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第二章エーゲ海戦争とアテヘェネー民帝国(c525~c440 BC) 第四節 クラシック文化の輝き (c5C BC)

 危険な平和の偉大な繁栄 (c450~c440 BC)

 五一年、アテヘェネー民帝国は、スパルター士国と五年間の平和条約を締結します。こうしてヘッラス半島およびエーゲ海の支配基盤を固めた後、戦争主導官ペリクレェス(約四六歳)は、五〇年、ふたたび名門貴族キモーン(約六二歳)を将軍としてパールサ遠征に出撃させます。

 将軍キモーンは、東地中海のキュプロス島でパールサ海軍に大勝利したものの、しかし、翌四九年、戦病死してしまいます。このため、戦争主導官ペリクレェス(約四六歳)は、やむなく方針を転換、青年政治家カッリアース(c450 BC)を、ザクロス山脈西南側中部山麓のパールサ大帝国の首都スーサ市に派遣して、同四九年、平和条約を締結します。この「カッリアースの平和」において、アテヘェネー民帝国は、小アジア半島におけるパールサ大帝国の領土権を承認することを条件に、小アジア半島西岸ヘッラス人都市の自治権および地中海の制海権を回復します。

 青年政治家カッリアースは、アテヘェネー有数の富裕農民ヒッポニィコスの息子で、当初、キモーンの妹と結婚していました。しかし、ヒッポニィコスの死後、彼の母が戦争主導官ペリクレェスと再婚すると、彼もまたキモーンの妹と離婚しています。つまり、彼は、プヒライオス家一派からアルクマイオーン家一派に乗り換えたようです。また、彼は、アテヘェネー市における智恵教師たちの最大のパトロンでした。

 戦争主導官ペリクレェスは、城壁に続き、ヘッラス世界の統一支配を確立したアテヘェネー市の繁栄の象徴として、市内高台のアクロポリスの丘に、「第二次エーゲ海戦争」で破壊された戦争女神アテヘーナァのための巨大神殿「パルテヘノーン」の再建を計画します。彼はまた、カッリアースの母と離婚して芸妓才女アスパーシアーと同棲し、自然哲学者アナクサゴラース・建築彫刻家プヘイディアース・記録作家ヘーロドトス・山羊歌舞唱劇作家ソプホクレェスなどの知識人と交際し、この「ペリクレェス=サークル」を中心に、アテヘェネー市に貴族的富裕市民の《クラシック文化》を開花させていきます。

 しかし、これで真実に平和が確立したわけではなく、ヘッラス内部では、紛争が続発していました。四八年、スパルター士国は、「第二次神聖戦争」(448 BC)として、デルプホス神託所に出兵して、プホーキス人からこれを奪取してしまいます。このため、アテヘェネー民帝国の戦争主導官ペリクレェスは、スパルター軍の撤退後、ただちにデルプホス神託所へ出兵し、その管理をふたたびプホーキス人に復帰させました。

 デルプホス神託所は、その神託によってヘッラス各国の政治に影響を与えることができるばかりでなく、各国から奉納された莫大な資産を貸し付ける金融センターとしても機能していました。これは、賢人ソローンが五九〇年の「第一次神聖戦争」によって原住民から奪取して以来、親アテヘェネーのプホーキス人が管理していましたが、アテヘェネー民帝国がデェロス島同盟の資金をかってに自国に移管するに至って、他国がデルプホス神託所の資産を保全する必要性を増したため、このようなた戦争が勃発したのでしょう。

 翌四七年、こんどは、ボイオーティアで、反アテヘェネー・反市民政の保守的な貴士政主義者たちが蜂起し、オルコホメノス市・カイローネイアー市などに籠城。アテヘェネー民帝国は、ふたたび出兵して攻略、ところが、その帰路を襲撃され、敗北してしまいます。このため、アテヘェネー民帝国は、ボイオーティア人に独立を承認し、その貴士政復古を傍観せざるをえませんでした。

 このボイオーティア戦で、名門アルクマイオーン家のクレイニアースが死に、同家の近親の戦争主導官ペリクレェスが、その息子アルキヒビアデース(450~04 BC 三歳)の後見を務めることになりました。しかし、このアルキヒビアデースが、後にソクラテースの弟子を自称し、アテヘェネー市を重大な危機に陥れることになります。

