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第四章 古代ヘッラスの秋(405~385 BC)第三節 独裁将主への抵抗 (390~385 BC)

 ディオニューシオス一世と政治教団の対立 (390~88 BC)

 かつて前五世紀半ば、イタリア半島南部では、諸市士国の政治の中枢にあったピュータハゴラース政治教団の人々が会合中に襲撃されるという事件がありましたが、このころになると、ふたたび彼らが、政治や文化の中心となって、大いに活躍するようになってきていました。

 たとえば、ターラント湾東北岸のタラース市士国(現ターラント)の将軍アルキュータース(430~365 BC 四二歳)は、天才的な全能人であり、政治・軍事・宗教・数学・技術と、広範な分野で優秀な業績を確立していきました。すなわち、彼は、数学では、等差数列・等比数列・調和数列などを解明し、立方体倍積問題などについても研究。また、彼は、技術の分野において、滑車やスクリューなどの画期的な発明を達成し、さらには木製の空飛ぶ鳥までをも製作しました。

 将軍アルキュータースは、このほか、子供用のガラガラも考案しました。後にアリストテレースは、このガラガラを、「子供が家の中のものを壊すのを防ぐじつに有益な発明」と絶賛しています。

 また、ピュータハゴラース政治教団発祥の地であるカラブリア半島東部のクロトーン市士国では、プヒロラーオス(c400 BC)とその弟子のエウリュトス(4C BC)が健在であり、天文学において《太陽中心説》などを主張しましした。さらに、カラブリア半島東南岸のロクリス(ロクロイ)市士国では、エンペドクレェスの四根均衡理論を生理学に応用しようとするシチリア島出身の医学者プヒリスティオーンが活躍し、動物の解剖なども実施していました。また、同市には、同政治教団員のアリステイデースが、政治において活躍していました。

 先の東地中海留学外遊においてピュータハゴラース政治教団の哲学的教義に心酔したアテヘェネー民国の気鋭哲学者プラトーン(三九歳)は、八八年、こんどはその本拠地であるイタリア半島南部を訪れ、これらのピュータハゴラース政治教団の人々に会い、さらに多大な影響を受けます。しかしながら、彼はまた、同地方の他のヘッラス人が、あまりに享楽的であることにあきれてもいます。

 このころ、シチリア島では、大艦隊をもって西部を支配するプホエニーカ人カルト=アダシュト士国と、これを一掃しようと努力する東部シュラークーサー将国将主ディオニューシオス一世(約四二歳)とが長年の緊張関係にありました。ここにおいて、ディオニューシオス一世は、また、ケルト人ガリア族によるエトルーリア人系十二市王国とローマ共国の壊滅を踏まえ、[シチリア島西部の奪回には、まず、背後のイオーニア海ヘッラス勢力の統一が必要である]と考え、イタリア半島南部の侵略を始めます。そして、同八八年、カラブリア半島の西端レーギオン市や東南岸ロクリス市などを次々と制圧し、支配を拡大していきます。

 そして、暴君将主ディオニューシオス一世は、イタリア南部の支配を安定させるため、ピュータハゴラース政治教団員のロクリス市の有力者アリステイデースに、その娘を嫁に求めます。しかし、アリステイデースが、「独裁者の花嫁となった娘を見るくらいなら、殺されて死体となった娘を見る方がまだましだ」と言ったので、ディオニューシオス一世は、その言葉どおりに愛娘を殺してしまいました。しかし、アリステイデースは、決然と、「娘に思いは残るが、言葉に悔いはない」と言いました。

 捨て台詞など、軽々しく言うものではありません。「おぼえてろ」などと言って、ほんとうに相手がおぼえていると、後でまたえらい目に会わないともかぎりません。世間は広く、人生は長いのですから、むだにやりあうより早々に逃げ出す方が賢明な選択ということもあります。

 同八八年のオリュムピア祭には、ディオニューシオス一世も、豪華なパヴィリオンを建設し、派手なパフォーマンスを展開して、人心を収攬しようとしていました。しかし、この年のオリュムピア祭演説は、老弁論代筆家リュシアース(七一歳)であり、彼は、パールサとシュラークーサーの二つの敵を強調し、[ただちに「コリントホス地峡戦争」(395~87 BC)を終結し、この二つの敵を排除せよ]と主張しました。これを聞くや、人々は、ディオニューシオス一世のパヴィリオンを破き壊してしまいました。

