【第四話】ぶどうの恋は実らない。【創作小説】
暖かな風が、さわやかな緑の匂いを運んでくる。
色とりどりの花々が、静かな校舎の影に彩りを添えていた。
「良い天気ですね。先輩」
俺は桃と並んで、緑豊かな中庭を歩いている。
最近の桃は、妙に積極的だ。
どんな時でも彼方より先に二年一組に来たり、いつもなら遠慮して断るのに、ウチで夜ごはんを食べたりしている。
今朝も「お散歩したいです」の一言があり、真っ直ぐ教室に向かわず、早朝の空気を味わうことになった。
「……なあ、桃。何かあったのか?」
「えっ!?ど、どうしてそんなコト聞くんですか?」
「何か伝えたいことがあって、ここに誘ったんじゃないのか?」
「……」
桃は黙り込む。一瞬何かを言いかけたが
「なんでもないですよ!遥先輩と一緒にいたかっただけです。ホラ、朝礼まで時間ありますし!」
明らかに本心を隠しているようだったが、桃のことだ。これ以上追求しても、応えてくれないだろう。
「何か悩みとかあったら、すぐ言えよ」
せめてもの思いでそう言うと、桃は元気よく「もちろんです!」と返事した。
「お話中、失礼するよ」
牡丹の花が植えられた花壇を通りかかろうとしたとき、見知らぬ女生徒に声をかけられた。
桃はすぐさま俺の前に立ち、俺は目を逸らす。
目を逸らす前に、一瞬だけ姿を捉えた。
緑豊かな中庭によく馴染む、淡い青緑色の髪。
ショートカットのようだったが、編み込まれている部分が見えたため、長い髪を纏めているのかもしれない。
「私の名前は神野冬美(かんのふゆみ)。二年三組の学級委員長をしている」
俺たちの反応を気にもせずに、彼女は俺たちの方に向かって歩きだす。
「あの、すみません。彼、女性が苦手なので、少し離れていただけますか?」
「ん?ああ。わかってるよ」
そう言うと、神野さんは歩みを止めた。
桃はその言葉と態度に安心し、警戒を緩める。
……その瞬間、神野さんは一気に距離を詰め
「これは私からの、交友の証だよ」
彼女は桃の前で膝をつき……手の甲に口づけをした。
「なっ……!!なななな!何をするんですか!」
桃がパニックを起こしている。
あまりに突然で、しかも今日日見ないような挨拶の仕方に、呆然した。
「君にも挨拶していいかい?」
彼女は俺の前で膝をつき、手を取る。
まさか俺にまで口づけしようとするとは思わず、気が動転し、頭が真っ白になった。
「は、遥先輩っ!」
正気に戻った桃は、神野さんを引き剥がす。
「は、遥先輩!大丈夫ですか?具合悪くないですか?気持ち悪くないですか?」
立ち尽くす俺の身体をペタペタ触り、心配する桃。
しかし……俺の身体に異変はない。
そのことを受け止めきれないまま、口を開く。
「……それが、大丈夫なんだ。身体はなんともない」
「ええっ!?」
桃と俺は二人揃って、冬美さんの顔を見る。
それを見た神野さんはクスッと笑い
「成程。やはり私では通用しないのだな」
と呟いた。
「か、神野先輩。あなたは一体……」
「武道遥君。君を試すような真似をして、本当にすまなかった。君の命に関わるかもしれないのに、浅慮な行いだったよ」
神野さんは、深々と頭を下げる。
そしてその姿勢のまま、言葉を続けた。
「それから……私のクラスの、某兄弟の粗野で無遠慮で非礼な言動について、謝罪させてほしい」
某兄弟?……ああ、倫辺兄弟のことか?
「……悪い記憶を呼び起こしてしまったね。きっと、名前すら聞きたくないぐらいだろうに」
兄弟の名前を濁したのは、そういうことか。
なんにせよ、名前を伏せてくれたのはありがたい。
結局桃には、トラブルがあったこと自体は教えたが、発言の内容や名前は秘密にしている。
もし知ってしまったら、地獄の果てまで追い詰めることだろう。桃はそういう人間だ。
「まあ、もう終わったことだし。それに、神野さんが謝るようなことじゃない」
俺がそう言うと、神野さんは顔を上げ、ニコリと微笑んだ。
「そう言ってもらえると助かるよ。彼らには厳しく"躾"をしておいたから、今後一切君たちの将来に関わることはないよ」
何やら不穏な単語が聞こえた気がするが……まあ、あいつらがどうなろうが、俺には関係のない話だな。
「私からの話は以上だ。今後とも、仲良くしてくれると嬉しい」
「神野先輩、こちらの話は終わっていないですよ!どうして、遥先輩が……」
「……すまない。大切な用事を抜け出して来たんだ。そろそろ戻らないと、怒られてしまう」
神野さんは可愛らしい腕時計を見る。
どうしても、話すつもりはないようだ。
「近々また会うことになる。その時に、改めて自己紹介させてもらうよ」
神野さんはそう言うと、ひらりひらりと蝶々のように、中庭を去って行ったのだった。
+++
「ええええええええええっ!!?」
「シッ!彼方、うるさい!」
私は彼方に、今朝のできごとを共有した。
彼方は心底信じられないような目でこちらを見て
「……そのジョーク、笑えないんですけど」
「冗談なんかじゃない!本当に、私の他に、平気な女性がいたの!」
半信半疑の様子の彼方に、力説する私。
「彼方と違って、血の繋がってない姉や妹がいる……?
