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ひょうすべシリーズ/イカフェミだった私

復刊した『水晶内制度』を読みました。

昨今、『男社会がしんどい』『さよなら、男社会』など、かつてはなかなか取り沙汰されなかった「男社会の暗部」が問題視されるようになりました。
流れが変わったのは、ここ数年のことだと感じます。

けれど笙野頼子先生は、ずっと前から、その歪みを書き続けておられた。

2003年に発表された「ひょうすべ」シリーズ小説『水晶内制度』も、その闇を的確に抽出した作品ですが、男権社会が当たり前で疑問すら抱かなかった時代にこれを書いて発表していたのは……「敬服」以外に言葉が見つかりません。

この記事は、感想というより、笙野先生の小説「ひょうすべ」シリーズの中に「自分の姿」を見つけた元ヤリテの自分語りです。


1.イカフェミだった私

笙野先生が「人民は奴隷で少女を虐待する自由だけがある国にっほん」の行く末を書いておられた頃。
私は、そんな世界に迎合し、今でいう「わきまえた女」「名誉男性」として生きていました。

いや、それもちょっと違う。
典型的保守ジェンダー観には馴染めなかった。
けれど、そのかわり、雨宮処凛さんの『90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝』のような世界に絡め捕られました。
露悪的な性暴力・搾取を斬新なカウンターカルチャーだと思い込み、被害を軽視してしまった……。

「ひょうすべ」シリーズでは、そんな、かつての私に似た女たち「イカフェミ」「ヤリテ」「ひょうすべの嫁」が登場します。

イカフェミは、男社会に都合いいことばかり賛同するイカサマのフェミニスト
「ヤリテ」は、「野党リベラルフェミニズム・手をつなごう男とだけ」の略(この名称、リベラル野党のオッサンや兄ちゃんと揉めた私は何度見ても笑ろてまう)。
「ひょうすべの嫁」は……過去の(そして今現在の)私に大変似ている存在でした。うわーっ。


2.女をころすイカフェミ

私は長い間、男性中心の職場に勤め、フリーランスとしても男性メインの業界で働いていました。
すっかり男社会が抱える澱に呑まれていた私が、心を壊して退職し、女性中心の職場に転職したときのこと。
イカフェミ界の女性蔑視に毒され切っていた私は、無自覚に、先輩や同僚へ「女性に対して無礼な言動」を繰り返してしまったのです。
当然嫌われましたが、当時は、情けないことに何が悪かったのか分かりませんでした。
素晴らしい先輩方が、そんな私でも見捨てず仲良くしてくださったおかげで、何とか「自分の言動は最悪だった」と気付くことができた。
けれど己の愚を自覚するまでには一年以上かかり、本気で最低なことを言ってしまった同僚とは最後まで和解できませんでした……。

私だって、イカフェミになりたくてなったわけじゃなかった
男の世から評価・承認されたい気持ちも別にない。
ドロップアウトした者・定形外の存在に厳しい世の中で、挫折を繰り返した私にできる仕事がそこにしかなかった。
経済面の問題。ただそれだけでした(これこそネオリベの権化「ひょうすべ」に捕縛された証拠なのですが……)。

3.取り替え可能で軽いイカフェミ

しかし、男社会の闇の面・ホモソーシャル的な価値観の中に「溶け込んで上手くやる」方法を身につけても、女性の私は、男社会から存在を認識されませんでした。
「人間扱いされない」以前の問題で、いるのに「いない」ことになっていた。

男社会が求める女性像は「妻・母、娼婦、少女だけ」と言われますが……
そこに当てはまる女性が(人間ではなく)「女」として認知され、それ以外は無視、というより「見えない」
批判してきた女性(割と男性もいた)は、一応「クソフェミ」フォルダに振り分けられます。
けれど私のような男の世に迎合したイカフェミは、従属しているにもかかわらず、普段は透明人間扱いで、たとえ声を出しても聞かれることはほぼない

