劇塾忘備録(再録)
伊丹想流劇塾一期生公演「新しい人」で演出として参加させていただき、無事終演いたしました。
数年前に劇塾の前身、想流私塾に身を置いていたものとしては感慨深いものは当然ある。
1年間短編をとにかく書き続ける劇塾、当たり前だが慣れない人にはしんどいものである。
卒塾された10名の皆様、本当におつかれさまでした。その場に立ち会わせていただき感謝しております。
さて、今回演出のみの参加という事で以下の点で留意したり発見しながら、上演に向けて作品の造形を行っていった。
個人的に発見、反省、再認識すべき事が沢山あったので、忘備録として公開しておくことにします。
「新しい人泳ぐ」作:古後七海(写真右)
かほ・・・岩田奈々
魚谷・・・岡田望
「新しい人煙を吹かす」作:長尾譲二(写真左)
船越・・・岡田望
小林・・・堀江勇気
一代・・・千田訓子
対話の中で展開が行われるは箇所は、なるべく丁寧に俳優と積み上げるべきエネルギーの在処を認識しつつ繰り返し練習して体現してもらう。
対話の中で積み上げられる事実の具体化や感情の変化、さらにその変化から起こりうる感情や状況の変化は、演出や俳優の想像やスタッフワークからも影響を受けるものなのだが、時として戯曲に書かれた「必然」を削いでしまう恐れが十二分にある。そうすると戯曲の中で対話が運ぶエネルギーが死んでしまう事になりかねない。
(戯曲の再構築も踏まえて演出する場合はこの限りではないが)
なので、演出を入れる事で戯曲が起こそうとしている事実を曲げてしまっては、戯曲が作品の骨組みになりえない。
演出を行うものが留意すべき点は、私にとってはそれのみであると言ってよい。
自分で書いた作品であれば書き直しが可能であるが、そうで無かった今回はより丁寧に対話が積み上げる温度の変化に注意した。
これは「泳ぐ」の稽古2回めで作家に大幅な加筆修正をお願いした際に、顕著になった。
「泳ぐ」の戯曲は、当初作家の大きなイメージと感覚のみで構成されていた。
そのイメージと感覚は大変魅力的な作品ではあるので、稽古場でも楽しく展開する事が出来ていたが、次第に、私も俳優も対話が積み上げるべきエネルギーの拠り所を見失ってしまった。
ここで書き直しをお願いする際に役立ったのが、名誉塾長である北村想さんが書かれた「高校生のための実践劇作入門」であった。
位相、順序、代数の3つが戯曲の構造であるが、書き直し前の泳ぐは、感覚で書かれた部分が多かったので、特に順序、代数に関して改めて読み直してもらう事に。
ご興味を持たれた方は是非ご一読をオススメします。
修正後は戯曲の対話の中で育まれるエネルギーを損なわないように組み上げていけば、自然と対話は立ち上がっていった。
俳優から起こった事実を見逃さない。その事実の源流を探り、必要であれば修正をする。
俳優も当然戯曲を読み込んでくる。
私のチームはとにかく台詞を速く覚えてこい、話はそれからだ、という稽古開始だった。
逆に言えば、内容どうこうはあまり言わず、とにかく台詞を覚えてきてくれさえすれば良かった。
稽古回数が少ない劇塾で俳優が台詞を覚えていないというのは大変なアドバンテージである。
これはDWSでもそうだし、本公演でも辛酸を何度も舐めてしまった経験から出た。
口酸っぱく言ってたので、4人とも台詞はしっかり入れてきてくださった。
なので前段の本の書き換えはリスクを伴う判断であったが、俳優二人も作家が悔いなきよう書き換える事を快諾していただいたので、とても良い流れで稽古内容を深めていく事が出来た。
無茶に付き合ってくれた岡田さんと岩田さんに感謝。
そうして本を覚えた俳優が稽古場でお互いの台詞を交わす最初のうちは、基本的には覚えてきた台詞の言い回しで進行する。
たとえそれが私が読んだ内容と違ってもこの時点ではさほど問題ない。
何度か台詞を合わせるうちに、俳優に変化が起こる。
相手の言い方や間に意味を見出したら、当然自分の言い方や間に変化が起こる。
この変化を演出は見逃してはいけない。
何故ならその変化は戯曲が立体化する際に起こりうる可能性として、演出が想像していなかった一手になりうる。
つまり可能性が広がるのだ。