はたまた、遠方の親戚とか?」
「ちょっと待って。私はお兄ちゃんと血繋がってないから」
彼方は手のひらをこちらに向け、発言の訂正を求めている。
……彼方は少々、中二病的な感性を持っている。
さすがに遥先輩やご両親には言っていないようだが、私にだけ"自分と遥先輩は義兄妹で、結婚できる間柄にある"と、事あるごとに主張してくる。
ハッキリ言って、痛い。
もし本当に繋がってないのであれば、証拠を見せて欲しいものだ。
「あれ?"神野"って名前の人、このクラスにいなかったっけ?」
「あっ!」
私たちは顔を見合わせたあと、その人物を確認する。
彼……神野夏巳(かんのなつみ)くんは、窓側の一番後ろの席で頬杖をつき、外を眺めていた。
面と向かって話すのは初めてなので、少し緊張しながら、彼のいる席へ向かった。
「ねえ神野くん。少し聞いてもいいかな?」
「……なに」
神野くんは何かを描いていたようだったが、私たちが近づいたのを見て、すぐさまノートを閉じた。
普段の彼の様子を見ている限りでは、クールで無口という印象だ。そして頭が良く、度々先生から褒められている。
「神野冬美さんって、神野くんのお姉さん?」
「……そうだけど」
「やっぱりそうなんだ!
ねえ、お姉さんってどんな人?恋人とかいるの?」
「……」
神野くんは黙ってしまった。変な質問をしてきたので、困っているのだろうか。
でも、さすがに「お姉さんって女性ですか?」と直球で質問することはできなかった。
それを聞くにはまだ神野くんとの関係性が薄すぎるし……核心に迫りそうな質問から攻めて行こうと思った。
彼方も同じように考えていたのか、特に私の変な質問には言及しなかった。
「あの、神野くん?どうかした?」
あまりにも沈黙が続くので、彼方は思わず問いかける。
すると神野くんは、私の顔を一瞥すると、また窓の外に目線を剥けた。
「……姉さんに関することは、あまり口外しないよう言われているんだ。
姉さん、昔から恋愛のトラブル多くて、迷惑してるから」
「いや、確かにお姉さんはすごく美人だったけど、私たちはそんなんじゃ……」
「……」
その後、何度か神野先輩のことについて尋ねても「……ごめん。決まりだから」の一点張りだった。
でも、神野くんは何か言いたそうに……私たちの力になりたそうにしていた。
……神野先輩が神野くんに口止めをしている理由は、恋愛トラブルではないような気がする。
根拠はないが、彼の反応の機微を見て、なんとなくそう思った。
でも、神野先輩がそう仕向けているのか、神野くんのその場の嘘なのかは、判断がつかなかった。
……なんだか、名前が紛らわしくなってきた。これから、神野先輩のことは下の名前で呼ぶことにしよう。
今朝、下の名前で呼ばれると嬉しいと言っていたし。まだそこまでの仲じゃないけど……。
諦めた私たちは、神野くんにお礼を言ったあと、彼の席を離れた。
「もしかして、神野冬美は実は男性で、女装してるとかなんじゃない?」
「うーん。どこからどう見ても、女性にしか見えなかったけど」
「それ以外だと、アンタみたいな特別な存在……ってことになるけど、そんな特殊な人が何人もいるとは思えないよ」
遥先輩に症状が出ない人間が、私以外にいる?
もしそうなのだとしたら、私は、遥先輩にとっての、特別な存在じゃないことになる。
冬美先輩に居場所を取られる?いやでも、遥先輩にとって触れることができる女性が増えることは良いことだし……。
彼方の考察を聞き流しながら考えていると、担任の葉院(はいん)先生が教室に入ってきた。
彼方は自分の席に戻り、私も話を聞く体制を整えた。
「みんなおはよう〜……朝のHR始めるわよ〜……」
「先生、元気なさそーだけど、大丈夫ー?」
やつれ気味の先生を見かねて、日直当番のクラスメイトが思わず声をかける。
葉院先生はカッと目を見開き、私たちに向かって大きな声をあげた。
「あなたたち!人に悪口言っちゃ駄目よ!あと、無礼な態度を取るのも駄目だからね!わかった!?」
プライベートか、生徒や教員との人間関係で何かあったのだろうか。
鬼気迫る表情の先生に少し気圧されながらも、私たちは「はーい」とバラバラに返事をした。
「さて、今日の連絡は……あ、中間試験のことね」
一部のクラスメイトが「え〜!」と嫌がる反応を示した。その中には、彼方の声もあったような気がした。
「ウチの高校は、体育祭の前に中間試験を行うのが決まりだから。
まあでも、ここ数か月の勉強内容だから、なんとかなるわよ!勉強してれば」
先生は非常に楽観的に話しているけど、慢心してはいけない。
特に私(と彼方)には、絶対に赤点を取ってはいけない理由がある。それは……
「そうそう。知ってる人も多いと思うけど、もし赤点取ったら、体育祭が終わるまで、放課後は毎日補習だからね」
私(と彼方)が、赤点を取ってはいけない理由。
赤点をとったら、遥先輩に会えなくなるから!
「さて、朝のHR終了〜。次は……体育ね!よーし、バスケするわよ〜!」
葉院先生の担当授業は体育だ。
そしてバスケが好きで、バスケ部の顧問もやっている。
私はカバンから校内指定ジャージを取り出し、彼方と一緒に女子更衣室へ向かった。
「ふわぁ……」
お昼休み。二年一組でお弁当を広げている途中、つい、大きな欠伸をしてしまった。
「あっ、麻平さん……なんだか眠そうだね」
「林郷先輩、こんにちは……実は、一時限目から体育で」
「うわぁ、それは大変だったね」
もしこの先、権力を得ることができたら、一時限目の体育の授業は禁止にしよう。
お手洗いに行った武道兄妹を待ちながら、気まずい空気が流れる。
……以前、林郷先輩と友達になると決めてから、一歩が踏み出せないままでいる。
もちろん今でも、仲良くなりたいという気持ちは変わらない。
だからせめて、何か特別なきっかけがあれば……。
「も……麻平さん。中間試験、大丈夫そう?」
沈黙を打ち破るように、林郷先輩が口を開いた。
気を遣わせてしまった!私も会話を続けないと。
「とにかく今は、赤点だけは取らないぞ!って気持ちです!補習組になったら、遥先輩に会う時間が減っちゃうので」
「あっ、そっか。大変だね。でも、先生に事情を話せば、そのあたりは調整してくれると思うけど」
「う〜ん、どうでしょう。葉院先生、頭固いところがあるので……それは最終手段ですね。林郷先輩はどうですか?中間試験」
私がそう言うと、林郷先輩は悲しそうな顔をして黙ってしまった。
あれ?もしかして、聞いちゃいけなかったかな?