たまに外の「クソフェミ(認定された女性・たまに男性)」から批判があったときだけ「こんな発言しているイカ女性だっている!」と、手軽な武器防具として活用されました。しかも大抵、私の発言意図とは違った意味で。
そのときは「一応、私の声に気が付いていたのだな……」と思ったものです。
発言や存在が軽視されることに関しては、いわゆる「フェミニズムに理解のある男性」たちも、正直、似たようなものでした。

「母・妻、娼婦、少女」ではなく「クソフェミ」でもない「武器防具」の私は、いつも見えない何かでした。
空気なら生命維持のため呼吸に使われますが、空気以下というか……。


4.初めて外界で見つけた「私」

最近は、洋の東西を問わず、色んなメディアでシスターフッドやフェミニズムなど女性を鼓舞するものを見かけます。
私が惹かれ励まされる著作物も、多く見つかる世界になりました。

いずれの登場人物・著者も私と立場は全く違う。でも、めちゃ分かりみがある
(改めて言うまでもなく)状況や形は違えども、奥底にある普遍的な精神を汲み取ることが大切だからね。

けれど私に似た存在は、どこにも書かれていない。登場しない

イカ界の中心から抜けても、心の掘り下げが下手で、外の世界に「ロールモデル」というか「自分に似た存在」を見つけられなかった私は、すっかり「自分が何者であるか」が分からなくなっていました
「自分が何者かなんて分かってる人はほとんどいない」という見方もありますが、ここは、もっと手前の話です。

でも、そもそも。
私みたいな「わきまえた名誉男性」なんか、いない方がいい。
自分ですら自分が最悪だと思うしキモいから、自分でも自分を書きたくない。
そんな私なんて、外の世界から見えない何かで良い。最初から存在しなくて構わない……

そう思っていた私が、初めて「他者によって描かれた自分」に触れたとき。
感激のあまり、心の奥底から打ち震えました。
作品意図とは反した感想かもしれませんが、「理解してもらえた」と思ってしまったのでした。

外の世界で見かけた私――それが「イカフェミ」「ヤリテ」、そして「ひょうすべの嫁」でした。


5.イカフェミになるしかなかった

悪辣な性暴力文化に染まり切ってしまった私は、まさに「ヤリテ」に当てはまる存在でした。
いや、いつのまにかそこに捕獲されたのだと思います。

まだまだセクマイ差別が酷かった時代。
女性身体の人に恋情を抱き惹かれる体質で、芸術の才能だけ何とか育んていた私は、「魅力的な女性表象のイカアートできるのは素晴らしいこと」と褒めそやされ、イカフェミアート業界に絡めとられました。
「ヘテロ女性先生がイカアートする女性身体は、上手くても性的魅力が足りないケースがある。が、私先生はアート自体が下手でも、女性の身体に執着があって工口い」
それが、イカアーティストとしての私に下された評価でした。

私は元から「性」と「性暴力」は別ものだと、「性描写」と「ヘテロ男社会age」は違うと分かっていました。
なのにいつの間にか、これらを一緒くたにした文化に浸食され、混同してしまった……。

当時『マリみて』は流行っていたものの、今はある百合・GLなどはジャンル自体が存在しなかった
「イカアートなら何でも自由なのがひょうすべ世界」と言われたのに、大人の女同士の性愛を表現したら、意味わからんくらい嫌味を言われた。
自由なんて大嘘だった!
具体的なことは、峰なゆか先生が描いておられます。(「AV女優ちゃん」峰なゆか・119~120頁)

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本当にびっくりしたのが、これ男の娘同士のAV(つまり男しかいない)でも意味わからん普通の男が乱入して来るからね……..
本気で意味わからんけど、彼らが夢見たいものは「男性器」よりも漠然とした「支配側としての男像」なのではないかと思た……。

