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ムーンリバーより(ヘンリー・マッシーニ)

映画、ムーンリバーとピンクパンサーの音楽の作曲家は同じだったのですね。

そうですね、映画「ムーン・リバー」(『ティファニーで朝食を』の主題歌)と「ピンク・パンサー」の音楽の作曲家は、どちらもヘンリー・マンシーニです。マンシーニは映画音楽の巨匠で、数々の名曲を手掛けました。「ムーン・リバー」は特に有名な作品の一つで、オードリー・ヘプバーンが劇中で歌ったことで広く知られていますし、「ピンク・パンサーのテーマ」も彼の代表作として長く愛されています。

他にも彼が作曲した有名映画はありますか?

ヘンリー・マンシーニが作曲した有名な映画音楽はいくつもあります。いくつか代表的な作品を挙げると:

  1. 『シャレード』 (1963)
    この映画の主題曲「シャレード」も、マンシーニの名曲のひとつです。ロマンティックでスリリングな雰囲気を持つ音楽が、映画のミステリアスなストーリーにぴったり合っています。

  2. 『大脱走』 (1963)
    この映画のテーマ音楽は、特に有名で、多くの人が耳にしたことがある明るく勇ましいメロディです。

  3. 『アラベスク』 (1966)
    サスペンス映画『アラベスク』の音楽もマンシーニの手によるもので、エキゾチックでスリリングな音楽が映画に彩りを添えています。

  4. 『Victor/Victoria』 (1982)
    ミュージカル映画『ビクター/ビクトリア』でも、マンシーニは音楽を担当しており、この作品でアカデミー賞の作曲賞を受賞しました。

  5. 『ホット・ロック』 (1972)
    コメディ犯罪映画『ホット・ロック』の音楽もマンシーニの作曲で、軽快なテーマ曲が作品のユーモアにマッチしています。

マンシーニは、様々なジャンルの映画音楽を手がけ、その幅広い作風で多くの映画を印象深くしています。

ヘンリー・マンシーニの他の有名な映画音楽をさらにご紹介します:

  1. 『ハタリ!』 (1962)
    この映画では、「ベイビー・エレファント・ウォーク」が特に有名です。マンシーニの軽快で楽しいメロディが、映画のアフリカを舞台にしたサファリのシーンにぴったりです。

  2. 『ホワイト・クリスマス』 (1954)
    この映画の音楽もマンシーニが手がけており、クリスマス映画の定番として親しまれています。

  3. 『日曜日は別れの時』 (1966)
    この映画では、マンシーニは「The Sweetheart Tree」という美しいバラードを作曲しており、ロマンティックなムードを盛り上げています。

  4. 『ティファニーで朝食を』 (1961)
    すでにご存知の「ムーン・リバー」のほか、マンシーニは映画全体のスコアを手掛けており、映画のエレガントでシックな雰囲気を音楽で支えています。

  5. 『おかしなおかしな大追跡』 (1965)
    このコメディ映画の音楽もマンシーニが担当しており、コミカルで軽快なテーマ曲が映画のユーモアに合っています。

  6. 『サスペリア PART2』 (1975)
    ダリオ・アルジェント監督のホラー映画の音楽にも携わっており、マンシーニの音楽はそのスリリングで不気味な雰囲気を引き立てています。

  7. 『グレン・ミラー物語』 (1954)
    この映画では、マンシーニはグレン・ミラーの名曲を取り入れつつ、ジャズやスウィングの要素を取り入れた魅力的な音楽を作り上げました。

マンシーニは、ジャズ、クラシック、ポップスなど幅広い音楽スタイルを巧みに取り入れ、映画音楽の世界に多大な影響を与えました。彼の作品は、時代を超えて多くの人々に愛されています。

サウンドオブミュージックは、最初はオードリーヘップバーンが候補だったが、歌が上手くなく、ジュリーアンドリュースになったと聞きました。

確かに、「サウンド・オブ・ミュージック」の主演候補として、最初にオードリー・ヘプバーンが名前が挙がっていたという話があります。オードリー・ヘプバーンは『ティファニーで朝食を』などでその魅力を発揮しており、注目されていましたが、歌唱力の点で監督や製作陣が懸念を抱いたため、最終的にジュリー・アンドリュースが起用されることになったという経緯があります。