 この演説からもわかるように、シュラークーサーは、もはやパールサと並ぶような、ヘッラス的都市国家とは異質の領土帝国となりつつありました 
 「コリントホス戦争」において、すでにスパルター士国は、東のエーゲ海側の制海権を喪失しており、西のイオーニア海側のシュラークーサー将国が介入しないままであれば、講和も間近となっていました。逆に、もしもシュラークーサー将国がスパルター士国側で介入すれば、ふたたびヘッラスは完全に二分されてしまい、「コリントホス戦争」は、シュラークーサー将国とパールサ大帝国の一大代理戦争に発展してしまう危険性がありました。というのも、シュラークーサー将国の本来の宿敵は、パールサ大帝国内のプホエニーカ人カルト=アダシュト士国であったからです。

 また、このころ、ピュータハゴラース政治教団の青年ピュートヒアースが、イタリア半島南部を制圧したシュラークーサー将国の暴君将主ディオニューシオス一世の暗殺を計画しますが、事前に発覚して逮捕されてしまい、暴君将主ディオニューシオス一世は、彼に死刑を命令します。しかし、青年ピュートヒアースは、両親なき故郷の妹の結婚式のため、三日の猶予を請い願い、また、同じくピュータハゴラース政治教団の無二の親友ダーモーンがその間の身代わりを買って出ます。つねに服の下に鎧を着ているほど人間不信の暴君将主ディオニューシオス一世は、この青くさい友情に大笑いして、願いを聞き入れます。はたして三日後、青年ピュートヒアースは、まっすぐにシュラークーサー市へ戻ってきました。暴君将主ディオニューシオス一世は、大いに驚き入り、二人を解き放ち、その友情に加わることを請い願いました。

 この逸話は、その後、近世ドイツの古典主義詩人シラー(1759~1805、三六歳)の叙事詩『担保』(1795)に謳われ、また、日本では、「メロスは激怒した」で始まる太宰治(1909~48、三一歳)の日本語の名文『走れメロス』(1940)で有名です。
 なお、ピュートヒアースの名前は、プヒントヒアース(フィンティアース)とも伝えられますが、ピュートヒアースの方が、ピュータハゴラースと同じく、オルプヘウス教の中心であるデルプホス神託所の古い女大神蛇ピュートホーンの名前に因んだピュータハゴラース政治教団員らしいものでしょう。
 また、シラーでは、ダーモーンが暗殺を計画して逮捕され、ピュートヒアースが身代わりになったことになっています。
 もっとも、暴君将主ディオニューシオス一世が二人の友情に参加することを二人が承知したとは、とうてい思えません。ほんとうは、ディオニューシオス一世は、二人の友情への参加ではなく、ピュータハゴラース政治教団への加盟を請い願ったのでしょう。

 シュラークーサーを訪れるソークラテースの弟子たち (388 BC)

 シチリア島シュラークーサー将国の暴君将主ディオニューシオス一世(約四三歳)は、あくまで武力よりも文才を誇っており、悪文で知られる彼の自作の詩歌を人々にむりやり聞かせ、知識人や芸術家の来訪を喜んで迎えていました。そこで、ソークラテースの弟子の「キューレーネー学派」のアリステヒッポス(約四八歳)なども、さっそくにそのシュラークーサー市の宮廷を訪問します。しかし、ディオニューシオス一世は、彼らに対してもあいかわらず横暴でした。

 詩人プヒロクセノス(435~380 BC)は、将主自作の詩歌に率直な感想を求められ、「最低」と答えたところ、翌日には苛酷な石切強制労働場に送られてしまいました。
 アリステヒッポスは、暴君将主ディオニューシオス一世を訪れることをけなされると、「教養(パイデイアー)が必要なときは、ソークラテースのところに、休養(パイディアー)が必要なときは、ディオニューシオスのところに行く」と答えました。
 暴君将主ディオニューシオス一世は、アリステヒッポスを歓迎して、「三人の側妾の一人をあげよう」と提案します。これに対して、アリステヒッポスは、「トロイア王国王子パリスも三人から一人を選んでしくじりました」と言って、三人とももらって、三人とも自由にしてやりました。
 暴君将主ディオニューシオス一世が、「哲学者は金持ちを訪れるのに、金持ちが哲学者を訪れないのはなぜか」と揶揄すると、アリステヒッポスは、「哲学者は、財産の不足をわかっていますが、金持ちは、知能の不足をわからないからです」と返答しました。
 暴君将主ディオニューシオス一世が怒って唾を掛けても、彼は平気で、「大魚にしぶきはつきものさ」と言っていました。また、願い事で暴君将主ディオニューシオス一世の足下にひれ伏さなければならないときも、彼は、「なにしろ将主は足に耳があるのだから」と言っていました。