最初こそ、自分が描きたい「性」をアートしていた私も、そこそこイカアートで稼ぐようになったのち「そんなんじゃ男が購入しない」と諭され、「男社会が求める幻想の女」を不本意ながら描くようになってしまったのです。

私はそれを「選ばされた」ように感じています
選んだのは自分。
でも当時は、他の道が塞がれていた

あんな女性虐待文化の中で育ちたくなかったし、できることなら、あの頃の記憶は全て消し去りたい。

かなり前に退職はしたものの、今も細々と「暴力はアートしないイカアーティスト」は続けているため、現在も私は「イカフェミ」なのだと思います。
一度もフェミニストを自称したことはありませんが(イカフェミ枠なので)、知らねーひょうすべ系男子から突然「真のフェミニスト」認定を受けた経験がある……我ながら「真のイカフェミ」だと思う。

細かい設定までいうと、イカフェミやヤリテは「ヘテロなのに」男社会に迎合して女性消費に加担するため、私自身とは違うのですが……
どんな立場の女でもイカフェミに取り込む力業こそ『ひょうすべ』の怖さだと思う……。


6.既に「ひょうすべ」の嫁だった

私が初めて『ひょうすべシリーズ』を読んだのは、まだ「ヤリテ」から足指二本くらい抜けかけた頃でした。

雨宮処凛さんのコラムのように同性を傷つけ、自分自身も女性として多くの被害を受けていたことに気付き始めた私は、そうした体験を少しずつ外界に語り始めていました。
同時に、男の世で踏みにじられた「母・妻・娼婦・少女」たちが語る壮絶な被害を傾聴し、私が直接手を下したワケではないけれどその世界に加担して本当に申し訳なかった……と猛省しました。
色んな方々と体験をシェアした際は、イカフェミだった過去をブッ叩かれる覚悟でいたのですが、かなり多くの女性から励まされ、一部の女性は「かつて自分もイカ側だった。ともに変わろう」と激励して下さいました。
なのに、しょせんイカフェミ崩れの私は、マーケティング用フェミ・キラキラアカデミーフェミ界から雑に肯定され、ネオ・イカフェミとして「捕獲」されそうになっていました。

そんなとき、TPPの危険性を描いた作品として『ひょうすべの国』を紹介されたのですが……
そこには「ヤリテ・イカフェミ」として既に新自由主義の中で囚われていた私の姿がありました。うわーっ。

中でも、私の心に一番ブッ刺さったのが、短編『ひょうすべの嫁』です。

『ひょうすべはどんな悪い事をしても嫁の責任である』(「ひょうすべの国」笙野頼子・227頁)

外から批判があると、イカフェミ・ヤリテばかりが盾にされた……懐かしい。

『ひょうすべにとってその嫁とは艦コレの艦娘よりもずーっと、軽いもの。むしろ取り替えられコレクションされ消費されるもの』(228頁)

ひょうすべ的な世界で、いつもは認識すらされず、ごくたまにデッキに組み込まれて武器防具となり、イカ界に少し疑問を持っただけで仲間うちから凹られた私は、まさに「取り替え可能な軽い存在」でした。

『ひょうすべの嫁になるとその女は、権勢を揮える。(中略)その代償として、ひょうすべの嫁は、そうならなかった女を全部、出来るだけ残忍な方法で殺すしかなくなる』
『無論、そうして女を殺せば、大量殺人になる。そんな殺人は大罪なので、結局ひょうすべの嫁は地獄へ落ちる』(228頁)

雨宮処凛さんのおっしゃる通り、そこに絡め捕られた女は同性をころすしかなくなります
結局、私も心と体を壊し、今も、ふとしたとき当時の記憶が蘇って苦しむ。地獄に落ちました

『どんなに権勢を揮い、次々と虫ケラのように殺し尽くしても、ひょうすべの嫁の心はけして安らがない。恐怖の中にいる。また絶望もしている』(229頁)