 すると、翌四六年、さらにエウボイア島がアテヘェネー民帝国から離反、戦争主導官ペリクレェスがその鎮圧に遠征すると、こんどは、その留守中に、コリントホス市士国・シキュオーン市士国・エピダウロス市士国の策謀によって、メガラ市士国がアテヘェネー民帝国から離反、さらに、スパルター士国が、平和条約を破ってエレウシース市まで侵入し、耕地を蹂躙します。ペリクレェスは、ただちに帰還してこれを牽制し、ふたたびエウボイア島へ遠征して、全島を屈服させました。

 四五年、このような細々した消耗戦に困窮したアテヘェネー民帝国の戦争主導官ペリクレェスは、ペーゲー港・トロイゼン市・アクハイア地方を返還することで、スパルター士国およびペロプス半島同盟諸国と「三十年の平和」を締結します。こうして、両陣営間の紛争は、ようやくしばらく落ち着くことになりました。
 そして、戦後の驚異的なアテヘェネー市の繁栄に、多くの知識人たちがこのアテヘェネー市を訪問、移住してきます。おりしも、このころ、イオーニア海のイタリア半島南部諸市国の政治の中枢にあったピュータハゴラース政治教団が会合中に襲撃されるという事件が勃発します。このため、同教団関係の多くの知識人たちも、以来、多くヘッラス本土へ亡命してきました。

 これに対し、アテヘェネー市の戦争主導官ペリクレェス(約四九歳)は、先にペイライエウス軍港などを設計した都市計画家ヒッポダーモスの協力を得て、四四年、イタリア半島南部のターラント湾南に、実験理想都市トフーリオス市民国の建設を始めます。というのも、ここは、かつてシュバリス市士国があった場所であり、それは、前五一〇年に、イタリア半島カラブリア半島東部のピュータハゴラース政治教団クロトーン市教国に滅亡させられてしまっていたからです。そして、ここはまた、アテヘェネー民帝国のイオーニア海進出の重要拠点となるべき場所でもありました。

 ヒッポダーモスによる方形区画都市開発は、その後の新都の模範となるたいへんに立派なものであり、ペリクレェスは、智恵教師プロータゴラース(約五六歳)・記録作家ヘーロドトス(五〇歳)ほか、ヘッラス各都市から教養あるもっとも優秀な選良ヘッラス人たちを集め、ここに植民を行いました。ところが、ヘッラスでもっとも優秀なトフーリオス選良市民たちは、やがて出身地方ごとの派閥を形成して、ついには対立し分裂してしまったのです。このため、この理想都市建設実験は、しだいに破綻してしまいました。

 ピュータハゴラース政治教団は、もとより、当時の商業の発展に伴う個人主義・欲望肯定主義の反動のように、教団として禁欲清教的な全体主義宗教国家の確立を推進する政治集団でもありました。このため、彼らは、半面で期待され、また、半面で嫌悪されていたのです。しかし、この襲撃事件で教団としては崩壊し、各地で個別にその教説を伝承することになります。
 戦争主導官ペリクレェスは、かつて音楽教師ダーモーンに師事していましたが、このダーモーンの正体は、実は政治学智恵教師であり、後に陶片追放されています。また、ダーモーンが音楽教師を装っていたことから、ピュータハゴラース政治教団との関係も伺われます。ペリクレェスもまた、ピュータハゴラース政治教団の秘密会員であったとすれば、イタリア半島南部に実験理想都市を建設しようとしたことも、その一貫として理解できるでしょう。
 いずれにしても、ピュータハゴラース政治教団は、近世のフリーメィソン政治結社と似て、別に陰謀と呼ぶほどの策略があるわけでもないのに、ところどころで歴史の中にその存在を暗示しています。

 多元主義自然哲学① アナクサゴラース (c500~c428 BC)

 前六世紀の《アルカハイック文化》において、小アジア半島西岸の《ミーレートス学派》は、[水や、無限定体、空気などの物質こそが、世界の〈原点(アルケヘー)〉である]と考え、神話的世界観を越える「自然哲学」の端緒を拓きました。そして、その後、前五〇〇年前後のパールサ脅威~戦争期においては、小アジア半島西岸からイタリア半島南部に移住した人々の間で、《一元主義存在哲学》が現れ、[物質ではなく、万物を含む世界そのものが、〈原点(アルケヘー)〉として不変不動で存在し、それこそが、世界の内部の万物の生滅変化を支配している]と考えました。これを受けて、この《クラシック文化》の時代においては、さらに、[どのように世界が、万物の生滅変化を支配しているのか]が新たな問題となってきました。

