックの写真にすっかりひかれてしまっている。「これはパキスタンの町だよ、これからこの町に行くんだ」と言うと大人も子供も「へえ一つ」という顔をして食い入るようにガイドブックを見ている。カラチの写真をみつけて、「これはどこにある町?」とおばさんが聞いてくる。”パキスタンの南部の港町だ”と子供の学校のノートに筆談で会話すると、私が漢字を書くので「おぉ一つ」という歓声があがった。気を良くした私は、調子にのっていろんな質問を受けてはそのたび書くので、子供のノート5ページぐらい使ってしまった!
この異常なまでに好奇心の強い人々は、見知らぬ外国の町に本当に興味があるようだった。やはりシルクロードの民なんだ。
それにしても地球上でもっとも海から遠い地点に相当するであろうこのウイグルに住んでいる彼等に、この世界に海というものがあり、そしてその海に浮かぶ小さな陸地から私が来たということを、どう理解したのであろうか?
バザールや百貨店で明日の出発に必要な食料を調達した。が、実際のところ、出発は明日でなくても良かったので決めかねていた。ひろこさんとりつこさんはのんびり旅行なので、もう少し喀什にいるという。旅の日程が短いことが本当に残念だが、迷った末、後のことを考えて明日のパキスタン・ススト行のバスチケットをホテルのカウンターで購入した。
夕方、食事をしに色満路のウエスタンフードの店に行く。メニューは豊富で”おやこどん”や
”ぎゅうどん”なんてのもあった。
私の食べたものは、
レモンティー・・・・1.5元(17円)
白菜肉・・・・・・・6.0元(72円)
クレープ・・・・・・3.5元(42円)
目玉焼き・・・・・・1.5元(17円)
少し値段は高めだったが大いに満足した。一生懸命りつこさんがメモしていた。私はメモしなかったのでとりあえず値段は上記のものしか分かりません。
しばらくして同室のバガボンド夫妻(デンマーク人)もやってきた。食事も終え雑談していると、彼が私の時計に興味をもち、「ややこしそうな時計だな」という顔をしているので、「この時計は方位、高度、気圧、温度が計れるんだよ」と説明した。彼等は半信半疑で「見せてくれ」と言い、しばらく考えてから「なぜ、高度が測定できるのか?」「君はテクノロジーに多少の心得があるか?」などと聞いてくる。そんなこと私にわかるがない。「気圧から算出するのだよ」と言ったが、彼は不思議でならないようだった。
それから彼は自分のアナログ時計を私に自慢げに見せて、「シンプル・イズ・ベスト」とふざけて言ったのがおかしかった。
食事から戻り、また遅くまでおしゃべりをする。自分が今まで旅をした国やそこでの出来事、仕事について、というものからテレビ番組について~関西では『探偵ナイトスクープ』っていう変な番組があって・・・~好きな音楽や映画などの与太話しまで、それにやっぱり、このおかしな中国で感じたことについて・・・
<ロバとブタ>
彼女らとの雑談のなかで議題(?)にあがった1つがロバについてであった。喀什の町では、多くのロバが働いている。りつこさんが、「ロバはかわいそうだ」と言ったのがこの話の始まりだった。
喀什に来て、私もすぐにそう思ったのだ。野菜などをたくさん載せた車を引っぱり、車のクラクションに蹴散らされながら、主人のムチに打たれているロバ。彼等は脆弱な体で、馬のように格好いいということもないし、速く走れないので”のろま”の代名詞にされてしまっている。
私はまた、ロバをムチ打つときのその主人の表情にも気になっていた。やさしそうな顔をしたおばさんでさえも、彼等をムチ打つときは眉間にしわをよせて「これでもか、これでもか」というように振り降ろしている。荷物を運び終えたときに主人が「よくやってくれた」と褒めたり、撫でたりしている光景は一度も見なかった。
荷物を下ろされ、木に繋がれているロバの瞳は、やさしい目というよりも、彼等が背負わされた重い荷物のような宿命と、その人生を悟っているかのように物憂げに見えてくる。
次にブタの話題になった。「ロバはかわいそうだ」というのなら、ブタには「もっとかわいそうだ」と言ってあげなきゃおさまらない。
これもエピソードを加えて説明しよう。
これは昔、私が敦煌(トンコウ)で出会った光景だ。
”少し寒い朝、美しい朝霧の中をあたたかい日射しが通りぬけて、街を艶やかな光で満たしてくれる。家の玄関にパジャマ姿のおじいさんがその光を受け、満足そうに立っていた。そして顔を空に向け、気持よさそうに歯磨きをはじめた。するとその家の庭からブタが出てきて、そのやさしそうなおじいさんに擦りよってきた。とそのとき、おじいさんは何を思ったのか、口を濯いでいた水を、口の中からおもいっきりブタに浴びせかけた!!ブタはプープー言いながら逃げて行った。おじいさんは何事もなかったように玄関から家の中に入っていった。”
私はこの光景を10mぐらい離れた所で出発を待つバスの中から見ていた。これもタンツボのように中国の常識なのだろうか??
私は常々、ブタは”世界中でもっとも、不当に、ひどい目にあっている動物”だと思っている。
まず、1つに日本、アメリカ、デンマークその他多くの国々で食用のために小さな小屋でほとんど体を動かせずに飼われている。
イスラム諸国では、食べはしないが”けがらわしい生き物”として大いに嫌われている。
そして、世界中で太った人への蔑称としで”ブタ”という言葉があてられる。
列挙していくだけで”なぜブタをそれほどまでにいじめるんだ!”という憤りを禁じ得ない。
少なくとも肉を食べるとき、ブタに感謝することぐらいは、道徳として、すべきではないだろうか?
