第三章 ヘッラス東西戦争(c440~c405 BC) 第四節 アテヘェネー陥落 (415~05 BC)
シチリア島遠征 (415 BC)
シチリア島は、二四年の「全シチリア島同盟」によってヘッラス東西戦争との不干渉を確立していましたが、東岸南部のシュラークーサー民国の拡大に対するシチリア島内部の対立まで解決していたわけではありません。そして、実際、シチリア島西部のデェロス島同盟側のセゲスタ市民国は、東からシュラークーサー民国に圧迫され、一六年、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国に救援を求めます。平和派ニーキアースは反対しましたが、戦争派アルキヒビアデース(三四歳)の強気の主張により、勇猛アルキヒビアデース・慎重ニーキアース・温和ラーマコホスの三将軍による大遠征軍が送られることになります。
アテヘェネー市では、家門や聖域や街角には昔から「ヘルメェス石柱」が立てられていましたが、一五年、シチリア大遠征軍の出発直前に、これらがあちこちで破壊されるという奇妙な事件が起りました。美青年将軍アルキヒビアデース(三五歳)は、このころ「エレウシースの秘儀」を愚弄していたこともあって、過激政治家クリティアース(約四五歳)や名門遊人アンドキデース(c440~390 BC 約二五歳)らとともに、その犯人の一味と疑われます。
とりあえず、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国大遠征軍、数万名を乗せた数百隻の艦船は、そのまま出発しました。しかし、捜査が進むにつれ、やはり美青年将軍アルキヒビアデースの嫌疑は高まり、シチリア島に着いたばかりの大遠征軍に、彼の召喚状が届きます。けれども、美青年将軍アルキヒビアデースは、イタリア南部の実験理想都市トフーリオス市民国で護送の船から脱走し、なんとそのまま宿敵スパルター士国に亡命してしまいました。
シチリア島での大敗北 (414~13 BC)
デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国大遠征軍を迎えたシチリア島東岸南部のシュラークーサー民国は、将軍ヘルモクラテース(約五〇歳)が中心となって戦うも劣勢で、ペロプス半島同盟に救援を求めます。ちょうどそのころ、スパルター士国では、亡命した美青年将軍アルキヒビアデースがアテヘェネー市の弱点を暴露して、作戦に協力していました。そして、これに従って、ペロプス半島同盟は、シュラークーサー民国に救援軍を送るとともに、アテヘェネー市本国への攻略軍を組みます。
この救援軍によってシチリア島情勢は一変し、一四年、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国大遠征軍は、将軍ラーマコホスも死んで、ニーキアース一人で指揮しなければならず、一三年、ペロプス半島同盟救援軍に包囲され、物資補給も遮断されてしまいます。
一方、ペロプス半島同盟攻略軍は、亡命美青年将軍アルキヒビアデースの作戦どおり、同一三年、アテヘェネー市本国の東北二十キロ、高台デケレイアに砦を築いて、その交通を断ち、また、ここからなんども波状に撃って出て、アテヘェネー市の周辺を荒し回りました。
シチリア島の苦境を知って、アテヘェネー市は、本国も危機的な状況の中、どうにかデーモステヘネースを将軍とする増援軍を送りますが、このように戦況不利となれば、デェロス島同盟諸都市は、あまり貢納も出さず、あまり召集にも応じません。アテヘェネー市内の奴隷も、多くが逃げ出す始末でした。
しかし、このころ、スパルター士国では、亡命美青年将軍アルキヒビアデースが、王アーギス二世(c450~即位c27~398 BC 約三七歳)の留守中に、王妃ティーマイアーにレオーテュキダースを孕ませてしまいます。そのうえ、彼は、誰はばかることなく、「やがて自分の子が王になる」と自慢して歩きました。
同一三年、将軍デーモステヘネースを将軍とする増援軍を得たシチリア島のデェロス島同盟=アテヘェネー民帝国大遠征軍は、全軍を挙げて最後の決戦に臨みますが、港湾を封鎖され、兵士は陸路を逃亡するも、やがて包囲され、ついには、将軍ニーキアースと将軍デーモステヘネースは処刑、生き残った捕虜は苛酷な砕石場労働所へ送致、つまり、文字どおりの全滅でした。このため、イタリア半島南部やシチリア島の親アテヘェネー派の人々も、数多くアテヘェネー市本国へ避難します。その中には、武器製作所経営者の老名士ケプハロス(約七二歳)の二人の息子の兄ポレマルコホス(約四七歳)と弟リュシアース(四六歳)もいました。
