顧客を人間として捉えるとはどういうことか、あるいは〈人間的〉の対概念
こんにちは。XD編集部員/CX DIVE構成員の柏原(@tkashiwabara09)です。
企業やブランドの優れた顧客体験のあり方を探求していくと、顧客をひとりの人間として捉え、個々人に向き合うという姿勢がゆるやかな共通項として見出だせるということに気づきます。
「顧客をひとりの人間として捉える」とはどういうことか
顧客体験は、商品やサービスの価格や機能性といった物理的な価値だけではなく、それらを通して得られる満足感や喜びというような感情や経験の価値も含めた概念とされます。
企業からすれば、商品やサービスは自らが生産するものであるがゆえに、その物的な価値は画一化できるし、コントロールすることができます。一方で顧客体験とは、商品やサービスが利活用される過程で顧客の心の中に生じる主観に重きを置く考え方です。つまり、商品やサービスを介した企業と顧客の相互作用においてこそ、その商品やサービスの価値が立ち現れる。
顧客の主観や感情を重要視するということは、その前提として顧客のことを「一人ひとりの個性をもった人間」として捉えることが必要になります。年齢がいくつとか、居住地がどことか、年収がいくらだとか、そういった情報のみでは一人ひとりの個性を捉えることはできず、個別具体的な主観を見誤るという事態に陥りがちです。それでは優れた顧客体験は創出することはできないし、モノやサービスのコモディティ化と顧客にとっての選択肢の多様化が同時進行する市場のなかで選ばれる企業・ブランドになることは難しいということになる。
「顧客をひとりの人間として捉える」という姿勢は、ある意味で当然の前提のように思えます。顧客体験という考え方に賛同するか否かにかかわらず、「そんなことは当たり前だろう」という声が聞こえてきてしかるべきです。それはその通りで、デジタルマーケティングの文脈で「顧客体験」「CX」という言葉が出てくるずっと前から、「顧客体験的」な企業やサービスはたくさんあったはずだし、そもそも顧客のことを人間と捉えていないと喧伝する企業は存在しないでしょう。
しかしながらわたしたちは、「顧客をひとりの人間として捉える」という主張や姿勢が有効性をもってしまうことに目を向けなければいけません。つまり、「顧客をひとりの人間として捉える」ということは言うほどに容易いことではなく、商いの前提とされる水準までは実践として普及していない、ということなのではないでしょうか。
〈人間的〉の対概念から考える
なぜなのか?それは、経済合理性追求という企業の目的のための手段として顧客が位置付けられてしまう構造の解明にあるのでしょうが、残念ながらわたしの能力では手に余ります。
「顧客を人間として捉える」という実践には、人間とはどのような存在であるかという認識が先立つはずです。おぼろげであっても「人間とはこういうものだ」とか「こういう扱いは人間的なものではない」という認識なければ、その実践は行なえない。しかしながら「人間とはなにか」というのも本当に、本当に大変に壮大なテーマです。
だが、糸口くらいはつかめるのではないか。人間あるいは〈人間的〉の対義語・対概念から、〈人間的〉なものに迫ることができないかというのが今回の試みです。
先取りすれば、〈人間的〉なるものは機械的、経済的、統計的の対概念として理解することが可能であるということです。後述しますが、以下の図がその整理です。
※以降2つの補論がありますが、読み飛ばしても論旨の把握には差し支えはありません。
〈人間的〉/機械的
まず指摘できるのは「人間は機械ではない」という見方です。数多くのフィクションが、機械、特にロボットとの対比で人間を描き、人間性を理解しようとしてきました。ここでは手塚治虫『火の鳥』に登場するロビタを取り上げてみましょう(以下のマンガ画像はロビタの紹介ページから引用)。
『火の鳥』にはロビタ以外にもロボットが登場しますが、彼らは画一的で、間違えることがなく、徹頭徹尾合理的な判断と行動を行います。一方でロビタは、上記の画像にもあるとおり「人間らしい失敗」や「感情らしいものできげんが変わる」ことがある。このような行動が「どこか人間くさかった」の根拠とされています。
