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「津山城天守閣再建構想」01:津山城見学
2022年11月26日作成
「津山城天守閣再建構想」は、政岡さんという津山市在住の水辺ミュージシャンとの出会いから始まります。
政岡さんに津山城を案内していただいた際、先ず立派な石垣に感動しました。
また、初代城主が森蘭丸の弟だと知り、2度感動しました。
さらに、城下を流れる吉井川を通じて、京との流通がなされていたと知り、3度感動しました。
津山城を見学した後、居酒屋「上屋」で、政岡さんと酒を飲みながら語り合う中で、
・政岡さんの叔父さんが、津山市の有力な現役市議会議員
・叔父さんと津山市長との固い絆
・叔父さんの津山城に対する熱い思い
・津山市内にスポンサー候補が存在
などを知り、急に筆者の頭の中に、
「津山城天守閣再建」
という言葉が浮かんできました。
先ずは、構想を練るために基礎知識を習得する必要があります。
その経緯につきましては、下記の記事後半部にてまとめていますので、ご覧ください。
今回の記事では、
・津山城の概要
・津山城見学(第1回)の様子
を報告します。
1.初代城主は森忠政(もりただまさ)
津山城の初代城主は、「本能寺の変」で、織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟である森忠政です。
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森忠政像の横に、森忠政の案内板がありますので引用します。
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森 忠政 1570~1634
幼名を千丸。
元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生まれる。
京都本能寺の変で、織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟。
天正12年(1584)兄長可(ながよし)の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山7万石を与えられる。
のち徳川家康に仕え、慶長5年(1600)信濃(長野県)川中島13万7000石を領す。
同八年(1603)美作国一円18万6500石を与えられ津山に入封。
翌九年(1604)より津山城の築城に着手、また城下の町づくりを始め、現在の津山の基をなした。
寛永11年(1634)三代将軍家光に随伴して津山より状況するが、食傷により急死す。
享年65歳。
なお、この像は、津山市小田中、森家の菩提寺本願寺にある木造を基としたものである。
2.津山城の概要
現在、津山城に天守閣はありません。
ありし日の津山城天守閣を撮影した写真を下に示します。
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(案内板より)
2-1.津山城跡
森忠政像の横に、津山城跡の案内板がありますので引用します。
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津山城跡
国指定史跡(昭和38年9月28日指定)
津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長9年(1604)に起工し、元和2年(1616)の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
往時には五層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風の装飾のない実践的なものでした。
また、本丸、二の丸、三の丸には、備中櫓をはじめ、栗積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には70余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。
明治6年(1873)廃城令によって城郭は公売され、翌7年(1874)から八年(1875)にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。
その後、明治33年(1900)城跡は鶴山公園として津山町の管理となり、昭和38年(1963)に国の史跡に指定されました。
2-2.歴代城主
津山城跡の案内文に続いて、歴代城主の案内文もありますので引用します。
歴代城主
◆森 家◆
森家は清和源氏で、初代津山藩主森忠政は、美濃金山城主森可成の6男に生まれました。
慶長8年(1603)徳川家への数々の武功が認められて、信濃川中島13万7500石の大名から美作一円18万6500の大名に抜擢されました。
この忠政は、本能寺の変で主君の織田信長とともに壮絶な最期を遂げた森蘭丸の末弟にあたります。
森氏は四代90年にわたって美作国を治めましたが、長成に継子がなく、津山森家は改易となりました。
その後、森家は二代藩主長継の子長直が備中西江原藩主として森宗家を再興し、さらに宝永3年(1706)赤穂に移りました。
◆松平家◆
森家にかわり10万石の大名として新たな津山藩主となった松平宣冨は、徳川家康の第二子結城(松平)秀康の曾孫(秀康の子松平忠直の長男光長の養子)で越前家と飛ばれ、徳川一門中に重きをなしていました。
そして明治4年(1871)に降参となるまで、9代174年にわたって続きました。
3.津山城見学(2022年11月20日)
津山城の概要を知ったところで、政岡さんの案内により津山城見学を行いました。
3-1.津山観光センターで待合せ
政岡さんと津山観光センターで待合せを行いました。
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ここで、政岡さんと記念撮影
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(右側:政岡さん、左側:筆者)
3-2.冠木門(かぶきもん)
城下にある立派な石段を登り、津山城の入口である冠木門へと向かいます。
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石段を上り右へ折れますと、津山城の入口である冠木門があります。
冠木門の近くに料金所があります。
大人:300円です。
