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民族音楽と愛国心
チャールダッシュと民族主義の関係性はありますか?
「チャールダッシュ(Csárdás)」はハンガリーを代表する民族舞踊・音楽の形式として知られています。19世紀頃に成立したとされるチャールダッシュは、「ヴェルブンク(Verbunkos)」というハンガリーの徴兵舞踊にルーツをもちながら、独自の洗練を経て民衆に広く根付いたものです。このチャールダッシュが、ハンガリー国内において民族意識・ナショナル・アイデンティティの象徴として語られるようになった背景には、19世紀ヨーロッパ全体を覆った民族主義(ナショナリズム)の潮流があります。
以下に、チャールダッシュと民族主義(とりわけハンガリー民族主義)との関係を簡単にまとめます。
1. 19世紀ヨーロッパにおける民族主義の高まり
19世紀はヨーロッパ各地でナショナリズムが高まり、各民族が自らの言語や文化・芸術の価値を見直し、政治的独立や自治を求める動きが強くなった時代でした。
オーストリア=ハンガリー二重帝国時代、ハンガリー人たちはオーストリア人主体の統治からの自治拡大や独立を求めて民族主義運動を展開し、その過程で自分たちの“ハンガリーらしさ”を象徴する文化に目を向けました。
音楽や踊りも「国民文化の精髄」として強調され、チャールダッシュはそうした機運とあいまって「ハンガリー民族の心」を象徴する芸術のひとつとして注目を浴びたのです。
2. チャールダッシュの特徴と「ハンガリーらしさ」の演出
チャールダッシュは、ゆったりとした序奏部(lassú)と急速な主部(friss)から成る構成が特徴的です。このメリハリのある曲想や舞踊スタイルが「情熱的」「哀愁と活気の交錯」といったイメージを生み、当時の人々にとって「ハンガリーの魂」を体現するものとみなされました。
民族舞踊としての華やかさ・派手なステップやスカートさばきなどが、見る人に強いインパクトを与えます。
音楽面では、ヴァイオリンを中心としたジプシー音楽の流れと結びつき、華麗な装飾音や急転調などが独特の「東欧感」「ハンガリー感」を際立たせます。
3. 作曲家たちによる「ハンガリー音楽」の創出と普及
ハンガリーやその周辺地域出身の作曲家たちは、チャールダッシュをはじめとする民謡・民舞を積極的に取り入れ、ヨーロッパ全土へ広めていきました。
フランツ・リスト(Liszt Ferenc, 1811–1886)は、ハンガリー・ラプソディを通じてハンガリーの音楽要素を国際的に知らしめましたが、その中でもヴェルブンクやチャールダッシュにヒントを得た熱狂的なリズムが取り入れられています。
ヨハネス・ブラームス(ドイツ人)の『ハンガリー舞曲』や、ヴィットーリオ・モンティ(イタリア人)の有名な『チャールダッシュ』のように、外国の作曲家がこの様式に魅了され作品を書いたことも、ハンガリーの民族色を世界的に広める一助となりました。
こうした「ハンガリーらしさ」を前面に打ち出す作品が海外でヒットすると、ハンガリー内外で人々の誇りや愛国心を大いに高め、結果としてハンガリー民族主義の高揚にもつながっていきました。
4. ハンガリー民族主義とチャールダッシュ
ハンガリーの民族主義運動においては、ハンガリー語の復興や、ハンガリー独自の文化様式(建築様式、衣装、料理など)の重視と並行して、音楽と舞踊も重要な役割を果たしました。チャールダッシュはその中でも象徴的な存在として扱われ、
独立運動の集会や愛国的行事などで披露されたり、
貴族や市民層を問わず、幅広い人々が社交の場や祭りなどで踊ったり、
することで、各々の場で「自分たちはハンガリー人である」という意識を高める道具として機能しました。
まとめ
チャールダッシュはハンガリーの民族舞踊・音楽として確立し、19世紀ヨーロッパのナショナリズム隆盛の背景のなかで、「ハンガリー民族の精神」を象徴する芸術としての地位を獲得しました。そのため、チャールダッシュとハンガリー民族主義(ナショナリズム)のあいだには深い関係性があり、ハンガリーの人々が自らの民族的アイデンティティを誇りをもって示すうえで欠かせない存在だったといえます。