ロビタは心をもった機械であり、それゆえに人間くささをもっている。Aという入力に対して必ずA’という出力を返すのが機械です。ロビタは心をもつがゆえに、Aという入力にA’を出力しない場合がある。
このような、ロビタを経由した人間⇔機械の対比はあまりにも素朴です。むしろ現代的なSFではこの「人間くささ」をも織り込んだアンドロイドが人間とどのように区別されるのかということこそ、わたしたちの人間性に迫る問いとされているはずです。
ここでの論点は、人間⇔機械の対比についての社会的なメタ認知にあります。つまり「画一的に間違えることなく、Aという入力に必ずA’を出力する」という在り方は機械的であり、それは〈人間的〉との対比で理解され、心が不在の在り方だという認識がひろく共有されている。
提供されたサービスの不備で怒っているのに、マニュアル通りの融通の効かない対応に終始されることを「機械的な扱いを受けた」と表現することがあります。自分は感情に依拠したコミュニケーションをとっているのに、相手はその感情を読み取ろうとしない。その在り方に、わたしたちはある種の「非人間性」を感じ取ってしまうということです。
補論1:人間と機械の差異についてのメタ認知
ところで、ロビタがもつ心の在り方を「Aという入力にA’を出力しない場合がある」と表現しました。しかし、ここで心とされるものを他のロボットがもたない高度な計算装置と捉え、ロビタはそれを使い人間のプロトコルに最適化した結果を出力しており、ゆえに「人間くささ」があるとされている、という見方もできます。
つまり、人間に相対する機械が、人間の入力に対する「正しい」出力の多様性・可変性・柔軟性を十分に備えることができれば、人間側はそのやり取り自体が「機械的なものではない」と判断する可能性はもちろんあるということです。
しかしながら、そのやり取り自体を「機械と行っている」ことへの認知がどのようなものになるかはまた別の問題であるとわたしは考えます。ゆえにフィクションにおいて、人間と変わらない(と自分が認識した)アンドロイドを愛した人間は、彼/彼女がアンドロイドであることがわかってしまったとき、自分の愛の正統性に悩むことになるのではないでしょうか。
〈人間的〉/経済的
二つめの対概念は「経済的」です。これは以前に別の記事で書いた「贈与」とかかわる話でもあります。
文化人類学でいうところの贈与は、商品交換との対比で理解される概念でした。市場における貨幣を媒介にした商品交換は、そのやりとりの形態を脱感情化し、匿名化するという特徴があります。あるいは、やりとりする双方の関係を人対人ではなく、モノ対モノの関係に置き換える性格があると言い換えてもいいかもしれません。
「私情を挟まない」とか「効率のみを重視する」という様を「ビジネスライク」と表現することがあります。また、高度経済成長期の日本人はその利己的で経済合理性のみを追求する姿から、国際社会において「エコノミック・アニマル」と呼ばれました。つまり人間とは呼べないという含意です。人間の、特に合理性・効率性からあふれた余白にこそ人間的なものが宿るということでしょう。
補論2:交換と贈与は相互依存的に存在する
この時点で、経済合理性が前景化する交換というやりとりの形態は人を人として捉えておらず、非人間的なので忌避されるべきものだと思うかもしれませんが、事態はそう単純ではありません。
日常生活のあらゆる場面が贈与的であれば、それはそれで大変なものになるはずです。言葉を選ばずにいえば、鬱陶しいったらありゃしない。毎日のスーパーでの買い物に、常に感情的やりとりが付与されたらどうなるか。やりとりとは相互作用のことで、店員さんが感情を伴ったコミュニケーションを行ってきたら、わたしも相応のコミュニケーションで返答することが求められます。もちろん無視することもできますが、「感情を伴ったコミュニケーションを無視した自己」にどれだけの人が耐えられるのでしょうか。
送り手として注意を払えるのは、受け手が交換を期待しているときは交換のモードを、贈与を期待しているときには贈与のモードでやりとりを行うということでしょう。ただ、交換のモードのときに贈与的なコミュニケーションを行うことが、期待を越えたコミュニケーションとして「成功」することもあります。逆に、相手が贈与的なコミュニケーションを求めているのに、交換に終始することは受け手の期待に全く応えられていないということです。問題は交換と贈与のバランスということになります。