 アナクサゴラース(c500~c428 BC)もまた、小アジア半島中部イオーニア地方北部のクラゾメネー市士国の名門に生まれたものの、パールサ大帝国の脅威と戦争に、アテヘェネー民帝国へ移りました。そして、彼は、ここで、《ミーレートス学派》や《一元主義存在哲学》の影響を受け、独自の自然哲学的発想を編み、この時代になって次々発行されるようになった書物によって、多くの教養ある人々にその考えを広めました。また、彼は、アテヘェネー民帝国の中心である戦争主導官ペリクレェスとも親しく交わっており、「ペリクレェス=サークル」の一員として、アテヘェネー市の《クラシック文化》を花開かせていきます。

 アナクサゴラースは、[万物が万物を生む]と考えました。世界が絶対的に完結したものである以上、万物は、生滅するにしても、世界の外部からやってきたり、世界の外部へと行ってしまったりすることはできず、ただ、あくまで同じ世界の内部で、ある物体から他の物体に変化していっているにすぎないからです。そこで、彼は、ある物体が他の物体に変化する原因として、[物体は、もともと他の物体の〈種子(スペルマタ)〉を含有しており、それが発芽して他の物体に変化する]と想定しました。しかし、同じ物体は、多様に変化することがあります。そこで、彼はさらに、[万物は、もとより万物の〈種子〉だけで構成され、比率の高い種類の〈種子〉の性質を提示しているにすぎない]と考えました。

 たとえば、木材は、燃えて火にも、腐って土にもなります。それゆえ、木材は、もともと火や土の〈種子〉を含んでいた、と考えられます。そして、いまそれが木材であるのは、木材の〈種子〉がその中の他の〈種子〉よりも多いからである、と考えたのです。
 彼がこのような発想を持つに至ったのは、市民や住民や移民が混在する戦後の「市民政」のアテヘェネー民国を見てのことだったのでしょう。その都市国家には、さまざまな人々が混在していますが、「市民政」においては、その内部でもっとも多い種類の人々の意見が、都市国家そのものの行動となって出現してきます。
 彼のアイディアは、パルメニデースとの対比において考えてみる必要があります。パルメニデースは、[世界の物事は、すべて世界そのものの必然性によって定められている]と考えていましたが、いま、アナクサゴラースは、[物事は、もともとすべての〈種子〉、すなわち、可能性を含んでいる]と考えているからです。人間もまた、もともとは多様な可能性を含んでいるのにもかかわらず、その中のいくつかの可能性が発芽して、目に見えているだけのことです。怒ったり、泣いたりしてばかりいる人も、その心の中には、笑ったり、喜んだりするタネもまたどこかに潜んでいるはずです。

 アナクサゴラースによれば、[原初の世界は、さまざまな〈種子〉が完全等質的混在状態になっていたが、ここに世界そのものとしての〈精神(ヌース)〉が働くために、〈種子〉は旋回して飛散し、熱乾明薄な〈種子〉は、遠方へ飛んで天上界の星々となり、冷湿暗濃な〈種子〉は、中心に留って地上界の物々になった]とされます。そして、[分離不全のために、一部の地上界の物体は、天上界的な熱乾明薄な〈種子〉を含有し、生物となった]とされ、[そのような天地分離不全による生物は、世界そのものとしての〈精神〉を分有し、多く分有するものほど、賢明な生物となった]と言います。

 彼の言う世界そのものとしての〈精神〉は、けっして物質的なものではなく、〈種子〉が混在していること自体による論理的原動力のようです。というのも、彼は、[同質のものではなく、反対のものによってこそ、作用が発生する]と考えていたからです。その証拠として、彼は、[黒い目の動物は、昼間の光を見、光る目の動物は夜間の闇を見ることができる]ということを挙げています。
 本当は、旋回において重いものほど遠くに飛びます。

 多元主義自然哲学② エムペドクレェス (c493~c433 BC)