デェロス島同盟の崩壊 (413~12 BC)
シチリア島大遠征軍があまりに無残に全滅したために、アテヘェネー市は、その敗北を同年の秋まで知らず、外国の旅人から伝え聞いても信じないほどでした。しかし、この事実が広まるや、アテヘェネー市に支配され搾取されていたエーゲ海のデェロス島同盟諸都市は、亡命美青年将軍アルキヒビアデース(三七歳)の画策もあって、もはや露骨にアテヘェネー市から離反するようになます。また、ちょうどこのころ、蛮族の地と思われていた北方のマケドニア王国に、国王アルケヘラーオス一世(?~即位c413~399 BC)が登場し、首都を奥地のアイゲー(現エデッサ)市から下流のペッラー市に移転してヘッラス文化を吸収、騎兵・装甲歩兵を整備、急速に国力を増強して台頭していきます。
デェロス島同盟からの諸都市の離反に、ペロプス半島同盟も支援し、パールサ大帝国も介入しました。しかし、ペロプス半島同盟は、もとよりそれほど資金がありません。そこで、一二年、ペロプス半島同盟は、小アジア半島西岸のヘッラス人諸都市の支配を認める代わりに、パールサ大帝国から資金を受ける条約を結びます。これによってペロプス半島同盟は海軍も増強し、アテヘェネー市からイオーニア海はもちろん、エーゲ海をも奪おうと図ります。そして、ここに、シュラークーサー民国の将軍ヘルモクラテース(約五三歳)も、返礼のため、軍艦二〇隻を指揮して協力することになりました。
このような事態の急変と世論の逆風に、アテヘェネー市ではさまざまな市民扇動家たちが登場し、政治は混迷するばかりでした。また、このころ、黒海入口マルマラ海南岸東部のカルケヘードーン市民国出身のトホラシュマコホス(c400 BC)は、法廷弁論家として、正義を否定し利害を肯定する激しく革新的な演説を得意として、大いに活躍します。そして、彼は、当時の《演説術》のベストセラー『偉大なる技巧(メガレー=テクネー)』を執筆しました。一方、保守的なアリストプハネース(約三九歳)は、『リュシストラテー(女の平和)』(411 BC)で、[賢明な女たちが夜のお勤めを拒絶して、いつまでも戦争を続行する男たちを屈伏させ、平和を回復する]という風刺物語を描きましたが、しょせんは劇の中のことにすぎず、事態はさらに悪い方向へ突き進んでいきます。
亡命将軍アルキヒビアデースの暗躍 (412~09 BC)
亡命将軍アルキヒビアデース(三八歳)は、デェロス島同盟諸都市の離反を助長するために暗躍していましたが、一二年、ペロプス半島同盟もまた、彼の行動に疑いを深め、死刑の命令を発します。しかし、彼は、ちょうど小アジア半島西岸にいたので、そのままパールサ大帝国小アジア地方西部リュディア州総督(フシャトラパー、サトラペス)ティッサプヘルネース(c450~就任13~退任08~再任01~395 BC 約三八歳)の下に亡命していってしまいました。
亡命将軍アルキヒビアデースは、こんどはふたたびアテヘェネー市で復権することを考え、総督ティッサプヘルネースに対して、[どちらも支援せず、デェロス島同盟とペロプス半島同盟とが長期戦となって両方とも消耗した方が、パールサ大帝国にとって得策である]と説いて、ペロプス半島同盟の増長とパールサ大帝国の介入を防いでおき、その間に、アテヘェネー市の人々に対して、[混迷する「市民政」を廃止し、パールサ大帝国と協調して、事態を打開しよう]と呼びかけます。
定見のない市民扇動家たちによって混迷するばかりの「市民政」に批判的となっていた富裕市民派の人々は、この自己中心的な亡命将軍アルキヒビアデース(三九歳)の策略に幻惑され、「市民政」を擁護する市民扇動家たちを次々と暗殺していきます。そして、一一年、富裕市民派の人々は、弁論代筆家アンティプホーン(c480~11 BC 約六九歳)や保守政治家テーラメネース(約四四歳)らを中心として、アテヘェネー民帝国に、貴族軍人らによる「四百人評議会」を設置しました。
