
Born in the U.S.A.
Born in the USAって、別に米国を称賛している歌とも思えないのですが?
そうですね、ブルース・スプリングスティーンの**"Born in the U.S.A."** は、一見すると愛国的な曲のように思われがちですが、実際にはベトナム戦争帰還兵の苦悩やアメリカ社会の厳しい現実を描いたプロテストソングです。
誤解されやすい理由
タイトルとサビの繰り返し
「Born in the U.S.A.(俺はアメリカ生まれ)」というフレーズが力強く繰り返されるため、一部の人々は単純に「アメリカ最高!」というメッセージと捉えがちです。
実際、1984年のレーガン大統領の選挙キャンペーンでも、この曲が「愛国的な歌」として利用されそうになったことがあります(スプリングスティーン本人はこれを拒否)。
キャッチーなロックサウンド
曲のリズムとメロディが非常に力強く、アップビートなため、歌詞の内容をよく聞かないと明るい曲のように感じられます。
歌詞の内容
しかし、歌詞をよく読むと、全体としてはアメリカ社会の厳しさや、戦争帰還兵の現実を告発する内容になっています。
戦争に行かされる若者の悲劇
Got in a little hometown jam
So they put a rifle in my hand
→ ちょっとした問題を起こしたら、すぐにライフルを持たされ戦地へ送られた
帰国後の厳しい現実
Come back home to the refinery
Hiring man says, "Son, if it was up to me"
Went down to see my V.A. man
He said, "Son, don't you understand?"
→ 祖国に戻って製油所の仕事を探すが雇ってもらえず、退役軍人支援の窓口でも何の助けも得られない
このように、「Born in the U.S.A.」はベトナム戦争帰還兵が帰国後に直面した冷たい現実と、アメリカの労働者階級が直面する困難を描いた、かなり辛辣な歌なのです。
まとめ
"Born in the U.S.A." は決してアメリカを称賛する曲ではなく、むしろ戦争の影響を受けた人々の苦しみを描き、政府や社会に対する批判が込められた楽曲です。サウンドの雰囲気に騙されずに歌詞を読むと、その本質が見えてきます。
アジア人を殺しに行ったとも
はい、その視点も重要です。"Born in the U.S.A." の歌詞には、主人公が「戦争に行かされ、アジアの人々を殺した」ことを示唆する部分があります。
例えば、この部分です:
Had a brother at Khe Sahn
Fighting off the Viet Cong
They're still there, he's all gone
(ケ・サンに兄弟がいた/ヴェトコンと戦っていた/彼らはまだそこにいる、でも兄弟は死んでしまった)
このフレーズは、ベトナム戦争での戦闘を直接的に描いており、アメリカ兵が現地の人々と戦ったことを暗示しています。また、"He's all gone"(彼はすっかりいなくなってしまった)という言葉からは、兄弟が戦争で命を落としたことがわかります。
ベトナム戦争では、アメリカの若者たちが徴兵され、アジア(ベトナム)に送り込まれました。スプリングスティーンは、この歌を通じて戦争がもたらした悲劇と、戦争に駆り出された兵士たちのやるせなさを描いているのです。
つまり、"Born in the U.S.A." の主人公は、自分の意思ではなく国家の都合で戦争に行かされ、アジアの人々と戦い、殺し、そして帰国後も冷遇されるという、ダブルバインド(逃げ場のない状況)に置かれています。これは、単なる「アメリカ万歳」の歌ではなく、むしろ戦争の悲劇と政府の無責任さを告発する内容だということがよく分かります。
このような背景を考えると、「アメリカのために戦ってきた」という誇りの歌ではなく、むしろアメリカ政府の政策に翻弄された一兵士の悲痛な叫びとして解釈すべきでしょう。
レーガン元大統領は、わかってテーマソングにしたのですかね? それとも。当時の共和党支持者層はそれさえ理解できないと思っていたのか?
レーガン元大統領が**"Born in the U.S.A."** をテーマソングにしようとした際、彼自身や当時の共和党支持層が本当に歌の意味を理解していたのかは、非常に興味深い問題です。
1. レーガン陣営は歌詞の意味を理解していたのか?