 エムペドクレェス(c493~c433 BC)は、イタリア半島南部のシチリア島の西南岸中央の繁栄する八〇万人大都会アクラガス市士国の富裕市民に生れました。しかし、このころ、アクラガス市士国は、「エーゲ海戦争」以来、対岸アフリカのプホエニーカ人カルト=アダシュト市国と対峙しており、「寡頭政」に転換して防衛を強化しようとする人々が増大し、ついには「千人議会」を構成してしまいました。これに対して、オルプヘウス教ピュータハゴラース政治教団にすっかり染っていたエムペドクレェスは、奢侈に腐敗したこの大都会を浄化し、むしろ禁欲清教的な「市民政」を樹立しようと努力します。

 しかし、エムペドクレェスが言う「市民政」は、およそアテヘェネー民国のような自由なものではなく、宗教独裁全体国家クロトーン市教国のような窮屈なものでしょう。

 ちょうどそのころ、西のセリーヌス市で疫病(ペスト?)が発生してしまいます。エムペドクレェスは、[町の中心の川の悪臭が原因である]と推理し、私費を投じて別の川から運河を開削し、悪臭の川を浄化しました。すると、たちまち疫病はおさまり、以来、彼は、セリーヌス市民から神と崇められることになります。

 エムペドクレェスは、やがてみずからも神を僭称するようになり、緑葉の冠・赤紅の衣・黄金の帯・青銅の靴と、なんとも目覚ましい格好でアクラガス市士国に帰郷して、オルプヘウス教ピュータハゴラース政治教団の中心教義である〈霊魂浄化〉を人々に布教しようとしました。しかし、奢侈に腐敗した大都会の故郷アクラガス市にあって、彼の尊大な布教は、およそ受け入れられず、かえって追い払われることとなってしまいます。

 それでも、エムペドクレェスは、弟子を増やし、教義を広めていきます。しかし、時代の腐敗を露骨に喝破する彼に対する人々の非難は高まる一方であり、最期には、自分が神であることを証明すべく、みずからシチリア島東北のエトナ火山の火口に身を投げてしまいました。すると、彼の青銅のサンダルは、火口から吹き上げられ、はるかアクラガス市まで飛んできて、心配する弟子たちの目前にぽとりと落ちた、と言います。

 さて、ここで突然、なぞなぞです。さて、赤くて青くて黄色くて、黒くて白くて、だいだい、むらさき、みどり色のものは何か。答えは、パーティで盛装したイタリア人。エムペドクレェスは、どうもその先駆者であったようです。
 十九世紀後半の哲学者ニーチェ(1844~1900)は、もともと古典学出身であり、代表作『ツァラトゥストラはかく語りき』(1883~91)のプロト=タイプ(たたき台)として、もともとはエムペドクレェスを主人公にした小説を構想していました。

 エムペドクレェスは、〈根(リゾーマタ)〉を万物の根本構成素と考えました。[〈根〉には、地・水・火・気の四つの種類があり、それぞれ、地は重量性や硬質性、水は暗闇性や清浄性、火は温暖性や眩輝性、風は流動性や透明性、という性質を持っている]とされます。そして、[諸物は、四種の〈根〉の一定の比率での混在で発生し、その分離で崩壊する]とされ、[混在には間隙が必要である]とされました。

 アナクサゴラースと同様に、エムペドクレェスが根のような植物のアナロジーで世界を理解しようとしていることは、興味深いところです。エムペドクレェスの四種の〈根〉は、その後のアリストテレースを経て、中世の練金術や医療術にも大きな影響を与えますが、しかし、彼の言う四種の〈根〉は、たんなる死んだ物質ではなく、《ミーレートス学派》の《物活論》のように、まさに〈根〉としての生命的原動力性を残しています。たとえば、重いものは地の根からその重さを、熱いものは火の根からその熱さを吸収していると考えられました。

 エムペドクレェスによると、[世界は、「神」とも言える球であり、〈愛(プヒリア)〉が入り満ちると、四種の〈根〉は混在し、〈憎(ネイコス)〉が入り満ちると、四種の〈根〉は分離し、〈愛〉と〈憎〉とが世界の内外で入出を反復する]とされます。そして、[現在は、〈憎〉による分離の過程にある]とされ、[まず気が分離して天球ができ、次に火が分離してその上半球を占め、気は、星々となる火のかけらとともに下半球に追われるものの、上半球の過剰な火の重さで、天球は、回転運動をすることになった]とされ、[この回転運動によって、汗のように、水が、天球の中心の地の表面に押し出された]とされました。