当時はそれぞれ、チェコ、ポーランド、スラブ、ハンガリーなど、それぞれの国の作曲家は、民族主義として地域をテーマに作曲していましたね。
そうですね。19世紀後半から20世紀初頭にかけてヨーロッパ各地で民族意識が高まるにつれ、音楽の世界でも「自国の民謡や舞踊の要素を取り入れ、自分たちの国・地域のアイデンティティを表現しよう」という動きが加速しました。いわゆる「国民楽派(民族主義音楽)」と呼ばれる作曲家たちが活躍した時代です。以下、それぞれの地域の代表的な例を挙げてみます。
チェコ(ボヘミア地域)
ベドルジハ・スメタナ(Bedřich Smetana, 1824–1884)
代表作『わが祖国(Má Vlast)』は、モルダウ川を描いた「モルダウ(Vltava)」をはじめ、祖国の風景・伝説・歴史を題材にした連作交響詩として知られています。スメタナは、チェコ語オペラの発展にも大きく貢献し、チェコ民族音楽の礎を築きました。アントニーン・ドヴォルザーク(Antonín Dvořák, 1841–1904)
『スラヴ舞曲(Slavonic Dances)』や交響曲第9番「新世界より」などで知られます。彼もチェコの民族舞踊リズムや民謡風の旋律を積極的に取り入れ、世界的にチェコの音楽を広めました。
ポーランド
フレデリック・ショパン(Frédéric Chopin, 1810–1849)
ポーランドの国民的作曲家として有名です。ポーランドの民族舞踊であるマズルカやポロネーズのリズムと独自のエレガンス・リリシズムを融合させ、多くのピアノ作品を残しました。海外での生活が長かったショパンですが、作品の随所にポーランドの民族的な特色が表現されています。
スラヴ圏(ロシアを含む広義の「スラヴ」)
ロシア五人組(Mighty Five)
バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディンらが、ロシア固有の音楽を発展させるべく活動しました。民謡・民話・歴史伝承などを題材にした作品を多く作曲し、西欧の伝統に頼りすぎない独自のロシア音楽を築こうとしました。チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky, 1840–1893)
民謡要素の取り入れ方はより西欧的な構成に馴染む形ですが、それでもオペラやバレエ作品にはロシアの民話や文学が根底にあり、ロシア的情感が強く表現されています。
ハンガリー
フランツ・リスト(Franz Liszt, 1811–1886)
『ハンガリー狂詩曲(Hungarian Rhapsodies)』ではヴェルブンク(徴兵舞踊)やチャールダッシュのリズムや旋律が色濃く取り入れられています。世界的ピアニストとしての活動を通して、ハンガリー音楽を国際舞台に紹介した功績は大きいです。ベーラ・バルトーク(Béla Bartók, 1881–1945) や ゾルタン・コダーイ(Zoltán Kodály, 1882–1967)
厳密な民謡収集・研究を通じてハンガリーの民謡を古層から掘り起こし、それを現代的な作品へと再構築しました。単なる「民族色」ではなく、学術的アプローチに基づいたハンガリーの音楽文化の継承・発展が注目されます。
これらの作曲家たちは、それぞれの地域の民族的・国民的な価値を西欧音楽(主にクラシック)というフォーマットで表現することに取り組みました。19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパ全体の民族主義・ロマン主義的気運の中で、「自らの民族文化を音楽作品に反映させる」ということが大きな潮流となったわけです。そうした動きが「国民楽派」という呼び名でまとめて語られ、チェコ、ポーランド、ハンガリー、そして広義のスラヴ諸国など、さまざまな地域でそれぞれの特色をもった作品が生み出されました。
特にドボルザークはどうでしょう?
