第四章 古代ヘッラスの秋(405~385 BC) 第一節 戦後のアテヘェネー市 (405~399 BC)
戦後占領体制の混乱 (405~03 BC)
アテヘェネー市の生命線である穀物輸送路を断ってとどめを刺したペロプス半島海軍副官リューサンドロス(約四〇歳)は、しかし、戦後、アテヘェネー市が支配していたデェロス島同盟に取って代わって、小アジア半島西岸中部イオーニア地方中部のサモス島を中心に、エーゲ海占領諸都市の独裁的将主と化してしまい、彼の私兵となりはてた元ペロプス半島軍は、平然と掠奪を行うようになってしまいます。彼はまた、アテヘェネー市に対しても、〇五年、ヘッラス半島北部テヘッサリア地方に亡命していた過激政治家クリティアース(約五五歳)を帰国させ、保守政治家テーラメネース(約五〇歳)らとともに「三十人将主政」を成立させます。
しかし、過激政治家クリティアースらは、市民扇動家などの政府反対者を次々と処刑し、また、財産奪取のためだけに、数千人もの富裕市民を追放してしまいます。それも、彼らは、悪賢こく、これらの処刑や追放を、自分たちで直接に執行することなく、一般住民に命令して執行させ、その反抗者も同様に処分することで、すべての住民を共犯者にしていっていきます。
同〇五年、彼らは、同じ三十人将主の一人である穏健な保守政治家テーラメネース(約五〇歳)にも、毒ニンジン酒による死刑を命令します。その弟子の若きイーソクラテース(三一歳)は、あまりの無法に憤り、ともに殉死することを願いましたが、かろうじて師のテーラメネースによって思い止めさせられました。また、在留外国人の老名士ケプハロスの息子の兄ポレマルコホス(約五五歳)も逮捕されて処刑されてしまい、弟リュシアース(五四歳)も、すんでのところで逃亡し、サローニコス湾北岸のメガラ市士国へ亡命します。
先述のように、老名士ケプハロス一家は、もともとシュラークーサー民国出身ながら、親アテヘェネー反コリントホス=スパルター派として、イタリア半島南部やシチリア島でいろいろ政治的画策を行っていたようです。また、ペイライエウス軍港に大きな武器製作所を経営する一家の莫大な財産も、三十人将主たちの目当てとなってしまいました。しかし、その莫大な財産は、もともと戦争を煽って武器を売り、アテヘェネー市民から得たものなのですから、将主たちに奪われてもあまり市民の同情はかわなかったことでしょう。
人格教育者ソークラテース(六四歳)もまた、かつて自分の弟子であった過激政治家クリティアースらから、「もはや若者と話すな」などと命じられます。くわえて、ソークラテースは、無実の将軍の逮捕を命令されましたが、日頃から彼は、悪事をなすくらいなら死刑を受けるほうがましだ、と決意しており、この違法な命令を敢然と無視して、そのまま帰宅してしまいました。ソークラテースの古くからの友人で、また、弟子でもある市民扇動家カハイレプホーンは、危険を予期して、早々に国外へ亡命します。また、〇四年、かつてのソークラテースの弟子の奸雄アルキヒビアデース(四六歳)も、小アジア半島中部プフリュギアに隠れていた所を、何者かに暗殺されてしまいました。
一方、海軍副官リューサンドロスがエーゲ海占領諸都市から奪い取った膨大な財宝を戦利品としてスパルター士国に送り届けたため、これまで時流に逆らってかろうじて質素堅実を守り通してきたその独特の経済は、突然に大変な混乱に陥ってしまいました。それゆえ、富裕市民たちは私有財産を国外へ退避投資し、高官将軍たちは政府公金を内々で詐取横領するなど、誰もが急激に拝金的風潮に染っていきます。このような経済混乱と風紀堕落もあって、海軍副官リューサンドロスの傲慢と独走に対し、スパルター士国の人々は大いに反感を募らせました。
また、このころ、地中海を制覇しているアフリカ北岸中部のプホエニーカ人カルト=アダシュト士国は、「ヘッラス東西戦争」によるヘッラス世界の衰退に乗じて、シチリア島西部からさらに全島へと勢力を拡大していきます。もっとも、同島西南岸南部ゲラー市の詩人アルケヘストラトス(c400 BC)は、これによって、地中海、そしてオリエント、さらにはインドや東南アジアあたりまでの、ありとあらゆる世界中の食物が手に入れられるようになり、「美食家(グルマーン)の祖」となって、数々の食物賛歌を謳い上げるようになっていきました。