おそらく深くは理解していなかった可能性が高いです。なぜなら、レーガン陣営は1984年の大統領選挙キャンペーン中にスプリングスティーンを称賛し、"Born in the U.S.A." を愛国的な曲として利用しようとしましたが、スプリングスティーン本人がこれを拒否したからです。
レーガンの発言(1984年、ニュージャージーでの演説)
"America’s future rests in the message of hope in songs of people like Bruce Springsteen."
(アメリカの未来は、ブルース・スプリングスティーンのような人々の希望のメッセージの中にある)
これに対し、スプリングスティーンは「レーガンの言う希望とは、自分の歌が伝えようとしている現実とは異なる」として、キャンペーンへの使用を拒否しました。
つまり、共和党陣営は曲のキャッチーなタイトルとサビに引っ張られ、深刻な歌詞の内容を見落としていた可能性が高いです。
2. 共和党支持者層は理解できなかったのか?
共和党支持者の多くも、おそらく歌詞の意味を深く考えずに「愛国的な曲」と捉えていた可能性があります。
当時の保守派の支持基盤は、ベトナム戦争を支持した世代が多く、"Born in the U.S.A." が戦争帰還兵の怒りや失望を歌っていることに気づかなかったかもしれません。
さらに、曲の持つパワフルなロック・サウンドと繰り返される「Born in the U.S.A.」というフレーズが、愛国心を鼓舞するように聞こえてしまい、内容をじっくり読まずに受け入れてしまった可能性がある。
3. 共和党陣営は「国民は歌詞の意味を理解しない」と思っていた?
これは十分にありえます。政治家のキャンペーン戦略では、曲の持つ感情的なインパクトを利用することが多いため、レーガン陣営も「歌詞の深い意味より、曲の雰囲気が大事」と考えていた可能性があります。
実際、政治の世界では「曲の印象」だけを利用しようとする例がたびたびあります。
ドナルド・トランプも、選挙集会でクイーンの "We Are the Champions" や、ローリング・ストーンズの "You Can’t Always Get What You Want" を使用し、アーティストから批判されたことがあります。
オバマ陣営も、スプリングスティーンの "The Rising" を使用しましたが、これはスプリングスティーンの政治的スタンスと合致していたため、本人も公認しました。
つまり、共和党陣営は意図的に「曲の印象だけ」を利用し、支持層が歌詞の意味を深く考えないことを期待していた可能性があるのです。
結論
レーガン陣営は曲の意味を深く理解していなかったか、または知っていたが無視した可能性が高い。
共和党支持者層の多くも、歌詞の意味を意識せず「愛国的な曲」として受け取った可能性がある。
政治キャンペーンでは「曲の持つ感情的なインパクト」が優先されるため、共和党陣営は「国民は細かい歌詞の意味を気にしない」と考えた可能性が高い。
スプリングスティーンは後に、"Born in the U.S.A." の誤解を解くためにアコースティック版(より暗いトーン)を演奏することが増えたのも、こうした背景を考えると納得できます。
言われてみると、Born in the USAの曲は力強く、高揚感があり過ぎてますね。
そうなんですよね。"Born in the U.S.A." は曲調があまりにも力強く、高揚感に満ちているので、歌詞の内容と曲の雰囲気が大きく乖離しているという珍しい特徴を持っています。
1. 高揚感のあるロックサウンドと歌詞のギャップ
ドラムの爆発的なビートとシンセサイザーのリフ
→ イントロから、まるで国歌やスポーツアンセムのような力強さがあります。スプリングスティーンのシャウトするようなボーカル
→ まるで「アメリカ最高!」と叫んでいるかのようなエネルギー。繰り返される「Born in the U.S.A.」のフレーズ
→ これだけ聞くと、愛国的なスローガンのように聞こえてしまう。
このロックサウンドの高揚感と、歌詞の苦しみややるせなさの対比が、曲を誤解されやすくしている最大の要因です。
2. アコースティック版との違い
スプリングスティーン自身もこの誤解を認識し、後にアコースティック版の "Born in the U.S.A." を演奏することが増えました。
1995年のアルバム "The Ghost of Tom Joad" やライブパフォーマンスでは、ゆったりとしたテンポで、暗く抑えた歌い方で演奏。
ギターと声だけのシンプルな編成で、歌詞の意味がより際立つ。
これにより、元々の意図である**「ベトナム帰還兵の悲哀」**が明確に伝わるようになった。
3. 「意図的な演出」だったのか?