おしゃべりを終えてベッドに入ったが、すぐには褒られなかった。
明日の10時にはこの町を離れてしまうから・・・もう少し居たかった。
7.<喀什-タシュクルガン>6/2
朝、早く目が覚めてしまい、シャワーを浴びる。このドミトリーのシャワーは、ほぼ24時間使えたので1日2回は浴びていた。
整理するほどの荷物ではなかったが、一人、出発の支度を始めた。8:00頃に女の子たちも起きたので、部屋でのんびりとお茶を飲みながら話をした。
出発の時間も迫り、出発前に記念の写真を彼女らと撮った。いよいよお別れだ。彼女らに、「それでは、1月に北アイルランドで逢いましょう」と言い、菜食主義者夫妻とバガポンド夫妻には「GOOD BYE!」と言って部屋をでた。
バスの出発は遅れているようで、しばらく待っているとバガボンド夫妻がわざわざ見送りに来てくれた。バスを待ちながら少し話す。部屋ではあまり話をしなかったのだが、最後に話せてよかった。
お別れのとき、”See You Next Trip!”といって握手をして別れた
バスに乗り込んでから、まだバスは出発せずホテルの前に止まっている。ほんやりとホテルを眺めながら喀什での出来事を一つ一つ思い浮かべていた。
今、バスが動き出した。ゆっくりとホテルの敷地から出る。楽しかった喀什の町。この町で出会った人達の顔や、交した言葉、握手.・・ついさっきまで一緒に居たのに.・もう思い出にしなければならないのか、・・さようなら喀什の町!
出発したバスは、オアシスの街路の中を郊外に向けて走る。ここからがまさにKKHという道なのである。また新しいことが始まるのだ!喀什に未練が残りそうな今の私には、物理的に離れることと、そう思い込むことが必要だった。
見知らぬ国、パキスタンへはこれから中国内のタシュクルガンで1泊し、次の日フンジェラーブ峠を越えてスストに至る予定だ。バスはスストまで206元。
出発の前、このバスに私と同じようにパキスタンに行こうとする外国人が何人かいると思っていたが、予想に反してパキスタン人ばっかりだった。彼らはみな大きな荷物を持っている。
それは袋にいっぱいの食料や、パンダのぬいぐるみ、それに流行の”カラオケラジカセ”といったものだ。
バスに乗り込むとき、言い争いが始まった。割り込んだ、いや割り込んでないと言っていたようで、そのウルドゥー語で言い合っている彼らの姿は獰猛な猪のように見えたが、パキスタン人たちはとても気さくで、バスに乗る前から不安そうにしている私に、気軽に話しかけてくれた。「どこから来た?えっ日本?俺の友人がトウキョウにいるんだ。なにも心配はいらない。パキスタンは美しい国だよ」とか「きみは日本人だろ?俺はこないだまで川崎で働いてたよ」パキスタン人の多くが英語を完璧に話すのにはびっくりした。「えっ俺かい?カラチに帰るんだ。案内してやってもいい、そうだおれの家に来い」私は、彼らが外国の旅行者にこのパキスタンで楽しい思い出をつくって帰れるようにあれこれ気を使ってくれているように思えた。それにひきかえ、日本が彼らに対して行った入国拒否のことを思うと心苦しい。
乗客は20人ほどのパキスタン人と私、出発直前に乗ってきたスイス人が一人。
車内はそれほど混んでいなかった。私の隣にはこのバスの乗客を取り仕切っているおっさんが座っている。でかい体で私は非常に窮屈だった。だが、いやそうな顔はできない。このバスで敵を作ったら、ただではすまないという気がする。
そのでっかいおっさんはさっそく、運転手に自分のカセットテープを渡して、車内にはパキスタンの音楽が広がった。音楽と車窓の風景がなんとも、のどかだ。
オアシスの風景を過ぎると、一面の砂と岩石の世界になり、砂塵で風景どころではなくなった。
今日はタシュクルガンまで実に3000m以上登るのだ。私の高度計がすでに3000mを越えている。それでも前方の霧の中から次々に高い山が迫ってくる。
夕方遅く、タシュクルガンに到着した。バスはJiaoTong賓館の敷地に停車し、乗客は皆、このホテルに泊まった。
バスを降り、チェックインのためホテルのカウンターに行くと、3人のヨーロッパ人がいた。
そのうちの1人が私に「おまえはタバコ吸うのか?」というので「そうだ」というと、私を部屋に連れていき、「よし、君はここに泊まれ」と仕切っていた。
部屋に入るともう一人ヨーロッパ人がいた。その部屋は4人部屋でさっきの3人が泊まっていたらしく、彼らの荷物が置いてあった。どうやら3人はタバコを吸うこのフランス人と同室がいやだったようで、カウンターで別室を要求していたのだ。
彼らは、バスで一緒に来たスイス人と、別の4人部屋に移った。3人が去った後、フランス人に挨拶して、ベッドに腰を下ろした。彼がさっきの3人と、仲が悪かったようなのは彼らが部屋を去る様子から分かった。確かにこの人はかなりのヘビースモーカーらしく、灰皿に吸いがらがてんこ盛りになっていた。彼はベッドでガクガク麗えながら日記を書いていた。風邪をひいているようだった。
内心”困った人と同室になってしまった・・・”と思った。
フランス人を部屋に残し、夕食に出掛ける。外はもう、すっかり日が暮れてしまっていた。
大通りに出たが、食堂はあまりない。たまたま開いていた小さな中華料理屋に入った。新彊に来てから、ほとんどイスラム料理なので、ここで餃子を食べようと思ったのだ。餃子を注文して待っていると、店の人が皮をこねはじめた。もう店を閉めようとしていたのだろう。客は私一人だけだったので、家族の人たちはひまなのか、ずっと好奇の表情で私を見ている。餃子ができるまで、話をする。店の人たちは素朴でいろんなことを聞いてくる。中国語が話せないので、例によって筆談で漢字で書いて説明するど”あなたの漢字は完璧です”とまで言われ、たいへん気分がいい。
