実践が、伝える。劇場版『SHIROBAKO』と「月刊Newtype」、そして雑誌「広告」
こんにちは。XD編集部員/CX DIVE構成員の柏原(@tkashiwabara09)です。
今回は、良い体験を伝えるためにはどうすればよいのか?という話です。
メディアとしてのXDもイベントとしてのCX DIVEも、切り口や着眼点の違いはあれど基本的にはすべて、わたしたちとして「良い体験とはこれだ」「これこそが、いま眼を向けるべき体験だ」ということを伝えたくて記事をつくり、パネルディスカッションを企画しています。
そうはいっても、わたしの思う「良い体験」を伝えるのに、ことばだけでは足りないということが往々にしてあります。美味しい料理を伝達する最良の方法は「食べてもらうこと」。心揺さぶる映画であれば「観てもらうこと」なのではないか。
一方で、未知のものは食べることも観ることもできないわけです。ではその「良さ」を伝えるにはどうすればよいのか。
さて、ここでは2つの例をもとに、「伝える」ことの実践について考えていきます。
「アニメ制作を描くアニメ」としての『SHIROBAKO』
まず、劇場版『SHIROBAKO』をメイン特集にした「月刊Newtype4月号」です。厳密には、Newtypeの公式Twitterの以下の投稿。
『SHIROBAKO』とは、アニメーション制作と業界の舞台裏を描いた作品です。この状況で観に行きにくいのが本当に残念ですが、劇場版上映中です。後述のNewtypeのTwitter投稿が取り上げたい例なのですが、そのためにここでは少しSHIROBAKOについて説明します。
P.A.WORKS制作のオリジナルアニメとして、2014年10月から2015年3月に放映された人気作。『SHIROBAKO』がいかに卓越した作品なのか。ここではあまり書きませんが、個人的な見解として、「アニメ制作を描くアニメ」であることに起因する視聴者のメタレベルのまなざしの期待に応えながら、そのまなざしを「現代社会で働く〈あなた〉を描くアニメ」へと方向づけ、視聴者が登場人物に感情移入できる構造を獲得している、ということだけは指摘しておきます。
「アニメ制作を描くアニメ」であるということは、自己言及的な作品になるということです。視聴者もそれとわかるかたちで元ネタのある人物やエピソードを出したり、アニメファンのある種の行動様式を戯画化して描いたりすることで、作品側と視聴者側(=アニメファン)とのあいだに共犯関係をつくりだし、そこにエンターテインメントとしての強度を見出す。
一方で作品側は、視聴者側をアニメファンとしてだけではなく、「働くあなた」としても捉え直してこようとする。アニメファンとしてメタレベルなまなざしを向けていたのに、宮森あおいの右往左往、安原絵麻の葛藤、坂木しずかの苦悩……彼女たちの元ネタは誰なのだろうか?作品側は彼女たちにどんな意図をもたせているのか?このようなメタ意識の侵入を許してしまう。宮森あおいとはわたしのことではないか?話を追うごとに、何度も何度も想起させられる。
『SHIROBAKO』はこうして、登場人物に感情移入できる構造を作り出している。そして、何度観ても第23話で号泣することになるのです。
『SHIROBAKO』を再現する「Newtype」の実践
話が逸れました。何がいいたかったというと、『SHIROBAKO』はアニメ制作を描くアニメであるということ。そこに、例の「Newtype」の投稿です(再掲)。
Newtypeの表紙がどのように出来上がっているのか。編集部によるラフ(左)をもとに、アニメーターがデザインをおこす(右)。「どうしてこのラフから、この表紙ができあがるんだ!アニメーターってやっぱりすごい!」というのが1回目の楽しみ方です。
(ちなみに、編集部のラフは雑に見えるかもしれませんが、こちらで全く問題なくアニメーターには過不足なく意図が伝わっているはずです)
この投稿はもう1度楽しめる。つまり「Newtype」はこの「ラフ→表紙」の制作過程によって、『SHIROBAKO』がどのような作品か、ということを伝えることを意図し、成功している。「アニメ制作を描くアニメ」の魅力を伝えるために、『SHIROBAKO』という作品を支えるメタレベルのまなざしを、「Newtype」上でも再現してみせたわけです。
『SHIROBAKO』の魅力をことばで伝えるだけでなく、「Newtype」自身がSHIROBAKOの魅力の源泉を実際にやってみせることで、再現する。「『アニメ制作を描くアニメ』を紹介するアニメ雑誌の制作を描くアニメ雑誌」という実践によって。
これこそが、体験を伝えるひとつのかたちだと思ったわけです。アニメ専門誌として、『SHIROBAKO』の魅力が何に支えられているかを理解している「Newtype」であるがゆえにできた方法。痺れました。
価値を考えるために1円で売り、著作を考えるためにコピー版を出す雑誌『広告』
同様のアプローチは、2019年7月にリニューアルした博報堂の雑誌『広告』でも見られます。
「価値」を特集としたリニューアル創刊号は1円で販売されました。その意図は以下です(https://kohkoku.jp/archive/413/ からの引用)
雑誌『広告』は、「いいものをつくる、とは何か?」を全体テーマに据え、この問いを思索する「視点のカタログ」として生まれ変わりました。リニューアル創刊号の特集は「価値」。価格は1円(税込)です。ものの価値の感じ方は、しばしば価格によって左右されます。価値によって価格が決まることはあっても、その逆はないはずなのに。この雑誌と1円を交換する体験は、「ものの価値」について考える入り口です。全680ページの分厚い誌面では、ものが溢れるこの時代に、本当に価値あるものとは何なのか、これから価値あるものをどう生み出していけばいいのか。「価値」についての様々な視点を投げかけています。
価値というものを考えるために、雑誌の価格自体を操作する。おなじテクストであっても、値段が変われば受け手の享受する価値は変わりうるということを実践的に示しています。ちなみに、「1円ショップ」という1円で買えるもののみを集めたオンラインショップも展開していて、本当に実践的。
雑誌『広告』最新号でもこのパフォーマティブな姿勢は貫かれています。「著作」をテーマにし、オリジナル版(2,000円)とコピー版(200円)を同時販売しています。コミュニケーションやメディアの意味と機能を、総合広告代理店という主体が雑誌という媒体において問うという自己言及的性格の強さこそ『広告』の特徴でしょうか。その特性は、伝え方の実践への意識にあらわれていると思います。
実践が伝える/実践が伝えてしまう
伝えるべき対象をどのように伝えるべきか。テクストにとどまらず、別のかたちで。そもそも、体験(Experience)という、多分に非言語的実践を含む概念を、言語のみで伝達するということのもどかしさ、直感的な違和が、わたしたちをXDとCX DIVEという2つの道へ誘うのでしょう。
「体験を描く体験」。これをどのように実践するべきかというのはわたしたちの大きな課題となりそうです。
そして最後に。ここまでで見た「実践による伝達」とでもいうべきコミュニケーションは、なにもここに挙げたような例だけが成し得るものではありません。というよりも、すべてのコミュニケーションから、この実践性を取り除くことはできないと考えるほうが自然です。同じメッセージであっても、その文脈によって受け手が受け取る意味内容は変わるということがよくあります。
送り手が期待したメッセージ伝達が成し遂げられなかったり、意図とは真逆の反応を受けてしまうその背景には、そのメッセージが運ばれる文脈への意識の差があるように思われます。
ここで検討したコミュニケーションにおける実践は、伝えにくいものをどのように伝えればよいのか?という話ですが、それは「何を伝えてしまうのか?」という問題と表裏一体の関係でもあるわけです。