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パンとサーカス、そしてワーク

大衆はパンとサーカスを与えておけば容易に支配できると言われてます。


パンとは食事で、サーカスとは娯楽です。

美味しいご飯とお酒を嗜みながらスポーツ観戦にでも興じていれば確かに不満なんて沸き起こらないような気もします。


ただ、パンとサーカスだけではやっぱり足りてないと思うんですよね。

少なくとも現代人は。



パンとサーカス以外に必要とされてるものはなにか。

それはワークです。

つまり仕事です。


もともと、自分個人が満ち足りてるだけでは足りず、社会へ貢献したいという気持ちが人間にはあります。

その社会貢献を果たすための活動の代表格が「仕事」なわけです。


社会貢献のために仕事をする。

これだけ聞いたらもっともな話です。
すごくいいことのような気さえします。


しかし、「社会貢献する手段の一つとして仕事をしよう」という話が、いつのまにか「仕事をしてない者は社会貢献してない」かのようにみなされるようになってきてるんですよね。

この風潮は、仕事をしてない者を社会貢献をしていないフリーライダーだとして非難することにつながります。

こうなると、各個人もその非難を避けるために「社会貢献証明書」として仕事を欲するようになるわけです。


もちろん、仕事以外でも有意義な活動はあるはずです。

たとえば育児なんかは比較的有意義な活動であるとみなされてると思います。

ところが、それでも育児は仕事よりは格下とみなされてるので、仕事よりも育児を優先していると「無意味」扱いされたりします。



それだけ「仕事をしているということ」は他に換えがたい最上級の優先事項であり、この社会の中で尊厳をもって扱われるためのチケットと化しています。

ゆえん、この社会で堂々と生きていくために、誰もがそのチケットを欲します。

たとえ、そのチケットが示す仕事内容に本質的な意味があろうとなかろうと、世間体的に「社会貢献証明書」が必要だから仕方ないのです。

コロナの陽性証明書にもはや本質的な意味がなかったとしても、周りから要求されればかよわい個人は証明書をもらいに受診に列をなすしかないのと同じです。



選挙の政策で「雇用問題」は争点として重視されますが、それは政治家に「人々に仕事を配ること」が期待されてる表れでしょう。

社会に個人が貢献するために存在していたはずの「仕事」が、いつのまにか個人に社会が貢献するための「仕事」が存在するようになったのです。

結果、無理矢理にでもケインズの言う「穴を掘っては埋める」ような仕事を作ったり、そういうブルシットな仕事に就いたり、あるいはブラックな仕事に追い詰められて人が死んだりするわけです。



仕事がないと人々は満ち足りない。

いくらお腹がいっぱいで、エンタメが楽しめていても、それではこの社会では許されない。


それで、

パンとサーカス、そしてワーク

となるわけです。


この状況。

なにやらおかしなことになってる気がするのは、気のせいでしょうかね。

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江草 令
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