一方、カルト=アダシュト士国の野望を阻止しようとする東岸南部のシュラークーサー民国では、人々は、死去した将軍ヘルモクラテースの娘婿の軍人ディオニューシオス一世(約二五歳)に政権を委ねます。しかし、彼は、現状では勝算がないと考え、和してカルト=アダシュト士国にシチリア島西部を譲ってしまい、同〇五年、気鋭政治学者プヒリストス(c430~356 BC 約二五歳)の協力を得て、シチリア島東部を支配する将主になってしまいます。けれども、彼は、カルト=アダシュト勢力追放を諦めたわけではなく、ヘッラス中から技師を集め、新種の武器を作らせ、着々と戦争の準備を進めていきました。
やがて、市民扇動家トホラシュブーロスほか、リュシアース・カハイレプホーン・アニュートスなど、アテヘェネー市からの亡命者たちは、隣のテヘェベー士国で反政府軍を組織し、〇三年、三十人将主の中心である過激政治家クリティアース(約五七歳)を戦死させます。スパルター士国は、海軍副官リューサンドロス(約四二歳)を召還し、エウリュプホーン王家王アーギス二世(約四七歳)が占領諸都市を直接管轄することとし、このアテヘェネー市内乱についても、「市民政」の復活の方向で収拾することとなりました。これによって、命令放棄の人格教育者ソークラテースも、危うく難を逃れることができました。この後、リュシアース(五六歳)は、在留外国人ながら弁論代筆家として活躍し、平明でいながら表現に優れた物語のような弁論で評価され、有名になっていきます。
パールサ大帝国の内戦とヘッラス人傭兵軍 (404~400 BC)
〇四年、パールサ大帝国では、アルタクシャティラー(アルタクセルクセス)二世(c430~即位04~358、約二六歳)が、第七代皇帝に即位します。また、黒海入口マルマラ海北岸東端のビューザンティオン市において事実上の将主となってしまっていたスパルター士国軍人クレアルコホスも、〇三年のアーギス二世の占領都市直轄令によって、同市から追放され、パールサ大帝国に亡命し、小アジア半島副帝国王クールシュ(約二〇歳)に仕官します。
ところが、〇一年、この副帝国王クールシュ(約二二歳)は、いまだ求心力の固まらない兄の皇帝アルタクシャティラー二世(約二九歳)に対して、突然に反乱を起こしました。また、このころ、西のヘッラス世界は、スパルター士国にかぎらず、平和回復と戦後復興のために、貨幣経済への急激な社会変化が起っており、失業した専門軍人や没落した零細農民が、ヘッラス各地で大量に余ってしまっていました。
反乱を起こしたこのパールサ大帝国副帝国王クールシュは、傭兵国家スパルター士国に協力を要請し、スパルター士国もまた、失業対策・財政政策のために亡命軍人クレアルコホスを支援して、ヘッラスの過剰軍人を一万数千人を傭兵として派遣しました。そして、その中には、アテヘェネー市民国の人格教育者ソークラテースの若き弟子であるクセノプホーン(約二九歳)も入っていたのです。
この小アジア半島での副帝国王クールシュの反乱蜂起に、かつてこの第二王子の教育官でもあった前リュディア州総督ティッサプヘルネース(約四九歳)は、ザクロス山脈西南側中部山麓の首都スーサ市の皇帝の宮廷に、いち早く上京して報告。弟の反乱を知った兄の皇帝アルタクシャティラー二世は、ただちに全軍を召集して、迎撃を準備していきます。
副帝国王クールシュ反乱軍は、ユーフラテス河沿いにイラク平野を進撃するも、旧都バーブ=イラーニ(バビロン)市の西北約百キロのクナクサ市郊外で、皇帝アルタクシャティラー二世直々の堂々たる正規軍十万の大陣営と激戦。副帝国王クールシュは戦死。スパルター士国亡命軍人クレアルコホスも逮捕処刑されてしまい、反乱軍は数万の死体とともに瓦壊してしまいました。