しかし、これはやがて、テーラメネースの意図に反して、政府反対者を抹殺する恐怖政治に変質してしまい、この間もペロプス半島同盟軍が、増強された海軍によって、ヘッラス半島東岸のエウボイア島、黒海入口マルマラ海北岸東端のビューザンティオン市などを奪取し、アテヘェネー市の穀物輸入路を遮断してしまいます。このため、アテヘェネー民国海軍の基地の小アジア半島西岸南部サモス島の人々は、亡命将軍アルキヒビアデースを擁立して、無能残虐な「四百人評議会」を打倒しようとします。
ところが、アテヘェネー市の「四百人評議会」は、わずか四ヶ月で自滅的に倒壊してしまい、その中心であった弁論代筆家アンティプホーンは、弁明するも処刑、代わってテーラメネースを中心とする兵役市民による「五千人民会」が権力を掌握します。そこで、小アジア半島西岸南部サモス島基地のアテヘェネー海軍に擁立された亡命将軍アルキヒビアデース(三九歳)は、方針を変え、とりあえず黒海入口マルマラ海のペロプス半島同盟海軍の追撃に向かいました。
亡命将軍アルキヒビアデースが指揮するアテヘェネー海軍は、一〇年、マルマラ海南岸中部の「キュジコス市西沖海戦」で、ペロプス半島海軍を撃破。これにより、艦船を喪失したシュラークーサー民国将軍ヘルモクラテース(約五五歳)は、祖国から追放されてしまいます。そして、ペロプス半島海軍がさらに奥に逃げたため、亡命将軍アルキヒビアデースは、これを追って、パールサ大帝国プフリュギア州総督プハルナバゾス(c440~世襲?~退任408~再任01~c370 BC 約三〇歳)とも戦闘を始め、プフリュギア州マルマラ海南岸をも掠奪、制圧していってしまいます。
ところで、〇九年、パールサ大帝国と関係の深いプホエニーカ人のカルト=アダシュト士国は、ペロプス半島同盟海軍の衰退、アテヘェネー民国海軍のエーゲ海北岸遠征を知ってか、突然に、千五百隻もの巨大遠征軍で、シチリア島を侵略します。一五年のアテヘェネー市=デェロス島同盟軍のシチリア島遠征の影響もないままに惰眠をむさぼっていたシチリア西部の諸市は、容易に次々と陥落してしまい、カルト=アダシュト士国は、シチリア島の中心である東岸南部のシュラークーサー民国へ進撃。ここに、追放されていた同国将軍ヘルモクラテース(約五六歳)が応戦のために帰国しますが、追放は解除されませんでした。
亡命将軍アルキヒビアデースは、同〇九年、パールサ大帝国小アジア半島中部プフリュギア州総督プハルナバゾス(約三一歳)と講和し、黒海入口マルマラ海北岸東端のビューザンティオン市も制圧して、黒海沿岸からのアテヘェネー市の穀物輸送路を回復します。
このため、ペロプス半島同盟も、これを機会にアテヘェネー市に講和を提案します。また、〇八年、雄弁で知られた高齢の演説術智恵教師ゴルギアース(約七五歳)も、オリュムピア祭において久しぶりに政治家として演説を行い、[外敵パールサ大帝国の介入の脅威を前に、ヘッラス人同志は講和すべきである]と訴えました。このころ、富裕市民の楽器製造業者で法廷弁論家でもあったテオドロスの息子の若きイーソクラテース(436~338 BC 約二八歳)は、演説智恵教師ゴルギアースに入門し、その弟子の保守政治家テーラメネースに師事します。
マケドニア宮廷の繁栄とソークラテース一門の興隆 (408~07 BC)
〇八年、パールサ大帝国は、亡命将軍アルキヒビアデースが荒し回った小アジア半島西岸~北岸を支配下に取り戻すべく、同西部リュディア州総督ティッサプヘルネース(約四二歳)や同中部プフリュギア州総督プハルナバゾス(約三二歳)をその地位から下ろし、第二王子クールシュ(小キュロス、c423~就任08~01 BC 約一五歳)を、小アジア半島副帝国王として送ります。そして、彼は、同年にスパルター士国「提督(ナウアルコホス)」となったばかりのリューサンドロス(c445~395 BC 約三七歳)を積極的に支援しました。
アテヘェネー市の市民扇動家クレオプホーンは、亡命将軍アルキヒビアデースの小アジア半島西岸~北岸での活躍による勢力回復で図に乗ってしまったのか、ペロプス半島同盟からの講和の提案を拒絶してしまいます。ここに至って、老舞唱劇作家エウリーピデース(約七七歳)は、もはやこのアテヘェネー市に絶望し、近年とみに勢力を得た北方のマケドニア王国王アルケヘラーオスー世の招聘を受諾して、出国していってしまいました。