 また、ちょうどイタリア半島南部にいたプラトーン(三九歳)も、シチリア島に渡り、同宮廷に招かれます。さらにまた、ソークラテース同門のソーセィジ屋の息子の貧乏アイスキヒネースも、生活に困窮して同宮廷を訪問し、ソークラテースの対論篇を将主に献上して、大いに歓迎されました。

 プラトーンのシチリア島訪問は、表向きは、シチリア島東北のエトナ火山の観光ということになっていますが、こんな緊迫した情勢で、そんな呑気なことはないでしょう。おそらく、先般のピュートヒアースによるディオニューシオス一世暗殺未遂事件をきっかけに、ディオニューシオス一世側がピュータハゴラース政治教団との和解加盟を希望し、その協議と審査のために、ピュータハゴラース政治教団から調停者としてプラトーンが派遣されたのではないでしょうか。
 アリステヒッポスも、プラトーンも、貧乏アイスキヒネースを嫌っていました。しかし、アリステヒッポスは、大人の余裕で、困窮するアイスキヒネースを暴君将主ディオニューシオス一世に紹介してやります。
 貧乏アイスキヒネースは、残念ながら凡庸で才能がなく、弟子仲間からもバカにされていました。しかし、彼がディオニューシオス一世に献上した対論篇は、なかなかの出来であったので、アリステヒッポスは、盗人野郎、となじったとか。一説には、アイスキヒネースは、未亡人クサントヒッペーからソークラテース本人の遺稿を譲り受け、これを書き写したとも言われています。

 一方、プラトーンは、先輩アリステヒッポスのような愛想も、アイスキヒネースのような謙虚もなく、いっこうに暴君将主ディオニューシオス一世と話が合いません。ただ、プラトーンは、ディオニューシオス一世の義弟ディオーン(c408~354 BC 約一九歳)を大いに感化することになります。

 プラトーンは、いつも仏頂面で、およそ笑いませんでした。宴席で、ディオニューシオス一世がまっ赤な服を着て踊るように命じると、彼は、エウリーピデースから「女の服など着られまい」という句を引いて拒み、座をしらけさせてしまいます。これを見たアリステヒッポスは、すかさず平気でまっ赤な服を着て、今にも踊り出そうとしながら、同じエウリーピデースから「たとえ酔おうと、淑女は乱れぬ」という句を引いて、そのまま下がってしまいました。

 同八八年頃、智恵教師ポリュクラテースが、唐突に『ソークラテースの告発』という一文を発表します。これは、五ヶ条に渡ってソークラテースの罪を訴えるものであり、第一に、彼は国家を軽視して暴力を肯定した、第二に、彼はクリティアース・アルキヒビアデースのような奸雄を弟子として育成した、第三に、彼は父親に対する非礼を教唆した、第四に、彼は近親や友人より自分を尊重するように眩惑した、第五に、彼は詩人の作品を曲解して独裁者のようにふるまうことを賞賛した、とされます。

 この告発は、アリステヒッポス・プラトーン・アイスキヒネースらが、ヘッラス分裂内戦を招きかねないシュラークーサー将国の暴君将主ディオニューシオス一世に接近したことを懸念したものでしょう。
 後世には、この一文が、告発状の実物と誤解されたりもします。しかし、これにも、クセノプホーンのパールサ傭兵事件は、まったく触れられておらず、奇妙です。

 このポリュクラテースによる再度の『告発』に対し、イーソクラテース(約五一歳)は、『ブシリス』(c385 BC)において逆にポリュクラテースを批判し、あくまでソークラテースを擁護しようとします。また、ペロプス半島西北部のスキュッルース荘園にいた引退傭兵軍人クセノプホーン(約四五歳)も、師ソークラテースについて、『思い出』(c385 BC)を執筆して、「告発」の容疑を払拭しようとします。

 また、このころ、シュラークーサー宮廷では、利を否定して善を強調するプラトーンの政治論が暴君将主ディオニューシオス一世を激怒させてしまいます。ディオニューシオス一世が「おまえの考えは老人的だ」と言い捨てたのに対し、プラトーンが「あなたの考えは暴君的だ」とやり返したのです。このため、ディオニューシオス一世は、プラトーンを逮捕し、奴隷として国外に売却してしまいました。