「あっ!言いたくなかったら、別に言わなくても」
「う、ううん!大丈夫!……私、あまり勉強が得意じゃないんだよね」
意外だった。真剣に授業を受けて、わからないところは積極的に質問していると、遥先輩から聞いている。
お昼休みの様子を見ても、林郷先輩は真面目だし、会話の受け答えもしっかりしている。
勉強ができないようには、とても見えない。
「謙遜しないでください。林郷先輩なら大丈夫ですよ」
私がそうフォローすると、林郷先輩はまた悲しいような、困ったような、そんな表情を浮かべた。
すると、バタバタと足音を立てて、誰かが教室内に入ってきた。
「シュリちゃんシュリちゃん!連れてきたよ!」
それはあけび先輩と……今朝、中庭で会った、冬美先輩だった。
私は驚いて席を立つ。
きょとんとした顔で私を見た後、林郷先輩も席を立ち、あけび先輩と冬美先輩に近づいた。
「あっ、あけびちゃん。ありがとう」
「フユスケ、こちらがシュリちゃん!
えーっと、なんだっけ?忘れたけど、なんか用事があるんだって!」
「やあ、初めまして。林郷朱里さん。
宝石のような瞳だね。吸い込まれてしまいそうだ」
冬美先輩はそう言うと、今朝私たちにやったのこと同じように、手の甲に口づけをした。
「えっ!?えぇっ!?」
「ふふふ。真っ赤な顔も素敵だね。それで、用事っていうのは何かな?」
「あ、え、ええと……あけびちゃんから聞いたんですけど、神野さん、とても頭が良いのだとか」
「冬美でいいよ。子猫ちゃん。そうだね。どの試験でも学年一位を維持しているよ」
「それで……私に、勉強を教えてもらえないかなって。……あっ!もし迷惑だったら断ってもらっていいんだけど」
「そういうことなら、喜んで協力するよ。プリンセス」
ニッコリ微笑むと、片手を胸に当て、まるで王子様のようにお辞儀をした。
そしてそのまま、勉強や試験に関する話題で、話が流れていきそうな雰囲気だ。
私は二人の会話を遮り、冬美先輩に質問をする。
今の華やかな空気を悪くする懸念はあったが、どうしても、気になって仕方がなかった。
「あの、冬美先輩。今朝のことですけど……」
冬美先輩は人差し指を口元に持っていき、静かに「しーっ」と合図を送った。
「……そろそろかな」
冬美先輩が、廊下の方を振り向く。
そして、丁度そのタイミングで、遥先輩と彼方が教室内に入ってきた。
「あっ!彼方、この人だよ。今朝触れられても平気だった、二年三組の女子」
「えっ!?こ、この人が……」
「やあ。今朝ぶりだね、遥君。
彼方君は、初めましてだね。透き通るような綺麗な肌だ。もし天使がいるなら、君のような見た目をしているに違いない」
それを聞いた彼方は、軽く引いたような顔をした後、遥先輩の後ろに隠れた。
このような態度も慣れっこなのか、冬美先輩はやれやれと肩を竦めた。
「さて、遥君も来たことだし、真相を話そう。
何故遥君が、私と触れ合っても平気だったのか?答えは簡単。私が男だからさ」
冬美先輩は徐々に声を低くし、男子のような声になっていった。
そして、タートルネックのインナーの首元をグイッと引っ張る。そこには喉仏が見えた。
「あ、あけびちゃん!?そ、そうなの!?」
「うん!フユスケは男子だよ!あれ?言ってなかったっけ?」
林郷先輩は「聞いてないよ〜!」と言いながら、あけび先輩の胸をポコポコ叩いた。
にわかには信じられない。……どこからどう見ても、女子にしか見えない。
でも、喉仏があるし、男性というのは間違いないだろう。
それだと、遥先輩が平気だった理由も頷ける。
遥先輩には申し訳ないが、私は心底安心した。
よかった。先輩に触れることができる女性は、やっぱり、私だけなんだ。
「今朝は唐突に触れてしまい、本当に悪かった。
遥君の発症が、『遥君にとって女性と見えたかどうか』なのか『事実生物学上で女性かどうか』なのな、どうしても気になってね」
声を女性の高さに戻し、遥先輩に向かって頭を下げる冬美先輩。
「そういうことだったのか。いろいろ気づかせてくれてありがとう。ええと……冬美?」
「名前で呼んでくれて嬉しいよ。私は自分の名前が好きなんだ」
そう言うと、遥先輩と冬先輩は握手をした。
「そうだ。遥君も一緒にどうかな?勉強会」
「え?」「へ?」「ん?」
私、林郷先輩、遥先輩は各々別の言葉を発した。
でも、気持ちとしては全員一緒だった。
「勉強会なんて、そんな大ごとにするつもりは……」
「せっかくだ。二年一組の何人かで集まったほうが良いだろう。私のクラスメイトが迷惑をかけたし、これくらいのことはさせてほしい」
「うーん。冬美く……ちゃんがそう言うなら」
「決まりだね。君たちはどうかな?参加するかい?」
冬美先輩は、私たちに向かって声を掛ける。
私は、遥先輩に委ねる……と言いたいところだけど、正直なところ、ぜひとも参加したい。
学年一位から直々に教えを請える機会なんてないし、林郷先輩と仲良くなるきっかけになるかもしれない。
「あけびもやるー!私は皆とテスト内容違うけど、楽しそー!」
「わ、私も参加したいと思っているんですけど、遥先輩はどうですか?」
あけび先輩に便乗するような形で、自然に遥先輩に決定権を移す。
しばらくの沈黙の後、遥先輩は微笑んで
「確かに、俺としても赤点を取ることは避けたい。桃も乗り気のようだし、参加することにしよう」
「え!?お、お兄ちゃんが行くなら、私も」
遥先輩の後ろに隠れたままの彼方が、心底嫌そうな声で言う。
……彼方、冬美先輩のこと苦手なんだな。
「クラスの皆には、私から伝えておくね」
「助かるよ、朱里君。細かい日程や流れは、後日私から連絡する。柿澤先生にも私から伝えておくよ」
林郷先輩とスマホで連絡先を交換した後、片手をひらりと掲げ、風のように去って行った。
身軽なステップで教室へ帰っていく冬美先輩の背中を見ながら、遥先輩が口を開く。
「そういえば、あけび。あけびと冬美さんはどういう繋がりなんだ?」
「んー?同じ部活!美術部!描いた絵見る?」
あけび先輩はスマホを私たちに向ける。
随分と独創的な絵だけど、おそらく、これはネコだろう。
「イ、インパクトがある絵だね!これは、カブトムシかな?」
「いや朱里先輩。これはどう見てもタコですよ」
「?俺にはカモノハシに見えるぞ?」
奇妙なことに、それそれ別の生き物に見えているみたいだ。
……そうか!きっと、見る人によって変わる……ルビンの壷のようなコンセプトなんだ!