十万もの大軍勢が相手では、いくら勇猛で防御力があっても、たかだか一万のヘッラス装甲歩兵では阻止などできません。それゆえ、副帝国王クールシュは、亡命軍人クレアルコホスのヘッラス装甲歩兵を、敵軍中央の皇帝親衛隊に集中して突進させようとします。、亡命軍人クレアルコホスは、装甲歩兵の側面が敵軍両翼の騎兵にさらされることを嫌って拒否しましたが、傭兵たちは、戦闘の混乱の中、ひるむことなく、ひたすら敵陣の中央へ前進していきます。
猛然と敵軍に突進を続けたヘッラス人大傭兵軍は、翌朝になってみると、敵地の奥深くに入り込んでしまっており、味方からも取り残されてしまっていました。しかし、すでに軍長クレアルコホスも亡く、やむなくクセノプホーン(約二九歳)を軍長代理とし、命からがらティグリス河沿いに六千キロの敵中を故郷ヘッラスへの帰還をめざします。しかし、機動力がなく、また、背面を弱点とする装甲歩兵が、戦闘体制のまま陸路を逃亡することは、たいへんに困難な作戦です。
勝利した兄の皇帝アルタクシャティラー二世のパールサ大帝国は、ティッサプヘルネース(約四九歳)を西部リュディア州総督に、プハルナバゾス(約三九歳)を中部プフリュギア州総督に再任し、ただちに小アジア半島の反乱軍の掃討を開始。くわえて、大量の傭兵を出した小アジア半島西岸のヘッラス人諸都市も攻撃していきます。これに対し、スパルター士国は、その救援に乗り出し、また戦争となってしまいます。
そこで、彼らは、代理軍長クセノプホーン(約三〇歳)の指揮で、とりあえずエーゲ海北岸トホラーキア地方の王族セウテースの傭兵となり、その王国建設に協力します。そして、クセノプホーン一行は、九九年初頭、ようやく小アジア半島のスパルター軍と合流することができました。
ソークラテースの弟子たちの自立 (c400 BC)
このころ、ソークラテースの弟子の中でも、アンティステヘネース(c455~c360 BC 約五五歳、「キュニコス学派」)、エウクレイデース(c450~c380 BC 約五〇歳、「メガラ学派」)、若いアリステヒッポス(c435~355 BC 約三五歳、「キューレーネー学派」)らは独立し、それぞれに弟子を持つようになっていきます。概して、アンティステヘネースは師の生活面を、エウクレイデースは師の思考面を、また、若きアリステヒッポスは師の尊厳面をそれぞれに受け継ぎ、深め究めていきました。
アンティステヘネースは、もともとはゴルギアースの弟子で、機知に富み、演説に長けていましたが、やがて抽象的な議論を嫌うようになり、「快楽に屈するよりは、むしろ狂気に溺れたい」と言って、自分の弟子たちを引き連れてソークラテースの下へ移ってきて、とくに困苦に耐えることを学ぼうとし、ペイライエウス軍港に住んで、毎日、アテヘェネー市まで八キロを歩くことを日課としていました。
やがて彼はアテヘェネー市城外南東のキュノサルゲス(白犬)体育場で、自分の弟子たちを教えるようになり、「キュニコス学派」と呼ばれるようになります。彼はあいかわらず快活で人望もあり、おしゃべり好きで、著作も多くありましたが、あえて弟子を増やそうとはせず、「追従者よりカラスの方がまだましだ、カラスは死ぬまで待ってくれるが、追従者は、生きているうちから人を食い物にする」とうそぶいていました。
そして、彼は「物事を所有しなけければ、物事に所有もされない」と、犬(キュオーン)のように質素な生活を送るようになります。というのも、彼は、アテヘェネー市の〈自由市民〉の理念を踏まえ、[〈自足(アウタルケイア)〉、すなわち、物事からの〈自由(エレウテヘリアー)〉こそ、人間固有の〈能力(アレテー)〉である]と考えていたからです。
一方、エウクレイデースは、戦後、サローニコス湾北岸の故国メガラ市士国に帰郷して、弟子の育成を始め、「メガラ学派」を創設します。彼は、もともとパルメニデースの研究をしており、パルメニデースの言う唯一絶対の〈存在〉とソークラテースの言う〈善〉とを同一のものとする理論を模索し、「善に対立するものは、存在しない」と言いました。また、この一派は、智恵教師エウテュデーモス兄弟が発明した《論争術》を好み、日頃、理論を捏ねくり回していました。