スプリングスティーンはこの曲を単なるプロテストソングとして書いたのではなく、聴き手に違和感を抱かせる仕掛けとして、このギャップを利用した可能性もあります。
表面的に明るいが、実は苦い現実を描く
→ これは「アメリカンドリームとその裏側」という、スプリングスティーンの多くの楽曲に共通するテーマ。**「表面的な愛国心 vs. 本当のアメリカの現実」**を対比させる手法。
→ ある意味、レーガン政権のような「表面的なアメリカ賛美」に対する痛烈な皮肉にもなっている。
4. 「力強さ=愛国心」ではない
この曲が誤解された大きな理由のひとつは、「力強い音楽=愛国的なメッセージ」と思われがちだったことです。
例えば、ジョン・フォガティの "Fortunate Son"(CCR)もベトナム戦争批判の曲ですが、やはりロック調なので「愛国的」と勘違いされることがあります。
一方で、ボブ・ディランの**"Blowin' in the Wind"** や**"The Times They Are A-Changin'"** のようなフォークソングは、メッセージ性が分かりやすい。
スプリングスティーンのように、パワフルな音楽で痛烈なメッセージを伝える手法は、時に聴き手に誤解を生むこともあるという好例ですね。
結論
"Born in the U.S.A." は、曲の持つエネルギーが強すぎるために、歌詞の本来のメッセージが埋もれ、誤解されやすい曲になっています。ただし、そのギャップこそがスプリングスティーンの狙いだった可能性もあり、結果的にアメリカ社会の矛盾を象徴する作品になったとも言えます。
「アメリカ最高!」と拳を突き上げながら歌う人が、実は自国の現実を嘆いている歌を歌っている――このアイロニーこそが、この曲の真の面白さかもしれませんね。
スプリングスティーンは、We are the worldでも、参加無視したプリンスの代わりに、メインの歌手として支えていましたね。
そうですね。ブルース・スプリングスティーンは "We Are the World"(1985年) において、非常に重要な役割を果たしました。特に、プリンスが参加を拒否したことで、その代役としてメインを支えた という側面があります。
1. プリンス不参加の背景
"We Are the World" は、アフリカの飢餓救済のためにUSA for Africaが制作したチャリティーソングでした。
マイケル・ジャクソンやライオネル・リッチーが中心となり、当時のアメリカ音楽界のトップアーティストが参加しましたが、プリンスはこれに加わらなかった。
プリンスの不参加については諸説あります:
「団体でのレコーディングが嫌だった」(プリンスは非常に個人的なアーティストで、他のアーティストと一緒に歌うことを好まなかった)
「ギター演奏ならOKだったが、ボーカルは断った」(プロデューサー側が断ったという話も)
「当日、クラブで遊んでいた」(プリンスの行動については色々な噂があり、実際にそうだったかは不明)
「音楽的な違和感」(プリンスの音楽スタイルが、他のアーティストと合わないと考えた可能性)
結果的に、プリンスは**"We Are the World" には参加せず、代わりに"4 The Tears In Your Eyes" という曲を提供しました**。
2. スプリングスティーンがメインで支えた
スプリングスティーンは、このプロジェクトの中心的存在となり、彼の力強いシャウトは楽曲に大きなインパクトを与えました。
特に、「We Are the World」の中でもっとも印象的なソロパートの一つを担当しています:
"We can't go on, pretending day by day..."