そう思って絵をよく見てみると、下の方にタイトルが書いてあった。
『自画像』
非の打ち所のない、完璧に見える人間でも、苦手なことはあるんだなと、そう実感した。
+++
というわけで、今日から一週間。放課後の時間を使って、二年一組で勉強会が開催されることになった。
勉強会の様子を録音し、通信教育の生徒にも共有するという方針が採用されている。
オンライン上では何人の生徒が聞いているのかはわからないが……少なくとも実際の教室での参加メンバーは、二年一組の生徒と、桃と彼方だ。
ただ、朱里と俺以外のクラスメイトは、各々用事があるらしく、一人ずつ日替わりで参加する形となった。
それにしても、バラバラとはいえ、全員が最低一日でも参加するつもりのようで、安心した。
特に、古市と津島は人と馴れ合いたがらないので、最初はずいぶん参加を渋っていた。
あとは梅村も「このボクには必要ないのさ!」とかなんとか言っていたが、結局は参加することになった。
後日朱里さんから聞いた話だが、どうやら梅村は、理数科目を苦手しているとのことだった。
おそらく、プライドと補習を天秤にかけた結果、補習のリスクが上回ったのだろう。
そして、今日は勉強会の一日目だ。
メンバーは俺、桃、彼方、朱里さん。
冬美を待っている間に、全員で座席を向かい合わせの状態に移動させた。
そしてお昼ごはんのときと同じように、俺の隣に朱里さんと彼方。朱里さんの前には桃が座った。
席を整え、中間試験後の体育祭について談笑していると、「待たせたね」と声がした。
声がした方を見るとそこには、冬美と……冬美の後ろから、ひょっこりと顔を出している男子がいた。
「急ですまない。一人、メンバーを追加することになった。私の弟なんだが、構わないかな?」
「……どうもッス」
「夏巳?ちゃんと挨拶と自己紹介しようか?」
冬美さんが圧をかける。満面の笑顔だが、妙に怖い。
それを受けた弟くんは背筋をピシッと正して、俺たちの前に出た。
「神野夏巳ッス。一年一組で、麻平さんと武道さんとは同じクラス。メーワクなら帰るんで」
「だ、そうだ。朱里くん、どうだろうか」
ここにいる全員が、この勉強会の立案者である朱里の返答を待つ。
ややあって、朱里は「いいよ」と答えた。
「ありがとう。ホラ、夏巳もお礼を言うんだ」
「……あざッス」
神野くんは朱里に会釈した後、俺の前の席……桃の隣の席に座った。
「神野くん。これからよろしくな」
「…………」
ほんの一瞬だが、凄い眼光で睨まれたような気がする。気のせいか?
「ではさっそく勉強会を始めようと思う。が、その前に。
既に朱里くんと情報共有はしてはいるが、改めて、得意科目や苦手科目を確認しておきたい」
冬美はノートを開き、ペンを手に取る。
「まず桃くんは、国語……特に、漢文や古語が得意なんだね。そして、英語や数学が苦手だと」
「か、家族がそういうの得意だったので」
桃はどこか居心地が悪そうな顔をしており、それ以上話したくなさそうにしていた。
「反対に、武道兄妹は共に数学が得意。だが、歴史や地理など覚えることが多い科目を苦手としている」
「以前はプログラミングの勉強もしていたし、理数系には自信があるぞ」
「遥先輩、そういうのに興味があったんですか?」
「昔父さんに、将来就職で困るから、自宅でスキルを身に着けなさいって言われてから少しな。女性と関わる仕事には就けないし」
俺がそう言った途端、場の雰囲気が暗くなり、しばらくの沈黙が続いた。
しまった。いらんことを言ってしまった。
「か、神野くんはどうなんだ?」
神野くんは「この空気感で俺に話題を振るなよ」と言いたげな顔でこちらを見る。申し訳ない。
「……俺は別に。まあまあッス」
すると彼方は、きょとんとした顔で神野くんに問いかける。
「え?でも神野、授業中に難しいこと質問して、よく先生を困らせてるよね?」
「そうなのかい?さすが私の弟だ。ま、私の方が優秀だがね」
冬美は茶化しながらも、自分の弟が評価されて嬉しそうにしていた。
二人とも、この辺りの高校であれば、どこであっても余裕で受かっていたんじゃないだろうか。
「そうなのか。じゃあ、勉強会なんて来なくても、中間試験は余裕なんじゃないか?」
俺がそう問いかけると、神野くんは再び俺の顔を見てギロリと睨んだ。
俺、神野くんに何かしたか……?
