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第四章 古代ヘッラスの秋(405~385 BC) 第一節 戦後のアテヘェネー市 (405~399 BC)

 戦後占領体制の混乱 (405~03 BC)

 アテヘェネー市の生命線である穀物輸送路を断ってとどめを刺したペロプス半島海軍副官リューサンドロス(約四〇歳)は、しかし、戦後、アテヘェネー市が支配していたデェロス島同盟に取って代わって、小アジア半島西岸中部イオーニア地方中部のサモス島を中心に、エーゲ海占領諸都市の独裁的将主と化してしまい、彼の私兵となりはてた元ペロプス半島軍は、平然と掠奪を行うようになってしまいます。彼はまた、アテヘェネー市に対しても、〇五年、ヘッラス半島北部テヘッサリア地方に亡命していた過激政治家クリティアース(約五五歳)を帰国させ、保守政治家テーラメネース(約五〇歳)らとともに「三十人将主政」を成立させます。

 サモス島は、もともとデェロス島同盟海軍の小アジア半島側の基地でした。
 「三十人将主政」は、市民に支持された貴族軍人による、かつてのような「将主政」などではなく、ペロプス半島同盟の軍事的支持を背景として市民を弾圧する「暴君政」のことです。
 「三十人将主政」の中心の過激政治家クリティアースは、ソークラテースの弟子の名門青年プラトーン(二三歳)の母の従兄であり、また、彼の叔父のカハルミデースも将主の一人に加わっており、若きプラトーンもまた、いずれこの政権に将主として参加することが求められていました。

 しかし、過激政治家クリティアースらは、市民扇動家などの政府反対者を次々と処刑し、また、財産奪取のためだけに、数千人もの富裕市民を追放してしまいます。それも、彼らは、悪賢こく、これらの処刑や追放を、自分たちで直接に執行することなく、一般住民に命令して執行させ、その反抗者も同様に処分することで、すべての住民を共犯者にしていっていきます。

 同〇五年、彼らは、同じ三十人将主の一人である穏健な保守政治家テーラメネース(約五〇歳)にも、毒ニンジン酒による死刑を命令します。その弟子の若きイーソクラテース(三一歳)は、あまりの無法に憤り、ともに殉死することを願いましたが、かろうじて師のテーラメネースによって思い止めさせられました。また、在留外国人の老名士ケプハロスの息子の兄ポレマルコホス(約五五歳)も逮捕されて処刑されてしまい、弟リュシアース(五四歳)も、すんでのところで逃亡し、サローニコス湾北岸のメガラ市士国へ亡命します。

 先述のように、老名士ケプハロス一家は、もともとシュラークーサー民国出身ながら、親アテヘェネー反コリントホス=スパルター派として、イタリア半島南部やシチリア島でいろいろ政治的画策を行っていたようです。また、ペイライエウス軍港に大きな武器製作所を経営する一家の莫大な財産も、三十人将主たちの目当てとなってしまいました。しかし、その莫大な財産は、もともと戦争を煽って武器を売り、アテヘェネー市民から得たものなのですから、将主たちに奪われてもあまり市民の同情はかわなかったことでしょう。

 人格教育者ソークラテース(六四歳)もまた、かつて自分の弟子であった過激政治家クリティアースらから、「もはや若者と話すな」などと命じられます。くわえて、ソークラテースは、無実の将軍の逮捕を命令されましたが、日頃から彼は、悪事をなすくらいなら死刑を受けるほうがましだ、と決意しており、この違法な命令を敢然と無視して、そのまま帰宅してしまいました。ソークラテースの古くからの友人で、また、弟子でもある市民扇動家カハイレプホーンは、危険を予期して、早々に国外へ亡命します。また、〇四年、かつてのソークラテースの弟子の奸雄アルキヒビアデース(四六歳)も、小アジア半島中部プフリュギアに隠れていた所を、何者かに暗殺されてしまいました。

 彼らから、「もはや若者と話すな」と命ぜられると、ソークラテースは、「若者とはいくつ以下か」とか、「いけないのは、正しい話か、間違った話か」とか、「何か聞いてもいけないのか」とか、「何か聞かれて答えるのはいいのか」とか、尋ねています。なんでもないまぜっかえしのようですが、聞かれて答えるのがよければ、それこそ何でも教えられます。しかし、彼の質問の意図を見抜いた元弟子のクリティアースは、「とにかく何でもいけないのだ」と蹴ってしまいました。
 アルキヒビアデースは、彼に恨みを持たない者の方が少ないくらいですから、クリティアースでも、ペロプス半島同盟でも、パールサ大帝国でも、誰の差し金で殺されてもおかしくはありません。一説には、誘惑した娘の兄弟に焼討され、弓矢で射殺されてしまったとも言います。