アントニーン・ドヴォルザーク(Antonín Dvořák, 1841–1904) は、チェコ(当時のボヘミア)を代表する国民楽派の作曲家の一人です。スメタナが築いたチェコ音楽の伝統をさらに発展させ、「チェコの音楽」を国際的に知らしめた功労者といわれています。以下、ドヴォルザークの民族主義的側面に注目してみましょう。
1. チェコ(ボヘミア)民謡・民舞の影響
ドヴォルザークの作品には、チェコやモラヴィア地方の民謡・民舞の要素が色濃く反映されています。
《スラヴ舞曲(Slavonic Dances)》 Op.46(1878年)、Op.72(1886年)
チェコのみならず広義のスラヴ地域の舞曲リズムやメロディを取り入れた組曲。作曲当初はピアノ連弾用として書かれましたが、現在はオーケストラ版としてもよく演奏されます。中でもドヴォルザーク独特の情感豊かな旋律はチェコの民族的色彩を強く感じさせます。《モラヴィア二重唱(Moravské dvojzpěvy)》
モラヴィア地方の民謡からインスパイアされており、チェコ語の歌詞を用いた二重唱集。自然や恋愛を題材にした素朴な詩と、民謡に基づくような素朴で親しみやすい旋律が特徴です。
2. チェコ語オペラの創作
ドヴォルザークはオペラの分野でもチェコ語で作曲を行いました。有名なものとしてはオペラ 《ルサルカ(Rusalka)》(1901年初演)が挙げられます。
神話や民話を題材にしたオペラをチェコ語で書くことで、自国語による舞台芸術の発展にも大きく貢献し、チェコの音楽文化への誇りや愛着を高める一助となりました。
3. 国際的成功と「チェコの音楽」のアピール
ドヴォルザークは、当時オーストリア帝国(のちオーストリア=ハンガリー帝国)の支配下にあったボヘミア地方に生まれました。チェコの民族文化が軽んじられがちな状況下で、チェコ語による作品、そして民謡・民舞に根ざした楽曲を国際舞台に広めることは、チェコ民族意識の高揚に大きく貢献しました。
1870年代後半、彼はブラームスの支援を受けて一気に国際的名声を高めます。最終的にロンドンやアメリカからも招かれ、各地で作品を披露し評価を得ることで、「チェコの音楽」を世界に認めさせる形となりました。
4. 新世界における「古郷への想い」
ドヴォルザークはアメリカに滞在した際(1892–1895年)、交響曲第9番 《新世界より》(From the New World) を作曲し、世界的に大成功を収めました。アメリカ先住民の旋律や黒人霊歌(スピリチュアル)のイメージを取り入れてはいますが、同時に作品全体にはチェコの旋律感や民族的ニュアンスが依然として流れています。
ドヴォルザーク自身も「このメロディの底には、常に自分の祖国の民謡が鳴っている(要旨)」と語ったと伝えられ、アメリカ滞在中でも故郷ボヘミアへの郷愁や民族的アイデンティティを強く保っていたことがうかがえます。
まとめ
ドヴォルザークは、チェコ(ボヘミア)の民謡や舞踊を積極的に取り入れ、自国の音楽文化を世界的にアピールした作曲家です。スメタナが切り開いたチェコ国民楽派の道をさらに発展させ、オペラや管弦楽、室内楽、声楽曲など多彩なジャンルで“チェコらしさ”を表現したことにより、チェコの民族主義音楽を国際的に普及させた先駆者の一人といえます。
チャールダッシュ自体は、演奏をすることが禁止されていませんでしたか?
チャールダッシュ(Csárdás)が「公式に全面禁止」されていたという、いわゆる明確な法律や布告の形での史料は現在ほとんど確認されていません。ただし、歴史的背景を考えると、ハンガリーとオーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)との関係や、19世紀中葉以降の政治的な緊張のなかで、“ハンガリーらしさ”を強調する行為——たとえば民族衣装の着用や、愛国心をかき立てるような音楽の演奏——が、当局や支配層によって監視・制限されることはありました。
1. 1848年革命とその後の弾圧
1848年に起こったハンガリー革命(独立運動)がオーストリア帝国に鎮圧されて以降、ハンガリー語の使用や民族を象徴する文化活動(民族衣装の着用・愛国的な音楽の演奏など)に対して、当局が厳しい姿勢を示すようになった時期があります。
ただし、これらは「法律でチャールダッシュを禁止する」という形よりは、“愛国心・民族主義を鼓舞する活動の取り締まり”という文脈で、一時的に取り締まられたり規制されることがあっただろうと推測されます。たとえばある時期には、ハンガリーの民族色を強く打ち出したデモや集会でのチャールダッシュの演奏・踊りが事実上“禁圧”に近い形で扱われることはあったかもしれません。
2. 公共の場での自主規制・自粛
公式の「禁止令」ではないにせよ、政治的緊張が高まると、劇場や公共の場でのチャールダッシュの上演やジプシー・バンドの活動が制限を受けたり、自主規制せざるを得なくなったりするケースはあったと考えられます。
特に1850年代以降、ハンガリー人の愛国心に関わる活動や、民族的シンボルが表立って強調されることを警戒した統治当局の動きはあったため、チャールダッシュもその対象となることがあった可能性はあります。
3. オープンな「全面禁止令」は確認されていない
とはいえ、少なくとも現在多くの研究者が参照している史料・文献の範囲では、「チャールダッシュの演奏や踊りを全面的に禁止する」といった、はっきりした法令や布告の存在は見られません。
後年になり、アウスグライヒ(1867年の和協)でハンガリー王国が自治権を拡大して以降は、むしろチャールダッシュが“ハンガリー民族の象徴”として積極的に称揚され、宮廷舞踏会や国際的な場でもハンガリー文化の誇りとして披露されるケースが増えていきました。
まとめ
公式に「チャールダッシュ自体を禁止」した法令の明確な存在は確認されていないものの、1848年革命後の政治的・社会的な抑圧の流れの中で、公的・政治的な意味合いを帯びる形でのチャールダッシュ(愛国心を高揚させる場面など)は、実質的に制限されたり、当局により目をつけられたりした可能性は高いです。
アウスグライヒ以降(1867年~)はチャールダッシュがハンガリー国内外で広く親しまれ、むしろ「ハンガリーらしさ」を示す象徴的存在として地位を確立していきました。
そのため「チャールダッシュが演奏禁止だった」と断言するのは正確ではなく、あくまでも当時の政治情勢によって多少の“締め付け”や“自粛”があった、と理解するのが適切なようです。
聞くだけで愛国心を鼓舞されるような旋律とかあるんでしょうね?