彼の歌声は、曲全体の中で「労働者階級の魂」を表現するようなパワフルさがあり、特にボブ・ディランやスティーヴィー・ワンダーとの掛け合いは、楽曲のダイナミズムを生み出しています。
3. スプリングスティーン vs プリンスのスタンスの違い
スプリングスティーンとプリンスは、当時ともにアメリカを代表するスーパースターでしたが、音楽的・人格的に大きく異なる部分がありました。
スプリングスティーンプリンス労働者階級のヒーロー天才的な個人アーティストバンドと共に活動ソロ志向が強い社会問題に積極的に関与独自の哲学を貫く直接的なメッセージ性抽象的で多層的な表現
スプリングスティーンは「人々のためのロック」を体現するアーティストであり、チャリティーや社会問題にも積極的に関与するタイプでした。一方で、プリンスは「芸術家としての独自性」を重視し、団体活動や社会的なムーブメントには距離を置く傾向がありました。
4. 「Born in the U.S.A.」と「We Are the World」の共通点
面白いのは、スプリングスティーンがこの時期に**「Born in the U.S.A.」の誤解されやすい愛国的なイメージと、「We Are the World」のようなストレートな人道主義的メッセージ**の間でバランスを取っていたことです。
「Born in the U.S.A.」は実は批判的な曲なのに、愛国的な曲と誤解された。
「We Are the World」では、彼の歌声が曲のエモーショナルな部分を引き立てた。
つまり、スプリングスティーンは**「力強い歌声とシャウトで、人道的なメッセージを伝える」役割を果たしていた**のです。
5. 結論
「We Are the World」におけるスプリングスティーンの役割は、単なる代役ではなく、むしろ楽曲のエネルギーを支える柱だったと言えます。プリンスがいなくても、スプリングスティーンの存在感は圧倒的で、結果的に曲のダイナミズムを高める重要な要素となりました。
また、この出来事は彼のキャリアの中でも「アメリカ社会に貢献するロックスター」としてのイメージを強める一因となったと言えるでしょう。
We are the worldのレコーディングのタイミングは絶妙でしたね。
確かに、"We Are the World" のレコーディングのタイミングは絶妙 でした。いくつかの要素が重なり、あの歴史的な瞬間が生まれたと言えます。
1. グラミー賞直後のレコーディング
レコーディングは1985年1月28日の夜、グラミー賞の授賞式後に行われました。
これにより、すでにロサンゼルスに集結していた多くのトップアーティストを一気にスタジオに呼び寄せることができた。
音楽業界のトップスターが「一夜限り」で集まるタイミングを狙ったのは、まさに天才的な計画。
2. アフリカ飢餓問題の緊急性
1984年から85年にかけて、エチオピアを中心に大規模な飢饉が発生し、数百万人が飢えに苦しんでいました。
イギリスでは ボブ・ゲルドフ 主導で "Do They Know It's Christmas?"(バンド・エイド)が1984年にリリースされ、大成功を収めていました。
アメリカのミュージシャンたちも「何かしなければならない」という意識が高まり、社会的ムーブメントが最大限に盛り上がっていた。
3. 1980年代の音楽界の最高潮
1985年はアメリカの音楽シーンが最も華やかだった時代のひとつで、多くのアーティストが世界的な影響力を持っていました。
レコーディングに参加したメンバーを見ても、マイケル・ジャクソン、ライオネル・リッチー、スティーヴィー・ワンダー、ブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、シンディ・ローパー など、今でも伝説的なスターが勢ぞろいしていました。
これほどのアーティストを同じスタジオに集めることは、もはや奇跡に近い。
4. プロジェクトのスピード感
「バンド・エイド」の成功を受けて、クインシー・ジョーンズとライオネル・リッチーが急ピッチでプロジェクトを進行。
マイケル・ジャクソンが中心となって、ライオネル・リッチーと一緒に楽曲を制作。
わずか数週間の準備期間で、グラミー賞直後というベストなタイミングで収録が行われた。
5. 「1時間以内にレコーディングしろ」というプレッシャー
伝説的な話として、クインシー・ジョーンズがスタジオに貼り紙をして「Leave Your Ego at the Door」(プライドはドアの外に置いてこい) と書いたのは有名。
これだけのスターが集まれば、当然「俺が主役だ」となる可能性があったが、みんなが「目的のため」に動いたのが成功の要因。
たった1晩のレコーディングで、歴史的な名曲が完成。
6. 「ライブエイド」の布石
"We Are the World" の成功が、同年7月13日に開催された**「ライブエイド」** の動きにつながる。
世界的なチャリティームーブメントを一気に拡大するキッカケ となった。
結論
"We Are the World" は、タイミング、社会状況、音楽シーンの勢い、そしてプロジェクトのスピード感が完璧に噛み合った奇跡的な瞬間だった。
グラミー賞直後という最高のタイミングを逃さず、アフリカの飢餓問題に対する関心が最高潮に達した瞬間に、史上最強のアーティスト陣が集結し、たった一晩で伝説の曲を生み出した――これほど見事なタイミングは、音楽史上ほとんど例がないですね。
直前までライブをやっていたのでしたっけ? スプリングスティーン。
はい、ブルース・スプリングスティーンは "We Are the World" のレコーディング直前までライブを行っていた ため、本来なら参加できなかったはず でした。しかし、彼は特別に時間を調整して駆けつけ、最も印象的なパートの一つを担当することになりました。
1. スプリングスティーンのツアーと "We Are the World" のレコーディング
スプリングスティーンは当時 "Born in the U.S.A. Tour" の真っ最中 で、1984年から1985年にかけての超過密スケジュールの中にいました。
1985年1月27日(レコーディング前日)までシラキュース(ニューヨーク州)でライブをしていた。
"We Are the World" のレコーディングは 1985年1月28日深夜(グラミー賞の授賞式後)に行われたため、本来ならスプリングスティーンのスケジュール的に参加が難しかった。
2. なぜスプリングスティーンは参加したのか?