 さらに、[地上では、残るわずかな〈霊魂〉の〈愛〉によって、ばらばらの器官がでたらめにくっつき合ったが、結局、現在の植物や動物のような諸器官の組合わせのものだけが、生き残った]とされます。そして、[いまや〈分離〉の〈憎〉も極まり果てたので、ふたたび〈霊魂〉の〈愛〉によって、世界を浄め結んでいかなければならない]とされました。

 彼の世界観は、《オルプヘウス教ピュータハゴラース政治教団》を下地にしつつ、アナクシメネースの「世界の呼吸」や、ヘーラクレイトスの「反転する調和」、パルメニデースの「存在の球」など、《ミーレートス学派》と《一元主義存在哲学》をそれこそ混合したような印象を与えます。

 富裕市民のクラシック文化

 「エーゲ海戦争」後のアテヘェネー市再建において、少数の輸入奴隷とともに商品作物を生産する富裕農民もまた、しばしば安全な市城内に移住してしまい、また、この経済発展で数十人もの輸入奴隷を使用する製作所(エルガステーリオン)を経営する新興商工業者も登場してきます。これらの富裕市民は、もはや仕事を奴隷に任せっきりにしてしまったのであり、暇をもてあましきってしまっていました。それゆえ、富裕市民の男たちは、買物、雑談、運動、読書、男色、酒宴、そして政治や裁判に明け暮れる毎日だったのです。この暇をもてあました古代ヘッラスの貴族的富裕市民の文化こそ、《クラシック文化》にほかなりません。

 「クラシック」という言葉そのものには、けっして「古典の」という意味はなく、あくまで「クラースの」ということであり、「クラース」とは、「マス(一般大衆)」と対比されるアッパー=クラース、すなわち、貴族的富裕市民を意味しています。
 古代ヘッラスにおいて、国有鉱山奴隷など以外は、アメリカ南部の農業奴隷のように人格を無視される道具などではなく、むしろ所有者が生活の面倒をみなければならない使用人のことであり、主人の家格に応じた衣食住を提供してやらなければなりませんでした。このため、富裕市民の奴隷の方が、貧乏市民より良い暮しをしているということもしばしばありました。
 また、アテヘェネー市の官吏や警官なども、じつは国有奴隷であり、議会の事務、市民の警護、犯罪の防止などを務めており、ときには市民より高圧的でした。したがって、「奴隷」とは言っても、ちょうど現代の町工場の工員や村役場の役人のようなものです。当時の人々からすれば、現代日本のサラリーマンやOLは、まさに「奴隷」にしか見えないことでしょう。
 古代ヘッラスでは、異様に男色が盛んであり、中年ホモおじさんが美少年を愛して、あれこれ教えたり、出世を引き立てたりということがふつうに行われていました。これは、以前の軍隊的共同生活の遺習にくわえて、まともな女性がほとんど家から出なかったことなどもあるでしょうが、しかし、まともでない売春婦や女奴隷もきちんといたのですから、仕方なくではなく、むしろ好んで男色に走っていたわけです。彼らに言わせれば、[男同志であってこそ、政治や芸術などの抽象理念的な問題にまで踏み込んで理解しあえる]とのことですが、理解しあってどうしようというのでしょうか。
 また、街のそこら中に男茎を象徴する「ヘルメェス石柱」が立っており、舞唱劇でも、舞唱団が皮製の大きな男茎をぶらぶらさせていました。そして、中年ホモおじさんたちは、連れ立ってしょっちゅう運動場へ裸の少年たちを見に行きました。では、男たちが男色に耽っている間、女性たちはどうしていたのかと言うと、じつは、小アジア半島西岸南部のミーレートス市の主要輸出品のひとつが、これまた男茎の張形でした。

 このころ、すでに文字や算術を教える初等学校(ディダスカレイィオン)が、かなり数多くアテヘェネー市内に成立しており、〈自由市民〉である以上、少なくともこのような初等教育を受け、《教養(パイデイアー)》として読み書きや計算ができることが、必須の条件でした。そして、このような一般の〈自由市民〉の《教養》を背景に、すでに哲学書や詩歌書、舞唱劇戯曲などが、書写屋によって町中で数多く販売され、市民たちに大いに愛読されていました。

 もっとも、これらの初等学校や書写屋は、あくまで富裕市民が経営する私的商売の一つです。それゆえ、その文法教師や算術教師、書写職人は、じつは、他の製作所の職人と同様に、あくまでその経営者の奴隷であって、逃亡しないように、いつも首輪や足枷をさせられていました。