また、若きアリステヒッポスも、「所有するが、所有されない」というアテヘェネー市の〈自由市民〉の理念を銘としつつ、《教養(パイデイアー)》を重じて、「無学より乞食の方がまだましだ、乞食はカネがないだけだが、無学は人間でないからだ」と言って、その教養の教授に高額の授業料を取る智恵教師として活躍します。とはいえ、彼は、けっして貪欲なわけではなく、[カネの使い方を教えてやっているのだ]と言って、稼いだカネは師ソークラテースに納めてしまいます。もっとも、ソークラテースも、このカネを受け取りませんでしたが。
なお、このころ、かつて楽器製造の家業で富裕だったイーソクラテースは、戦争と戦後の混乱ですっかり没落してしまっていました。おまけに、〇五年に師の保守政治家テーラメネースも処刑されてしまい、かといって、みずから言うように度胸と声量に欠けて法廷弁論家は向かず、やむなく弁論代筆家となります。しかし、黒を白と言いくるめるようなものだ、と、彼はこの仕事をほとほと嫌っていました。ところが、前四〇〇年、ある裁判で、イーソクラテース(三六歳)は、平明で物語りような弁論を作成する代筆家の大御所、リュシアース(五九歳)と対決するはめに陥ります。ここにおいて、イーソクラテースは、技巧に溢れた、品格ある『証人なし弁論』を工夫し、一躍、注目を浴びることになります。
これに対して、かつてゴルギアースの弟子であったアンティステヘネースや、後にアカデーメイア学園学頭となるスペウシッポスなども、習作として反論を試みています。そして、イーソクラテースは、後に「アッティカ十大弁論家」に数えられることになりました。
ソークラテース裁判 (399 BC)
二一年の「ニーキアースの平和」以来、ペロプス半島西北部のエェリス士国と同半島東南部のスパルター士国との関係は悪化していましたが、九九年、スパルター士国は、ついにエェリス士国を滅亡させてしまいます。
同九九年、その高齢の智恵教師ソークラテースが、市民扇動家アニュートスらによって、三流文士メレートスを告発人として、不敬罪で告訴されます。その理由は、[青年たちに新奇の神霊を祭らせた]ということでした。この裁判に、有名な弁論代筆家リュシアース(六〇歳)は、立派な弁明を代筆しましたが、ソークラテースは、これを謝辞し、自分で出廷します。そして、ソークラテースは、[この告訴は嫉妬の中傷にすぎない]と弁明し、[むしろ自分は栄誉を受けるべきだ]と演説して陪審たちを挑発し、結局、死刑が決定されます。
この事件は、いまでも哲学史上最大の謎です。ソークラテースが[自分は自分の「神霊(ダイモーン)の声」の禁止に従って生きている]と言っていたにしても、それは、迷信的だったヘッラス人にとっては珍しいものでもなく、まして不敬罪として告訴されるほど、国家の神々と対立するようなものではありえません。
「ヘッラス南北戦争」の直前に、自然哲学者アナクサゴラースは、その機械論的世界観のために不敬罪で追放されています。また、アリストプハネースは、二三年の『雲』で、ソークラテースが雷撃神王ゼウスを否定し、浮雲を新しい神として崇拝する様子が冗談として描写されています。しかし、それは二十年以上も前の話で、これをいまさら不敬罪で問うのはムリがあります。
また、たしかに彼の弟子の過激政治家クリティアースや戦争指揮者アルキヒビアデースなどは革新的で、国家的宗教行事の「エレウシースの秘儀」を愚弄したり、一五年のシチリア島大遠征直前の「ヘルメェス石柱破壊事件」の嫌疑をかけられています。しかし、ソークラテース本人は、伝統宗教を否定するどころか、むしろ、アテヘェネー市でもっとも迷信深い人物であり、この点で非難されるいわれもなかったでしょう。
しかし、彼の個性教育は、青年たちの〈自我〉の自立を促し、過激政治家クリティアースや戦争指揮者アルキヒビアデースなどのような、自己中心はエゴイストたちを誕生させ、彼らの政治はまったくひどいものでした。とはいえ、これらも、当時、すでに終わった話です。くわえて、〇三年の「市民政」の復活において、「忘却令(アムネスティアー)」として、以前の問題は遡って訴えないことが決められていました。
