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オナニー坊主の話

 「一生不犯」と言えば、生涯セックスをしないことである。一度やった人が「もう二度としない」と誓うのではな く、最初からしないのである。なかなかできない立派なことである。川中島の合戦で有名な上杉謙信はこれを 貫いたらしいが、その代わりにお稚児さんをかわいがっていたという説もある。だったら「不犯」とは言えない だろう。なお、SF作家の小松左京氏は、実は謙信は女性であったという説に基づき、川中島で信玄と謙信が セックスをして意気投合し、甲信越連合軍で都に攻め上るという小説を書いている。



 まあこの「一生不犯」にもいろいろある。とてつもなくブサイクでモテる要素ゼロの男が、全く女性から見向き もされないで生涯童貞で過ごしたとしても「一生不犯」である。その場合は世間から称賛されるのではなくて嘲笑されるだけである。



 宇治拾遺物語にはHな説話がかなり多いのだが、教科書には絶対に載せられないし、そんなものを入学試 験に出せばその大学の見識が疑われてしまうので、入試にも出ない。そういうわけでこのような説話は多くの人の目には触れないままである。知ってるのは私のようなマニアックな古典読みだけということになってしまう。



 ここで紹介するのは若い独身男性の自慰行為を話題にした説話である。
 修行中の僧は普通は若い男性だ。オナニーくらいしたはずである。しかし、「一生不犯」という戒律では、オ ナニーさえも禁じられるのである。じゃあ夢精はどうなのかと突っ込みたくなるのだが、それは無意識の行為 だからしかたないのだろう。




ここからは本文を引用するが、下に口語訳をつけるので、古典が苦手な人は訳文だけを読んでみてくれ。


これも今は昔、京極の源大納言雅俊といふ人おはしけり。仏事をせられけるに、仏前にて、僧に鐘を打たせて、一生不犯なるをえらびて、講を行なはれけるに、ある僧の礼盤にのぼりて、すこし顔けしき、たがひたるよ うに成て、鐘木をとりてふりまはして、打もやらで、しばしばかりありければ、大納言、いかにと思はれけるほどに、やや久しく物もいはでありければ、人ども覚つかなく思けるほどに、此僧、わななきたる声にて、「かはつるみはいかが候べき」といひたるに、諸人、をとがひを放ちて笑ひたるに、一人の侍ありて、「かはつるみはいくつばかりにてさぶらひしぞ」と問たるに、此僧、くびをひねりて、「きと夜部(ゆうべ)もしてさぶらひき」といふ に、大かた、どよみあへり。其の紛に、はよう逃にけりとぞ。                (宇治拾遺物語・巻一 の十一)

 <現代語訳>
 これも今となっては昔のことだが、京極の源大納言雅俊という方がいらっしゃった。仏事をなさった時に仏前 で僧に鐘を打たせて、生まれてこのかたHをしたことのない童貞の僧を選んで法会を行なわれた。ある僧が座に上がった時に、ちょっと表情が落ちつかない雰囲気で、鐘木を持ったものの打ち鳴らさずにボ-ッとして いたので、大納言は「この僧はどうしたのだろう」とお思いになっていたが、それでも長いことこの僧は物も言 わないでいたので、周囲の人々はみんな気がかりに思っていたが、この僧はわなわなとふるえるような声で 「オナニ-はどう判断すればよろしいのでございましょうか?」と言ったので、人々はあごがはずれるくらいに大笑いした。一人の侍が、「オナニ-は何歳でいたしたのですか?」と質問したところ、この僧は首をひねっ て、「ちょっと昨夜もいたしました。」と言ったので、一同は大爆笑した。そのオナニ-僧は混乱にまぎれてはやばやと逃げ出したそうである。



 さて、この説話にはオチがない。若い僧にとって「かわつるみ(オナニー)」は許される行為であったのかな かったのか? その答えがない。しかし修行中の身で「昨夜もしました」ということはその場にいる資格を失う ほど恥ずかしいことであったということはかろうじてわかる。おそらく、かわつるみくらいならこっそりしている僧はいただろうし、見つからない程度に黙認されていたのだろう。しかし、その事実を告白することはやはりタブ ーであったということだろうか。

 ちなみにこの「かはつるみ」という古語だが、意味は「オナニーをすること」で、絶対に大学入試の時に出ない古文単語である。「絶対に入学試験に出ない古文単語」というものがいくつかあるがその一つである。まじめな受験生は覚える必要のない単語である。



 さて、「信仰」というものが、何かの修行を自分に課す行為であるとするならば、「セックスをしない」という苦しいル-ルを課すことはそれなりに意味があるのかも知れない。受験勉強でも同様である。男子校や女子校という「男女別学」が東大への合格者上位を占めるのは、恋愛という快楽を禁じることによって学習効果が上がるからである。 一度その快楽に溺れればもはや勉強どころではない。



 しかし、「セックスの快楽」を禁じたところで、「かわつるみ(オナニ-)」を、それも一日に数度やりまくってい たのでは、修行中どころではなく煩悩のかたまりとしか言えないだろう。また相当な疲労もあるはずである。実際の所、多くの宗教は性に関する厳格なル-ルを設けて戒めてきたわけだが、新興宗教と呼ばれるものの 中には、教祖が多くの女性信者を周囲にはべらせてハーレム状態のものさえあるらしい。教祖のカリスマ性 をそんなところにまで発揮しなくてもいいのにと思ってしまう。


中にはそれが目的で教祖になるヤツもいるらしい。


 「一生不犯」などという空しい人生を私は送りたくない。そんなこと絶対不可能だ。私は「一生不犯」ではなく て「一生婦犯」を心がけていたいと思ってる・・・と書けば世間からお叱りを受けそうである。


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江草乗
モノ書きになることを目指して40年・・・・ いつのまにか老人と呼ばれるようになってしまいました。