ジュリー・アンドリュースは、『メリー・ポピンズ』でその歌唱力と演技力を既に証明しており、音楽の要素が重要な「サウンド・オブ・ミュージック」においても彼女が適役と判断されました。この選択は結果的に非常に成功し、アンドリュースはこの役で名声をさらに高めました。

ジュリーアンドリュースの方が、快活だったかもしれませんね。

確かに、ジュリー・アンドリュースの明るく快活な演技は、「サウンド・オブ・ミュージック」のマリア役に非常に合っていました。彼女の澄んだ歌声とエネルギッシュな存在感が、映画全体の魅力を引き立てています。ジュリー・アンドリュースが演じたマリアは、子供たちに元気を与え、家族に活気を取り戻すというキャラクターにぴったりで、彼女の快活さが映画の成功に大きく寄与したと思います。

オードリー・ヘプバーンも素晴らしい女優ですが、彼女の落ち着いた雰囲気や繊細な魅力とは少し違ったタイプのキャラクターだったかもしれません。ジュリー・アンドリュースの持つ活発さが、この作品にはまさに必要だったのでしょうね。

サウンドオブミュージックは、実話ではないのですよね?

「サウンド・オブ・ミュージック」は、フィクション要素が含まれてはいるものの、実話を元にしています。この映画の基になっているのは、マリア・フォン・トラップ(Maria von Trapp)とトラップ家の実際の出来事です。マリアは修道女見習いとして、オーストリアのトラップ家に赴き、子供たちの家庭教師を務めました。その後、彼女はトラップ男爵(Georg von Trapp)と結婚し、家族で音楽活動を行うようになります。

映画では、トラップ一家がナチス・ドイツから逃れるために音楽祭で演奏し、その後アルプスを越えて逃亡するという劇的なシーンがありますが、これは脚色された部分です。実際には、家族は列車を使ってナチスの占領下にあったオーストリアからイタリアに逃亡し、その後アメリカに移住して音楽活動を続けました。

つまり、映画の多くの要素は事実に基づいていますが、物語の一部はドラマチックに描かれたフィクションとなっています。

お父さんは、軍属でしたか?

はい、マリア・フォン・トラップの夫、ゲオルク・フォン・トラップ男爵は、オーストリア=ハンガリー帝国海軍の軍人でした。彼は第一次世界大戦中に潜水艦の艦長を務め、数々の戦功を挙げたことで知られています。彼の活躍によって、オーストリアの英雄とされていました。

しかし、第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、オーストリアは海を失ったため、ゲオルク・フォン・トラップは海軍を退役しました。彼が軍人としてのキャリアを終えた後、彼とその家族は音楽活動に力を入れるようになりました。この音楽活動が、後に「サウンド・オブ・ミュージック」の物語の基盤となった部分です。

映画の中では、彼が厳格な軍人として描かれていますが、実際のゲオルクは、家族や音楽を大切にする穏やかな人物だったといわれています。

バルト海が領土だった頃でしょうか?

はい、ゲオルク・フォン・トラップがオーストリア=ハンガリー帝国の海軍軍人として活躍していた時代、オーストリア=ハンガリー帝国にはバルト海の領土はありませんでした。しかし、帝国はアドリア海に面していたため、海軍の活動は主にアドリア海が中心でした。フォン・トラップが活躍していたのも、アドリア海における海軍作戦でした。

具体的には、彼はアドリア海で潜水艦の艦長として任務に当たり、特にイタリアとの戦いで多くの功績を挙げました。オーストリア=ハンガリー帝国がバルト海の領土を持っていた時代はなく、フォン・トラップの海軍での任務もバルト海とは無関係でした。帝国の海軍活動はアドリア海に集中していたのです。

トラップ一家の、亡命後の活躍はどの様なものだったのですか?