部屋に戻り、フランス人と少し話しをした。思っていたほど偏屈な人ではなかったが、特に話題もなかったので早く寝ることにする。
タシュクルガンはとても寒い所だ。海抜は3600mほどあるので夏でも寒いだろう。私は客ではTシャツと釣用ベストで十分だったが、それにトレーニングウエア、冬山用ヤッケ、下はパッチをはき、さらにシュラフカバーをシーツにしてベッドに入った。これでやっと寝れるぐらい寒かった。
8. <タシュクルガン-パスー>6/3
昨日の夕方に到着したばかりなのに、朝にはこのタシュクルガンを出発だ。バス出発予定は北京時間10:00である。ところで、タシュクルガンの時間は非常にややこしい。パキスタン人たちはすでにパキスタン時間にあわせている。同室のフランス人やスイス人のヘンリーは新疆時間にあわせていて、私は北京からずっと北京時間にしている。時間を確認するときにば~時間で”というのを付け加えないと、どえらい間違いをしかねない。
朝、ヘンリーが暖かいパンをもって私たちの部屋に来てくれた。フランス人も今日、出発するようだ。ただし方向は逆である。
出発の時間になってもバスは一向に出発する気配がない。出発時間を気にしているのは、私とスイス人のヘンリーだけのようだ。
ヘンリー:「中国では3、4時間の遅れは当たり前。トルファンからのバスは4時間半遅れで出発したよ。」
私:「日本やスイスではなんでも、ピュンクトリッヒですよね」
ヘンリー:「一分後にはピューって行ってしまうよ!」
バスはホテルを出発したが、10分ぐらい走ってまた停車してしまった。出国審査のためだ。出国審査はこの先のピラリで行われる思っていたが、タシュクルガンで行われていた。パキスタンのビザは日本で取っておいたので心配はあまりなかったが、やはり緊張する。余っていた中国元をドルに交換し、またバスに乗り込む。
バスはいよいよ、フンジェラーブ峠を目指して突き進む。外の景色は荒々しくうねった地層を露出した、とんがった山肌が続く厳しい世界だ。民家はほとんど見あたらない。そのかわり国境が近づくにつれ、道路沿いには軍事施設が目立ち始める。中国とパキスタンは仲がいいが、インドとは両国ともドンパチやっているのだ。やたらと検問所があり、そのたびにバスから降ろされてバスポートチェック。
高度はとっくに4000mを越え、私の高度計は測定不能になっている。あらためて、とんでもない高さだということを感じる。それにかすかな頭痛も・・・もう少しでフンジェラーブという所、最後のつづら折りをバスはのろのろと登る。ロンリープラネットの地図と方位計を見ながら、私は峠が現れるのを今か今かと待ちかまえていた。
峠は小高い丘のような所にあり、石碑が立っているだけのものだった。バスは無情にも、峠で停車せず、あっさりと通り過ぎてしまった!!バスが峠で停車するとばかり思っていたのが大間違いだった。あわてて時の写真を撮ったが、そのときすでにバスは下り坂を少しスピードを上げて降り始めていた。
峠を過ぎて10分ぐらいの地点でバスは停車した。なにもない所で、これは単なるトイレ休憩だ。こんな所で止まるんならなぜさっき止まってくれなかったんだ?とりあえずバスから降り、パキスタン人のナジルとアリフと一緒に記念撮影をする。ナジルは日本で働くことを夢見ている私と同い年の若者で、日本についてあれこれ聞いてくる。アリフは私を”ケニチ、ケニチと呼び、友達のように接してくれる。
バスはパキスタンに入ると、今までの右側通行から左側通行に変わった。道路も中国側に比べるとかなり悪い。土砂崩れもそのままの所が多く、いつ岩が転がり落ちてきてもおかしくない際どい道だ。
バスはスストに到着し、ここであらためて入国審査が行われる。荷物も調べられず、簡単なもので拍子抜けした。
スストは町というよりトーチカのような避難小屋が立ち並ぶだけの所で、もともと滞在するつもりは全くなかったのだが、今日はもうパスーに行くバスはない。バスは一日1本で、しかも早朝5:00に出ている。
スイス人のヘンリーはここで泊まろうとしていたが、私は一人でもパスーに行きたかった。
個人のジープがパスーまでなら200ルピーで行くと言っている。いくら値切ってもまったく下がらない。
結局、ジープでパスーに向かった。200ルピーは日本円で600円ほどだ。長期の旅行者なら、絶対に利用しないほど高い料金だ。恥ずかしい判断だったかもしれないが、正直言って600円ぐらいのことでスストのような、なにもない所で貴重な時間を使いたくなかったのだ。またヘンリーはガイドブックを持っていなかったので、この後なにかと不自由ということで一緒に行くことになった。
40分ほどでパスーのシスパホテルに着く。シスパホテルは、ロンリープラネットサヴァイヴァルキットにも載っていたが、喀什で出会った菜食主義イギリス人が『良かった』と言っていたので決めた。
ホテルと言うより山小屋という感じで、部屋は全部で5つ、10人で満員だ。私とヘンリーが到着したのは夕方遅くだったので、あと1部屋しか開いていなかった。幸運にもベッドで寝られるようだ。2人部屋で1人30ルピー(90円)。タシュクルガン同様、高山地区であり水は貴重なのでシャワーなんかない。
荷物を置いて庭に出ると、ホテルのおやじが「今日のディナーはチキンカレーだよ」と教えてくれた。それから今まで庭で遊んでいたニワトリが居なくなった。
私:「さっきのニワトリはどこに行ったのだろう?」
ヘンリー:「当然、チキンカレーだよ、キィー!」
食事は、ホテルの食堂の大きなテープルでみんなで食べる。宿泊客はニュージーランド人2人、ベルギー人老夫婦、イギリス男1人、カナダ人のおばさんとその娘、タイ王族の娘、ヘンリーと私である。