ありますね。とくに19世紀から20世紀前半にかけてのヨーロッパ諸国では、民族意識や愛国心を鼓舞することを明確な目的として作られたり、民謡や行進曲が「国民のシンボル」として機能する例が多数見られます。ハンガリーやチェコ、ポーランドなどの中欧諸国においては、次のような要素が「聞くだけで愛国心を刺激する旋律づくり」に一役買っていました。
1. 伝統的な音階・リズム
ハンガリーの「ヴェルブンク(Verbunkos)音楽」や「ジプシー音楽」
「ハンガリーの音階」として知られる、半音と長二度・短三度などが独特に組み合わさった“ジプシー・スケール”や“ハンガリーン・マイナー・スケール”がしばしば使われます。そこに、チャールダッシュにも現れるような、ゆったりした部分(lassú)と急速な部分(friss)の切り替えが加わり、情熱的・哀愁的な雰囲気を同居させています。
こうした旋律やリズムは、ハンガリー人が聞けば「これぞ自分たちの音楽だ」という誇りや共感を喚起しやすいものでした。ポーランドのポロネーズやマズルカのリズム
ポロネーズ(3拍子で強拍が2拍目にある)やマズルカ(3拍子で2拍目または3拍目にアクセント)など、独特の拍の置き方が「ポーランドらしさ」を強烈に印象づけます。ショパンのポロネーズやマズルカはその典型で、国外に住んでいたショパン自身も「ポーランドの心を音楽にこめた」と語っています。チェコ(ボヘミア)の舞曲・リズム
チェコやスロヴァキアの民謡に根ざしたリズムやメロディは、スメタナやドヴォルザークの作品にしばしば登場します。特に《わが祖国(Má vlast)》や《スラヴ舞曲(Slavonic Dances)》などは、当時のチェコ人たちにとって大きな民族的誇りの源となりました。
2. 歴史的・愛国的エピソードを背負った曲
ハンガリーの「ラコーツィ行進曲(Rákóczi March)」
元々はハンガリー独立運動の英雄フランツ2世・ラーコーツィ(ラコーツィ・フェレンツ2世)にまつわる旋律がベースとされ、ハンガリー人が聞けば独立戦争や愛国の情熱を思い起こす曲として有名です。リストの《ハンガリー狂詩曲第15番(ラコーツィ行進曲)》も、この旋律をもとにしています。チェコの「わが祖国(Má vlast)」
スメタナが故国の風景や伝説(ヴルタヴァ川、ヴィシェフラド城など)を描いた連作交響詩。チェコの人々にとっては、音楽を通じて自分たちの歴史と大地を感じることができる象徴的な作品です。フランスの「ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)」
国歌ではありますが、革命期に広まった経緯もあり、「聞けば血がたぎる」と称されるほど当時の人々を鼓舞しました。こうした“歴史や戦いと強く結びついている”曲は、愛国心や民族の自尊心を呼び起こす効果が強い典型例です。
3. 権力側からの警戒・抑圧
こうした「聞くだけで国民の心を盛り上げる」旋律やリズムは、同時に権力側(占領政府や弾圧者など)にとっては“危険”なものと見なされることも多々ありました。
演奏の事実上の制限や検閲
先の質問にもあったように、ハンガリーの1848年革命後には、民族主義を鼓舞する音楽の演奏やそれを伴う集会などが監視・取り締まりの対象になったといわれます。象徴的存在であるがゆえの影響力
単なる娯楽としての音楽ではなく、民族的アイデンティティや政治的メッセージを背負った旋律は、人々の団結や行動を促す原動力になり得ます。歴史を通じて、音楽が革命や独立運動の場で重要な役割を担ってきたのは、その影響力が大きいからです。
まとめ
「聞くだけで愛国心を鼓舞されるような旋律」は、
民族音楽に根ざした特徴的な音階やリズム(“これぞ我が国”というサウンド)
歴史的・愛国的エピソードや英雄的物語との結びつき
といった要素によって生まれ、当時の人々を強く結束させたり、誇りや勇気を与えたりする力をもっていました。そして、そうした力の強さはときに支配者から危険視されることもあり、音楽が規制や検閲の対象になることもあったのです。