交換と贈与はコインの裏表のような、相互依存的な存在です。交換があるから非・交換としての贈与が成立するし、贈与があるから非・贈与としての交換が成り立つ。つまり感情を伴うやりとりは、脱感情化されたやりとりとの区別において成立するのです。
〈人間的〉/統計的
三つめの対概念には「統計的」を挙げました。ここでの統計とは「事象を数量に変換し、数量によって把握する」こととしておきます。
例えば、自分の家族(例えば父)が自動車に轢かれて怪我をしたとします。わたしにとって父はかけがえのない、唯一無二の存在です。交通事故の報せを受けたとき、きっと「命に別状はないだろうか」と不安になるはずです。病院で父と面会し、幸いにも命にかかわる怪我ではないことがわかって安堵したり、後遺症はないだろうかと別の心配がでてきたり、一体どこのどいつが轢いたのだ?と怒りも湧いてくるのでしょう。
一方でこの負傷事故は、警察庁の交通事故統計では「軽症者+1名」と把握されることになります。この「軽症者+1名」からは、わたしにとっての父の唯一無二という性格は全く捨象されています。国家はある時期のある場所において何件の交通事故が発生し、何件の軽症者が出たのかということのみを把握し管理したいのだから、それは当然のことです。
交通事故で怪我をする人々は、その状況も怪我の具合も、人それぞれ異なるはずです。しかしながら統計は、ある基準で個人ごとの差異を消失させ、計算することを可能にします。
人間を数量によって把握するという方法は、大まかな全体傾向を捉えることにはもちろん有効です。しかし、個々人とのコミュニケーションの場面でもこのような統計的態度のみを追求すると、相対する人の豊かな個性を無視するということにつながりかねないし、その態度の非人間性は相手に伝達してしまいます。「お父さんが事故に合わなければ、今月の軽症者は2桁で収まっていたのに」と言われたらどのように思うか、という話です。
まとめると、〈人間的〉の対概念としての「統計的」は、相対する人間の、唯一無二の個性を捨象する営みとして機能してしまうということになります。
機械的/経済的/統計的把握の誘惑
ここまでで、〈人間的〉とされるものの対概念として機械的・経済的・統計的を見出しました。以下の図にまとめます(再掲)。三つの対概念との対比から導かれる〈人間的〉な在り方も赤文字で追記をしています。
三つの対概念は厳密に排他的なものではありません。商品交換(経済)のやりとりは脱感情化されますし、それぞれは相互に関連し合っていると考えたほうが自然です。
また、企業の経済活動において、三つの対概念を完全に取り除くことは現実的ではありませんし、するべきでもありません。問題はそのバランスであり、特に顧客の主観が問題になる場面においての行使の仕方です。
念頭におくべきは、この三つの対概念は商いのすべての局面において影響力を及ぼそうとわたしたちを誘惑してくるということです。ある基準を設けて、画一的にモノやサービスを作り出し、その利活用の過程も画一的にコントロールすることで効率化を図れば、利益が最大化されるためです。しかしながら今や、その定式が成立するのは、顧客が主体性をもたない存在であると仮定された場合のみなのではないでしょうか。
今回は「顧客を人間として捉える」ための整理で記事を終えることになります。XDの記事の読み方や、読者の方が惹かれる顧客体験の秘訣をより良く理解するための補助線として貢献できればうれしいです。ここで記した三つの対概念の誘惑の詳細や背景、顧客を〈人間的〉と捉えるその実践などの検討は、別の機会に譲ることにします。
最後に、主体性をもった顧客と相対するためには、以上のような観点のもとに誘惑に抗い、顧客を〈人間的〉に捉える訓練が必要なのだと感じます。ビジネスの局面に限らずわたしたちの生活において、例えばスマートフォンの画面の向こう側に生身の人間がいるということを想像することができるようになれば、「顧客をひとりの人間として捉える」という主張も有効性を失うことになるはずですし、そうなることを願っています。