November1989 ベルリンの壁が崩れた時
今から29年前の11月9日、東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊した。あれから世界の枠組みは劇的に変わった。まさに歴史の転換点とも言えるべき瞬間をオレは体験したのだ。オレは1988年と1990年の二度、ベルリンを訪問したからである。
1988年の夏、有楽町のシャンテで観たヴィム・ヴェンダース監督の映画「ベルリン天使の詩」の世界に限りない憧れを抱いたオレは、なんとしてもベルリンに出かけて、あのベルリンの壁を見なければいけないと思った。シンガポール航空機でフランクフルト入りして、そこから夜行列車でオレはベルリンに降り立った。壁博物館の所にあったチェックポイント・チャーリーから徒歩でオレは東ベルリンに入った。まだ社会主義の東ドイツは物価が驚くほど安く、強制両替の25マルクは全然減らなかった。オレはBARで昼間からビールを飲み、行列に並んでアイスクリームを買い、贅沢なレストランに入った。森鴎外の小説「舞姫」に出てくる「ウンテル・デン・リンデン」を歩いたのだ。
帰国したオレにはひとつの運命的な出会いがあった。1990年の春、オレは今度は新婚旅行で再びドイツを訪れたのである。もちろんベルリンにも行くことにした。前と同じようにフランクフルトから夜行列車でベルリンに入ったのである。その時、ベルリンの壁はもう崩壊していて、壁の壊れたところから自由に東西に行き来できるようになっていた。そして壁の破片は土産物として売られていた。もちろん、オレもその破片を買った。お土産にネクタイも買った。そのネクタイにはNOVEMBER 1989の文字が入っていた。ブランデンブルク門とドイツ国旗の3色が入ったネクタイだった。
奇しくもオレは壁が崩れる前と崩れた跡の両方のベルリンを訪れることができたのである。なんと幸運なことだろうか。そして、同じ街がこんなに劇的に変化するのだということもまたしっかりと心に刻みつけたのである。
ドイツ統合がスンナリできたわけではない。東西の経済格差を埋めるために巨額の投資が行われ、それは西ドイツにとって大きな財政負担となった。かなり長い期間東西の格差は解消されないままだった。そこに不況が直撃するたびに失業者は増加して再び社会は不安定な状況となっていった。職のない貧しいドイツ人が裕福な外国人移民を逆恨みして衝突するといった事件も起きている。ベルリンの壁は確かになくなった。しかし、新たな壁が人々の心の中に生まれているということも言われる。東西冷戦の象徴がなくなったとしても、すべてが同じになったわけではないからだ。不景気になれば、旧西ドイツの人々の憎悪は旧東ドイツへと向かうのかも知れない。おまえたちのせいで我々まで貧しくなってしまったじゃないか。みんな東へ帰ってくれと。新婚旅行の時にはそうした落書きを随所に見かけた。その問題は今も解消していないのだ。社会の不満は常に弱者攻撃という形で顕在化する。今はその攻撃対象に移民や難民が選ばれているだけである。
新婚旅行の帰り、大韓航空機で韓国人の若者が隣に座った。彼はドイツ留学から帰国するところだった。「ドイツはもうすぐ一つの国になる!」と彼は力説した。自分が見てきた劇的な変化に彼は陶酔していたのである。意地悪なオレはそのときに「Your Country?」なんて質問を浴びせた。ああ、オレはなんて卑怯な日本人だったのだろうか。その質問を受けたときの彼の苦渋の表情をオレは今も覚えている。この日本人はなんてひどいことを言うのかと彼は怒っていたかも知れない。しかし彼は答えた。 「In the future」と。引き裂かれた南北朝鮮が、いつかは一つの国になれると彼は信じているのだった。意地悪な質問をしてしまったオレは、彼のその答えに救われたのだった。いつか、分断された朝鮮半島が統一されることを彼と同じくオレも願っている。もしも日本が半年早く戦争を終えていたら、ソ連が参戦する前に終戦していれば、朝鮮半島が分断されるなんてことはなかったかも知れない。
朝鮮半島の統一はもしかしたら思いのほか早く実現するのかも知れない。トランプ大統領は半島統一の立役者として歴史に名を残し、韓国は急激に中国やロシアと接近してアメリカの同盟国を離脱し、世界は新たなステージに進むのだろうか。
あの時オレが感じた「歴史の転換点に立ってる」という意識は、もしかしたら今の若者が感じていることかも知れないのだ。
日本はこれからどんな国になっていくのだろうか。
平和憲法を捨てて、普通の国になってしまった時、世界大戦の波に飲み込まれてそのまま太平洋に浮かぶ巨大な墓碑になってしなうのだろうか。オレにはそんな悲観的な予想しかできないのである。
モノ書きになることを目指して40年・・・・ いつのまにか老人と呼ばれるようになってしまいました。