日本の伝統音楽は、戦いに向かないような気もしますね。
「日本の伝統音楽」と一口にいっても実は非常に多様で、宮廷音楽である雅楽(ががく)や祝祭・神事に伴う神楽(かぐら)、能楽(のうがく)、民謡、祭囃子など、その用途や歴史的背景はさまざまです。現代の私たちがふだん耳にする機会の多い雅楽や能楽、民謡のような“静的”あるいは“叙情的”な曲想が、「いわゆる戦いを鼓舞するような雰囲気とは違う」と感じることは多いでしょう。
しかし、日本の歴史を紐解いてみると、以下のように「音で軍勢を鼓舞・指揮する」伝統もあり、必ずしも“戦いに向かない”というわけではない側面が見えてきます。
1. 太鼓による軍勢の指揮
陣太鼓(じんだいこ)
戦国時代などでは、太鼓を合図にして兵を進退させたり、士気を高めたりすることが行われていました。
甲冑姿の武士たちが馬上で太鼓を叩いていた例も伝えられ、合図や士気鼓舞の手段として有効だったようです。
和太鼓
祭りで使われる和太鼓は“祭囃子”の印象が強いですが、その大音量と力強いリズムは、元来「神を呼び寄せる」「場の空気を一変させる」力があるとされてきました。
戦場では敵味方を問わず、太鼓や法螺貝(ほらがい)のような大きな音の出る楽器が用いられ、威嚇や統率に活用されることもありました。
2. 法螺貝(ほらがい)の使用
修験道や仏教の行者が用いたイメージが強いですが、戦国時代には「陣貝」とも呼ばれ、合図や士気を高めるために吹き鳴らされました。
法螺貝の低く響く音は、軍勢を結束させたり、敵に威圧感を与える手段として重宝されていたようです。
3. 「軍歌」と近代以降の視点
江戸時代後期から明治時代にかけて西洋的な軍楽隊(吹奏楽)や行進曲のスタイルが取り入れられ、「軍楽」が創設されました。
日清・日露戦争期に登場した軍歌(例:『軍艦行進曲』や『露営の歌』など)は、一種の大衆音楽として日本全国に広まり、兵士だけでなく一般の人々の愛国心・戦意を高揚する役割を果たしました。
これらはいわゆる「日本古来の伝統音楽」とは異なる性質をもっていますが、日本の“近代・現代の伝統”の一側面として見ることもできます。
4. なぜ「戦いに向かない印象」を受けるか
現代の耳慣れ
雅楽や能楽は宮廷・神事・芸能の文脈で発達した「儀式的・静的」な要素が強く、鼓舞というよりは厳か・優雅といったイメージを伴います。
民謡や祭囃子も、どちらかといえば“お祝い”や“娯楽”の性格が強調されがちです。
武家社会の礼式化
日本の武家社会では、戦国時代から徐々に太平の世に移行するにつれ、武士の作法や儀式が洗練されていきました。雅楽や能楽などは“戦うため”というより、武家の教養や式典の一部として定着していく過程が大きかったと言えます。
その結果、現代に伝わるかたちが“武士の鍛錬や戦闘の場面”よりも“式典・教養”寄りになっているのも要因の一つかもしれません。
現代の日本で一般に親しまれる伝統音楽の種類
伝承・継承されてきた音楽は多彩ですが、普段から私たちがコンサートやメディアなどを通じて耳にする「日本の伝統音楽」は、より芸術性や祭礼性を強調したものが多いです。
歴史上あった“陣太鼓”や“法螺貝”といった戦場音楽は、限定的にしか現代に再現されないため、「日本の伝統音楽=静かで優雅なもの」というイメージが先行しやすいわけです。
まとめ
確かに、雅楽や能楽、民謡など“静かで優雅”なイメージが強い日本の伝統音楽は、一見すると「戦いを鼓舞する」という方向性とはかけ離れているように思えます。しかし、
陣太鼓や法螺貝など、「音で軍勢を指揮し、鼓舞する」という伝統的な実践も日本には存在していました。
近代以降の軍歌・軍楽は、西洋音楽の要素を取り入れながら、日本における“戦いを鼓舞する音楽”として発展しました。
つまり、日本の伝統音楽全体を俯瞰してみると、確かに静的・叙情的な芸術面が注目されがちではあるものの、「戦いにまつわる音楽」や「士気高揚のために用いられた音楽」も歴史の中にはちゃんと存在してきた、ということになります。