 一方、海軍副官リューサンドロスがエーゲ海占領諸都市から奪い取った膨大な財宝を戦利品としてスパルター士国に送り届けたため、これまで時流に逆らってかろうじて質素堅実を守り通してきたその独特の経済は、突然に大変な混乱に陥ってしまいました。それゆえ、富裕市民たちは私有財産を国外へ退避投資し、高官将軍たちは政府公金を内々で詐取横領するなど、誰もが急激に拝金的風潮に染っていきます。このような経済混乱と風紀堕落もあって、海軍副官リューサンドロスの傲慢と独走に対し、スパルター士国の人々は大いに反感を募らせました。

 「ヘッラス東西戦争」中、アテヘェネー市の人々、とくにソークラテースやエウリーピデースのような知識人は、文明国アテヘェネー市の倫理的堕落を批判し、行ったこともない牧歌国スパルター市の社会的規律を賞賛しました。ところが、実際のスパルター市は、たんにケチで偏狭で保守に凝り固まった未開の田舎国家であり、男子はたしかに相互監視によって厳格な規律に縛られていましたが、婦人はもとより贅沢と逸楽に浸りきっていました。くわえて、長期の戦争で男子の人口は減っており、終戦による緊張の弛みとともに、婦人たちの享楽的な風潮は、またたく間に社会全体に広まってしまったのです。
 現代に限らず、巨大化した都市文明が行き詰まると、かならず牧歌的な小農村への回帰を言い立てる人々が多く出て来るものです。しかし、それはおうおうに都会人が夢見る幻想であり、現実の農村社会は、そんなに甘いものではないのでしょう。

 また、このころ、地中海を制覇しているアフリカ北岸中部のプホエニーカ人カルト=アダシュト士国は、「ヘッラス東西戦争」によるヘッラス世界の衰退に乗じて、シチリア島西部からさらに全島へと勢力を拡大していきます。もっとも、同島西南岸南部ゲラー市の詩人アルケヘストラトス(c400 BC)は、これによって、地中海、そしてオリエント、さらにはインドや東南アジアあたりまでの、ありとあらゆる世界中の食物が手に入れられるようになり、「美食家(グルマーン)の祖」となって、数々の食物賛歌を謳い上げるようになっていきました。

 美食詩人アルケヘストラトスの数々の食物賛歌は、後にエンニウス(c239~169 BC)の『美食論』の種本となります。しかし、その後、彼がどうなったかは、また後で。

 一方、カルト=アダシュト士国の野望を阻止しようとする東岸南部のシュラークーサー民国では、人々は、死去した将軍ヘルモクラテースの娘婿の軍人ディオニューシオス一世(約二五歳)に政権を委ねます。しかし、彼は、現状では勝算がないと考え、和してカルト=アダシュト士国にシチリア島西部を譲ってしまい、同〇五年、気鋭政治学者プヒリストス(c430~356 BC 約二五歳)の協力を得て、シチリア島東部を支配する将主になってしまいます。けれども、彼は、カルト=アダシュト勢力追放を諦めたわけではなく、ヘッラス中から技師を集め、新種の武器を作らせ、着々と戦争の準備を進めていきました。

 プホエニーカ人カルト=アダシュト士国勢力は、すでに島内各地に強固な要塞を構築していました。装甲歩兵を中心とするヘッラス風の軍隊は、平野の密着戦しかできず、要塞に対しては長期の包囲戦しかありません。しかし、そんなことをすれば、膨大な兵力を持つカルト=アダシュト士国の援軍が到着して、後詰されてしまうことでしょう。そのため、将主ディオニューシオス一世は、要塞を直接に攻撃して短期で撃破できる新兵器をどうしても必要としました。
 ディオニューシオス一世の工場において発明された強力な武器のひとつに、「腹弓(ガァストラフェテス)」があります。これは、弓を腹で支えることによって、弦を両手で引くようにした弓です。これによって、普通の兵士でも、木に骨などを貼った強い小アジア半島風の合弓が使えるようになりました。装甲を打ち抜くほど強力なこの遠隔兵器は、装甲歩兵の密着戦を中心とするヘッラスの戦争を革命的に変革することになります。