ただその変化が俳優のその場の思いつきであったり、台詞をしっかり覚えていない事に起因していないかも確認せねばならない。
思いつきをもとに芝居を組み上げると、戯曲の大筋から離れてしまいイメージがバラけて観客の拠り所が失われてしまう。
なので俳優に変化が生じた、もしくは自分の想定と大きく違っていった場合は、何故俳優がそう読んだか理由を必ず確認した。
その理由が思いつきの類であった場合、もしくは前段の戯曲が運んでいくエネルギーを削ぐものであったならば、
否定するのではなく、改めて変化が起こりはじめた箇所を確認し、修正していく。
ただ、どことは言わないが、実は本番まで一箇所だけ修正できずにいたリアクションがあり、そこに関して私は今猛省している。
これは私の落ち度だ。作家さん、俳優さん、そして観客に大変申し訳無く思っている。
俳優のスタンドプレーに見えてしまったリアクションがあるならば、そこです。
空間と戯曲の力を拮抗させる
今回アイホールでほぼ素舞台での上演だったのだが、何処までが俳優のアクティングエリアであるか、何処までが俳優が認識すべきエリアであるかは意識した。
ただ手練の俳優さんで固めた今回は、皆様それぞれの経験値から適切にアクトしていただいたので、私から申し添えた事は少ない。
「泳ぐ」は部屋であり、沖縄の海であり、瀬戸内海の奥底深くでありと沢山のギミックが戯曲に盛り込まれていて、
「吹かす」は部屋でのみ進行する戯曲であったので、対比がしやすく演出としては切り替えがしやすくて助かった。
「泳ぐ」で俳優に伝えたのは、布を何と捉えるかかな。俳優は勝手に見つけてくださっていたけれども。
「シーツ」であり「部屋」であり「海」であり「死」でありと変化が多くあったので、その境目を、体の動きや目線、そして照明、音響によって変化させていく事で
舞台に動きを与えていき、観客に戯曲が持つイメージを想像してもらう一助として機能させる事に尽力した。
「吹かす」では俳優に、この部屋が抽象的なイメージを内在させた演出であるという事をボックスの位置、窓の扱い、小道具の扱い方において認識していただき、体現してもらった。
吹かすは部屋自体が大きな「シュレディンガーの猫」のボックスである事は戯曲から読み解く事が出来たので、
それを舞台で成立させる為に、密室の開口部である窓は大きく(予算があれば、私はとても大きな窓をお願いしていただろう)設定し、コーヒーを床に置いたり、ファブリーズを黒く塗って舞台中央に配置したりする事で、俳優に「普通に会話劇をする空間じゃないんだ」という認識を強くしてもらった。
これは作家さんからすると、まさか、という演出だったかもしれないが、
会話のやりとり自体にかなりのエネルギーを要する対話であると認識できたので、その対話を最大に活かすためには、この空間に具象という不自由の中でアクトしていただくよりも抽象空間という不自由の中でアクトしていただきながら戯曲のエネルギーを運んでいっていただく事で、観客がこの戯曲がもつ言葉のやりとりの可笑しさによりフォーカス出来たのではないかと思っている。
勿論可能性として、具象空間で上演するのも面白い戯曲ではあるのだが、短編連作の中で中途半端に具象化するよりは良かったのではないかと思う。
消極的理由に思われるかもしれないが、制限の中で最大限を探るのが小劇場演劇の面白さだと個人的には思っているので、良しとする。
小道具を追加してみた。
「泳ぐ」でト書きにかかれていない小道具で登場させたのは「キャリーバッグ」と「麦わら帽子」。
「吹かす」では「造花(ドライフラワー)」と「ファブリーズ」の各二点。
泳ぐの初稿では、修学旅行に行く為にキャリーバッグを準備まではしていたという事で、台詞の中には登場していたが、
私、俳優ともに作家より随分年上で、修学旅行でキャリーバッグを持っていくという感覚がいまいち想像できず
(話をする中で、まぁ今の子達はそうだよねと自分達の年齢を改めて思い知らされたわけだが)
書き直しをお願いしたときに作家さんが世代によってはロスが生じる台詞だと認識してくれたのか、削除されていた。
ただモチーフとして面白いものであったし、かほが魚谷が沈んでいる瀬戸内海に潜って会いに行くという「行動」に出るというシーンはとても魅力的だったので