 奴隷教師の伝統は、その後、ローマ時代にも長く続いていきます。実際、毎年、毎年、ひどく初歩的な話を懇切丁寧に繰り返すなどという仕事が、奴隷の仕事でなくて何だというのでしょうか。

 また、このころ、「エーゲ海戦争」後の諸都市の混乱と戦後の驚異的なアテヘェネー市の繁栄、また、前五世紀半ばのピュータハゴラース政治教団会合襲撃事件によって、多くの知識人たちがこのアテヘェネー市を訪問、移住してきました。たとえば、イタリア半島西岸南部のエレアー市士国生まれの《一元主義存在哲学》のパルメニデースも、最晩年、アテヘェネー市を訪れたようです。また、小アジア半島中部イオーニア地方北部のクラゾメネー市士国生まれの《多元主義自然哲学》のアナクサゴラースも、アテヘェネー市に移り住んで以来、戦争主導官ペリクレェスとも親しく交わり、彼の記した自然哲学の書物は広く人々に読まれていました。また、後の舞唱劇作家エウリーピデース(c485~406 BC)も、このアナクサゴラースに就いて、多くのことを学んでいました。

 実父を幼くして亡くした少年ソークラテース(469~399 BC)は、子供のころから「神霊(ダイモーン)の声」が聞こえました。それは、危険や不正に対して彼に禁止を告げ、彼を守ってくれる彼固有の守護神霊です。また、彼の母も、再婚して彼の異父弟を出産したものの、後に月狩女神アルテミスに仕える神霊的聖職の一種である産婆となっています。そんな霊感少年ソークラテースも、当時、存在哲学者パルメニデースに会って、知的世界に関心を持ち、自然哲学者アナクサゴラースに就いて、自然哲学の研究を深めます。

 ソークラテースの父は、ソープフロニスコス、母は、プハイナレテーです。そして、一家は、アルクマイオーン家の人々の他、公正名将軍アリステイデースや将軍トフーキューディデースなど、名門の邸宅が多いアテヘェネー市郊外東の高級住宅地アローペケー区に住んでおり、そして、父ソープフロニスコスは、公正名将軍アリステイデースと親しかったと言います。しかし、本人の名が「健全支配」、父の名が「戒律厳守」、母の名が「能力体現」、おまけに、「戒律厳守」が公正将軍と親友で、狡猾な「狐穴区」に住んでいた、となると、これらはどうも後から作られた安っぽい伝説のようにも思えます。
 ただ、[亡き父の名が、「戒律厳守」である]ことと、[彼の守護神霊が、禁止だけを告げた]こととは、幼くして父を亡くした少年ソークラテースにとって、精神的には大きな関連があったかもしれません。また、[ソークラテース母子が、もともと土俗的な霊感巫子(シャーマン)であった]という説もあります。もしかすると、ソープフロニスコスも、もともと正規の父親ではなかったのかもしれません。一説に、ソークラテースは少年奴隷であり、同年代の名門富裕市民少年クリトーンがその聡明さを認め、ともに教育を受けたとも言います。

 大記録作家ヘーロドトス (494~30 BC)

 大記録作家ヘーロドトス(494~30 BC)もまた、この時代、アテヘェネー市民権を獲得し、戦争主導官ペリクレェスや舞唱劇作家ソプホクレェスと交際したクラシック文化の代表的知識人の一人です。彼は、もともとは小アジア半島西岸南部カリア地方のハリカルナッソス市の名門に生まれましたが、「エーゲ海戦争」のころから、黒海沿岸、プホエニーカ・エジプト・リビアの東地中海沿岸、さらには、遠くバビロニアまで旅行して見聞を広め、各地の特異な風習や歴史を語って、狭いアテヘェネー市の中のことしか知らない富裕市民たちを驚かせました。

 彼がもたらした膨大な異国の見聞は、アテヘェネー市の富裕市民に、[〈倫理(ノモス)〉が相対的なものにすぎない]ことを思い知らせ、書物や智恵教師などから知識を吸収する必要性を感じさせました。また、前四四四年の実験理想都市トフーリオス市民国の植民建設に際しては、ヘーロドトス(五〇歳)も、智恵教師プロータゴラース(約五五歳)らとともに移住し、その建国に大いに尽力しました。