 これは、シュラークーサー将国の暴君将主ディオニューシオス一世と、その制圧しているイタリア半島南部諸市士国のピュータハゴラース政治教団の交渉決裂であり、以後、ピュータハゴラース政治教団は、急速に衰退消滅していくことになります。
 たしかに、ディオニューシオスは暴君でしたが、時代錯誤的なプラトーンは、その存在の意味をまったく理解していませんでした。すでに自給自足の独立都市国家の時代は、とっくに終わってしまっており、激しい力の外交の中で国家が存立していくためには、地政学的な地域支配が不可欠だったのです。この意味で、ディオニューシオス一世は、これまでのヘッラスの政治家とは異質で、続くマケドニア王国王プヒリッポスなどの先駆でした。
 なお、このころの奴隷は、もはや蛮族出身者がほとんどでした。というのも、先述のように、「奴隷」と言っても、国有鉱山奴隷以外は普通の被雇用人であり、辺境からの出稼ぎの連中を意味していたからです。それゆえ、黒海沿岸に勢力を持つ東のパールサ帝国小アジア半島中部プフリュギア州や、イタリア半島南部をも支配する西のシチリア島東岸南部シュラークーサー将国などが、奴隷のおもな「原産地」でした。そのうえ、シュラークーサー将国では、奴隷のための学校まであって、奴隷本人が払ったのか、奴隷雇用者が払ったのか、とにかく有料でさまざまな専門技術や勤務奉仕の仕方を教育したりもしています。いまの学校も、現代の奴隷を育てるための似たようなものなのかもしれません。

 このころ、シュラークーサー将国では、かつてディオニューシオス一世の将主就任に尽力した政治学者プヒリストスが、ディオニューシオス一世の母に寵用されており、やがてディオニューシオス一世の弟娘と結婚します。ところが、何の相談も受けていなかった暴君将主ディオニューシオス一世は、激怒して政治学者プヒリストスを国外に追放しました。そして、プヒリストスは、亡命中に十数巻のシチリア島史を執筆していきます。

 ディオニューシオス一世の母が、息子ほどに年下の政治学者プヒリストスとの再婚を望んでいたことが、問題の真相のようです。しかし、将主ディオニューシオス一世は、たいへん疑り深かったので、プヒリストスがいずれ将主の地位も狙うのではないかと恐れたのでしょう。

 また、あるとき、延臣ダモクレェスが、調子に乗って将主の幸福を大げさに誉めると、暴君将主ディオニューシオス一世は、その晩の宴会の余興として彼を王座に着かせます。しかし、その頭上には、なんと髪の毛一本で天井から剣が吊ってあり、延臣ダモクレェスは、王位にある恐怖を思い知らされることになりました。

 以来、繁栄の中の危険のことを、「ダモクレェスの剣」と言うようになりました。

 アカデーメイア学園の創設 (387 BC)

 シュラークーサー将国暴君将主ディオニューシオス一世の逆鱗に触れて奴隷として売られた哲学者プラトーンは、アテヘェネー民国の南のサローニコス湾内のアイギーナ島に送られます。しかし、幸いにも、ちょうどそこには、「キューレーネー学派」のアンニケリスが来ていました。プラトーンは、以前、数学者テヘオドロースに会いにキューレーネー市を訪れたことがあり、そこでアンニケリスとも知り合いになっており、こうして、無事、プラトーンは、彼に買い戻されて、アテヘェネー市に帰り着くことができました。

 この後、プラトーンとその友人たちは、奴隷買い取りとしてかかった代金をアンニケリスに送り返したところ、アンニケリスは、この代金でアテヘェネー市西北のアカデーメイア森林公園の近くに小さな荘園を買い求め、これをプラトーンに捧げ贈りました。そこでプラトーン(四〇歳)は、八七年、この自宅に共同研究のための「アカデーメイア学園」を創設し、イーソクラテース学校と対抗して、弟子たちの育成を開始します。

 アカデーメイア森林公園は、かつて名門プヒライオス家のキモーンが前四六八年の戦利品売却資金で整備したものです。
 イーソクラテース学校が、アテヘェネー市民以外の外市国人から高額の教授料を取ったのに対して、アカデーメイア学園は、無料自弁の共同研究の場でした。このため、プラトーンは、それほど裕福ではなく、副業として、数人の奴隷を雇用して、この荘園でイチジク・ネクタリン・ブドウ・オリーヴなどの果樹を栽培させていました。そして、酒宴などの食事も、アカデーメイア学園はひどく質素であり、プラトーンは、ふだんから安オリーヴばかり食べていました。つまり、プラトーンは、貨幣経済の進展で没落しつつある農業自由市民の側にいたのです。

 プラトーンは、この新たな学園の教育方針の表明のために、長編『ゴルギアース』(c387 BC)を発表しました。これは、まさに《演説術》を主題とするもので、プラトーンは、「技術の比喩(アナロジー)」によって、《演説術》が〈技術〉ではなく〈詐術〉であると説きます。

