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There are メリトクラシーを内面化してる人たち.

自称「投資家を目指す勤務医」アカウントによる「年収890万円以下の人たちから恩恵を受けてることは一切ない」というつぶやき。

先日、白饅頭氏の記事でご紹介されてたのですけれど、確かになかなかすごい発言ですね。


ふむー。


なんといいますか、こんな風に年収や納税額は社会貢献度を反映していると思われがちです。
たとえば児童手当の所得制限の議論でも「こんなたくさん働いて多額の納税もして社会に貢献してるのに手当をもらえないなんて」という文脈での批判は多く見られました。

しかし、実際には「年収や納税額が社会貢献度を反映している」なんてことはないのですよね。

年収や納税額と社会貢献度の間には、局所的に多少の正の相関ぐらいはあるでしょうけれど、決して正比例の関係にはないですし、たとえ相関があったとしてもその相関係数は1には程遠いでしょう。
個人的には、「年収や納税額を社会貢献度の指標として使う」のは「検診でとりあえず腫瘍マーカーを測る」ぐらいの雑さではないかというイメージです。(特定のジャンルであれば意義があるかもしれないけれど大抵の場合は意義に乏しいという意味で)


「生存に必要なものである水はとても安いのに、生存に不要なものであるダイヤモンドの方がなぜはるかに価格が高いのか」という経済学における古典的な問題も知られてますが、それに類似した話と言えます。(財に内在してる本質的価値ではなく希少性に伴う限界便益の高低の方が価格を決定しているとされます)

社会に必要なものとしてボランティア活動が恒常的に存在していることや、天文学的な収入を稼いでいるイーロン・マスク氏や孫正義氏などの富豪を育てたり生存を支えた人たちは、そんな「社会貢献度が高い人」をサポートしたという意味で「社会貢献度が高い」はずなのに、必ずしもその富豪の「年収力」に応じた高い報酬が払われるわけではないことを考えても、「お金を稼いでる人ほど社会に貢献してる」という理屈は現実と乖離してるのですよね。


従って、「お金を稼いでる人ほど社会に貢献してる」わけではないし、ましてや「年収890万円以下の人たちから恩恵を受けてることは一切ない」は成り立ちません。

この辺は、そのものズバリなテーマの『給料はあなたの価値なのか』という本も最近出てますので、参考になりそうです。(江草は絶賛積読中ですが)



こんなわけで妥当ではないとされてるのにもかかわらず、「年収や納税額は社会貢献度の象徴」としばしば誤解されてしまうのは、「お金」が「もらったありがとうの象徴」のようにとらえられてるからなのかもしれないなと考えてます。

つまり、

市場の露店のような売買の場面であれば、買う人はその商品の価値に見合った分までしかお金を出さない。

つまり客が受け取った価値の代わりにお金が支払われている。

ゆえに、お金を払うのは「ありがとう」の気持ちだ。

そんな感じの「素朴な市場の想定」が一般化されてるのではと。

確かにこう見ると、自分に支払われてる給料は自分の労働の価値(「ありがとう」の集合)を表しているのだし、自分が払ってる税金は社会への価値の提供である(社会は私に「ありがとう」と思え)と、考えるのもうなづけます。
それで、どうやら、こうした「価値あるものがお金(ありがとう)になる」という感覚が、世の中では「市場原理である」として認識されてる気さえするんですよね。


ただ、ヒットした『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』で知られる経済学者バルファキス氏がNHK『欲望の資本主義2022』で(確か)指摘していた通り、市場(シジョウ)と市場(イチバ)は異なるのです。



良いか悪いかは別として、世の中はそんな「これが欲しかったの!ありがとう!これお礼の代金ね!理論」(以下、「ありがとう理論」)が成り立つような素朴な売買で構成される露店市場(イチバ)ではなく、各々が希少性を求めて欲望渦巻くマーケット(シジョウ)も多いのです。

正確な表現かは分かりませんが、噛み砕いて言えば、商品そのものが買われてるのがイチバで、商品に伴う期待利益(お金)が買われてるのがシジョウと言うイメージでしょうか。


売る人が自分で商品を作り、買う人が自分のお金で自分自身でそれを使う目的で商品を買う最終受益者であるような場であれば、確かに市場(イチバ)原理として限定的に「ありがとう理論」も成り立つかもしれません。

でも、たとえば、買う人が、自分が作ったわけでもない商品を買い占めて、それにより希少性を高めて高値で転売するような(みなさんが大嫌いな)中抜き転売ヤーであれば、それは市場(シジョウ)原理に近いでしょう。「ありがとう理論」は成り立たないように思うのです。


だから、たとえ年収や納税額が社会貢献度と十分に相関することがあるとしても、それはその稼ぎ方の内容次第ではあるでしょう。

少なくとも、医師みたいに、代金を受益者が全額負担するのではなく、ほとんどを保険、すなわち第三者が負担する仕組みの仕事であったり、投資のように現実の「ありがとう」の場から随分と距離がある利益である「キャピタルゲイン」や「インカムゲイン」を狙うような仕事で、多くの収入があったとしてもそれは「ありがとう理論」のイチバ的前提から離れてるように思います。

ですので、「イチバ」で勝ち取ったものでもないのに、ただ単に自己の年収の高さだけをもって社会貢献度ヒエラルキーの勝者を誇るのは、「市場原理」を考慮してもなお妥当とは言えないでしょう。
(なお、それなら「イチバ」原理での勝者ならば真に社会貢献してると言えるのかという問題もまたあるのですが、それはまた別の話)



ところで、以前、「お金を稼いでいる人ほど社会に貢献している」というメリトクラシーの規範を内面化してる人なんて見たことないと批評家のデビット・ライス氏はおっしゃってました。

サンデルの『実力も運のうち』では、金持ちも貧乏人も「お金を稼いでいる人ほど社会に貢献している」というメリトクラシーの規範を内面化していることが前提とされていた。
(中略)
とはいえ、サンデルが前提としているような「お金を稼いでいる人ほど社会に貢献している」というメリトクラシーの規範を内面化してそれに基づいて「自分はぜんぜん社会に貢献していないダメ人間なんだ」と思ったことは一度もない。わたし以外の人についても、サンデルが論じているようなかたちでメリトクラシーの規範を内面化している人なんてほとんど見たことがない。

賃金と「社会の認識」は関係あるのか?(読書メモ:『資本主義が嫌いな人のための経済学』②)――道徳的動物日記


しかしながら、とりあえずこんな感じで、メリトクラシーを内面化してる人は医師界隈にはしばしば居ますので、ぜひお納めいただきたく存じます。


まあ、身も蓋もないことを言えば、稼いでる人ほど「収入は社会貢献度に相関してるのだから自分は社会に貢献してる」と思いがちだし、稼いでない人ほど「収入と社会貢献度は相関してないのだから自分は社会に貢献してないとは言えない」と思いがち、と自己正当化バイアスがあるのが人情ということなのではありましょう。

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