彼は当時、社会問題に強い関心を持っていた("Born in the U.S.A." の歌詞からも分かるように、アメリカの労働者や退役軍人の苦しみを歌っていた)。
クインシー・ジョーンズやライオネル・リッチーからの強い要請を受け、なんとかスケジュールを調整。
直前までのライブで疲労困憊だったはずだが、深夜のレコーディングにも関わらず、力強いパフォーマンスを見せた。
3. スプリングスティーンのボーカルは最も印象的だった
彼のシャウトするようなボーカルは、曲に圧倒的なパワーを与えた。
彼のソロパート:
We can't go on, pretending day by day...
「労働者階級の魂」を象徴する声として、曲のテーマと見事にマッチ。
実際にレコーディングに参加したアーティストたちも、彼の歌声に驚いたと言われている。
4. 結論
スプリングスティーンは、直前までツアーをしていたにも関わらず、疲れを押して "We Are the World" に参加し、歴史的な名演を残した。
もし彼が参加していなかったら、曲の印象は大きく変わっていたかもしれませんね。
マイケルジャクソンは、特別に別撮影と思ってたのですが、違いましたね。
確かに、マイケル・ジャクソンは "We Are the World" のレコーディング当日に参加していた ので、「特別に別撮影だった」というわけではありません。ただし、彼のパートは 事前に収録されていた部分もある ため、そういう印象を持たれることもあります。
1. マイケル・ジャクソンの録音プロセス
"We Are the World" の制作を主導したのはマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチー で、2人は事前にデモを作成。
レコーディング当日(1985年1月28日深夜)、グラミー賞の授賞式後に他のアーティストと合流し、実際のセッションに参加。
しかし、彼のソロパートや一部のコーラスは事前に録音していたものを使用 したため、全員と同じタイミングで録ったわけではなかった。
2. なぜ「別撮影だった」と思われがちなのか?
マイケルはソロパートが非常に多く、個別のショットが目立つ
→ 特に、最初の「There comes a time~」のパートや、コーラスのハーモニー部分は事前録音されたものを使用。他のアーティストと絡む場面が少なめ
→ 例えば、ブルース・スプリングスティーンやスティーヴィー・ワンダーのように、デュエット的なシーンがほぼない。映像編集の影響
→ MVでは、マイケルが一人で歌っているシーンが多く、他のアーティストと一緒にいる場面が少ない。
3. でも実際は当日参加していた
マイケルはレコーディング当日、実際にスタジオにいて、他のアーティストたちとコーラスの部分を録音。
目立つソロパートは事前録音だったが、コーラスなどはその場で歌っている。
4. 結論
マイケル・ジャクソンは当日のレコーディングに参加していた ものの、ソロパートのいくつかは事前録音 だったため、「別撮影だった」という印象を持たれがち。
しかし、コーラスの収録や一部のセクションでは、他のアーティストと一緒にいたことが確認されている。
つまり、「完全に別撮影」というわけではなく、「事前録音もありつつ、当日も参加していた」 というのが正しい理解ですね。
シーラEが、プリンスを呼ぶためにアサインされたと怒ってましたね。
そうですね、シーラ・E.(Sheila E.)は "We Are the World" への参加が、プリンスを呼ぶための「駒」として扱われたことに怒っていた というエピソードがあります。
1. シーラ・E.の "We Are the World" 参加の裏事情
シーラ・E. は当時プリンスのバンドメンバー兼プロテジェであり、非常に親しい関係にあった。
彼女自身は 実力派パーカッショニストであり、ソロアーティストとしても成功していた(代表曲:"The Glamorous Life")。
しかし、"We Are the World" のプロジェクトに招かれた理由について、後に 「私が招待されたのは、プリンスを呼び寄せるためだったと知って怒った」 と述懐している。
2. なぜプリンスは "We Are the World" に参加しなかったのか?