 すなわち、彼は、演説術教師ゴルギアースやその弟子のポーロスに対して、主人公ソークラテースに、[〈技術〉は、[確固たる理論に基づいて対象そのものを善くするもの]であるのに対し、〈詐術〉は、[場当り的に対象を他人に快く見せるだけのもの]であり、身体について《保健術》に対し《化粧術》が、《医療術》に対し《美食術》が成り立つように、霊魂についても、《行政術》に対し《政略術》が、《司法術》に対し《演説術》が成り立つ]と語らせます。つまり、[《演説術》は、真に善くすることなく、ただ快くするだけの霊魂の《美食術》にすぎない]と言うのです。

 そして、[善き人間のみが幸福である]と論じ、[霊魂の劣悪こそ苦痛である]と述べ、[身体の劣悪を治療するのが、《美食術》ではなく《医療術》であるように、霊魂の劣悪を治療するには、《演説術》ではなく《司法術》が必要である]と論じます。

 この前半のゴルギアースやその弟子のポーロスとの対論の部分は、イーソクラテース学校に対するアカデーメイア学園の理論的優位を説明するものです。
 ここでのプラトーンの〈技術〉の「予防」と「治療」の区別は、小アジア半島西岸南部のコース島の医聖ヒッポクラテースのものです。この他、後の『プハイドロス』(c370 BC)などにも、ヒッポクラテースの学説の引用があり、プラトーンが早くからヒッポクラテースの学説を熟知していたことが伺われます。
 また、《美食術》については、当時、シチリア島ゲラー市の詩人アルケヘストラトス(c400 BC)の食物賛歌がすでに有名になっていました。もっとも、このころ、アルケヘストラトス本人は、すでに食べ過ぎで胃をおかしくしてしまっていたようで、『胃病論』という本を執筆してもいます。

 ところが、プラトーンは、この作品の後半になると、ゴルギアースやその弟子のポーロスに代えて、ゴルギアースが逗宿している富裕市民の新鋭政治家カッリクレェスを主人公ソークラテースの対論の相手とし、カッリクレェスに挑発的な反論をさせます。すなわち、プラトーンは、カッリクレェスに[強者の支配こそ、自然の公正である]と提唱させ、また、[子供のうちは真理の哲学もいいが、大人になれば世情の智恵が必要である]と、ソークラテースを批判させます。

 これに対し、プラトーンは、ソークラテースによって、カッリクレェスに[強者とは、身体の優者のことではなく、霊魂の優者のことである]と確認させ、[支配とは、財産の獲得のことではなく、欲望の節制のことである]と主張しますが、カッリクレェスにはあくまで[支配とは、欲望の満足である]と抗弁させます。

 ここに至って、プラトーンは、ソークラテースに、[まず自分に節制を確立していてこそ、優者であり、大人としての政治も可能となる]、[他人に優者に見せるより、真実に優者になることこそ重要である]、また、[真実に優者であれば、不当な非難も恐れるにたらない]と一方的に演説させて、そのまま対論を終結させてしまいます。

 この後半に登場するカッリクレェスは、実在したかどうか不明です。むしろ、このカッリクレェスは、クリティアースやアルキヒビアデースのような奸雄の典型として登場させられているようです。
 というのも、プラトーンの先の『ソークラテースの弁明』(c394 BC)では、意外にもクリティアースやアルキヒビアデースのような奸雄弟子の問題が主題にはなっていませんでしたが、先のポリュクラテースの『告発』は、まさにこの点でソークラテースを非難するものだったからです。それゆえ、プラトーンは、クリティアースやアルキヒビアデースと同類のカッリクレェスとソークラテースを対論させ、その相違を明示することで、『弁明』を補完しようとしたのでしょう。
 実際、この対論篇の最後の部分では、主人公ソークラテースに、[辛く苦い《医薬術》が子供に嫌われるように、自分が市民に嫌われ、無実の罪で罰せられるだろう]と預言的に語らせ、裁判との関係を匂わせています。
 ソークラテースの直接の弟子であり、クリティアースらとも親戚であったプラトーンがアテヘェネー市に学園を創設するにあたって、このようにして、問題のような奸雄弟子をこの学園から出す危険がないことを人々に示しておく必要があったのでしょう。
 ドイツ近代の哲学者ニーチェ(1869~79)は、若いころ、バーゼル大学で古典学を講義していましたが、この『ゴルギアース』を教材としているうちに、プラトーンによって仮想論敵として登場させられたカッリクレェスの思想の方に共鳴してしまい、[人間は、怨恨(ルサンチマン)の教養によって家畜に退化させられてしまった]と義憤し、独自の超人思想を展開するようになります。我々も注意しなければならないのは、後に明らかになるように、[プラトーン自身もまた、むしろ当時の区民政より優者の寡頭政を理想としていた]ということであり、[ここで主張されているカッリクレェスの思想は、もちろんソークラテースによって否定されるべき誤謬を含有するものとして提起されているにせよ、けっして全面否定されてしまっているわけではない]ということです。
 また、この後半では、プラトーンは、ソークラテースに、オルプヘウス教の《肉体墓場説》だけでなく、[浄化されざる霊魂は、ザルのように無節制であるから、死後に冥界でもザルで水を汲む罰を受ける]というピュータハゴラース政治教団風の神話も語らせています。このような神話は、ソークラテースよりもプラトーンの好みによるものでしょう。