トラップ一家は、ナチス・ドイツがオーストリアを併合した後、オーストリアを離れてアメリカへ亡命しました。アメリカに移住した後も、彼らの音楽活動は続き、特に合唱団「トラップ・ファミリー・シンガーズ(Trapp Family Singers)」として世界的に有名になりました。彼らの亡命後の活躍は次のような流れです:

  1. 音楽活動の拡大
    トラップ一家はアメリカで音楽活動を続け、クラシック音楽や宗教音楽を中心に演奏を行いました。彼らの歌声は非常に人気があり、アメリカ国内だけでなく、ヨーロッパや南米でもツアーを行い、広く知られるようになりました。特に戦後の1940年代には、彼らの合唱団は非常に成功を収め、アメリカの有名なコンサートホールでも演奏を行いました。

  2. トラップ一家農場の設立
    一家は、アメリカのバーモント州にあるストウに定住し、そこで農場を設立しました。この農場は、家族が暮らしながらも観光客を受け入れる施設となり、音楽活動と共に一家の収入源となりました。現在でもこの「トラップ・ファミリー・ロッジ」として残っており、観光名所として人気があります。

  3. 社会活動
    トラップ一家は、音楽活動だけでなく、社会的にも積極的に活動しました。特に第二次世界大戦後には、アメリカにおける難民支援や教育活動に尽力しました。彼らは、ドイツ占領下にあるヨーロッパの状況を世界に知らせ、戦争被害者の支援活動に取り組んでいました。

  4. 映画や舞台での成功
    トラップ一家の物語は、後に「サウンド・オブ・ミュージック」というミュージカルや映画によって世界中に広まりました。ミュージカルは1959年にブロードウェイで初演され、映画は1965年に公開されると大ヒットを記録し、トラップ一家の実話がさらに広く知られるようになりました。

  5. その後の家族の歩み
    音楽活動は1950年代半ばに終わりましたが、一部の家族はその後も個別に音楽活動を続けました。マリア・フォン・トラップは自伝を執筆し、一家の亡命や音楽活動について語りました。彼女は、戦後もバーモント州で生活を続け、1990年代に亡くなりました。

トラップ一家は、亡命後も音楽を通じて多くの人々に感動を与え、社会貢献活動を行うことでその影響を広げました。彼らの物語は、「サウンド・オブ・ミュージック」を通じて今も多くの人々に親しまれています。

ジュリー・アンドリュースとオードリー・ヘップバーンの確執はなかったのでしょうか?

ジュリー・アンドリュースとオードリー・ヘプバーンの間に特に確執があったという記録や報道はありません。実際、両者はお互いに尊敬し合っていたと言われています。

具体的には、オードリー・ヘプバーンが『マイ・フェア・レディ』の映画版でイライザ役を演じた際、元々この役を舞台版で演じたのはジュリー・アンドリュースでした。映画化の際、ジュリー・アンドリュースがまだ映画女優としては無名だったため、製作陣は人気の高いオードリー・ヘプバーンを主演に選んだと言われています。このキャスティングは一部で議論を呼びましたが、ジュリー・アンドリュース自身はヘプバーンに対して特に批判的なコメントをすることはなく、むしろ理解を示していたようです。

また、1965年のアカデミー賞で、ジュリー・アンドリュースは『メリー・ポピンズ』で主演女優賞を受賞しましたが、彼女はその場でヘプバーンに感謝の言葉を述べたと言われています。これは、ヘプバーンが『マイ・フェア・レディ』の映画版で主演を務めたため、アンドリュースが『メリー・ポピンズ』の主演の機会を得たという背景があり、アンドリュースはそのことに感謝していたからです。

このように、ジュリー・アンドリュースとオードリー・ヘプバーンの間に確執はなく、むしろ互いに敬意を持って接していたと考えられます。

晩年のオードリー・ヘップバーンについて教えてください。

晩年のオードリー・ヘプバーンは、映画女優としての活動を減らし、主に人道活動に力を注ぐようになりました。彼女は1980年代から1990年代初頭にかけて、国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使として活躍し、貧困に苦しむ子供たちの支援に尽力しました。

オードリー・ヘプバーンの晩年の活動についての主なポイント:

  1. ユニセフの親善大使
    1988年、オードリー・ヘプバーンはユニセフの親善大使に任命され、アフリカや南米、アジアなどの発展途上国を訪れました。彼女は貧困や飢餓、戦争の被害を受けている子供たちのために積極的に活動し、世界中にその状況を訴えました。エチオピア、スーダン、バングラデシュ、ベトナムなどの国々を訪れ、支援の必要性を訴え、その姿勢は多くの人々に感銘を与えました。