 やがて、市民扇動家トホラシュブーロスほか、リュシアース・カハイレプホーン・アニュートスなど、アテヘェネー市からの亡命者たちは、隣のテヘェベー士国で反政府軍を組織し、〇三年、三十人将主の中心である過激政治家クリティアース(約五七歳)を戦死させます。スパルター士国は、海軍副官リューサンドロス(約四二歳)を召還し、エウリュプホーン王家王アーギス二世(約四七歳)が占領諸都市を直接管轄することとし、このアテヘェネー市内乱についても、「市民政」の復活の方向で収拾することとなりました。これによって、命令放棄の人格教育者ソークラテースも、危うく難を逃れることができました。この後、リュシアース(五六歳)は、在留外国人ながら弁論代筆家として活躍し、平明でいながら表現に優れた物語のような弁論で評価され、有名になっていきます。

 スパルター士国は、ひどく古い部族政をひきずっていたために、「エウリュプホーン家」と「アギアース家」の二つの王家があり、ずっと国王が二人いました。しかし、国政の実権は、五人の「監督官(エプホロス)」と終身である三十人の「元老院(ゲルーシアー)」とが握っています。
 〇三年、市民扇動家トホラシュブーロスは、市民政復興に協力したリュシアースらにアテヘェネー市民権を付与するよう議会で提案しましたが、武器製造業に対する市民の反感のためか、失敗しました。このため、リュシアースは、「三十人将主」の裁判で彼らの悪行を証言したことを除いて、直接に法廷で発言する権限がなく、ただ「弁論代筆家」としてしか活動できなかったのです。しかし、、彼は、ここにおいて、後に「アッティカ十大演説家」の一人に数えられるような名文を数多く作成しました。

 パールサ大帝国の内戦とヘッラス人傭兵軍 (404~400 BC)

 〇四年、パールサ大帝国では、アルタクシャティラー(アルタクセルクセス)二世(c430~即位04~358、約二六歳)が、第七代皇帝に即位します。また、黒海入口マルマラ海北岸東端のビューザンティオン市において事実上の将主となってしまっていたスパルター士国軍人クレアルコホスも、〇三年のアーギス二世の占領都市直轄令によって、同市から追放され、パールサ大帝国に亡命し、小アジア半島副帝国王クールシュ(約二〇歳)に仕官します。

 ところが、〇一年、この副帝国王クールシュ(約二二歳)は、いまだ求心力の固まらない兄の皇帝アルタクシャティラー二世(約二九歳)に対して、突然に反乱を起こしました。また、このころ、西のヘッラス世界は、スパルター士国にかぎらず、平和回復と戦後復興のために、貨幣経済への急激な社会変化が起っており、失業した専門軍人や没落した零細農民が、ヘッラス各地で大量に余ってしまっていました。

 反乱を起こしたこのパールサ大帝国副帝国王クールシュは、傭兵国家スパルター士国に協力を要請し、スパルター士国もまた、失業対策・財政政策のために亡命軍人クレアルコホスを支援して、ヘッラスの過剰軍人を一万数千人を傭兵として派遣しました。そして、その中には、アテヘェネー市民国の人格教育者ソークラテースの若き弟子であるクセノプホーン(約二九歳)も入っていたのです。

 この反乱の原因には、兄アルタクシャティラー二世が長男らしく温和であったのに対し、弟クールシュが過激であったこと、また、母后パリュサティスが弟クールシュを溺愛し、父皇帝の死後にその王位継承を希望したこと、さらに、母后パリュサティスとアルタクシャティラー二世の妃スタテイラーとが激しく対立していたこと、などがあります。ようするに、母后パリュサティスが元凶でした。
 スパルター士国は、前六世紀半ばのペロプス半島同盟創設の昔から、戦争請負の傭兵国家でした。先述のように、ヘッラス東西戦争にしても、アテヘェネー民帝国に対するテヘェベー士国やコリントホス市士国の、スパルター士国による代理戦争だったのです。その後も、スパルター士国は、戦争があればどこにでも出向いて協力しました。しかし、このころ、スパルター士国のほかにも、国家を離れた個人的な傭兵軍人が、アテヘェネー市民国などに数多く登場してきており、彼らは、要請があれば自国に限らず敵国であろうと、すぐに参戦しました。
 一方、散開する騎兵と足軽歩兵のみからなるパールサ軍にとって、密集隊型で地歩を固めつつ、密着戦で圧倒的な戦力を誇るヘッラス人傭兵の装甲歩兵の傭兵は、とても魅力的な存在でした。ここにおいて、装甲歩兵のほうも、騎兵や足軽歩兵と組んだ綜合軍として、これまでとはまったく異なる戦術で運用されます。すなわち、彼らは正面で敵の騎兵の突進阻止を請け負い、その機動力が無さを、散開する友軍の騎兵が背面や側面から援護する隊形を採りました。