 貿易金融都市アテヘェネーの繁栄 (387~c80 BC)

 すでに、ペロプス半島東南部ラコーニア地方沿岸の制海権も喪失したスパルター士国エウリュプホーン王家王アゲーシラーオス(五七歳)は、親スパルター派の小アジア半島西部リュディア州総督ティーリバゾス(約四三歳)の斡旋で、八七年、ザクロス山脈西南側中部山麓のパールサ大帝国の首都スーサ市まで、政治家アンタルキダース(?~c367 BC)を派遣して、皇帝アルタクシャティラー二世(約四三歳)と、「アンタルキダースの和約」(387 BC)を締結し、こうして、ようやく「コリントホス地峡戦争」(395~87 BC)も終結しました。

 しかし、この講和は、じつはヘッラス世界全体に及ぶものであり、どの都市国家にも支配や合併を承認せず、分断のままパールサ大帝国の干渉の下に維持しようというものでした。このため、パールサ大帝国側であったアルゴス市士国のコリントホス市士国合併吸収も解消され、むしろスパルター士国が、その後も和約遵守の監視をパールサ大帝国から委任されます。

 また、小アジア半島中部プフリュギア州と西部リュディア州は、同じパールサ大帝国とはいえ、前者の総督アリオバルザネース(約四三歳)は親アテヘェネー派、後者の総督ティーリバゾス(約四三歳)は反アテヘェネー派であり、ヘッラス諸国はこの両国にさんざんに振り回されることになってしまいます。そして、この対立を利用して、東地中海のキュプロス島サラミース市将国将主エウァゴラースは、この後、パールサ大帝国に反乱を起こし、十年に渡って抵抗を続けます。

 〈分割統治〉は、帝国支配の常套手段です。それは、たんに下位国家に分割して統治するということではなく、より積極的に下位国家相互を分断隔離し対立競争させることで、下位国家を消耗させ増長しないようにさせるものです。そのためには、あえて不仲な総督を近接させるのも、基本的な方法でしょう。

 アテヘェネー民国も、この和約に不満でしたが、しかし、パールサ大帝国の巨大な資金援助によって、急速にかつての強大な勢力を回復していくことができました。とはいえ、もともとアテヘェネー市周辺は、農耕には不向きであり、せいぜいオリーヴやブドウが栽培される程度でした。まして、半世紀にも及ぶ「ヘッラス東西戦争」(431~05 BC)と「コリントホス地峡戦争」(395~86 BC)の後では、荒廃してしまった果樹園を長い年月をかけて復興させるための投資ができる農民は、もはやいませんでした。それゆえ、むしろ、このころのアテヘェネー市は、周辺諸都市で生産される大理石や陶磁器などの貿易で賑わうようになっていきます。

 その後のヨーロッパにおいても、ブドウ園は、金のありあまる貴族か、暇のありあまる僧侶しか持ちえない資本と時間を必要とするものでした。しかし、これは、ワインに限らず、酒造り一般に言えることです。

 ここにおいて、市内には、数多くの銀行が現れ、保管料を得て、貨幣を預るようになり、さらには、担保を抑えて貨幣を貸すようにもなっていきます。なかでも、もとは両替商人の奴隷だったパシオーン(c430~370 BC)は、四〇〇年頃に解放されて以来、独立して銀行を始め、九四年にはアテヘェネー市民権も得て、ヘッラス最大の金持となっていきます。彼の銀行は、プホルミオーン他の多くの奴隷によって運営され、帳簿を整備し、正確に記録することで、絶大な信用を保持し、多様な業務を遂行し、多様な取引を促進しました。