  2. 人道支援活動への献身
    ヘプバーンは、かつて第二次世界大戦中にナチス占領下のオランダで子供時代を過ごし、飢餓の恐怖を体験しました。その経験が、彼女が後年、貧困や飢餓に苦しむ人々に強い関心を持つきっかけとなったと言われています。彼女の活動は、単に表向きの支援者としてではなく、現地で実際に困窮する人々と直接交流し、彼らの声を世界に届けるという熱意に満ちていました。

  3. 晩年の映画活動
    晩年の映画出演は少なくなりましたが、彼女の最後の映画出演は、1990年の『オールウェイズ』でした。この映画で、彼女は天使の役を演じ、ファンタジー要素を含んだ心温まる作品となりました。俳優としてのキャリアのピークを過ぎても、彼女の存在感は衰えることなく、多くのファンに愛され続けました。

  4. 病気と最期の日々
    1992年、オードリー・ヘプバーンは腹部の痛みを訴え、検査の結果、大腸癌が発見されました。彼女は治療を受けましたが、病状が悪化し、1993年1月20日、スイスの自宅で家族に見守られながら63歳で亡くなりました。彼女の死は多くのファンや世界中の人々に衝撃を与えました。

  5. 遺産と影響
    オードリー・ヘプバーンの遺産は、映画界だけでなく、彼女の人道活動を通じても今なお強く残っています。彼女の息子たちは、母親の遺志を継いで「オードリー・ヘプバーン・チルドレン基金」を設立し、ユニセフをはじめとする様々な慈善活動を続けています。ヘプバーンは、彼女の優雅さや才能だけでなく、他者に対する思いやりと奉仕の精神で、映画史だけでなく人道支援の歴史にも大きな足跡を残しました。

晩年のオードリー・ヘプバーンは、彼女がスクリーンで見せた美しさと気品を、現実世界の支援活動でも実践し、より広く、深い意味で多くの人々に影響を与えたと言えるでしょう。

コケティッシュな風貌は、日本人好みでしょうね。

確かに、オードリー・ヘプバーンのコケティッシュな風貌や控えめで上品な魅力は、日本でも非常に人気がありました。彼女の細身で繊細なスタイルや優雅な立ち居振る舞い、そしてその独特の愛らしさが、日本人の美的感覚に合っていたと考えられます。ヘプバーンはただの美しさだけでなく、内面的な優しさや気品を感じさせる女優であり、その点が特に日本人にとって魅力的だったのかもしれません。

彼女の映画が日本でも長く愛されているのは、その風貌とともに、彼女が体現した知的で謙虚な魅力が、特に日本文化に共鳴する部分があったからでしょうね。

ムーンリバーのあらすじを教えてください。

「ムーン・リバー」は、映画『ティファニーで朝食を』(原題: Breakfast at Tiffany's)の主題歌として有名ですが、映画全体のあらすじを紹介します。

あらすじ:

『ティファニーで朝食を』は、ニューヨークを舞台に、自由奔放な若い女性ホリー・ゴライトリー(オードリー・ヘプバーン)と、彼女の隣人で小説家を目指すポール・ヴァージャク(ジョージ・ペパード)の物語です。

ホリーは、社交界を中心に生きる謎めいた女性で、毎朝ティファニーのショーウィンドウを眺めることで心の平穏を保っていると語ります。彼女は、自由を愛し、特定の相手に縛られることを嫌う性格ですが、実際には孤独と不安を抱えています。過去の生活についても明らかにせず、他人との深い関わりを避けながらも、裕福な男性との交際を通じて生計を立てています。

一方、ポールは作家志望でありながら、現実には経済的に苦しい生活を送っており、裕福な女性からの援助を受けています。ホリーとの出会いをきっかけに、次第に彼女に惹かれていきますが、彼女の自由を尊重しつつ、ホリーの内面にある不安や孤独を理解しようとします。

物語は、ホリーが自分自身と向き合い、自由への憧れと真実の愛の間で葛藤する姿を描いています。最終的に、彼女はポールとの関係を深め、自由だけでは満たされない心の部分を認識し、愛と自己受容を見出すまでの成長の物語です。

ムーン・リバーの役割:

「ムーン・リバー」は、映画の中でホリーがアパートの窓辺でギターを弾きながら歌うシーンで使用されており、彼女の内なる夢と希望、そして不安や孤独を象徴しています。歌詞に登場する「ムーン・リバー」は、自由と冒険の象徴であり、ホリーの自由を求める姿勢を反映しながらも、彼女がまだ自分の居場所を見つけていない心情を表現しています。この曲は映画全体のテーマにも深く関わり、物語の繊細さと優雅さを引き立てています。

ホリーは田舎では既婚だったのでは?