「わ、私は全教科ダメダメなんだよね。ここの高校に入れたのも、まぐれみたいなものだし」
「そう卑下することはないよ、可愛い子ちゃん。私がいるんだ。絶対に赤点なんて取らせないさ」
冬美は、しょんぼりしている朱里の肩を優しく叩く。
こうして、一週間の放課後勉強会が開始したのであった。
――勉強会二日目。
「単語を覚えるときは、日本語訳以外に、関連するフレーズや文を頭に入れておくといい。
例えば、angryなら"I'm angry that I lost the game."のように、自分のエピソードで考えると、印象に残りやすい」
今日は柘榴が、英語のスペシャリストとして勉強会に参加している。
しかし、どんな厳しい教え方をするのかとハラハラしていたが……杞憂だったようだ。
理解できるまで付き合ってくれるし、いろいろなアプローチで教えてくれるので、新たな発見もある。
いつものツンケンした態度や無愛想な様子に目を瞑れば、教員に向いているんじゃないだろうか。
「単語やフレーズを覚えるのも大事だけれど、"I was angry"や"I will be angry"のように
時制の変化などの文法表現を関連付けると、表現の幅も広がるね」
冬美のフォローもあり、英語が特に苦手な朱里や桃は、少しずつ……本当に少しずつだが、着実に理解を深めているように思う。
「さすが柘榴だな。イギリスで暮らしていたときに身につけたのか?」
「……父親はイギリス人だが、俺、海外で暮らしたことはないぞ」
「そうだったのか?じゃあ、お父さんから教わったのか?」
「いや違う。ゲームのボイスチャットだ。『フェイブルウッド・アルケミィ』っていうオンラインゲーム」
柘榴がそう言うと、黙々と課題や教材を勧めていた神野くんの手が止まり、柘榴の方を見た。
「あ、俺もやってます。『フェイアル』。でも、海外勢とボイチャなんて、よくできますね。俺には無理ッス」
「操作ミスで、たまたまな。何て言ってるのか父さんに聞いたら、俺への罵詈雑言だったらしく……。
それでムカついて、本格的に父さんから英語を教わった。おかげで、最近は反論できるようになってきた」
『フェイアル』というゲームのことはよくわからないが、なんとも柘榴らしい理由だった。
その後、柘榴と神野くんはゲーム談義を続けようとしていたが……冬美に静止され、連絡先やフレンドIDの交換のみで留まったのだった。
――勉強会三日目。
今日は梅村が参加している。が、教えている立場ではなく、俺から数学を教わっている側だった。
本人としては、鼻高々に知識を教えることで皆からチヤホヤされたかったようだが、
梅村が得意な科目は漢文や古語。完全に桃の得意科目と被っており、しかも桃の方が教えるのが上手だった。
「ここに出てくる"たまふ"って表現は尊敬語で、身分が高い人や尊敬する相手に使う言葉なんです。
会話の相手が誰か?というのを考えながら読むと、その人の立場や関係が分かって、言葉の意味も理解しやすくなりますよ」
桃は高校二年生の範囲でも難なく理解しており、本当に得意なんだろうなと思わされる。
それを教わっている朱里は、尊敬の眼差しで桃の説明を聞いている。
……梅村であれば「年下のくせに」と苦言を呈しそうだ。
「そうそう。古語の敬語は現代と違って、身分や立場をすごく意識する傾向にあって……」
「梅村君。君は自分の苦手な箇所を潰すことに注力した方がいい」
冬美がピシャリと言葉を遮る。それを聞いた梅村は、不服そうな顔をしつつも大人しく数学の学習を始めた。
「あっ、神野くん。そこ惜しいね。
"之"は"これ"って訳しがちだけど、この文では"の"って読むんだよ。」
ミスを指摘するために、桃が神野くんに近づいた瞬間、神野くんの表情がわずかに変わるのを見た。
普段は冷静沈着な彼が、どこか緊張した様子で目を泳がせている。
「あ、ありっ……ありがとう。」
神野くんの返事を聞いた桃は、明るく微笑んだ。
桃の笑顔を受け止める神野くんの目は、いつもより柔らかいように感じられる。
なんにせよ、桃がこうやって他のクラスメイトを助けている姿を見るのは、親のように嬉しい。
そして、改めて痛感する。
やはり桃は自分自身の時間や友達も大切にすべきで、俺は彼女のその時間を奪っているのだと。
――勉強会四日目。
「越後と関東では、どうしてこんなに戦のスタイルが違うの?」
朱里が古市に質問をする。古市はしばらく沈黙したあと、口を開いた。
「越後は山が多いため、防衛が得意な地域です。
一方で関東は平野が広く、農業が盛んであったことから、大名たちの争いが頻繁に行われていました」
「その通り。平野は大名たちが兵力を集めやすい場所でもあったから、資源を持った大名が積極的に攻めてきたのさ」
冬美のフォローに、大きく頷く古市。
古市は当初参加を渋っていたので、今日の勉強会に来てくれるのか、俺は一日中不安だった。
しかし、その心配は必要なかった。
古市は長考しながらゆっくりと相手の質問を咀嚼し、どんな見当違いな質問であっても真摯に対応している。
冷静に考えれば、彼は態度こそ悪いものの、誰よりも丁寧で決まりごとはしっかり守る男だ。ドタキャンなんてするような人ではない。
「いやあ、雷君。本当に助かるよ。参加要請を受けてくれて、どうもありがとう。優しいんだね」
「親切のためではありませんよ。
ただ、迷惑をかけられたお詫びを頂かないのは、勿体無いと思っただけです」
確かに、学年一位直々に講師をしてくれる機会なんて滅多にない。
それに、交流が深まるのであれば尚更だ。冬美と顔見知りになることで損をすることはないだろう。
美味しい料理を目の前に出されたら、ありがたく頂こうと思うのは自然だ。
「古市先輩は、どの科目が苦手なんですか?」
彼方がそう尋ねると、古市は少し恥ずかしそうにして「理数……特に、理科だな」と言った。
「理科だったら、心菜ちゃんが教えてくれるよ。去年、かなりお世話になったから」
「それが……実は私も去年、津島に一対一での勉強会を提案したのですが、理由もなく断られてしまいまして。