 この小アジア半島での副帝国王クールシュの反乱蜂起に、かつてこの第二王子の教育官でもあった前リュディア州総督ティッサプヘルネース(約四九歳)は、ザクロス山脈西南側中部山麓の首都スーサ市の皇帝の宮廷に、いち早く上京して報告。弟の反乱を知った兄の皇帝アルタクシャティラー二世は、ただちに全軍を召集して、迎撃を準備していきます。

 副帝国王クールシュ反乱軍は、ユーフラテス河沿いにイラク平野を進撃するも、旧都バーブ=イラーニ(バビロン)市の西北約百キロのクナクサ市郊外で、皇帝アルタクシャティラー二世直々の堂々たる正規軍十万の大陣営と激戦。副帝国王クールシュは戦死。スパルター士国亡命軍人クレアルコホスも逮捕処刑されてしまい、反乱軍は数万の死体とともに瓦壊してしまいました。

 十万もの大軍勢が相手では、いくら勇猛で防御力があっても、たかだか一万のヘッラス装甲歩兵では阻止などできません。それゆえ、副帝国王クールシュは、亡命軍人クレアルコホスのヘッラス装甲歩兵を、敵軍中央の皇帝親衛隊に集中して突進させようとします。、亡命軍人クレアルコホスは、装甲歩兵の側面が敵軍両翼の騎兵にさらされることを嫌って拒否しましたが、傭兵たちは、戦闘の混乱の中、ひるむことなく、ひたすら敵陣の中央へ前進していきます。

 反乱者クールシュを殺傷して自慢した青年ミトリダテースは、クールシュを溺愛していた母妃パリュサティスに憎悪され、飼槽で処刑されてしまいます。それは、上下に合せた飼槽に首だけ出して閉じ込め、むりやり食物を口に突っ込むもので、蜜や乳のこぼれた顔面に蝿がたかり、排泄物のたまった飼槽に蛆がわき、二週間以上にもわたって生きながら全身を蛆虫に食われ死んでいく、という恐ろしい処刑です。また、母妃パリュサティスは、クールシュの死体から首を切り落としたマサバテースには、生きながら背中の皮を剥ぐ刑を与えました。さらに、母后パリュサティスは、ナイフの片面に毒を塗り、同じ肉を切り分け、皇帝妃スタテイラーをも殺してしまいます。

 猛然と敵軍に突進を続けたヘッラス人大傭兵軍は、翌朝になってみると、敵地の奥深くに入り込んでしまっており、味方からも取り残されてしまっていました。しかし、すでに軍長クレアルコホスも亡く、やむなくクセノプホーン(約二九歳)を軍長代理とし、命からがらティグリス河沿いに六千キロの敵中を故郷ヘッラスへの帰還をめざします。しかし、機動力がなく、また、背面を弱点とする装甲歩兵が、戦闘体制のまま陸路を逃亡することは、たいへんに困難な作戦です。

 勝利した兄の皇帝アルタクシャティラー二世のパールサ大帝国は、ティッサプヘルネース(約四九歳)を西部リュディア州総督に、プハルナバゾス(約三九歳)を中部プフリュギア州総督に再任し、ただちに小アジア半島の反乱軍の掃討を開始。くわえて、大量の傭兵を出した小アジア半島西岸のヘッラス人諸都市も攻撃していきます。これに対し、スパルター士国は、その救援に乗り出し、また戦争となってしまいます。

 プフリュギア州総督プハルナバゾスは、もともと同地世襲の名門であり、先の解任こそ、もともと問題がありました。

 クセノプホーンを代理軍長とするヘッラス人傭兵軍は、アルメニアを越えて黒海に出、翌前四〇〇年初、ようやく黒海入口マルマラ海北岸東端のビューザンティオン市に着きました。しかし、このとき、もはや彼らは、およそ半数を失い、六千人ほどに減ってしまっていました。そのうえ、彼らは、それぞれの本国へ帰還する旅費はもちろん、越冬の支度さえできません。
 