食事はまずまずだったのだが、ほとんど西洋人の中で早口の英語での会話に着いていけず、食事どころではなかった。話の内容は主に、旅での出来事についてだった。ほとんど私からは話すこともなかった。日本の話になって、彼らの中にも日本に来たことのある人が何人かいた。ベルギー人のおじさんが突然「”ありがとう”とポルトガル語の”オブリガード”はよく似ていると思わないか?」と言い始めると「そうだ、日本は昔、ポルトガルと交易してたというのを聞いたことがあるぞ」「そこのところ、どうなんだ?」と聞かれたが、私もそんなこと今気づいたばっかりだ。「さぁ、分かりません。」と言うと、ベルギー人のおじさんは、つまらなそうな顔をした。
<ガイドブックについて>
私は今までの旅行にガイドブックとして”地球の歩き方”を使ってきた。このガイドブックに関して旅行者の意見は大きく2つに分かれる。”書いてあることがいい加減すぎる”、”紹介されているホテルは日本人ばっかりだ”、”マナーの悪い団体観光客が来るようになる”ととことん貶す人、(彼らは地球の潰し方と呼んでいる。)一方、”情報が新しい”、”旅行者の体験段が書いてあるので良い”などと絶賛する人もいる。
今回、私はロンリープラネットの”サヴァイヴァルキット”も持っていった。”地球の歩きがより、ひとまわり小さいのに情報量はかなり多い。もっとも感心したのは地図の正確さである。縮尺も必ず入っている。地球の歩き方の地図は、良く言えば”独創的”、平たく言えば間違いのあるものによくお目にかかる。また本文の内容も事細かに書かれている。ヨーロピアンのバックパッカーたちが大抵、ロンリープラネットを持っているのも頷ける。
しかし、少し気になったのは、日本に”地球の歩き方信奉者”がいるのと同様、ヨーロピアンにも”LP言者”がいることで、どうも西洋人ばかりが行く食堂があったり、宿泊者がほとんどヨーロッパ人というのがある。一つの町でガイドブックを頼るあまり、このホテルは日本人、あの食堂は西洋人御用達という風にすみ分けしているのは町の人には異常に見えるだろう。なにも日本人だけでなく、外国人にも、こうしたガイドブックによる現象があると思ったのだ。
一方、それを知ってか知らずか、ガイドブックを持たない主義の人にも何度か出会った。私にはそういう人たちの方がそのときそのときの出来事。例えば偶然おいしそうなにおいに引かれて食堂に入るといったことを楽しんでいると思えたのだ。
私は”地球の歩き方”に対して極端な意見はない。ガイドブックは信奉するのでなく参考にするという利用をしていればいいのではないか、というのが個人的な考えである。
9.<パスー>6/4
ヨーロッパ人ばかりの環境はどうもリラックスできないので、もう明日ここを出発しようと昨日の夜、寝ながら考えた。
しかし、朝、庭から見える素晴らしい景色に感動し、もう一日泊まることにしようと思った。スイスのツェルマットから見えるマッターホルンの眺めに勝るとも劣らない、雄大で神的なほどの最色である。
同室のヘンリーはフンザ川を越え、フッセイニの村まで散策するらしいが、私は、一人でパスー氷河に行くことにした。
パスーはとんでもない田舎で水道はない。当然電話もない。バスも一日一本。昼間はほとんど停電、ホテルのまわりもずっと先まで建物すら見あたらない。だから、出掛ける時には、ホテルで弁当を作ってもらわないと食う物もない。みんな、ホテルの厨房でクレープを焼いてもらい、ジャムをつけて新聞紙で包んで、ザックに入れて出掛ける。
パスー氷河を目指し登り始めたが、結構難しい道で、道しるべもない。頼れるのはサヴァイヴァルキットの地図だけだ。いつのまにか昼ごろになり、弁当を食べてから引き返す事にした。が、帰り道を間違い、トゲトゲ植物が一面に生えている恐ろしい所に迷い込んでしまった。
トゲトゲ植物には背丈よりも高いものもあり、視界すら遮られている始末だ。1時間ほど植物と格闘しながら進んでいると、前方に人がいた。しばらくして彼らに追いついた。彼らもパス一氷河に行こうとして迷っていた。私たちは全然違う道を進んでいたらしい。
さんざんな目に遣い、氷河を踏むこともできずホテルに戻る。帰り道で、隣部屋のカナダ入の親子に会った。おばさんはとてもやさしそうな人で、昨日も、食事中、退屈そうにしている私に話しかけてくれたりした。彼女らは2年ほど札幌で暮らしていたらしい。おばさんは日本で英語の先生をしていたそうだ。
「どこにいってきたの」「グレイシャーに行くつもりだったのが、途中で道をロストしてしまった」日本に居たのに、おばさんは日本語が全く分からないので英語で話す。あまりいい得点がもらえそうにない下手英語で答えた。「お友達とは一緒じゃなかったの?」と娘さん。「へンリーは川の方に行った。」と言うと、「釣り橋のほうね」「釣り橋は面白いよ」と教えてくれた。
ホテルに戻るとヘンリーも帰ってきていた。ヘンリーも釣り橋は良かった、是非今から行っておいでと言う。「おれは1分で渡ったぜ!」と自慢していた。とにかく橋の方に向かう事にした。道は川に沿って続いていて、川の水面から30mほど上の斜面を歩くようになっている。細い道には踏み外せば落ちて死ぬような所もある。トレッキングシューズぐらい履いていないと危ない。
橋が見えてきた。長さは見た所150mほどだろうか、大きな釣り橋だ、と思いながら橋にたどり着いてびっくり!「なんだ、この踏み板は!?」踏み板は丸太ん棒で、しかも50cmほどの間隔で並べられている。水面から30mぐらいの高さに架かっているのでかなりスリリングだ。そういえば喀什の採食主義イギリス人が”インディアナジョーンズの吊橋”と言っていた。その意味が実物を見て納得できた。
実は、この橋ば”LPサヴァイヴァルキットカラコルムハイウェイ”の表紙の写真のもので、その写真ではほぼ水平の視点で映されているため踏み板は敷き詰められているように見えている。だからそんなスリリングなものとは思ってなかったのだ。