理屈じゃなく心身が壊れるので、あれから何年も経ったのに安らぎません。
今もよく、恐怖の中で絶望します。

『「なるしかなかった」、「仕方がなかった」とひょうすべの嫁は、生涯、心に言う、無論死んだ後も、地獄で言う』(229頁)

いつも言ってます……地獄で言います。今日も言った。

『ひょうすべの嫁になるとその女は黙る、しかし嫁になる直前に志望の理由を親族に明かすという、多くは気の毒な切実な内実を述べる。するとこの動機、「真相」は全部嘘として切り捨てられる。なぜなら内心というものには証拠がないから』(229頁)
『心の内側とはこの世のものではないから、ならば人の評価は、した事を見るしかないものである、という話なのである。そのような地獄の人間観に基づいて、ひょうすべの嫁は、ただその婚姻という行為だけを「評価される」のである』(230頁)

おんたこ仲間たちの反応、本気でこれだった……。
私の内情はどうでもいいけど、自分で選択した事実が素晴らしいと。

ひょうすべ仲間たちによる実在女性たち(そのときは女性声優さんだった)への性的暴言彼女たちを性的に見下す態度に耐えられず、マジ切れしたとき、女性の連帯を全く無視され「(私氏が)おかしくなってしまった!」と判断された思い出……。
ただし実在女性への侮蔑発言には怒ったイカ・キモータたちもそれなりにいました(※キモータは作中だと通貨単位です)
今は、かつて仲良しだったイカおんたこ仲間たちからほぼ縁を切られ、連絡先まで消されていない程度に薄く繋がった旧友とも一切やりとりはなくなりました。
現在も私のイカアートをNOTEアイコンにしてる元ひょうすべ仲間もいるので(ヘイ卜記事に使わない約束は一応した)、私は今なお「ひょうすべの嫁」かもしれん……

「ひょうすべの嫁」に関する記述。
ここまで私の状況を正しく表記した文を見たことがありませんでした。
自分で自分の後ろ姿は肉眼で目視できない(鏡に映った姿や映像は実体とはいえない)ように、自分自身でも、こんなに掘り下げられないと思います。

『今までそこで女性差別に加担していた、ヤリテやイカアートの女性にいきなり、殴りかかるのです(つまり今まで一緒に悪いことをやっていた男たちがです)そしてことに遊郭の有名ヤリテ等を徹底批判してそれから丸坊主にし、下着姿にして大通りを引き回します。』
『「てめえのせいで負けたんだ馬鹿野郎」と、被害者になります。しかもその引回しの後半では「ほらお前が女性差別するからだよ」と趣旨が変わってきます。その上で彼らは意気揚々とその丸坊主の戦利品を、ウラミズモの交番に差し出しに来ます。』
『何か両方の女性に専門家ヅラをし、「じゃあ俺たちが今後ここ、仕切って、まあ、指導してやるから」とか言いはじめる。』(「ウラミズモ奴隷選挙」笙野頼子・278頁)

表面上はフェミニズムに理解ある男性たちもこうだったね……男社会じゃなくイカとヤリテばっかり叩いて俺は正義だと公言した某男子さん元気ですか(二度と会いたかない)


7.拒否されても、見捨てられてはいない

『ひょうすべ』シリーズは、決して、私を受け入れません

人民は奴隷で少女を虐待する自由だけがある国「にっほん」では、改心して報われる機会もなく、同性をころし自分もしぬ。
女性だけが人間として扱われ男性は奴隷になる国家「ウラミズモ」は、にっほんに絶望した女が建国した性愛のない世界のため、女性同性愛者の私には移住資格自体がなかった(性的指向を隠せばいいらしい)。
『ひょうすべ』世界だと、今の私も、「にっほん」「ウラミズモ」以外の他国に亡命するしか他ない存在です。