このころ、以前よりライヴァルとして激しく技量を競っていたアテヘェネーの画家ゼウクシスと画家パッルハシオスは、ついに市民たちの前で絵画試合をすることになります。ゼウクシスは、ここに自慢のブドウの絵を持ってきました。これは、たいへんに艶やかで水々しい作品であり、彼が壇上でこの絵を開くや、飛んでいた鳥たちも空から下りてきてその絵のブドウをついばもうとし、市民たちはみな拍手喝采。尊大な画家ゼウクシスは、もう勝ったつもりで、パッルハシオスに、早く幕を取って絵を見せろ、と迫ります。
しかし、ゼウクシス以上に尊大な画家パッルハシオスは、ただ不敵に笑うばかり、怒ったゼウクシスは、力づくでパッルハシオスの絵の幕をはぎとろうとしました。ところが、その見るも柔らかなその幕の布は、なんとまさに絵で描かれていたのです。市民たちは、ただただ驚き、鳥が見まがえるゼウクシスの絵より、人も見まがえるパッルハシオスの絵に勝利を与えました。敗れた画家ゼウクシスは、やはりアテヘェネー市を去り、エウリーピデースと同じくマケドニア王国に行って、その宮廷で装飾画などを描きます。
こうして、蛮族の地と思われていたマケドニア王国の王アルケヘラーオス一世の宮廷には、老舞唱劇作家エウリーピデース、光陰画家ゼウクシス、さらには、舞唱劇作家アガトホーン、音楽家ティーモテヘオスらが次々と招かれ、これらの亡命アテヘェネー文化人によって、なかなかの文化的繁栄を呈します。王アルケヘラーオス一世は、さらにアテヘェネー市の有名な人格教育者ソークラテース(六二歳)をも招こうとしましたが、これは体よく断られてしまいました。
一方、アテヘェネー市では、市民扇動家クレオプホーンが、武装市民による「五千人民会」をも転覆して、元のような市民全員による「民会」を復活させます。その上で、過激政治家クリティアース(約五三歳)の提案によって、〇七年、ここに、亡命将軍アルキヒビアデース(四三歳)が、救世主のごとく堂々とアテヘェネー市に華々しく凱旋。喝采して歓迎する市民全員の民会によって、ただちに「戦争主導官」に選出されてしまいました。
このような過激政治家クリティアースや戦争主導官アルキヒビアデースの活躍によって、その師である人格教育者ソークラテース(六二歳)の下にも、以前からの弟子である同年代の名門富裕市民クリトーン、カハイレプホーンとその弟のカハイレクラテェス、演説術智恵教師ゴルギアースに師事していたアンティステヘネース(約四八歳)、パルメニデースを研究していたエウクレイデース(約四三歳)などに加えて、各地からさらに多くの弟子たちが集りました。
たとえば、アフリカ北岸東部(現リビア)キューレーネー市出身のアリステヒッポス(c435~355 BC 約二八歳)、テヘェベー市出身でありイタリア南部でピュータハゴラース政治教団のプヒロラーオスに学んでいたケベースとシムミアースなどが、ソークラテースの名声を聞いて習いに出てきました。
このほか、旧友でもあり弟子でもある富裕なクリトーンの四人の息子のクリトブーロス・ヘルモゲネース・エピゲネース・クテシヒッポス、富豪の息子だったのに遺産を兄に取られて貧窮に苦しんだヘルモゲネース、アテヘェネー市のソーセィジ屋の息子の貧乏アイスキヒネース、単細胞な熱狂アポッロドーロス、そして、アルキヒビアデースの愛人の美人高級娼婦テオドテーなども、ソークラテースの弟子になりました。
ソークラテース自身もまた、すすんで有能な人材を集めようとしました。たとえば、美少年クセノプホーン(c430~c354 BC 約二三歳)は、路地で彼に人となる道を聞かれ、答えられず、弟子になりました。また、過激政治家クリティアースを母の従兄とする名門少年プラトーン(427~347 BC 二〇歳)は、以前にヘーラクレイトスの弟子のクラテュロスに就いて学んだこともあったものの、これまでずっと山羊歌舞唱劇作家志望でしたが、ディオニューソス劇場の前でやはり彼に呼び止められ、弟子になりました。
さらに、小アジア半島西岸中部のキヒオス島出身の秀才少年エウテュデーモスは、古今東西の詩人や学者の書物を収集して勉強していましたが、ソークラテースは、これを聞くと、弟子たちとともに、行って彼を弟子に誘いました。くわえて、ソークラテースをライヴァル視している智恵教師アンティプホーンの息子のエピゲネースも、ソークラテースは弟子にしてしまいます。また、イーソクラテース(二九歳)は、あくまで演説術智恵教師ゴルギアース・保守政治家テーラメネースの弟子ですが、かつてゴルギアースの弟子でもあったアンティステヘネースを介してか、ソークラテースの影響も強く受けています。