恐る恐る橋の上を歩きはじめた。川の流れが結構速い!踏み板がまばらな分、下に見えるのはほとんど水面だ。両手でロープを掴みながら一歩一歩進む。スイス人のヘンリーはこれを1分で渡ったと言っていたが、5分以上かかってやっと対岸にたどり着けた。
ホテルに戻ると、ホテルの前に日本人2人がいた。ヒッチハイクをしようとしたが車が全然通らないので、今日はここに泊まるという。ここに泊まっていたニュージーランド人が出ていったあと、他の客が先に来たため部屋かなく、彼らは倉庫で寝ることになった。
食事は彼らも一緒だった。彼らのうちのひとり、こうじさんがあれこれ一発芸をして、大いに盛り上がる。ベルギー人のおばちゃんは、笑いすぎるほど笑っていた。ホテルの坊やも大喜びだった。坊やは12歳ぐらいで、旅行者がよく来るためか、英語が話せる。働き者でホテルの宿泊客の人気者だった。
明日にはもうカリマパードに向けて出発しよう。ヘンリーも明日、ホテルを出るため、早く寝た。
10.<パスー - カリマバード>6/5
早朝のバスで、ヘンリーをはじめほとんどの宿泊客が出ていってしまった。私は、こうじさんとまひとさんと一緒に温泉に寄ってからカリマバードに向かうことにした。ホテルに残っているのはカナダ人親子と昨日来たスイス人と我々だけだ。
こうじさんはインドからパキスタンに入り、このパスーまで北上し、また南に向かうところだ。
海外旅行は初めてだというのに、もう半年も旅行をしている。仕事をやめて旅行に来ていた。
まひとさんは関西出身で、音楽家である。年齢は私より少し上だ。海外旅行はおろか、日本国内もほとんど旅行していないと言っていたが、やることが凄い!彼も中国からフンジェラーブ峠を越えてここに来ているのだが、中国ではなんと、あの危険な町、西安で野宿をしたという!彼はこの先どこまで行くのか決めてないが、とりあえず中部アフリカまで行くという。『えーっ、ほんまかいな』と思ったが、まじめな人なので冗談ではなさそうだ。荷物は私のザックより少し大きい程度で30リットルぐらいだ。ガイドブックを持っていない。なのにアフリカとは・・・それと、彼はトルファンで、ひろこさんとりつこさんと一緒だったそうだ。
カナダ人親子は先ほども書いたが、おばちゃんしか紹介してなかったので、娘さんについて説明すると、彼女はヴァンクーヴァで暮らしており女子大生らしい。びっくりするほどの美人で、札幌に居たときは、よくアンアンやなにやらのモデルをしていたというのも頷ける。
昨日やって来たスイス人(ヘンリーではない、チューリッヒャー)は、私たちが出発したら彼女をゆっくりと口説こうと考えていて、うれしそうに我々を送った
我々3人は、とりあえず道を歩いて、車が通れば乗せてもらうことにした。1時間ほど歩いた時に、やっと後方からエンジンの音が聞こえた。
石灰を積んだトラクターのような乗り物だったが、乗せてもらえた。かなりスピードが遅いが大助かりだ。
フッセイニに着いて、温泉はどこにあるか村の人に聞くと川の方だと教えてくれる。温泉だぁ!!と大喜びで川の方に降りていく。私は北京で湯船に浸かってから10日も経っていなかったが2人はどちらも2ヶ月は入ってないし、シャワーも長いこと浴びてないので、期待はヒトシオだ!行ってみると、温泉は川のほとりにあった。水たまりのようだが、まあまあ暖かい。水は濁っていて、オタマジャクシも泳いでいる。
温泉のすぐ横は大きなフンザ川が流れ、向こう側には巨大な山脈が冠雪を戴き堂々と聳えている。こんな素晴らしい景色を見ながら温泉に入れるなんて贅沢なことこのうえなしだ!もうおおはしゃぎ!!
温泉に入ってみんな満足したあと、一人の村人が私たちを自宅にいてくれて、一緒にお茶を飲みながら話をした。彼はカラチで教師になるため勉強していて、今は休みなのでこのフンザに戻っている。この村に高校を作りたいと願っているりっぱな人だ。
彼はここカシミールの抱える問題についていろいろと話してくれた。
まずカシミール地方の領土問題からである。世界地図でこのカシミールを見てみると、インド領になってるか、あるいは国境線が描かれていないでどの国に属しているのか分からないかのどちらかだろう。第一次、第二次印バ戦争でいまだにカシミール地域の国境が定まらない。
KKH沿いのこの一帯は一応、停戦ラインの内側ではあるが、パキスタン政府も他の地域とは区別しているようだ。
彼は言う、「この村では高校に行くには通学バスで何時間も悪かる上、危険な所も多い。」と。
カシミールは電話も無い所が多く、公共の交通もお寒い限りだ。自然、住民の生活、教育は他の地域よりも不自由を強いられている。政府としても領土問題が解決していない土地に投資したくないのだろう。そのわりにはホテルを建設したりして観光に力を入れているのだが・・・彼は高校をアガハーン基金で建設したいと言っている。ここで教育を受けて、このカシミールを担う新しい世代を育てたいと・・・
彼は、「あなたがたにこの話をしているのは、外国の人にカシミールの現状を知ってもらいたかったためだ」と言った。
戦争で困るのはこのカシミールの人たちだ。人々は自分たちの手でこの土地を守ろうとしている。
グルミットまでまたヒッチハイクで行く。まひとさんとは、この町で別れた。こうじさんと私はミニバスでカリマバードに向かう。
カリマバードでは、フンザインというホテルに泊まに泊まる。ここも1泊30ルピー(90円)。
<麻薬、銃、そして超道徳の世界>
外務省より-「パキスタン北西辺境州、およびパキスタン北部では麻薬が容易に入手できパキスタン人から購入を勧められることがある」これは本当だった。マリファナぐらいなら『一本くれ』といえばくれる人もいるぐらいだ。