学徒動員の行進の際の永遠と続く行進曲なんぞは、耳に残りますが。
第二次世界大戦期の日本において、学徒動員(学生の軍事動員)が行われた際には、兵役や勤労動員の一環として“行進”をさせられる場面が多々ありました。その際に繰り返し演奏され、歌われた行進曲や軍歌は、現場に居合わせた人々の耳に深く刻みつけられています。これにはいくつかの背景や理由があります。
1. 軍歌・行進曲の反復演奏
規律・団結を高める
行進曲は規則正しいリズムと拍子を持ち、集団での移動や作業に合わせやすいという特徴があります。行進中ずっと同じ曲や類似のフレーズを流し続けることで、隊列を崩さず、集団としての一体感を維持しやすくなります。戦意高揚・士気鼓舞
単調な繰り返しが続くことで、ある種のトランス状態(没入状態)や暗示的効果が生まれ、兵士や動員された学生の心理を“駆り立てる”作用があると考えられていました。
2. 軍事目的に特化した「日本の行進曲」
当時の日本には、いわゆる「古来の伝統音楽」で戦意を鼓舞する習慣はあまりなく、代わりに明治以降に輸入された西洋式の軍楽(吹奏楽)や行進曲が積極的に取り入れられました。代表的な例としては次のようなものがあります。
『軍艦行進曲』
軍艦マーチとも呼ばれ、海軍を象徴する行進曲として広く知られています。力強い4/4拍子のリズムと印象的な主旋律が繰り返されるため、耳に残りやすい曲として有名です。『愛国行進曲』
1937年(昭和12年)、国民の士気高揚を図るために作られた公式の愛国歌。新聞社主催の歌詞公募など大々的なキャンペーンによって広まりました。『紀元二千六百年頌歌』など記念行事向けの楽曲
紀元二千六百年(1940年)に合わせて、祝賀ムードや国威発揚に使われた曲も多数存在します。こうした行事の場で繰り返し演奏されるうちに、人々の記憶に強く刷り込まれていきました。
これらは当時のメディア(ラジオ、レコード、映画ニュースなど)を通じても繰り返し流されたため、「聞き覚えのある曲がずっと頭の中で回り続ける」状態になりやすかったと言われています。
3. 行進や勤労動員と結びついた強烈な体験
身体的・心理的刷り込み
行進中に延々と同じ曲を聞かされながら規律正しい動きを繰り返すと、その音楽が身体動作と結びつきやすくなります。音楽を耳にすると、当時の光景や感情が鮮明に蘇るという“フラッシュバック”が起きやすくなるわけです。戦時下の空気
学徒動員の頃には、戦局が厳しくなるにつれて社会全体が緊迫感に包まれ、周囲の大人たちや上官、教師、同級生の雰囲気も一色となっていました。そういった状況で耳にする行進曲は、当時の不安や高揚などの心理も相まって、より強い印象を残したと考えられます。
4. 戦後の評価と記憶
戦後になると、軍歌や行進曲は「戦時下の記憶」と結びつくものとして捉えられ、一部ではタブー視や避けられる傾向もありました。しかし、その一方でテレビ番組や映画などで流用される場合もあり、ある世代以上の方々にとっては懐かしい面と苦い面の両方をもつ“記憶の音楽”となっています。
郷愁と拒否感の相反
戦争を実体験した世代の一部には、「懐かしい思い出が蘇る」という人もいれば、「苦痛や軍国主義の象徴として聴きたくない」という人もいます。音楽のインパクトが強い分、その評価や思い出の捉え方も人それぞれです。
まとめ
学徒動員の行進時に延々と流れていた行進曲が耳にこびりつくのは、
規則正しい反復リズムと印象的な旋律 による身体的・心理的刷り込み。
当時の社会情勢と結びついた強烈な体験 の記憶。
といった要因が重なりあったためです。日本古来の音楽というより、明治以降に導入された西洋式軍楽や行進曲が中心でしたが、これらが戦時下の空気や行進そのものと結びついたことで、人々の耳や記憶に強く残っているわけです。
明治神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会の行進曲はなんでしたか?