 逃帰行の間で脱落し、パールサ軍に捕獲された数千名の反乱軍ヘッラス人傭兵たちは、その後、遠くパールサ大帝国の本拠地タクホテ=ジャムシヒード(ペルセポリス)市にまで連行され、奴隷として烙印を捺され、手足を切断して酷使されました。しかし、それでも生き延びたヘッラス人奴隷たちは、その後、七〇年もたった三〇年春になってようやく、マケドニア王国大王アレクサンドロス三世に救い出されることになります。

 そこで、彼らは、代理軍長クセノプホーン(約三〇歳)の指揮で、とりあえずエーゲ海北岸トホラーキア地方の王族セウテースの傭兵となり、その王国建設に協力します。そして、クセノプホーン一行は、九九年初頭、ようやく小アジア半島のスパルター軍と合流することができました。

 クセノプホーンは、帰国後、この一連の事件を『帰走(アナバシス)』という手記にまとめています。これは、著者が凡庸ながら、敵中逃帰行という体験そのものの迫力ゆえに、ノンフィクションの最高傑作のひとつとされます。
 後に、逆に小アジア半島からパールサ大帝国へと突き進んだ大王アレクサンドロス三世(356~即位36~23 BC)についても、ホラ吹きオネーシクリトス(c300 BC)などによって、同じ題で紀行手記が書かれます。

 ソークラテースの弟子たちの自立 (c400 BC)

 このころ、ソークラテースの弟子の中でも、アンティステヘネース(c455~c360 BC 約五五歳、「キュニコス学派」)、エウクレイデース(c450~c380 BC 約五〇歳、「メガラ学派」)、若いアリステヒッポス(c435~355 BC 約三五歳、「キューレーネー学派」)らは独立し、それぞれに弟子を持つようになっていきます。概して、アンティステヘネースは師の生活面を、エウクレイデースは師の思考面を、また、若きアリステヒッポスは師の尊厳面をそれぞれに受け継ぎ、深め究めていきました。

 アンティステヘネースは、もともとはゴルギアースの弟子で、機知に富み、演説に長けていましたが、やがて抽象的な議論を嫌うようになり、「快楽に屈するよりは、むしろ狂気に溺れたい」と言って、自分の弟子たちを引き連れてソークラテースの下へ移ってきて、とくに困苦に耐えることを学ぼうとし、ペイライエウス軍港に住んで、毎日、アテヘェネー市まで八キロを歩くことを日課としていました。

 やがて彼はアテヘェネー市城外南東のキュノサルゲス(白犬)体育場で、自分の弟子たちを教えるようになり、「キュニコス学派」と呼ばれるようになります。彼はあいかわらず快活で人望もあり、おしゃべり好きで、著作も多くありましたが、あえて弟子を増やそうとはせず、「追従者よりカラスの方がまだましだ、カラスは死ぬまで待ってくれるが、追従者は、生きているうちから人を食い物にする」とうそぶいていました。

 そして、彼は「物事を所有しなけければ、物事に所有もされない」と、犬(キュオーン)のように質素な生活を送るようになります。というのも、彼は、アテヘェネー市の〈自由市民〉の理念を踏まえ、[〈自足(アウタルケイア)〉、すなわち、物事からの〈自由(エレウテヘリアー)〉こそ、人間固有の〈能力(アレテー)〉である]と考えていたからです。

 とはいえ、犬のような生活をしたのは、彼が最初ではなく、それ以前にも人間嫌いのティーモーンや乞食毒舌家アペーマントスなどがおり、また、師のソークラテースも生活は質素でした。だから、師のソークラテースは、ボロを好んで着ているアンティステヘネースに、「ほころびから虚栄心が見えているよ」と皮肉りました。また、ソークラテースの弟子のクセノプホーンは彼と親しくつきあいましたが、若いプラトーンは彼を強く嫌っていました。

 一方、エウクレイデースは、戦後、サローニコス湾北岸の故国メガラ市士国に帰郷して、弟子の育成を始め、「メガラ学派」を創設します。彼は、もともとパルメニデースの研究をしており、パルメニデースの言う唯一絶対の〈存在〉とソークラテースの言う〈善〉とを同一のものとする理論を模索し、「善に対立するものは、存在しない」と言いました。また、この一派は、智恵教師エウテュデーモス兄弟が発明した《論争術》を好み、日頃、理論を捏ねくり回していました。