 そして、このような厳格な帳簿管理の発達によって、貿易は、現金取引から銀行帳簿上の口座付替に簡便化され、さらには船荷担保や為替手形や銀行発行信用状などの制度も普及し、信用取引(先渡し後払い)へと発展してきます。ここにおいて、農民に放棄された土地は、富裕な貿易商人に買収され、ただ帳簿上の銀行の担保として大いに利用されるようになっていきます。

 先述のように、「奴隷」といっても、契約被雇用者のことであり、現代のサラリーマンは、まさにこれに相当します。しかし、古代ヘッラスなどでは、他人に雇用され指示されること自体、自由市民に劣る「奴隷」と見なされたのです。それも当時の奴隷銀行員は、銀行の信用を人々に印象づけるために、たいへんに優雅な生活をしており、それゆえによけい、没落しつつある農業自由市民の複雑な嫉妬と軽蔑が向けられました。
 パシオーン銀行は、七二年以後、解放奴隷プホルミオーンが経営を継承しました。この銀行の顧客には、海軍軍人ティーモテヘオスや刀剣製作所経営者デーモステヘネースなどのアテヘェネー市民名士の他、多くの外国人もいました。

 また、八七年の「コリントホス地峡戦争」終戦後、同戦争で活躍したアテヘェネー民国将軍カハブリアース(約四三歳)は、エジプト王国で傭兵将軍として任用され、ヘッラス人装甲歩兵傭兵隊などを指揮します。また、同じく同戦争で活躍して立身した軍人イープヒクラテース(約二八歳)も、エーゲ海北岸のトホラーキア地方のアテヘェネー市民豪族コテュス(?~即位383~60 BC)の娘婿となってその統一を支援し、八三年ころ、コテュスを王とするトホラーキア王国を建設します。

 トホラーキア地方は、古くからアテヘェネー民国の名門プヒライオス家との関係が深くありました。
 軍人イープヒクラテースはたいへんに厳格な軍人であり、兵士にも厳格な規律を求めました。たとえば、ある日、部下の歩哨がうたたねをしていると、軍人イープヒクラテースは、いきなりその歩哨を刺し殺し、「見つけたときのままにしただけのことだ」と言い捨てました。

 その後、軍人イープヒクラテースは、アテヘェネー民国からパールサ帝国援軍として派遣され、名門延臣プハルナバゾス(約五七歳)とともに、同じアテヘェネー民国出身の傭兵将軍カハブリアースの指揮するエジプト反乱軍の鎮圧に努力しますが、イープヒクラテースとプハルナバゾスとの不和で、なかなかうまくいきません。

 軍人イープヒクラテースは、九〇年に足軽歩兵を導入して最強のスパルター軍装甲歩兵を破るなど新取創意の才を持ち、エジプト軍の長槍と対抗するために、ヘッラス軍にも四メートル近い長槍を導入しました。
 名門延臣プハルナバゾスは、この後の七〇年頃(約七〇歳)に死没しました。
 いずれにせよ、この時代、もはや軍人に国籍など関係なかったのであり、傭兵は、金融業者と並んで、てっとりばやくヘッラスで富裕になるための手段のひとつにすぎませんでした。

 プラトーンの哲学観 『酒宴』 (385 BC)

 ピュータハゴラース政治教団の教義は、信徒内において秘密とされてきましたが、このころ、イタリア半島南部カラブリア半島東部のクロトーン市士国のプヒロラーオスは、シチリア島東岸南部シュラークーサー将国の暴君将主ディオニューシオス一世(約四五歳)による高圧的なイタリア半島南部の支配に危機感を持ったのか、その全貌を一冊の書物に整理して公表します。

 これを知ったプラトーン(四二歳)は、先の旅行で影響を与えたシュラークーサー将国の裕福なディオーン(約二三歳)に手紙を出し、プヒロラーオスからその書物を買ってもらい、送ってもらいます。しかし、当のプヒロラーオスは、その後、シュラークーサー将国の暴君将主ディオニューシオス一世におもねる祖国クロトーン市士国によって、政治簒奪をたくらむ危険人物として、突然に処刑されてしまいます。こうして、以後、イタリア半島南部のピュータハゴラース政治教団は、さらに衰退していきます。

 ところで、病理学に優れる「クニドス学派」のあった小アジア半島西岸南部クニドス市出身のエウドクソス(c408~c355 BC 約二三歳)は、イタリア半島南部カラブリア半島東南岸のロクリス市に渡って、医学者プヒリスティオーンに薬学を学び、さらには、イタリア半島南部ターラント湾東北岸のタラース市を訪れて、将軍アルキュータース(四五歳)に数学を学びました。しかし、イタリア半島南部におけるピュータハゴラース政治教団に対するこのような政治情勢の変化に、彼は、医者テオメドーンの従者として、繁栄するアテヘェネー市に移り、プラトーンのアカデーメイア学園への入門を願って何度も通いますが、なぜか冷たくあしらわれ、入門を断られてしまいます。