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(津山城の入口)
ここで、城内を確認するため、津山城案内図を挙げます。
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3-3.三の丸へ
三の丸へ上がる石段です。
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三の丸です。
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3-4.二の丸へ
二の丸へ上がる階段です。
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二の丸です。
前方に備中櫓が見えます。
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二の丸の近くから見た備中櫓です。
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(南側から撮影)
3-5.本丸へ
本丸へ上がる階段上から撮影した備中櫓です。
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(東側から撮影)
本丸への通路です。
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本丸です。
多くの観光客で賑わいます。
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3-6.備中櫓(びっちゅうやぐら)
本丸から見た備中櫓です。
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(北側から撮影)
備中櫓の中へ入ります。
入ってすぐの間取りは、田の字型になっています。
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田の字型の間取り
1階奥の部屋には、床の間のある部屋がありました。
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床の間のある部屋
2階へと上がります。
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2階への階段
2階は、立派な床の間のある部屋でした。
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2階床の間のある部屋
備中櫓を出て、天守閣跡に向かいます。
3-7.天守台
天守台です。
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天守台石垣の内部です。
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天守台石垣上部から見た城下町(津山市内)の光景です。
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3-8.天守台の概要
天守台の案内板がありますので引用します。
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天守台 概要
津山城の天守は、地上5階建てで、最上階以外に破風(はふ)を持たない質実な造りでした。
高さは石垣を除いて約22mで、一般的な五層の天守としては最大規模のものです。
形は、天守台の平面が正確な四角形で、上階が規則的に小さくなっていく「層塔型(そうとうがた)」と呼ばれるものです。
この壮大な天守を支える礎石は、地下の穴蔵部分で確認されています。
上から見ると、平らな礎石が並んでいる様子が分かります。
絵図と比較すると、柱の位置と礎石の位置はほぼ一致しています。(右下の写真:写真26)
柱は、約38cm角もある巨大なものであったことが分かっています。
天守をはじめ城内の建物は、明治7年から8年(1874~1875)にかけて取り壊され、石垣を残すのみとなりましたが、その後昭和11年(1936)に開催された「産業振興大博覧会」の呼び物として、本来の天守の3分の2の天守が建てられました。(右中断の写真:写真26)
「張りぼて」の愛称で親しまれましたが、空襲の目標になるという理由から、昭和20年8月に取り壊されました。
ここまで上がってきて感じたことは、とにかく石垣が立派!
日本有数の城であったといっても過言ではありません。
現在はすっかり岡山城にお株を奪われてしまいましたが、昔は岡山市よりも栄えていたのでしょう!
しかも、「写真26.天守台案内板」にも記載されていますが、スケール3分の2の天守閣が再現されていた過去があったんですね!
これには、驚きました!
3-9.天守台を下りながら、紅葉を楽しむ
津山城を見学した本日(11月20日)は、津山城紅葉祭りの最終日。
天守台を後にし、石段を下りながら紅葉を楽しみました。
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石垣と紅葉のセットは映えますね!
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津山城見学後は、政岡さんと近くの居酒屋「上屋」で今後のことを語り合いました。
その様子は、下記の記事後半部にまとめていますので、ご覧ください。
4.まとめ
津山城見学後、目に見えない何者かに引っ張られて来たのではないか?という感覚になりました。
これだけの城郭は、今のままではもったいないと思います。
やはり、天守台のままではいけないのであって、天守閣を再建する必要があります。
早速、翌日に備中櫓の土産物コーナーへ足を運び、津山城関連の書籍3冊を購入しました。
先ずは、津山城に関する基礎知識を習得する必要があります。
また、政岡さんからも有益な情報提供をしていただいております。
これらを消化しながら、「津山城天守閣再建構想」を練っていきたいと思います。
今後の戦略・戦術を練るにあたり、何と言っても
・政岡さん
・政岡さんの叔父さん
という強力な人材がいることが心強いです。
5.参考・引用Webサイト
6.関連情報
政岡さん情報提供
CG
発注者 :『津山観光キャンペーン推進会議』
津山市観光協会などの団体
制作会社:大成建設、成和コンサルタント株式会社
7.筆者プロフィール
筆者のプロフィールについては、下記の記事をご覧ください。