 クティアースの従弟で、ソークラテースの若い弟子プラトーンも、師ソークラテース以上にエウクレイデースの影響を強く受けました。

 また、若きアリステヒッポスも、「所有するが、所有されない」というアテヘェネー市の〈自由市民〉の理念を銘としつつ、《教養(パイデイアー)》を重じて、「無学より乞食の方がまだましだ、乞食はカネがないだけだが、無学は人間でないからだ」と言って、その教養の教授に高額の授業料を取る智恵教師として活躍します。とはいえ、彼は、けっして貪欲なわけではなく、[カネの使い方を教えてやっているのだ]と言って、稼いだカネは師ソークラテースに納めてしまいます。もっとも、ソークラテースも、このカネを受け取りませんでしたが。

 息子の入門に大金を求められた父親が「それでは、奴隷だって買える金額だ」と言うと、アリステヒッポスは、「ならば、そうして二人の奴隷を持っていろ」と答えました。また、ソークラテースが驚いて、「こんな大金をどこで手に入れたのか」と聞くと、アリステヒッポスは、「まさに先生が知らないところです」と答えました。
 アリステヒッポスは、贅沢な生活を謳歌していました。それを人が批判すると、「そう見えるのは、むしろあなたがカネに執着しているからだ」と逆に言い返しました。そして、旅行の途中、運ぶ銀貨が重すぎると従僕たちが嘆くと、平然とその銀貨を川に捨ててしまいます。このように、彼は、カネをもらうにも、使うにも、まったく執着がありせん。[カネの使い方を教えてやっている]という彼の言いぐさも、当時の異様な拝金主義の風潮に対する批判として、まんざら冗談ではなかったのかもしれません。
 財産は、しょせん所有するにすぎないものですが、教養は、その人物自身がそれであるところのものであり、容易に他人から譲ってもらったりできるようなものではなく、年月をかけてまさに自分そのものとして作り上げていくべきものです。自分を作り上げることのない者、ただ日々の寝食に流されているだけの者は、いかに財産を所有していようと、その当人そのものは無に等しいのでしょう。

 なお、このころ、かつて楽器製造の家業で富裕だったイーソクラテースは、戦争と戦後の混乱ですっかり没落してしまっていました。おまけに、〇五年に師の保守政治家テーラメネースも処刑されてしまい、かといって、みずから言うように度胸と声量に欠けて法廷弁論家は向かず、やむなく弁論代筆家となります。しかし、黒を白と言いくるめるようなものだ、と、彼はこの仕事をほとほと嫌っていました。ところが、前四〇〇年、ある裁判で、イーソクラテース(三六歳)は、平明で物語りような弁論を作成する代筆家の大御所、リュシアース(五九歳)と対決するはめに陥ります。ここにおいて、イーソクラテースは、技巧に溢れた、品格ある『証人なし弁論』を工夫し、一躍、注目を浴びることになります。

 これに対して、かつてゴルギアースの弟子であったアンティステヘネースや、後にアカデーメイア学園学頭となるスペウシッポスなども、習作として反論を試みています。そして、イーソクラテースは、後に「アッティカ十大弁論家」に数えられることになりました。

 ソークラテース裁判 (399 BC)

 二一年の「ニーキアースの平和」以来、ペロプス半島西北部のエェリス士国と同半島東南部のスパルター士国との関係は悪化していましたが、九九年、スパルター士国は、ついにエェリス士国を滅亡させてしまいます。

 エェリス士国の少年プハイドーン(c417~? BC 約一八歳)は、名門の生れでしたが、このためにかえって戦争奴隷となり、少年男娼として売られてしまいます。しかし、人格教育者老ソークラテース(七〇歳)は、この話を聞くと、裕福な友人弟子クリトーンに頼んで彼を身受けしてもらい、自由にしてやり、自分の弟子に加えました。また、老ソークラテースは、「知らないことを学ぶのは、善いことだ」と言って、この年になって舞踏や楽器、詩歌の練習を始めました。

 同九九年、その高齢の智恵教師ソークラテースが、市民扇動家アニュートスらによって、三流文士メレートスを告発人として、不敬罪で告訴されます。その理由は、[青年たちに新奇の神霊を祭らせた]ということでした。この裁判に、有名な弁論代筆家リュシアース(六〇歳)は、立派な弁明を代筆しましたが、ソークラテースは、これを謝辞し、自分で出廷します。そして、ソークラテースは、[この告訴は嫉妬の中傷にすぎない]と弁明し、[むしろ自分は栄誉を受けるべきだ]と演説して陪審たちを挑発し、結局、死刑が決定されます。