インド方面からパキスタンに北上してきた旅行者の話では、それでも「パキスタンはそれほど汚染されていない。」と言う。パングラディッシュやインド西部ではかなりひどいらしい。ハマって日本に帰れない状態の旅行者が大勢いるという。また、パキスタンの西隣のアフガニスタンではコカインがかなり安く売られており、アフガン侵攻で多くのロシアミが現地で入手しモスクワで売っているとも聞いた。
「この葉っぱが原料さ」とマリファナを吸いながら、おじさんは地面を指さした。見てみると、それと同じ植物はそのあたり一帯に自生しているではないか!・・・ここでは日本でタバコを吸うのが合法であるように、習慣として、あるいは文化として根づいているものなのかもしれない。
ただし、パキスタンでは・・・
ヘロイン10グラム以上所持・・・・2年以上役~終身刑、死刑法政化
大麻10グラム以上所持・・・・・・-2年以下禁固用、30回鞭打ち刑
イラン、シンガポールでは死刑である。それでも誘惑に負けそうだと言うのなら、ぜび”ミッドナイトエキスプレズ”という映画を見てから旅に出ることを勧めます。
次に銃である。アフガニスタンの隣ということ、それとカシミール紛争のため銃を持っている人が多い。普段やさしい顔で接してくれるカシミールの人たちも、インドのことになると「かかってくるならいつでも受けてたってやる!」と息巻く。インドに対して、彼らは一歩も譲らないという気概がある。実際、KKHから逸れたスカルドゥの町などでは、ゲリラ的銃撃戦は日常のことだ。
アフガニスタンに近いペシャワールでは、100ドルでロケットランチャーを撃たせてくれる店があるらしい。マシンガンから短銃まで、なんでも揃うペシャワール。略で出会った菜食主義イギリス人が言っていた「ペシャワールで銃声がしたら、頭を低くしてね」と。
ラワルピンディの町で”マイルドセブン”が1つ60円で売っている
なぜでしょう?日本製の洗剤、歯磨きなどが二束三文で店に並んでいる。そう、それはアフガニスタンへの援助物資である。彼らは物資をたたき売り、また武器を手にして戦うのである。
11.<カリマパード> 6/6
今日はゆっくりこの町に滞在する予定だ。このフンザ地方では山でルビーが拾えるらしいので、是非ともガッポリ、ルビーを拾うのだと決めていた。地球の歩き方によれば、フンザインのおじさんが詳しいと書いてある。”おじさんによると時たま凄いのが落ちているらしい。”食堂に行って朝食の合間に”フンザインのおじさん”に聞いてみると、「そんなもんしらん」と言われる始末。こうなったら自分で探すしかない。
そんないい加減なフンザインを引き払い、坂の上の方にあるニュー・フンザ・ツーリスト・ホテルに移る。と、まひとさんが居るではないか!
まひとさんは、昨日グルミットで泊まり、今日の朝ここに着いたばかりだった。洗濯がたまっているので午前中は部屋に居るというので私とこうじさんでルビー探しをすることにした。目指すはウルター氷河だ。ウルター氷河まで往復するには結構時間がかかる上、本格的な登山道である。食料と水を十分準備して登り始めた。
町が小さく下方に見えるぐらいまで登ると南の方に素晴らしい雄姿のディランの山が見れる。
ディランは7270m、今登っているウルターは7388mだ。
我々は山を登りながら、地面にルビーが落ちていないか目を皿のようにして探していた。3時間ほどまったくそんなものは見あたらなかったが、なにやら赤く輝く小さな石が落ちているではないか!!おおっ、しかもよく見ると大量に落ちている!紛れもなくルビーだ!
あるわ、あるわ、赤い石がたくさん付いている岩があった。落ちているものより、その岩にくっついているのは大きな結晶だったので、我々はその岩を砕き、ルビーを集め始めた。2時間ほど必死になって岩を砕いて、遅くなったので氷河まで行かずに引き返すことにした。できることなら岩ごともって帰りたかったが、直径1mほどのものだったので、残念ながら諦めた。
町に戻ると、子どもたちが私たちにルピーを売りに来た。ここの子どもたちはそれで小遣いを稼いでいるのだろう。「いや、残念ながら僕たちはこんなにたくさんルビーを持ってるんだぜ!」などと言っていると、村のおじいさんが私たちのルピーを見て、「ん~ん、これはルビーじゃない」うそだ!!「これはガーネットだ。たいした価値はない。」そんなバカな!私たちはこれを集めるため、氷河も諦めたのに!
少しがっかりしてホテルに戻った。
<宿帳>
パキスタンの小さな宿には、必ず宿帳がある。宿泊客は日付、名前、国籍、職業、性別、年齢をその宿帳に書き入れる。
宿帳をパラパラめくると、実に様々な国からこの辺境の地に旅人が訪れていることが分かるだろう。
旅人たちはこの宿帳に、カシミールに来たという足跡を残して通り過ぎていくのだ。
宿帳の”職業”の項目は旅行者にとっていわばあそびの項目で、そこに書かれていることをみれば、その旅行者の姿を少しでも想像できるのが面白い。
"FREE ENJOYER","DRUNKER","HOMELESS",PILGRIM",”フリータ-”など変わった”職業”に従事しておられる。
スイス人のヘンリーは、煙突屋なので”Carpenter”だった。私もはじめはまじめに書いていたが、だんだんアホらしくなり”HOBO"などと書いていた。ラワルピンディーではいろいろ考えた末、”doctor”と書いてしまった。宿帳を記入し、部屋に入りのんびりしていると、だれかがノックした。開けてみると客室係の男が立っていた。彼はきれいな灰皿を持ってきてくれた。「ありがとう」と言ってからしばらく、彼は部屋を出ないで、にこやかな表情で私になにか言いたげにしている。彼は自分の喉を撫でながら、「ここが痛いんだ」と言っている。「ああ、そうですか」この人はなぜ私にそんなことを言っているのだろうと思いながら生返事をしたが、ふと気づいた。あっまさか宿帳をみたのでは!?