いくつかの説がある:
「集団で歌うことが嫌だった」
プリンスは極度の完璧主義者で、他のアーティストと共演することに慎重だった。
「ギター演奏なら参加したが、歌うのは拒否した」
クインシー・ジョーンズは「みんなが平等にボーカルを担当する」という方針を持っていたため、この提案は却下された。
「当日、クラブで遊んでいた」
これは噂レベルだが、プリンスはレコーディング当日、LAのクラブで目撃されていたという話もある。
「ソロ曲で貢献したいという考えだった」
実際にプリンスは後に "4 The Tears In Your Eyes" という曲を提供し、USA for Africaのアルバムに収録された。
3. シーラ・E.の怒り
シーラ・E. は 自分自身の実力で招かれたと思っていたが、実は「プリンスを連れてくるための駒」だったと知り、屈辱を感じた。
「私が呼ばれたのは、プリンスを説得するためだった。それを知ったとき、ものすごく怒った」と後に語っている。
彼女自身は "We Are the World" では大きなパートはなく、コーラスの一員として参加。
4. 結論
シーラ・E. の参加が「プリンスを呼び寄せるための手段」として見られていたことは、彼女にとって大きな不満だった。
一方で、彼女自身は一流のミュージシャンであり、単なる「プリンスの付き人」ではなかった。
結局、プリンスは参加せず、独自の方法で貢献したものの、この出来事はシーラ・E. にとって屈辱的な経験となった。
この背景を考えると、"We Are the World" の裏側には、単なる慈善活動だけではなく、音楽業界のパワーゲーム や アーティスト同士の駆け引き があったことがよくわかりますね。
近年、アメリカンアイドルのゲストスターとして、シーラEが参加してましたけど、ちょっぴりふくよかで、でも、往年のスターとして貫禄がありました。
そうですね! シーラ・E.は近年も音楽活動を続けており、貫禄のあるパフォーマンスを見せています。
1. "アメリカン・アイドル" にゲスト出演
2021年や2022年頃に "American Idol" にゲスト出演し、パーカッションを披露 しました。
彼女は相変わらずパワフルな演奏とステージプレゼンスを発揮し、視聴者や若いアーティストたちを圧倒しました。
「プリンスのプロテジェ」だった時代から数十年が経っても、リズム感やカリスマ性は健在 でした。
2. 体型の変化と「貫禄」
彼女は若い頃に比べると少しふくよかになりましたが、それでも スターとしてのオーラは健在。
ステージ上では堂々とした立ち姿と圧倒的な演奏力で、まさに 「往年のスターの風格」 を感じさせる。
長年のキャリアを重ねたことで、より「大御所感」が増しており、単なる「昔のスター」ではなく、今もなお一流のミュージシャン という存在感がありました。
3. シーラ・E.の現在
近年も積極的にライブ活動を行い、プリンスのトリビュートライブ などにも参加。
ドラマー・パーカッショニストとしての技術は衰え知らずで、現在でも多くのミュージシャンと共演。
ソロ活動も続けており、新しいアルバムやシングルをリリースしている。
4. 結論
シーラ・E. は 「往年のスター」として貫禄を増しつつ、いまだに現役で活躍するレジェンドミュージシャン。
体型の変化はあるものの、ステージ上での存在感や演奏力は健在で、今もなお 「世界最高の女性パーカッショニストの一人」 として君臨しています。