当時のヘッラスで大問題となっていたのは、〇一年のパールサ大帝国の副帝国王クールシュ反乱軍への傭兵部隊への大量参加と、翌年の敗北帰還です。ようやく平和を回復したばかりのアテヘェネー市において、傭兵募集は大きな反発を招いました。にもかかわらず、クセノプホーンら、ソークラテースの個性教育で自律的になった若者たちは、荒廃したアテヘェネー市を見限り、両親や親族や友人の反対を押切って、勝手に傭兵部隊に参加してしまいました。そして、その結果が無残な敗北逃帰行。くわえて、その帰還途中の傭兵軍長クセノプホーンは、アルキヒビアデースやクリティアースに続いて、次の最も危険な奸雄となる危険性がありました。
この傭兵募集にソークラテースが関与していたと疑われるだけでも、それはアテヘェネー市にとって、とてもまずいことでした。というのは、すでにパールサ大帝国が反乱軍掃討のために小アジア半島へ進撃してきたからです。ここでソークラテースを匿えば、ちょうど百年前の「エーゲ海戦争」の二の舞になってしまいます。それゆえ、戦後間もない廃墟のアテヘェネー市を、占領しているスパルター士国から、そして、進撃してくるパールサ大帝国から守るためには、たとえ誤解であっても、ソークラテースをアテヘェネー市自身が始末してしまわなければなりませんでした。
ソークラテースの処刑 (399 BC)
晩春のデェロス島例祭を避けた一ヶ月後、ソークラテース(七〇歳)は、霊魂の不死を信じ、悪法も法として逃亡を断り、毒ニンジン酒で処刑されました。
これに立合っていたのは、息子ラムプロクレェス、妻クサントヒッペーと小さな二人の息子ソープフロニスコス・メネクセノス、昔からの富裕な友人弟子クリトーンとその息子のクリトブーロス・ヘルモゲネース・エピゲネース、ペイライエウス軍港のアンティステヘネース、メガラ市のエウクレイデース、テヘェベー市のケベースとシムミアース、ソーセィジ屋の息子の貧乏アイスキヒネース、単細胞な熱狂アポッロドーロス、解放奴隷少年プハイドーンなどでした。しかし、アリステヒッポスはサローニコス湾のアイギーナ島にいて、また、傭兵軍長のクセノプホーンはまだ小アジア半島にいて、若きプラトーンは病気で、処刑には立ち会っていません。
弁論代筆家イーソクラテースは、ソークラテスの弟子だったわけでのないのに喪服を着て、ソークラテースを悼みました。やがてアテヘェネー市の人々も処刑を反省し、告発名義人の三流文士メレートスを死刑に処すとともに、体育場も閉じて喪に服し、ソークラテースの銅像を建てて、その功績を讃えるようになりました。また、ソークラテースの処刑を知らず、彼に入門しようと遠く黒海の方から青年たちがやってくると、弟子だったアンティステヘネースは、「ソークラテース以上の知者がいる」と言って、裁判の黒幕の市民扇動家アニュートスのところへ連れて行きます。これが大きな騒ぎとなり、人々は、市民扇動家アニュートスの僭越な傲慢に激怒し、彼を追放してしまいます。
ソークラテースの死後、彼に代わって多くの弟子たちをまとめたのは、すでに独自の学派を開いていた年長のアンティステヘネース(c455~c360 BC 約五六歳、「キュニコス学派」)とエウクレイデース(c450~c380 BC 約五一歳、「メガラ学派」)、そして、アリステヒッポス(c435~355 BC 約三六歳、「キューレーネー学派」)の三人でした。
プラトーン(427~347 BC 二八歳、「アカデーメイア学派」)は、他の若年の弟子たちとともにメガラ市のエウクレイデースの下に身を寄せましたが、やがて独立し、むしろ対立するようにもなります。また、傭兵軍長クセノプホーン(c430~c354 BC 約三一歳)は、このころ、まだ小アジア半島に滞在していましたが、その後、スパルター士国に帰属し、アンティステヘネースの著作などから多くを学習して、独立に諸書を執筆するようになっていきます。また、処刑直前にソークラテースに救出された解放奴隷少年プハイドーン(c417~? BC 約一八歳、「エェリス学派」)も、その後、エェリス市に帰国して独自の学派を創立し、ソークラテースの思想を継承して普及していくことになります。