ならその行動を象徴するキャリーバッグ、そして不本意にも経験できなかった沖縄の修学旅行を想起させる麦わら帽子は、
「かほの再生」が軸になったこの作品にはピッタリな道具だろういうことで配置してみた。
「吹かす」は前段で空間の抽象化に必要性を感じていた私が、浮気をしているかもしれない妻、浮気を疑いすぎる夫、という対立構造の象徴として配置している。
造花から匂いなどしない。しかし空間に造花を配置すると、彼女が持っている造花はドライフラワーにも見える。
大事そうに抱えれば生きた花のようにも感じられるので、空間の抽象化を目指した今作において象徴的であり良い道具になった。
ファブリーズの使用は、未だに少し強引であったかもしれないと思わなくもない。
俳優が不快な匂いを感じる事を表現するのは、演技のみでも可能である。
が、あえてディフォルメする為のファブリーズである。
造花という象徴を配置したが故に対立構造として別の象徴を用意する事自体悪いとは思わないが、もう少し稽古が必要であった道具な気はしている。
二人の間で戸惑う小林が対話を重視しながらファブリーズにも反応しきるまでは、仕上がっていない気はする。
これは俳優が悪いわけではなく演出のスタンドプレー感は否めない。
俳優が体現出来るところまで落とし込めなかったのだから、稽古時間との逆算を間違えたのかもしれない。
要反省。
ちなみに魚谷のヒレの作成でコトリ会議の要小飴ちゃんに大層お世話になりました。ありがとう。
ちなみにメイクは作者自信に行ってもらいました。
歌声のある音楽の力と「エモ間」について。
今回、恐らくなのだが、私の10数年の演出経験の中ではじめて、日本語歌詞の歌声入りの音楽を劇中に使用した。
「泳ぐ」の戯曲のもつ「エモさ」は、どうも私が今までに上演してきた作品にない魅力なのだ。「エモい」って何か分からないが、とにかくこれは、エモいぞと。
ただその魅力を私の手駒で表現するのは少し厳しい。私なりに振り切ったほうが良い本だと判断したのだろう。
となると私も「新しい人」ではなく「新しい事」に挑戦してみるか、という気持ちからこのプランはスタートしたように思う。
使用した曲は「The Water is Wide」というスコットランド民謡の日本語歌詞バージョン。
元歌は「マッサン」や「リンダリンダリンダ」でも使用されているぐらい、日本でも親しみをもって受け入れられている歌だ。
これは前段で述べたキャリーバッグと麦わら帽子と同じく、かほの行動をより具体化する為に使用した。
ただ使用決定当初は私も音響の日本(ひのもと)さんも「?」の気持ちを持ちつつであった。
私はその「エモさ」が戯曲から読み取れてはいるのだが、調整はかなり必要だった。
しかし、稽古が進むにつれてキャリーバッグを持って走り込んでくるかほ、心のこじれを少しほぐされた魚谷の気持ちが合流する台詞
「会いに行ってあげる」
「え?」
「素潜り自信ないけど」
の対話に感情がほぐれる「間」が生じる隙間が出来た。
私はふざけ心も含ませつつその間の事を「エモ間」と名付けて、日本さんと俳優に「エモ間」に音楽が必要だと伝えた。
そして「エモ間」を理解していただき、芝居はそこに向けて感情が増幅していった。
照明の狭間さんもエモ間をしっかり認識してくれていた。
そして最初の歌詞である
「この海は広くて 私には行けない 羽もない 私に船を 二人で 乗る船
水面は穏やか 私は流れる 声もない あなたに寄り添い 二人で 行く船」
という歌詞が上演を引き締めてくれた。
私の知らない感情「エモい」。
その感情を勝手に理解するために「エモ間」という言葉を名付けてやってみたのだがいかがだったのだろうか。個人的には、自分の手数が増えた気がしているのだが。
ただ、千田さんや譲二さんの世代の俳優さんは、当たり前のように「エモ間」を体現している事に気がつく。
演劇の劇的な瞬間を劇的に増幅させる。こういう事はキャリアを積み上げて初めて知る感覚なのかもしれないし、知っている人は自然とやれる事なのかもしれない。
今後も機会があればチャレンジしたい「エモ間」ではあるが、無駄に劇的にして気色悪くなるという失敗の可能性も大きく孕んでいるので注意したい。