一応、後日わかりやすいノートのコピーは頂いたのですが……」
出会って一ヵ月だが、津島は言いたいことは正直に言うタイプだろう。理由もなく断ったというのは、随分違和感がある。
それに、別途フォローが入ったということは、古市が苦手というわけでもなさそうだ。
まあ、言えない理由の一つや二つ、誰にだってあるだろう。
俺はそう自分に言い聞かせて、目の前の課題に集中した。
――勉強会五日日。
昨日の勉強会で、朱里が「理科は津島に教えてもらった」と言っていたこともあり、今日の津島の参加をとても期待していた。
しかし、その期待は無残にも砕かれてしまった。正直に言うと、津島の説明は……とても上手とは言えなかった。
「遺伝子はDNAの中にあって、RNAっていうのもある。遺伝情報を運ぶの。で、その塩基の並びが生き物の特徴を決めてて……」
「……えっと、どっちが遺伝情報を運んでいるの?」
「それはRNAだけど、遺伝子自体はDNAの中にあるの。」
「???」
朱里の頭上には、ハテナマークが浮かんでいる。去年もこんな感じだったのだろうか。失礼だが、よく補習にならなかったな……。
津島自身は内容を理解しているのは間違いない。ただ、伝えたい情報が多く、うまくまとまらずに錯綜してしまっているようだった。
「遺伝子はDNAという分子で構成されていて、RNAとは異なるものだよ。RNAは遺伝情報を伝える役割を持つけれど、遺伝子自体はDNAの中にある。
DNAの中の塩基の配列が、その生物の特徴や性質を決める重要な要素なのさ。」
冬美がすかさずフォローに入る。彼の説明は明確で、朱里の理解を助けるには十分だった。
「……朱里、ごめん。わかりづらくて。」
自分の不手際を正直に謝る津島。朱里は柔らかな声色で「そんなことないよ。ありがとう」と返した。
「そういえば冬美、あの腐れ兄弟、どんな処罰を喰らったの?」
「ウチの担任は気が弱いから、私が代わりに"躾"をしてあげたのさ。それ以降は随分大人しくなったね。」
"躾"と聞いたとき、神野くんが身震いしたように見えた。
「そう。……変なこと聞くけど、あいつら大怪我とかしてない?」
「ん?……ああ!たしか丁度一週間前に、階段で転んでかなりの大怪我をしていたよ。
でも、何で心菜君がそんなこと知っていたんだい?」
「べ、別に。風の噂よ。……私、そろそろ帰るわ。ここにいても迷惑かけるだけだし」
「えっ!こ、心菜ちゃん!迷惑なんて思ってないよ!」
声や態度だけではわからなかったが、本人としては説明がうまく伝わらないことが相当堪えていたようだ。
朱里の制止も効かず、津島はカバンに荷物をまとめようとする。
すると、急に桃が席を立ち、津島に歩み寄った。
「あのっ!津島先輩!ノートを見せてもらえませんか?」
「そういえば昨日、雷君が言っていたね。去年、津島君からノートのコピーをもらって、それがわかりやすかったと」
口頭はあまり得意ではないのかもしれないが、文面での説明であれば、わかりやすいかもしれない。津島は、俺と桃の言葉を反芻したあと、
「わかった。今からコピー取って来る」
と言うと、カバンを元に戻し、ノートを抱えて職員室へと向かった。
「よかった。フォローありがとう、麻平さん、冬美く……ちゃん。」
「い、いえ。私も、津島先輩ともっとお話したかったのでっ」
朱里からの感謝の言葉に、桃はギクシャクしながら返事をした。
しばらくして、津島が教室に戻ってきた。ノートの出来栄えは期待通りで、綺麗な文字と図式が簡潔に丁寧に記されていた。
俺たちがそのことについて絶賛すると、津島は珍しく顔を赤くして黙り込んだ。
「こんなに頑張ってる心菜ちゃんを見るの、初めてかも」
朱里が茶目っ気たっぷりに言うと、津島は一瞬照れくさそうに微笑んだ。
――勉強会最終日。
この一週間、非常に有意義な時間を過ごすことができた。
冬美や神野くんの説明は非常にわかりやすかったし、たまたまとはいえ、クラスメイトが日替わりで参加したことで、楽しく学習することができた。
とはいえ、朱里本人は今日で勉強会が終わることに不安を抱いているようだ。
中間試験までまだ日があるとはいえ、勉学の面で誰よりも頼りになる冬美が不在になるのは無理もない。
「えーん!あけび、最終日しか来れなかったよー!」
勉強会を計画したとき、あけびは意気揚々と参加を宣言していた。
しかし、彼女の特殊な授業カリキュラムと中間試験の対応に追われ、滑り込みで最終日の参加となった。
まあ、忘れっぽいあけびのことだから、単純に勉強会の存在を失念していただけかもしれないが……詳しいことはわからない。
すると、落ち込んでいる様子の朱里を見かねた冬美は、爽やかな笑顔を浮かべて口を開く。
「朱里君が望むなら、合間を縫ってまた勉強会を開催してもいいんだよ?」
「そ、そこまで甘えるわけにはいかないよ!冬美ちゃんの時間をこれ以上奪うわけにもいかないし。
それに、自分の力でも頑張ってみたいの。」
朱里の決意は固く、きっと何を言っても曲げないだろうと思わされた。
しかし、不安はまだ拭えないようで、身体が縮こまっている。何か、勇気づけられるきっかけがあればいいのだが……。
そう考えていると、朝からずっとソワソワしていた桃が言葉を発した。
「あか……林郷先輩!もしお互い、中間試験で赤点を回避できたら……パフェ!食べに行きませんかっ?」
「ええっ!?」
突然のことで、朱里は強く動揺する。
そして、しばらくの間、沈黙が続いた。
「す、すみません!急で……やっぱりなかったことに」
「う、ううん!是非行きたい!甘いもの大好きだから、嬉しい!」
朱里と桃の間にあった壁が、徐々に壊され始めているような気がして、俺も嬉しくなった。
二人とも人見知りなわけではないはずなのに、何故かお互いにギクシャクしていたように思う。
俺としても、二人が仲良くなってくれるのはありがたいし、仲が悪いよりはずっといい。
試験が終わった後の楽しみを思い描いたことで、朱里の不安は和らいだようだった。
「パフェずるい!彼方も食べたい!」
「あけびもー!パフェ大好きー!」