にもかかわらず、私は歓喜で打ち震えました。その理由は……

ずっと「いた」のに「いない」ことにされた私の実存が、初めて証明された気がしたからです。
ものすごく辛辣で、厳しいことしか書かれていない。
にもかかわらず、深い洞察力で「屑みたいな立場を分かってもらえた」ことが、(作品意図とは反した感想かもしれませんが)とても幸せだった。

男社会に役立つ瞬間のみ存在を思い出され、適当にヤリテ活動を肯定されたときは、虚無しか感じませんでした。
が、あるがままの私を残酷に、現実的に、的確に描写されることが、こんなに嬉しいとは思いもよらなかった……。

悪役として斬られる脇役じゃない、男社会の武器防具として肯定される傀儡でもない、妖怪になるしかなかった私の生命がそこにあった。

所で『水晶内制度』後書で、笙野先生に「レズビアンですか?」と訊いた人がいると書いてあったけど……
笙野先生が突っ込んでおられた通り、レズビアンが生きられず亡命する他ない世界をレズビアン当事者が書いてたら自虐的すぎるわ!!
そんくらい少し考えりゃ分かるだろーが! ちったあ脳みそ使え!!
そんなことすら読解できずに難解な笙野作品を読んでる辺りが凄い(一応褒めてる)。


おわりに.定義からこぼれ落ちた者たちを救うもの

私はまだイカフェミ・ヤリテ崩れで、ひょうすべとは離婚協議中(比喩)です。
絶望して、恐怖の中にいて、地獄で「なりたくてなったんじゃない」と呟く日々です。
ひょうすべの嫁は、死んだあとも「ひょうすべ」に喰われ、遺骨は菓子に入れられ、それを食べた者が新たな「ひょうすべ」を産みます。
でももう私はそうなりたくない。もう嫌だ……

『私が共感できなかったのは、「アカフェミ」だけではなくマスコミ・フェミにもなんです』(「日本のフェミニズム」北原みのり編・108頁)

笙野先生は『日本のフェミニズム』で、こうおっしゃった。
イカフェミ崩れの私もそう思っています。
アカ(デミー)フェミとマスコミフェミに囚われそうになったとき、文献を読んだり催し物にも参加したのですが……あそこで私は肯定された。でも救われなかった
頭が固いし理解は雑だし基本が西洋様の言いなりだし(ナショナリズムは嫌いだがパトリオティズムには賛同の立場です)、正直「99%フェミ云々」とか出したアカフェミも「あんたらだって99%の上位から見てるじゃねえか雑だから小さい声を消すんだよ視野広いつもりの上目線乙」としか思えなかった。個人の感想です。
セクマイの「連帯」だって、結局、いつもいつも金と地位を得やすい男連中に声を奪われた
つまらなくて見えない連中を適当な定義にブッ込んで、体よく存在を透明にして、独自性やアイデンティティを奪い声をかき消した「男の世のリメイク版」みたいに思えた。

根底から救われたと私が感じたものは、特に権力もない一般女性の声と、『文学』『芸術』だけだった。

笙野先生が『群像』で「定義からこぼれた問題を書けるのが文学」的なことを仰ってた気がします(が、本が見つからないので違うかも……)。
桑田真澄投手も「世界平和に必要なものは芸術」と公言していた。
『ユリイカ』女オタク特集の著者でも、頭が柔らかく、洞察力が深く、細かな心象を取りこぼさず拾っているように感じたのは「詩人」「声優」「歌人」だった。個人の感想です。

『笙野さんがいなければ、この国で、私は「イカフェミ」になってたかもしれない』
『笙野さんの文学は、フェミを正気に戻す』(111頁)。

北原みのりさんは、こうおっしゃっている。
私も心の底から同意します。
文学で戦争は終わる。芸術で世界は変わる。
私は「イカフェミ崩れ」の末端イカアーティストでしかない。
けれどイカサマの鎖をブチ切って、イカではない私で生きると決めました。


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