 弁論代筆家リュシアースの法廷弁論原稿を見て、ソークラテースは、「立派だが、私にふさわしくない」と言います。リュシアースが、「立派なのになぜ」と問うと、ソークラテースは、「立派な服も、私にふさわしくないだろう」と答えました。

 この事件は、いまでも哲学史上最大の謎です。ソークラテースが[自分は自分の「神霊(ダイモーン)の声」の禁止に従って生きている]と言っていたにしても、それは、迷信的だったヘッラス人にとっては珍しいものでもなく、まして不敬罪として告訴されるほど、国家の神々と対立するようなものではありえません。

 「ヘッラス南北戦争」の直前に、自然哲学者アナクサゴラースは、その機械論的世界観のために不敬罪で追放されています。また、アリストプハネースは、二三年の『雲』で、ソークラテースが雷撃神王ゼウスを否定し、浮雲を新しい神として崇拝する様子が冗談として描写されています。しかし、それは二十年以上も前の話で、これをいまさら不敬罪で問うのはムリがあります。

 また、たしかに彼の弟子の過激政治家クリティアースや戦争指揮者アルキヒビアデースなどは革新的で、国家的宗教行事の「エレウシースの秘儀」を愚弄したり、一五年のシチリア島大遠征直前の「ヘルメェス石柱破壊事件」の嫌疑をかけられています。しかし、ソークラテース本人は、伝統宗教を否定するどころか、むしろ、アテヘェネー市でもっとも迷信深い人物であり、この点で非難されるいわれもなかったでしょう。

 しかし、彼の個性教育は、青年たちの〈自我〉の自立を促し、過激政治家クリティアースや戦争指揮者アルキヒビアデースなどのような、自己中心はエゴイストたちを誕生させ、彼らの政治はまったくひどいものでした。とはいえ、これらも、当時、すでに終わった話です。くわえて、〇三年の「市民政」の復活において、「忘却令(アムネスティアー)」として、以前の問題は遡って訴えないことが決められていました。

 政治犯などの人権擁護活動も、「アムネスティ」と言いますが、その名前では、罪状を認めた上で恩赦を求める、という意味あいを含んでしまっています。

 当時のヘッラスで大問題となっていたのは、〇一年のパールサ大帝国の副帝国王クールシュ反乱軍への傭兵部隊への大量参加と、翌年の敗北帰還です。ようやく平和を回復したばかりのアテヘェネー市において、傭兵募集は大きな反発を招いました。にもかかわらず、クセノプホーンら、ソークラテースの個性教育で自律的になった若者たちは、荒廃したアテヘェネー市を見限り、両親や親族や友人の反対を押切って、勝手に傭兵部隊に参加してしまいました。そして、その結果が無残な敗北逃帰行。くわえて、その帰還途中の傭兵軍長クセノプホーンは、アルキヒビアデースやクリティアースに続いて、次の最も危険な奸雄となる危険性がありました。

 実際、クセノプホーンは、数年後の「コリントホス地峡戦争」において、スパルター士国軍としてアテヘェネー市を攻撃し、追放されます。

 この傭兵募集にソークラテースが関与していたと疑われるだけでも、それはアテヘェネー市にとって、とてもまずいことでした。というのは、すでにパールサ大帝国が反乱軍掃討のために小アジア半島へ進撃してきたからです。ここでソークラテースを匿えば、ちょうど百年前の「エーゲ海戦争」の二の舞になってしまいます。それゆえ、戦後間もない廃墟のアテヘェネー市を、占領しているスパルター士国から、そして、進撃してくるパールサ大帝国から守るためには、たとえ誤解であっても、ソークラテースをアテヘェネー市自身が始末してしまわなければなりませんでした。

 奇妙にも、プラトーンの『ソークラテースの弁明』(c394 BC)、ポリュクラテースの『ソークラテースの告発』(c388 BC)、これを受けたクセノプホーンの『思い出』(c385 BC)などは、パールサ反乱軍傭兵募集事件について触れていません。それゆえ、これにソークラテース本人がどのていど関与していたのか、はっきりしたことはわかりません。ただ、クセノプホーンによれば、彼が傭兵参加をソークラテースに相談したところ、デルプホス神託所に質問するように助言された、と言います。そこで、クセノプホーンはデルプホス神託所を参拝し、[遠征の安全をどの神に祈るべきか]を質問しました。しかし、このことをソークラテースに報告すると、出発を前提とした質問の仕方を批判された、と言います。
 もっとも、アテヘェネー市の歴史を見ていると、この都市創設の際の[愚昧がアテヘェネー市を支配する]という大海神ポセイドーンの呪いのとおりに、この都市では、たいした理由もなく、突然の住民の熱狂で偉人を追放したり処刑したりすることがあまりに何度も繰り返されています。この意味では、ソークラテースの処刑も、アテヘェネー市特有の住民の熱狂による多くの偉人追放処刑事件の中の一つにすぎないのかもしれません。

