贈与とは、勉強を続ける活力をくれること
なぜ人は勉強するのか。なぜ人は研究するのか。その答えは「贈与」にあった。
突然、勉強ができなくなった
私は、自分でいうのもおかしいんだけど、勉強が好きだ。いや、もっと好きだった時期がある。中学生の時は、一日中机にかじりついていた。勉強のしすぎで指から血が出ていたこともある。最たるものには、長時間の集中と眠気で目がチカチカし、脳内に星が見えた。「あ、死ぬな。」生命の危機を覚えたっけ。
そうやって詰め込まれる知識の一つ一つが、私を驚かせた。これまで自分が知らなかったことを、次の瞬間には「知っている」。何百万人もの先人や天才が狂気の沙汰で考えてきたものを、一瞬で知ることができる。
「勉強って、コスパよくね?」「勉強って、最高じゃね?」
そうやって、楽しんで勉強していたからか、テストの点は鰻登りだった。その都度、親や先生、友達に褒められた。今、自分の語彙力でいうなら「愛されていた」のだ。
でも、ちょうど一年前、私の心を揺さぶる出来事が起きた。
勉強が、突然できなくなったのだ。
これには、自分でも驚いてしまった。受験生である。
読めていた英語の長文が読めない。聞き取れていた英語のリスニングが聞けない。暗記していた日本史の用語や登場人物が思い出せない。年号が覚えられない。古文がわからなすぎて暗号と化す。その暗号はもちろん解読できるはずもなく、異世界の文書として目の前にある。
勉強を楽しいものと思っていた私の脳内は、信号や横断歩道のない道路のようにぐちゃぐちゃになった。勉強がまったく、進まないのである。
それでも、なんとか勉強を進めて、頑張ることができた。そして、困難を乗り越え大学に合格した。
あの時、なぜ私は勉強を進めることができたのか?
そもそもなぜ、人間は勉強をするの?
ずっと疑問に思っていたことだった。
そんな時、出会ったのが、近内悠太さんの『世界は贈与でできている』だった。
(なんとか)勉強を進められたワケ
私は、生まれつきの病気で車椅子に乗っている。車椅子でありながら、普通学校に通った。小学校も中学校も。その生活では、親や先生、友達に支えられっぱなしだった。荷物を持ってもらったり、いろいろ気遣ってくれた。僕は小中学校の時、自分が車椅子だから、友達が気遣ってくれるから、という理由でこんな気持ちを持っていた。
友達が手伝ってくれる。私は、その返礼として友達が勉強につまずいた時、「必ず」教えてあげる。
読書中、この感覚を近内さんはズバリと言い当てる。
贈与は、受け取ることなく開始することはできない。
贈与は返礼として始まる。
贈与は必ずプレヒストリーを持つ。
この文を読んだ時、自分もまた「贈与」に支えられて生きてきたのだと理解できた。
でも、高校生になるとその心境は変わった。もちろん、友達が手伝ってくれた返礼として勉強を教えようという気持ちは変わっていない。しかし、勉強の目的に「大学受験」がチラつくようになった。
私の通っていた学校は、有名な国立大学や私立大学への合格者を数多く出していた。だって、正門の前に「合格者一覧」などという全長縦1m、横10mくらいの巨大な看板があるんだもん。正門に、雨が降ろうと槍が降ろうと、一年中掲げてあるのだ。その学校を卒業した今、振り返れば、とんでもない看板だったと思う。
入学した当時、この恐ろしい看板を見て「俺もここに書いてあるような大学に行きたい!」と思った。
一方で少し負い目を感じている自分もいた。
いや、ちょっと待て。その学力でその大学に行けるのか?ってか、めっちゃ頭のいい高校に来ちまったなあ。
そんなことを思い出しながら本を進めると、またもや腑に落ちる近内さんの言葉が。
あるコミュニケーションが贈与であるならば、そこには先行する贈与があります。その「私は受け取ってしまった」という被贈与感、つまり「負い目」に起動されて、贈与は次々と渡されていきます。
なるほどなあ。。。。
先輩の大学合格という「先行する贈与」を私は受け取った。さらに、それに「負い目」を感じて勉強を頑張ることができたのか!!!!
あのとき、なぜ頑張れたのかという理由がようやくわかった。
人間が勉強・研究をする理由
冒頭にも書いたとおり、私は学ぶことや勉強が好きだ。しかし、なぜ人間は学ぶという行為をしなければならないのだろうか。ずっと疑問だ。
近内さんは、その理由について本書中で次のように答えている。
※アノマリー:常識に照らし合わせたとき、うまく説明ができないもの
常識の枠組みに閉じ込められているからこそ、世界像が機能し、探究が可能になり、新たな知識が獲得できるのです。
思考の枠組みがある程度強固なものでなければ、そもそも問いを立てることができないということです。
僕らの常識があるから、その常識から逸脱したアノマリーに気づくことができます。
だから、アノマリーとは「過去」からのメッセージだったのです。
そのアノマリーの中には、過去の情報が畳み込まれている。
その情報を正しく読み解くには、そのアノマリーをとり巻く常識の総体を知っている必要があります。
つまり、研究とは「アノマリー」を探すことなのだ。これを探すには「常識の総体」を知っている必要があるという。つまり、私たち人間は「常識の総体」を知るためにわざわざ学校へ行き、勉強しているということに気付かされた。
今後、私が大学で行う研究も「アノマリー」を自分で見つけて謎を解決するのだ。これって、めちゃくちゃ楽しそうじゃない?
だって、自分で新しい概念を作ることができるかもしれないのだ。
そして、それが勉強や研究の本質だと気づかせてくれた。
僕らが勉強をするのは、
世界ともう一度出会い直すため
であり、
手に入れた知識や知見そのものが贈与であることに気づき、
アノマリーに気が付き、次の人へバトンタッチをしていく、つまり贈与をする人になるためだと考えた。
『世界は贈与でできている』は、明日もまた勉強を続ける活力をくれる本だった。