新しい俳優と前の俳優と今の俳優
「泳ぐ」にご出演いただいた岡田さん、岩田さんはともに初のお仕事、そして「吹かす」は岡田さんは初、堀江は20代に飽きる程劇を作った仲、そして千田さんは万博設計で随分お世話になっているし、今後共一緒に劇を作っていきたい方だ。
このバランスは結果として個人的には凄く良く機能したし、信頼の積み上げがしやすかった。頼るべきところ、探るべきところがはっきりしていたからである。
「泳ぐ」の二人は舞台上では拝見していたが実際に現場をともにした事がない二人であったが、共通点として劇がとにかく好きで、異常なまでに繊細な心を持ったお二人だ。
(あとふたりともガンダムが好きだ)
とにかく丁寧に言葉を紡いでくれるし、大胆なオーダーにも果敢に応えてくださった。
その繊細さは、今作の繊細な感覚の揺れが台詞に現れた作品にはうってつけだったと言える。
二人が体現する演技はスタンドプレーには決してならず、作品を土台に造形してくださるので、演出としては、その土台がさらによく伝わるように考えるだけで良かったともいえる。
本番直前の通しでランタイムが2分以上伸びたのだが、それもとにかく繊細に言葉と言葉を生む感情を紡いでくださった結果であったので、実はあまり気にしていなかった。
こういう通しは必要で、本番に出なくて良かった、むしろ本番直前でこれが出て良かったと本気で思った。
「間」は戯曲に準じて行えばよい。ただ俳優から生み出される「間」は繊細に進んでいただいている結果なので、あとは台詞中にその紡いだ感情を内在していただくだけで良い。
結果本番2ステージで、不必要な間を増やす事なく岩田さんの感情が稽古より高まった状態での上演となった。
想定の範囲ではあったが、用意された状況に対応していただき、その対応した上での感情の表現は作品に良い結果をもたらしていたはずだ。素敵な女優さんである。
「吹かす」はジャズのセッションではないが、それぞれが持っている俳優の質感を用意した戯曲と道具と空間で遊んでもらった。
なのであまり演技プランには稽古で触れていない。
いや、1度あった。
千田さんが初読みのときに浮気していないバージョンで一代を造形してくださっていたが、ここは船越が一代に対する疑いを増幅させる為に、浮気してそう感はオーダーした。
そして次の稽古で、千田さんはセッションを楽しめる状況まで役の造形をしてきてくださった。
昨今千田さんと劇をずっと作りたいと想い続けれるのも、こういう器用さと、その造形技術の精巧さ、そして力強さに私が惚れこんでいるからである。
逆に堀江はある意味不器用さが魅力な俳優である。数年ぶりの一緒の現場となったが、その根本は変わっていなかった。
彼のキャラクターとその造形手段はさらに固定化している気もする。あと10年ぐらいしたら、さらに硬質化して「無骨」というキャラクターを背負った良い俳優になるのではと想像できた。
そんな二人の間で私にとって新しい人である岡田さんは、持ち前の繊細さを武器にゴリゴリ船越という役を造形していってくださった。
失礼な物言いで演出してしまったかもしれないが、これからも是非またお付き合いいただけるのであれば、ご一緒したい俳優さんであるし、
もっと知られて良い俳優さんだとオススメしたい方でもある。家が和歌山だから兵庫通いはちょっと大変そうでしたが。。
結び
さて、これ以上長くなってもまだまだ止まらないし、他の作品の演出方法、俳優の魅力にも触れてみたいが、そろそろ結んでおく。
今回演出という目線において、両作ともに沢山の発見を与えていただいた作品だった。
もしお二人が望んでいただけるならまた演出してみたいと思えたし、新たな作家の作品を演出する意義も確実に見いだせた。
劇塾で1年掛けて積み上げた結果の副産物としての上演ではあるが、私の新たな一歩にもなりました。感謝。
そしてこういった機会を与えていただいたアイホールの皆様、そして岩崎さんにも大変感謝しております。
打ち上げの席で館長に褒めていただいたのは、今後の自信に繋がりそうです。
演出の仕事来ないかなぁ。実は今年これで演出最後なんですよ。
(自分でやれよと思われるだろうし、思っているわけでもあるのですが)