 ソークラテースの処刑 (399 BC)

 晩春のデェロス島例祭を避けた一ヶ月後、ソークラテース(七〇歳)は、霊魂の不死を信じ、悪法も法として逃亡を断り、毒ニンジン酒で処刑されました。

 これに立合っていたのは、息子ラムプロクレェス、妻クサントヒッペーと小さな二人の息子ソープフロニスコス・メネクセノス、昔からの富裕な友人弟子クリトーンとその息子のクリトブーロス・ヘルモゲネース・エピゲネース、ペイライエウス軍港のアンティステヘネース、メガラ市のエウクレイデース、テヘェベー市のケベースとシムミアース、ソーセィジ屋の息子の貧乏アイスキヒネース、単細胞な熱狂アポッロドーロス、解放奴隷少年プハイドーンなどでした。しかし、アリステヒッポスはサローニコス湾のアイギーナ島にいて、また、傭兵軍長のクセノプホーンはまだ小アジア半島にいて、若きプラトーンは病気で、処刑には立ち会っていません。

 老ソークラテースは、獄中で詩歌やアイソーポス寓話を作っていました。クサントヒッペーが、「あなたの死刑は不当です」と言って泣くので、ソークラテースは、「死刑が正当でなくてよかったよ」と言って慰めました。クサントヒッペーは、世に悪妻として有名ですが、しかし、そもそも弟子たちの方が、ろくでもない変人ばかりで、彼女の方が弟子たちを嫌っていました。ただし、他の弟子たちにバカにされていたソーセィジ屋の息子の貧乏アイスキヒネースとだけは話が合ったようで、彼女はソークラテースの遺稿をアイスキヒネースに譲りました。

弁論代筆家イーソクラテースは、ソークラテスの弟子だったわけでのないのに喪服を着て、ソークラテースを悼みました。やがてアテヘェネー市の人々も処刑を反省し、告発名義人の三流文士メレートスを死刑に処すとともに、体育場も閉じて喪に服し、ソークラテースの銅像を建てて、その功績を讃えるようになりました。また、ソークラテースの処刑を知らず、彼に入門しようと遠く黒海の方から青年たちがやってくると、弟子だったアンティステヘネースは、「ソークラテース以上の知者がいる」と言って、裁判の黒幕の市民扇動家アニュートスのところへ連れて行きます。これが大きな騒ぎとなり、人々は、市民扇動家アニュートスの僭越な傲慢に激怒し、彼を追放してしまいます。

 ソークラテースの死後、彼に代わって多くの弟子たちをまとめたのは、すでに独自の学派を開いていた年長のアンティステヘネース(c455~c360 BC 約五六歳、「キュニコス学派」)とエウクレイデース(c450~c380 BC 約五一歳、「メガラ学派」)、そして、アリステヒッポス(c435~355 BC 約三六歳、「キューレーネー学派」)の三人でした。

 プラトーン(427~347 BC 二八歳、「アカデーメイア学派」)は、他の若年の弟子たちとともにメガラ市のエウクレイデースの下に身を寄せましたが、やがて独立し、むしろ対立するようにもなります。また、傭兵軍長クセノプホーン(c430~c354 BC 約三一歳)は、このころ、まだ小アジア半島に滞在していましたが、その後、スパルター士国に帰属し、アンティステヘネースの著作などから多くを学習して、独立に諸書を執筆するようになっていきます。また、処刑直前にソークラテースに救出された解放奴隷少年プハイドーン(c417~? BC 約一八歳、「エェリス学派」)も、その後、エェリス市に帰国して独自の学派を創立し、ソークラテースの思想を継承して普及していくことになります。

 ソークラテースの死とともに古代ヘッラスの栄光が終わったかのように記す歴史書にすぎません。アテヘェネー市もまた、この後にこそ、ペリクレェス時代以上の、秋のインディアン=サマーのような政治文化的繁栄を迎えます。

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