 クニドス市は、ワインの名産地であり、以前より、イタリア半島ターラント湾東北岸のタラース市や、エジプトのナウクラティス市と、深い貿易関係にありました。

 一方、プヒロラーオスの書物を手に入れたプラトーンは、急速なアテヘェネー民国の復興の中、彼の新たな独自の思想を示す代表作の一つである華やかな『酒宴(シュムポシオン)』(385 BC)を執筆します。これは、対論ではなく、むしろ数人の演説の集成の形態を採っており、それも、ソークラテースの熱狂的な弟子アポッロドーロスが、前四一六年早春の山羊歌舞唱劇作家アガトホーンのレーナイア祭授賞酒宴における参集者たちの《恋愛(エロース)》を主題とした演説を思い出して語る、という複雑な構造になっています。

 ここにおいては、演説好きのプハイドロスが、恋愛神エロースに賛歌がないことを嘆き、まずみずからが、恋愛神エロースを、人に神がかりの力を与える神として賞賛を行います。そして、何人かの演説の後、パウサニアースが、[恋愛神エロースにも二つある]ことを問題にし、通俗の肉体愛と高尚な精神愛との区別を、当時は一般的であった少年愛(パデラスティアー)を通じて論じると、医者エリュクシマコホスは、ピュータハゴラース政治教団風に、その区別を調和の有無と考えます。この後、狂宴歌舞唱劇作家アリストプハネースが、神話風に、[古代の人間は、球形で頭が二つ、手も足も四本あり、太陽の子孫の「男男」と大地の子孫の「女女」と月の子孫の「男女(アンドロギュノス)」の三種類がいたが、あまりに強力傲慢なので、神々が半分に切断してしまったため、いまでもそれぞれに片割れを希求する]と語り、[少年愛こそ、「男男」の恋愛であり、もっとも男らしい]と論じます。

 このように、プラトーンは、熱心に「少年愛」を賛美していますが、たしかに当時としては少年愛はかなり一般的ではあったものの、このようにあえて賛美しなければならないところを見ると、実際は、むしろ逆に、かならずしも世間がこの習慣を手放しで歓迎していたわけでもなかったようにも思われます。

 後半に至って、こんどは主人の山羊歌舞唱劇作家アガトホーンが話を戻し、[恋愛神エロースこそ、もっとも美しい]と讃えます。そして、いよいよソークラテースが、[恋愛とは、自分に欠けている美を対象として求めることである]と論じ、賢女ディオティマーから聞いた話として、[もっとも美しいものは知識であるから、知識への恋愛(哲学)こそもっとも高尚である]と言い、[知識への恋愛(哲学)は、知識と無知の中間の健全な〈信念(ドクサ)〉であり、知識を産む努力であり、さらには、永遠不変の〈美そのもの〉を観る歓喜である]と語ります。この後、酔っ払った若き戦争主導官アルキヒビアデースが乱入し、ソークラテース賛歌を演説しますが、さらに大勢の酔っ払いが登場し、ついには徹夜のバカ騒ぎとなってしまった、とされます。

 健全な〈信念(ドクサ)〉は、イーソクラテース学校のモットーでもありました。この意味で、イーソクラテース学校とアカデーメイア学園とは、かならずしも全面的に対立していたわけではなく、良きライヴァルとなっていたことが想像されます。ただし、ここにおいて、プラトーンは、その究極の目標とすべきものとして、永遠不変の〈美そのもの〉を独創的に提唱しており、場当り的な詐術にすぎない《演説術》よりも理論的な確固たる技術である《思索術》をアカデーメイア学園の特徴として主張していると考えられます。
 最後の唐突なアルキヒビアデースの登場とそのソークラテース賛歌は、ソークラテースをまさに恋愛神エロースとして、また、〈美そのもの〉として暗示するための演出です。また、ここにおいて、ポリュクラテースの『告発』以来問題となっているソークラテースとアルキヒビアデースの関係も、より具体的に弁明されることになります。それによれば、ソークラテースは、アルキヒビアデースの一方的な恋愛の究極の目標でありながら、まったくもって永遠不変の人であった、とされます。しかし、プルタルコホスの伝えるところによれば、むしろほんとうはまるで逆で、ソークラテースが、逃亡奴隷を探し出すように、いつも若く愛しいアルキヒビアデースを追い駆けてばかりいたそうです。

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