「出陣学徒壮行会」で演奏された主な行進曲は「愛国行進曲」
1943年(昭和18年)10月21日、明治神宮外苑競技場で挙行された「出陣学徒壮行会」(学徒出陣式)では、当時の戦時下において国家的行事で頻繁に用いられた以下のような曲が演奏されました。そのなかでも“行進曲”として中心的な役割を担ったのは、1937年(昭和12年)制定の『愛国行進曲』 です。
1. 『愛国行進曲』とは
制定時期
1937年(昭和12年)、日中戦争(支那事変)勃発後に「国民の士気高揚」を目的として、内閣情報部や新聞社などが歌詞を一般公募し、その入選作に曲を付して誕生したのが『愛国行進曲』です。特徴
明るく力強い4拍子で、集団での行進や式典に合わせやすい。
歌詞・メロディともに大衆が覚えやすいよう配慮されており、当時のラジオ放送やレコード、学校行事などで繰り返し流された。
国家行事や壮行会など「公式な場」で演奏される“定番の行進曲”として大きな地位を占めた。
2. 他に演奏・斉唱された曲
2-1. 『海ゆかば』
神祇院祭式行事用楽曲としての位置づけ
『海行かば』は、もとは奈良時代の歌人・大伴家持の長歌をもとにした楽曲で、昭和初期に信時潔が作曲し、戦時下に「忠死を讃える歌」として盛んに歌われました。ただし、こちらは“行進曲”というよりは荘重な“追悼曲”や“覚悟の歌”として位置づけられ、式典の要所要所で斉唱されることが多かったといわれます。
2-2. 『君が代』
国歌(正式採用は戦後だが、事実上の国歌的役割)
国家的行事なので、式典冒頭や締めくくりに『君が代』が用いられました。行進曲というよりは国歌としての象徴的存在です。
2-3. 『軍艦行進曲』 ほか軍歌・行進曲
海軍を象徴する『軍艦行進曲』をはじめ、さまざまな軍歌・行進曲が各種壮行会や出征兵士の見送りなどで繰り返し演奏されました。
ただし「出陣学徒壮行会」で最も“公式色”が強く扱われた行進曲は、『愛国行進曲』であったと伝えられます。
3. 当日の式典の流れと音楽の役割
「出陣学徒壮行会」は、
勅語奉読(天皇の勅語の代読)
代表学生による決意表明・答辞
多人数による万歳三唱
行進や退場
といった進行で行われました。これらの場面で、
威儀を正す(式典の冒頭・途中)
士気を高める(行進や万歳三唱のタイミング)
厳かな気分を演出する(勅語奉読の際など)
という目的に合わせ、上記のような曲が選ばれました。特に行進時には、リズム感が明確でテンポも取りやすい『愛国行進曲』が多くの参加者の耳に焼きつき、後年になっても当日の光景を思い出す“象徴的な音楽”となっています。
まとめ
「出陣学徒壮行会」の行進曲といえば、まずは『愛国行進曲』 と言われるほど、当時の国家的儀式や壮行会で必ずといってよいほど流された曲でした。
併せて『海ゆかば』『君が代』『軍艦行進曲』などの軍歌・愛国歌も式典中に演奏・斉唱されましたが、行進の際に繰り返し流された“公式行進曲”として最も象徴的だったのが『愛国行進曲』です。
誰の作曲でしたか?