アテヘェネー市の敗北 (407~05 BC)
ところが、同〇七年、過激政治家クリティアース(約五三歳)は突然に追放され、テヘッサリア地方に亡命してしまいます。一方、新たに戦争指導官となったアルキヒビアデース(四三歳)は、市東北の高台デケレイア砦にペロプス半島陸軍が駐留して襲撃しようとしているにもかかわらず、秋の「エレウシースの秘儀」の行列を、数多くの装甲歩兵で護衛して強行し、これに成功して、アテヘェネー市民たちの士気を一気に回復させます。
〇六年早春、マケドニアに亡命していた老舞唱劇作家エウリーピデース(約七九歳)は、その異国で死去してしまいます。なんと、王アルケヘラーオスの宮廷で飼っていた猛犬に噛み殺されてしまったのです。この知らせに、春の「ディオニューソス大祭」では、老ソプホクレェス(約九〇歳)が喪章を付け、舞唱団は花冠も外しました。
同年初夏、市民の期待を一身に集めた戦争主導官アルキヒビアデースは、小アジア半島の提督リューサンドロス(約三八歳)のペロプス半島海軍を打破すべく、アテヘェネー市海軍とともに出撃します。
ところが、資金不足のために一部が途中で停船、ここをペロプス半島同盟海軍に攻撃されて、大敗してしまいます。失望した民会は、ただちにアルキヒビアデースから「戦争主導官」の地位を剥奪してしまいます。アルキヒビアデースは、やむなく傭兵をかき集め、エーゲ海北岸トホラーキア地方に逃げ出します。また、このころ、シチリア島東岸南部のシュラークーサー民国では、追放を解除されない将軍ヘルモクラテース(約五八歳)が、娘婿ディオニューシオス一世(c430~367 BC 二三歳)とともに武力による政権奪取を企図しますが、失敗し戦死してしまいました。
アテヘェネー市海軍は、代わって将軍コノーン(c444~392 BC 約三七歳)が指揮することになったものの、艦船は、すでに小アジア半北部沿岸レスボス島のミュティレーネー市において、ペロプス半島海軍に包囲されてしまっていました。このため、アテヘェネー市は、残る最後の力をふりしぼり、住民から寄付を集めて艦船を作り、奴隷まで兵士に集めて援軍を組みます。この援軍は、同〇六年、ミュティレーネー市の小アジア半島側対岸東南で、ペロプス半島海軍と「アルギヌーセー海戦」を行い、激戦の末、敵将を討って大勝を得ます。
ところが、アテヘェネー市海軍は、その後の暴風雨で沈没船を救えず、多く乗組員を失ってしまいました。市民扇動家クレオプホーンを中心とするアテヘェネー市住民たちは、前者の功績よりも後者の責任を追及し、大ペリクレェスの息子の小ペリクレェスほかの将軍たちに死刑を要求します。ちょうどこの日、評議会議長の当番を務めていたのは、人格教育者ソークラテース(六三歳)でした。彼はこの議案に強固に反対して阻止しましたが、翌日、別の議長が採決して、将軍六人は死刑になってしまいます。
この間にも、〇五年、リューサンドロス(約四〇歳)が指揮するペロプス半島海軍は、アテヘェネー市の穀物補給路である黒海入口マルマラ海周辺を再び奪取し、残るアテヘェネー市海軍艦船のほとんども拿捕してしまいます。このため、アテヘェネー市は飢餓に陥り、狂気に取り付かれた住民たちは、無能な市民扇動家クレオプホーンを殺してしまいました。一方、劣勢の海軍将軍コノーン(約三九歳)は、エーゲ海東北岸ケルソス半島の「アイゴスポタモスの戦い」でも敗北、小アジア半島南岸のキュプロス島のサラミース市王国へ亡命していってしまいます。
もはやアテヘェネー市には、将軍も、兵士も、艦船も、同盟も、食料も、ありません。アテヘェネー市の保守政治家テーラメネースは、やむなくペロプス半島同盟に講和を申し入れます。コリントホス市士国などは、アテヘェネー市の徹底破壊を主張しましたが、スパルター士国は、パールサ大帝国の脅威を重視し、彼らは、ペロプス半島同盟加盟とペイライエウス軍港の破壊を条件に、アテヘェネー市に講和を許しました。
アテヘェネー市の住民たちは、待ちこがれていた平和の到来を喜び、歌い踊りながら自分たちの軍港を壊しました。また、戦後の大赦により、「ヘッラス東西戦争」の『歴史』をまとめていた名門プヒライオス家の元将軍歴史家トフーキューディデースも、アテヘェネー市に帰国しました。