「あぁー、いや、私はその、まだ医学生でして一、まだそこまでは分からないんですよ、すいません」
へたくそな言い訳でなんとか逃れたが、こんなことになるとは・・・びっくりどっきりものだった。
12.<カリマバード-ギルギット> 6/7
今日は3人でギルギットに向かう。ホテルを出、ガネッシュまで歩いてミニバスで2時間ほどでギルギットに着く。カリマバードまでは寒かったのに、一転してこの町は暑い。こうじさんは一度ギルギットに居たことがあるので、知り合いがいるというマディナホテルに行く。ここも、地球の歩き方には掲載されてないためヨーロピアンばっかりだ。
ホテルではパスーで一緒だったヘンリーやベルギー夫婦たちが泊まっていた。しかし彼らは今からラワルピンディに向けて出発する所だった。
4人部屋1人30ルピー。シャワーも庭にある。
私は帰りのチケットを手配するためPIAのオフィスに行った。ギルギットは北部の中心都市なので、航空券ぐらい買えると思っていたが、ここでは国内線しか扱っていないという。冗談じゃない!6/12成田行きの飛行機に乗らなければ、13日から出勤できなくなる。もう一つ、私のビザは10日間で12日にちょうど切れてしまう。
出国が遅れると面倒なことがいろいろあるので、これは大変だ。
こうじさんのいきつけのカレーヌードル屋で飯を食うことにした。エア・ポートロードに面している。ここのカレーヌードルは日本のカレーうどんに似ていてけっこううまい。あとアイスクリームなどもあり、値段も安い。店内にはテレビが置かれていて、お客は面白そうに見ている。
番組はなぜかBBCの特集だった。BBCの特番の次はなんと日本のドラマだった!普段ドラマを見ないため、何という番組かは分からないが、相楽晴子などが出ていた。字幕は中国語であったが、音声は日本語のままだ。なのにパキスタンの人たちはテレビをみて笑っていた。
この放送は香港の衛生放送スターTVである。
夜は、部屋でみんなが持ち寄った食材で作ることになった。インスタントラーメンに味噌汁飯である。彼らにとっては忘れて久しい日本の味だ。
こうじさんは2ヶ月ほど前にカトマンドゥで日本食を食べて以来である。
食事をしていると、部屋に日本人旅行者があそびに来た。カウンターで我々が泊まっていることを知ったので話しをしに来たのだ。彼は40歳ぐらいに見えるが、かなりの長期旅行者でこれからとりあえず中国に入り、チベットを目指すと言っているが目的地は特にこだわらず放している。彼はパキスタン南部にも行ったようで、そこでの恐ろしい出来事などいろいろ聞かせてく
「北の方は安全ですね」と物知り顔で言っていた。
「ただし、ラワルピンディーギルギットのバスは危険だ。夜は通らない方がいい。」それはアフガンの兵士がバスを襲って略奪をするからであるというのはガイドブックにも書いてあった。「いやいや、彼らは男漁りのためにやるのさ。」「あとは、運が悪ければ殺されて草むらに捨てられる。」など背筋が凍りそうである。
カシュガルで会った女の子が「その道を走っていた幼稚園バスがアフガン兵士に襲われ人質に取られた。パキスタン軍はそれに対し。人質を取り返すよりも先にアフガニスタン大使館を説撃しに行ったらしい。」という事件が最近あったと言っていた。パキスタン南部など言語道断。こんなことはあたりまえで、バスはおろか鉄道まで襲われているらしい。
こうじさんはギルギットの次はペシャワールに行くので一緒に行かないかと言われたが、残りの日数も少ないので行かないことにした。
まひとさんは3日ほどここに滞在するという。
帰りの航空券が気になるので、やはり明日一人で出発しょうと決めた。
13.<ギルギット-ラウルピンディ> 6/8
朝、バスのチケット売場に行った。ラワルピンディ行きのバスは1日10本ほどある。デラックスバスが13:30出発らしいのでそのチケットを買う。220ルピー(660円)。NATCOの普通のバスはずんぐりむっくりの汚いバスなので、”デラックズ”なら快適だろうと思ったのだ。
ホテルに戻る途中、偶然にもカシュガルからのバスで一緒だったアリフに出会った。アリフに「今、バスのチケットを買ってたんだ。」というとラワルピンディからどこに行くんだ?という。
「日本に帰ります。」と言うと「えっ、もう戻るのか?そんなこと言わずにサマルカンドに行こう。」と言うではないか!いやそれは無理です。と丁重にお断りすると、「じゃあ夏の休暇でおいで。案内するよ。ここに電話してくれ。」と名刺をくれた。サマルカンドの旅行代理店に勤めているらしいことが分かった。「私はこの休暇のため、夏は休みなしで働かなければならない。」というと、「ぜひ冬にモスクワにおいで。」という。
行けるわけがないが、彼は本当に親切な人だった。
ホテルに戻り、荷物を理する。その後、送別会として2人と一緒にカレーヌードル屋に行った。バスの時間まで食堂でくつろいでいた。
いよいよ出発の時がきた。バスが停留所にやってきた。フロントガラスの上に小さく”Deluxe”と書いてある以外はちっともデラックスではないバスだったが、たしかにずんぐりむっくりバスよりはいい。
こうじさんとまひとさんにお別れの挨拶をしてバスに乗り込んだ。
花に嵐の例えもあるさ、さよならだけが人生だ。
バスの乗客は、またしてもパキスタン人ばっかりだ。バスは2時に動き出した。16時間ほどで、ラワルピンティに着く予定である。
結局、危険な所を真夜中に通る計算になる。それに昨夜の雨による崖崩れも心配だ。本当に無事到着できるのだろうか?
キルギットの町を抜け、東に向かってバスは進む。ところが、出発して30分としないうちに、橋が壊れていて通れないというアクシデント。パキスタン人たちは驚いていなかった。私も特に驚かなかった。驚くのもばかばかしい、それに山賊や崖崩れに比べればちっとも危険なことではない。
バスはしばらく立ち往生していたが、Uターンして河原に突進した。そのまま川を渡ろうというのだ。無謀な挑戦だと思っていたが、バスはスピードをあげ、石ころの上を進む。が、車輪が石ころに埋まってしまいバスは身勤きが取れなくなってしまった。男はみなバスを降りてバスを押すことになった。当然私もである。20人ぐらいで押すと、バスは動いたが、勢いよく進むとあっと言う間に対岸に渡ってしまった。我々男衆は太股まで川に浸かりながらバスを追いかけなければならなかった!