「愛国行進曲」 は、昭和12年(1937年)に当時の内閣情報部や新聞社(朝日新聞社など)が中心となって行われた歌詞・曲の公募によって誕生した行進曲です。
作曲:成田為三(なりた ためぞう/1893–1945)
作詞:森川幸夫(もりかわ ゆきお/1899–1947)
成田為三は、大正・昭和期に活躍した作曲家で、歌曲「浜辺の歌」(1916年作曲)などで知られます。「愛国行進曲」は、日中戦争(当時“支那事変”と呼称)の勃発後、「国民の士気高揚」を図るために国を挙げて募集・選定されたもので、
行進に合わせやすい明快なリズム
覚えやすく、集団で歌いやすいメロディ
愛国的な歌詞・内容
という点から、国家的行事や壮行会、学校行事などで繰り返し演奏・斉唱されました。とりわけ1943年(昭和18年)の「出陣学徒壮行会」(いわゆる学徒出陣式)では、行進時のメイン曲として流され、多くの人の耳に強く刻まれることになりました。
勇壮なトルコの兵士の行進曲、スコットランドのバグパイプを用いた行進曲など、特色のあるパレードは耳に残りますね。
確かに、各国それぞれ独自の楽器や音楽様式を取り入れた行進曲・パレードは、見ても聴いても非常に印象的ですよね。とりわけトルコやスコットランドの例は世界的にも有名で、その「音の特色」が強く耳に残る要因となっています。以下、それぞれの代表的な特徴を簡単にまとめてみます。
1. トルコの軍楽隊(メフテル:Mehter)と行進曲
オスマン帝国時代から続く「世界最古の軍楽隊」
トルコの軍楽といえば、メフテル(Mehter) と呼ばれるオスマン帝国由来の軍楽隊が有名です。
オスマン帝国時代には、イェニチェリ(Janissaries, イェニチェリ軍団) の鼓舞や士気高揚、敵への威圧・心理戦に用いられ、「世界最古の軍楽隊」とも言われます。
楽器編成と音の特徴
ズルナ(Zurna):先の細いダブルリードの木管楽器。非常に甲高い、どこかエキゾチックな響き。
ダヴル(Davul) や ナッカーレ(Nakkare):大型・小型の太鼓。重低音と高音がコントラストを生み、行進リズムを強調。
クス(Kös):巨大なティンパニ。さらに低く迫力ある音を出し、軍勢の威容をアピール。
チンバル(Zil):シンバルのこと。高音の金属的な衝撃音でリズムを締め、全体に派手な彩りを添える。
これらの打楽器+管楽器による極めてパワフルなサウンドが、独特の高揚感をもたらすと同時に、異国風の色彩を感じさせます。近代ヨーロッパにも大きな影響を与え、モーツァルトやベートーヴェンが「トルコ行進曲」を書いたり、オーケストラ音楽の中に“トルコ風”の打楽器を取り入れたりするきっかけとなりました。
2. スコットランドのバグパイプと行進
バグパイプの歴史と軍事的役割
スコットランドの伝統的なバグパイプ(Great Highland Bagpipe)は、もともと戦場で敵を威圧したり、味方の士気を上げたりするためにも使われていました。
イングランドとの数世紀にわたる抗争や、ハイランド地方のクラン(氏族)の独立心と結びつき、「スコットランド民族の象徴的サウンド」 として確立していきます。
音色と構成
バグパイプの最大の特徴は、常に鳴り続ける**「ドローン音」**(持続音)にあります。複数のドローン管が一定の低音を響かせ、その上で主旋律管(チャント)を操作してメロディを吹く構造です。
独特の高音域で、やや金属的な噛み合うような響きを持ち、屋外で遠くまで音が届きやすいため、行進やパレードの効果は抜群です。
代表曲としては、「Scotland the Brave」 や 「Highland Cathedral」 などが有名で、軍隊や警察・消防のパイプバンドが隊列を組んでパレードする様子は非常に勇壮です。
3. 「耳に残る行進曲」の共通点
3-1. 強いリズムと大音量
いずれの例も、打楽器や独特の管楽器を用いて大音量・明確なビートを刻み、聴衆を圧倒・鼓舞します。戦場や大規模な野外行事で音がかき消されないようにするため、常にパワフルな演奏が前提になっています。
3-2. 歴史的・民族的背景
メフテルのオスマン帝国やスコットランドのバグパイプは、
歴史的な戦いの場面
民族的アイデンティティ
と深く結びついてきました。そのため、音や旋律を聞くだけで、当事者たちの誇りや文化的背景を想起させる力が強く、“耳に残りやすさ”も高まります。
3-3. ユニークな楽器編成や音階
トルコの東洋風スケール(特有の半音階の運び)
スコットランドのモード(旋法)
など、西欧クラシックの標準的な音階とは異なる要素が多く、“一度聴いたら忘れにくい”印象的な響きをもたらします。
まとめ
トルコのメフテル(Janissary band)の行進曲 は、力強い太鼓やシンバル、甲高いズルナなどが織りなす非常にエネルギッシュで派手なサウンド。
スコットランドのバグパイプを用いた行進 は、独特なドローン音と高音域のメロディが生み出す勇壮な響きで、民族性や歴史を強く感じさせます。
こうした「特色のあるパレード音楽」は、単なる“行進用”を超えて、その国・地域の文化や歴史の象徴となる存在です。耳に残る旋律やリズムは、聴く人に強い印象を与えるだけでなく、演奏する人々の誇りやアイデンティティ、仲間との一体感をも表現する重要な役割を担っているのです。