彼方とあけびは、まるで幼い子供のように目を輝かせて声をあげた。
「では、どうせなら勉強会に参加したメンバー全員で、パフェ会を開くことにしよう。桃君、それで構わないかな?」
「はい!ぜひ!冬美先輩にもお世話になったので……いいですか?林郷先輩」
「もちろん!人数が多い方が、きっと楽しいもんね」
女性陣はきゃっきゃっと楽しそうに笑い合い、どのお店のパフェが美味しいか?というパフェ談義に花を咲かせた。
「……俺はパス」
「夏巳?君も来るんだ。拒否権はないよ」
「ハァ……」
冬美には反抗できないようで、神野くんは溜息を吐くと、それ以上は何も言わなかった。
彼の無表情な顔からは不満が滲んでいるが、本心から興味がないわけではなさそうだった。
そしてあっという間に時間は流れ……中間試験が無事に終わった。
勉強会後も朱里さんは積極的に学習を続け、先生やクラスメイトの助けを借りながら、着実に成果を上げていた。
その甲斐あって、自己採点では全教科50点を超えているとのことだった。
それを聞いた俺たちは歓喜したが、朱里さんはずっと不安そうな声色のままだった。
そんな日々が続き、ついに今日、中間試験のテストが全て返却される日となった。
教室はいつも以上に静まり返り、緊張感が漂っている。
生徒たちはそれぞれの答案用紙を持ち寄り、返却を待っていた。
俺は朱里の後ろ姿を見る。彼女は教壇に向かって手を組み、心ここにあらずという様子だ。
「朱里、大丈夫?」
そんな姿を見ていられなかったのか、津島が声をかける。
「え、あ、うん……結果が怖いだけ」
声からは緊張がにじみ出ている。不安を少しでも和らげたいと思った俺は、朱里の背中に向かって言った。
「朱里、きっと大丈夫だ。日々の努力の成果は、きっと実を結んでいる」
「でも、もし……もしも……」
朱里はその先を言えずに、言葉を詰まらせた。
その瞬間、教室のドアが開き、柿澤先生が全教科の採点済みテスト用紙を手に持って入ってきた。生徒たちの間に緊張が走る。
「では、今から答案を返却します。各自、呼ばれたら前に来て受け取ってください」
教室内に緊張感が高まり、俺たちはそれぞれ自分の名前を待った。
それぞれ、点数が良かった教科と悪かった教科があったものの、いずれも赤点は取っておらず、無事補習は免れた。
そして、朱里さんの名前が呼ばれた。
「林郷さん」
「は、はいっ!」
ガチガチに固まった朱里さんは、立ち上がるとゆっくりと前に進み出た。
クラス全員の視線が彼女に集中する。
柿澤先生は優しい目を向けて、朱里にテスト用紙を手渡した。
「全教科、今までで一番素晴らしい点数です。勉強を苦手のままにしない姿勢、大変素晴らしいです。よく頑張りましたね」
テスト用紙を受け取り、点数を確認した朱里は、「うそ」と呟いた。
「は、遥くん!私、パフェ……食べれるよっ!」
朱里は俺に背を向けたまま、涙声で大声を出す。
俺は思わず笑みがこぼれ、「おめでとう。朱里の努力の成果だ」と一言伝えた。
その声に、教室の中は彼女を祝福する空気で満たされた。
周りのクラスメイトたちも自然と拍手を送り、朱里の成功を共に喜んだ。
朱里は振り返り、恥ずかしそうに微笑んで、「みんな、ありがとう」と声を上げた。
彼女の声からは不安は全て吹き飛んでおり、今はただただ、成長とパフェ会の開催を喜んでいた。
+++
私と彼方、そして冬美先輩の三人で計画していたパフェ会だが、中止になった。
朱里先輩を誘うことへの緊張や不安が強すぎて、失念してはいけないことを失念してしまっていた。
全員でパフェを食べに行くことは、遥先輩と先輩方の負担が大きいのだ。
私たちがいるとはいえ、遥先輩の女性恐怖症が治っているわけではない。
それに、クラスメイトの女性陣に対して症状が出る恐れがあるし、行く予定だったお店は女性客が多い。
また、二年一組はごく一部だが、よくない噂も流れている。もし万が一、トラブルが起こってしまったら、更に悪い噂が広まってしまうかもしれない。
そこで、計画していたパフェ会は……手作りパフェ会に変更された。
各々が好きな食材を持ち寄り、学校内でパフェを作って楽しむ。
この案を面白く思った冬美先輩が、家庭科の先生を口説き落としてくれたおかげで、特別に家庭科室を使わせてもらえることになった。
赤点を回避するどころか、去年よりも成績が良くなった林郷先輩はとても嬉しそうにトッピングを盛り付けている。
遥先輩も、その姿を後ろから見て、とても嬉しそうな表情を浮かべていた。
「さすがあけび。色合いのセンスがすごくいいわね」
「わーい!シマコに褒められた~!えへへ、すごいでしょ~!」
あけび先輩のパフェ作りは本格的で、断面図を絵に描いてから入念に準備をして臨んでいた。
今まで知らなかったが、あけび先輩の絵はとても上手で、何回も入賞したことがあるらしい。美術部のクラスメイトも、あけび先輩を尊敬していると言っていた。
「ふふふ。私のパフェも負けていないよ」
得意げに披露する冬美先輩だったが、カラースプレーや合成着色料などによってド派手なことになっている。アメリカのお菓子みたいだ。
「ふ、冬美クン?それ、本当に食べていいものなのかい?」
「何を言う松竹君。これは私の芸術作品であり、最高に美味しい食材を厳選したスペシャルなパフェだよ」
そんなやり取りを横目に、私は神野くんに近づいた。
「わあ。神野くん、本当に料理初めてなの?手際が良いね」
「……どうも」
勉強会のときから思っていたが、神野くんはどうも私のことが苦手なようだ。
特に何か嫌がるようなことをしたつもりはないけど……私が近づくと避け、一向に目を合わせようとしない。
対応に困っていると、神野くんは恐る恐る口を開いた。
「あの。俺の名前……下の名前で、いい」
「!わかったよ、夏巳くん。私の名前も、桃って呼んでいいよ」
「そっ……!それは、ちょっと恥ずい」
なあんだ。苦手なんじゃなくて、恥ずかしがっているだけだったんだ。とにかく、嫌われていないようでよかった。
……あれ?でも、彼方や先輩方には、特段恥ずかしがるような素振をり見せていないような……?