再びバスに乗り、しばらくしてKKH に合流しラワルピンディを目指す。道路は相変わらず山の斜面をダイナマイトでぶっとばしただけのいまにも崩れてきそうな道である。また雨が降り始めている。崖崩れと山賊に逢わないように祈りながら、景色を眺めていた。
ここから30分置きぐらいの間隔で検問があり、外国人の私だけ、パスを降ろされてパスポートのチェックがあった。
深夜0:20ベシャム到着。いつの間にか、すっかり眠っていたがバスを降りる人の声で起こされた。乗客の大半がこの町で降りていった。ラワルピンディまで行く乗客もここで降りて食事をする。ベシャムもまた武器の町だ。ショウ・ウインドウにはライフルやナイフが飾られている。
14.<ラワルピンディ> 6/9
パスは何事もなく、早朝ラワルピンディ・ピールワダイのバスターミナルに着いた。さあ、ホテルを探して、チケットを手に入れなければならない。
ホテルはSaddar Bazaarのメルハパホテルに泊まった。朝から猛暑のラワルピンディなので今日はエアコン付きのホテルが必要だった。
1泊200ルピー(600円)。少し高いが夜行で来たのでまあいいだろう。部屋に入って、シャワーを浴び、洗濯をしたりとけっこう忙しい。
PIAのオフィスに行ってみると、私が乗ろうと考えていた成田行きPK 752便はキャンセル待ちだというではないか!イスラマバードから日本に行くのは週にこの一便だけであるからこれは大変だ。
予定外だがカラチに行った方がいいなと思ったが、係員が「明日にはチケットを渡せるよ」と言うので、釈然としないがオフィスを後にした。
鉄道駅の北側のラジャーバザールまでスズキに乗って行ってみた。さすがは大都市だけあって、バザールも大きい。バザールでは特にいたいものもなかったので、ホテルに引き返す。
外にいるだけですさまじい熱気で疲れる。ホテルの部屋には空調があるのだが窓がなく極めて陰気な部屋だ。おとなしく本を読んでいたが、我慢の限界に達し、また出掛ける。
それにしてもまったく酒が売っていないのには困り果てた。中国内では毎日ビール4本ほど飲んでいたが、パキスタンに入ってからは、密かに隠し持っていたウイスキーをパスーで飲み干してしまって以来長いこと飲んでない。同じイスラムのトルコ、イスタンプールではウイスキーも入手できたのだが・・・パキスタン人は酒なしでも大丈夫なのだろう
15.<ラワルピンディ>6/10
PIAオフィスにて・・・ネットワークが壊れているらしく2時間近く待っている。「紅茶でも飲むか?」と聞いてくる担当官。てめー、呑気なこと言ってないでカラチに電話しろよ!紅茶を飲んだあと、この担当官を無視して別の担当官にカラチ経由で12日中に日本に帰れる便を探してもらう。とりあえずカラチまで行き、ルーマニア航空で北京まで行けば帰れるようだが、ルーマニア航空ってのがどうも気に入らない。シンガポールやバンコック経由では乗り継ぎが悪いらしい。いつそイスタンブールへ行った方がいいかもと思ったが、これも連絡が悪い。結局もとのリクエスト状態のチケットを作ってもらい、オフィスを出た。
私は、ホテルを変えることにした。200ルピーのホテルはやはり贅沢だと思ったのだ。1泊60ルピーのアル・アザムホテルに決めた。ただし空調はなく、窓もない。
しかし、これが最悪の結果になった。真夜中になっても気温は36度、呼吸すら苦しい。昨日は空調のおかげで助かっていたということがよく分かった。服を着たまま水シャワーを浴びても効き目なし。
6月というのに、すでにこの暑さでパキスタン南部、インドでは、死人が出ているということは旅行者との話で知っていた。鉛のように重たい空気が体を羽交い締めにしている!逃げる所もない、午前3:00にメルハバホテルに行くわけにもいかないし・・・最終的に、私はホテルの廊下に水を撒き、その人工大理石の上にうつ伏せになって、いつの間にか眠ることができた。
冗談ではなく、本当に死ぬかと思った。
16. <ラワルピンディ> 6/11
今日も朝からPIAのオフィスに行く。リクエスト状態の航空券では安心できないので、ちゃんと座席が確保されるかどうか確かめるためだ。以外にも担当官は「もう大丈夫だ!よかったなぁ」と言ってくれる。私はそれでも半信半疑だったが気持ちはかなり落ち着いた。オフィスを出て、またメルハバホテルに泊まるため、再度チェックインする。
私はこの旅行を計画したときからずっと、このラワルピンディには全く興味がなかった。たまたま旅の終点がこの町になっただけなのだ。空調の効いた部屋で本を読みながら、早い時間に寝た。
17. <イスラマバード-成田> 6/12
午前1:30、荷物を整理し一時間後に部屋を出る。午前2:30だというのに、通りですぐにタクシーがつかまった。イスラマバード発7:00の便なのだが少しでも早く行っておいた方がいいかと思ったのだ。
カラチから飛んできたPK 752便がイスラマバード国際空港に到着した。飛行機の座席に座って、この席を手に入れるのに苦労したのをあらためて思い起こしていた。
飛行機が飛び立ち、イスラマバードとラワルピンディの町がどんどん小さくなっていく。町を眺めながら、「今度はこの町からイスタンブールまでだ。だけどそれは当分お預けだ。またいずれ来るだろう、さようなら」と町にお別れをした。
飛行機はカラコルム山脈の真上を静かに飛んで、旅が終わったことを少し残念に思いながら眠った。
あとがき:
「人は旅に出て、自分の器の分だけ持ち帰る」この言葉を本で読んだのは、初めての海外旅行の直前だった。それ以後、旅に出ることは自分を試すことでもあると思って旅に出るようになりました。毎回、旅にでて自分の未熟さゆえ、得られなかったことが悔しいと思うことも多く、またそう感じることも大切だと思っています。
17日間という短い旅程。この旅で出会った多くの旅人たちの中でもっとも駆け足の旅だった。だから私が旅で体験し得た事は彼らに遠く及ぶまい。しかし私にとっては貴重な経験だ。
出会った人たちは、それぞれ皆、人生の転機として旅に出てきていた。1年、いやそれ以上の期間で旅行している人もいた。宿で、そうした人たちの話を聞くのが、私の一番楽しいことだった。
もうパキスタンから帰国して8カ月過ぎたが、まだ今でもどこか異国の空の下で旅のつづきをしている人もいるだろう。そんな素晴らしい夢を叶えている彼らに思いを馳せながら、この旅行記を締めくくります。