そうです、映画『ティファニーで朝食を』では、ホリー・ゴライトリーが実は田舎で既婚者だった過去が明らかになります。彼女の本名はルラメイ・バーンズで、もともとは貧しい田舎の少女でした。まだ十代の頃、彼女は年上の男性ドク・ゴライトリーと結婚しています。ドクはホリーの面倒を見ていた心優しい男性で、ホリーにとっては父親的な存在でもありました。

映画の中で、ドクが突然ニューヨークにやってきて、ホリーに戻ってきてほしいと頼むシーンがあります。この出来事は、ホリーが過去を隠していたことを明らかにし、彼女の現在の自由奔放な生活と対照的に、彼女が背負っている複雑な感情や逃れようとしている背景を強調しています。

しかし、ホリーは自分を縛る過去や束縛を嫌い、ドクとの結婚生活に戻ることはありません。彼女は都会で新しい自分を作り上げ、自由を求めて生きる道を選んだのです。この田舎での過去が、ホリーの心の奥底にある孤独や不安、そして逃れたいという衝動をさらに強調する要素となっています。

別にドクに問題があった訳ではないですよね?

そうですね、ドク・ゴライトリーには特に大きな問題があったわけではありません。彼は心優しく、ホリー(ルラメイ)を本当に大切に思っていました。彼がホリーと結婚したのは、彼女が若くて困窮している状況を救おうとしたからです。彼にとってホリーは、愛する妻であり、同時に父親的な庇護を与えたい存在でした。

ドク自身は誠実な人間であり、ホリーをニューヨークに追いかけてまで連れ戻そうとするシーンでも、彼女に対して真摯な愛情を示しています。しかし、ホリーは、田舎の貧しい生活や、若いころに経験した束縛された生活から逃れたいという強い思いを持っており、ドクとの結婚もその一部に過ぎないと感じていました。

ホリーにとって問題だったのは、ドクそのものというよりも、彼との結婚生活が象徴する「過去の自分」や「束縛された生活」でした。彼女は自由を強く求め、自分のアイデンティティを再構築するためにニューヨークでの新しい生活を選んだのです。ドクはホリーにとって、彼女が逃れようとした過去の一部であり、それが二人の間の溝を生んだ要因でした。

田舎の閉塞感から飛び出して都会に憧れるのは、日本でもあり得ますよね。

確かに、田舎の閉塞感から抜け出し、都会での新しい生活や自由を求めるというテーマは、日本でも非常に共感を得られるものです。日本では、特に若者が地方から東京や大阪などの大都市に出て行き、より多くのチャンスや自由を求める傾向があります。地方の伝統や慣習に縛られることから逃れ、都会で自分らしい生き方を模索するという動きは、時代や文化を超えて共通するものだと思います。

映画や文学作品でも、こうしたテーマは日本でも多く描かれており、都会で新たな夢や自己実現を追い求める人々の物語は、今もなお強い共感を呼んでいます。

夢を追いかけて、夢破れるケースがほとんどでしょうが。

確かに、都会で夢を追いかけるものの、多くの場合、現実は厳しく、夢が破れるケースが多いという現実もあります。大都市では競争が激しく、理想と現実のギャップに直面することがよくあります。日本でも、特に若者が田舎から出てきて、都会で新しい生活や成功を夢見ますが、理想通りに進むことは少なく、挫折や困難にぶつかることが一般的です。

こうした現実は、映画や文学のテーマとしてもよく取り上げられ、都会の孤独感や競争の厳しさに直面する若者の姿が描かれます。それでも多くの人々は、夢を追いかけること自体に価値を見出し、挑戦することをやめません。夢破れたとしても、その過程が人を成長させるという捉え方もあります。

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