「夏巳。その砂糖菓子、サンドウィッチ伯爵だよな?そんなもの、よく見つけたな」
「あ、やっぱわかります?さすが柘榴先輩ッスね」
椿丘先輩がやって来ると、二人は『サンドウィッチ伯爵の冒険』の話で盛り上がり始めた。
私は彼らの邪魔にならないよう少しずつ距離を取り、周りの様子を観察した。
すると丁度、古市先輩が津島先輩に近づいていく姿が確認できた。
「津島さん。今年もノートのコピーを頂き、ありがとうございました。非常に助かりました」
津島先輩は「……別に、大したことしてないわよ」と一言呟くと、手際よくフルーツを切り始めた。
包丁さばきがとても上手で迅速だった。もしかしたら津島先輩は、料理が得意なのかもしれない。
「も……麻平さん。このパフェ、どうかな?」
ふと、林郷先輩の声が聞こえた。
振り返ると、マカロンがたくさん乗った、可愛らしいパフェが完成していた。
「とっても可愛いです!このマカロンに描かれた顔も、それぞれ違う表情になってて、ユニークです!」
私は純粋にパフェの出来栄えを褒め、それを聞いた林郷先輩は照れくさそうな表情を浮かべた。
現在、家庭科室内は楽しい雰囲気に包まれ、林郷先輩とも自然に話せている。
……よし、チャンスは今しかない。私はこのために、今日のパフェ会を計画したと言っても過言ではない……!
私は覚悟を決め、林郷先輩に向かって手を差し出した。
「あのっ……!私、林郷先輩……いえ、朱里先輩と仲良くなりたいって思っているんです!
遅くなっちゃいましたけど……私と、友達になってくれませんか?」
「……」
朱里先輩は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにテーブルの上にパフェを置き、差し出した私の手を優しく握り、微笑んだ。
「こちらこそ、私と友達になってください。桃ちゃん」
しばらく握手をしていた私たちだったが、何だか途端に恥ずかしくなって、お互い吹き出してしまった。
すると、近くで武道兄妹の声が聞こえた。
「お兄ちゃん!彼方とパフェ、半分こしよ~!」
「いや、トッピングの種類はどっちも同じなんだし、大差ないだろ」
遥先輩は、付きまとう彼方から逃げているようだった。
そんな遥先輩は私たちの傍まで来ると、助けを求めるような顔で私の顔を見た。
「彼方ちゃん。そのパフェ、なんか足りないと思わない?」
「え?完璧だと思いますけど……?」
「あっ!彼方!アンタの大好きなパッキー、乗せ忘れてる!」
「ほ、本当だ!私としたことが……!お兄ちゃん!絶対、彼方と半分こしてね!約束だからね!」
彼方はそう言うと、パッキーがあるテーブルまで駆けて行った。
「ありがとう、朱里、桃。助かった……はぁ」
彼方がいなくなったにも関わらず、遥先輩は変わらず困ったような表情を浮かべたまま、溜息を吐いた。
そんな遥先輩の困り顔が面白くて、つい、もっと困らせたくなった。
不意に、朱里先輩と目が合った。
朱里先輩も同じような考えのようで、悪い笑みを浮かべながら、私を見て頷く。
その瞳には、遥先輩の気を引きたいという思いが隠されているような気がした。
私も負けてはいられない。二人の小さな駆け引きが、ここで繰り広げられているのだ。
互いに気を引き合うその様子が、なんだか楽しくて仕方なかった。
「遥くん。私が作ったパフェ、食べてほしいな」
「遥先輩!私特性のスペシャルパフェ、ぜひご賞味ください!」
私と朱里先輩はほぼ同じタイミングで、遥先輩に自分のパフェを勧める。
遥先輩は更に困った顔をして「えっと、どっちから…?」と呟いた。
その一言に、朱里先輩と私は思わず笑ってしまう。
「私の方を先に食べてくれるよね?」と朱里先輩が言う。
私もすかさず、「私の方からですよね?遥先輩?」と耳打ちする。
苦渋の選択を迫られた遥先輩は、スプーンを両手に持ち、二種類のパフェを同時に口に運んだ。
その様子に、笑いを堪えきれず、朱里先輩と私は学校中に響き渡るくらいの大きな声で笑い合った。
私たちの楽しそうな声に少し戸惑いながらも、遥先輩は優しく微笑んでいる。
その笑顔を見て、心が温かくなり……そして、ようやく気がついた。
私、遥先輩のことが好きだ。
心の奥底で、何度も誤魔化そうとしてきた気持ち。
朱里先輩と仲良くなったことで……隠していた思いが、自然と浮かび上がってきた。
きっと、私の恋は実らない。
私には女性恐怖症の症状がでないとはいえ、先輩が私の気持ちに気づくことはないだろうし、それを望む資格があるかさえ分からない。
それに、私はあの人の隣に立つにはふさわしくないかもしれない。
でも、それでも――それは、この恋を諦める理由にはならない。
私には、この気持ちがあるだけで十分だ。
彼が悩んでいるときにはそばにいて支えられる、そんな存在になりたい。
ただそばにいて、静かに彼を見守ること……それが、今の私にできる精一杯の"恋"なんだ。
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