 そしてまた、ヘーロドトスは、「エーゲ海戦争」をアジアとヘッラスの戦争という総合的視点から物語風にまとめて、大著『記録(歴史、ヒストリアー)』を記し、「歴史の父」と呼ばれることになります。これは、エーゲ海戦争の展開の中に、各地の見聞や古代の伝承を膨大な挿話として織り込んで、当時のヘッラスで知りえたかぎりの歴史と世界の全貌をあますところなく示そうという壮大な試みでした。

 ヘーロドトスの先駆者として、かつてミーレートス共国の記録作家ヘカタイオスがおり、『周遊記』を執筆しています。
 ヘーロドトスは、もとより小アジア半島のカリア人とヘッラス人の混血であったようで、一生を自分のポリスに篭って過ごす普通のヘッラス人たちのような偏狭な中華思想はなく、まさしく世界市民(コスモポリテース)でした。
 『記録』は、挿話とエーゲ海戦争の展開とが錯綜しており、むしろ前者の方が量的にも多くなってしまっています。それゆえ、たいへんおもしろい本ではありますが、慣れるまで、読みにくいかもしれません。
 なお、彼の名前は、月面の西北のクレーターとしても記念されています。

 しかし、彼の世界観は、現代から見ればかなり奇妙なものです。すなわち、彼は、大地の北半分が「ヨーロッパ(ヘッラス地方+スキュトヒア地方)」、東南四半分が「アジア(小アジア半島+インド)」、西南四半分が「リビア(アフリカ)」と考えていたのであり、南北を「北海(地中海)」と「黒海」が分け、南半分の東西を「紅海」が分けていると考えていました。また、彼によれば、「ヨーロッパ」の東半分は、「スキュトヒア地方」であり、その北は雪の「域外国(ヒュペルボレオス)」に至り、その東は荒野、そして「人喰国(アンドロパゴス)」があり、さらにその先は無人の地である、とされ、また、西は、「ヘーラクレェスの柱(ジブラルタル海峡)」を越えて、「アトランティス海(大西洋)」に出る、とされています。さらに、彼によれば、アジアやリビアの南は、「紅海(インド洋?)」とされ、アジアの東は、「カスピ海」と「インド地方」があって、後は無人の地、リビアの西は、「紅海」と「北海」とが「アトランティス海(大西洋)」で繋がっているとされています。ここから逆に言うと、ヘッラス(ギリシア)は、「ヨーロッパ」の西半分、世界の四半分を占めるほどの大きさということになります。

 エレアー市のゼーノーン (c490~30 BC)

 イタリア半島西岸南部の小植民市エレアー市将国の「エレアー学派」のゼーノーン(c490~30 BC)は、オルプヘウス教ピュータハゴラース政治教団の色合いの濃い《一元主義存在哲学》のパルメニデースの養子であり、弟子でした。

 彼は、ヘーロドトスとは対象的に、一生涯、この辺境の小植民市から離れることはありませんでしたが、広くヘッラス世界の思想に、そして、その後の人類の思想全体に影響を与えることになりました。というのも、彼は、養父であり師匠であるパルメニデースから、[我々の日常の発想が、あることも、ないことも、混然一体のまま思い悩まなければならない「想像の道」にすぎない]という哲学を受け継ぎ、このことを人々に思い知らせるべく、明白に誤謬である結論を導出することによって、[前提そのものが、すでにもともと誤謬であった]ことを証明する〈帰謬論(パラドクサ)〉を発明したからです。

 「ゼーノーン」は同名がほかにもいるので、かならず出身地名を付けて区別します。エレアー市のゼーノーンは、とくに政治家志望の富裕市民の息子たちに教授したわけではないので、遅れてきた《一元主義存在哲学者》であって、《智恵教師(ソプヒステース)》ではありません。
 たとえば、彼の「アキヒッレウスとカメの帰謬論」によれば、[駿足のアキヒッレウスが、鈍足のカメを走って行って追い抜かそうとしても、アキヒッレウスがカメの歩いていた所に追い着いたときには、カメ自体は、つねにすでにより前に進んでおり、アキヒッレウスは、カメを追い抜かすどころか追いつくことすらできない]とされます。また、「飛ぶ矢の帰謬論」によれば、[飛んでいる矢も、各々の一瞬においては、つねに止っており、つねに止っているものは、全体の時間においても飛んではいない]とされます。
 しかし、彼は、もとよりけっしてこのおかしな結論を積極的に主張しようとしたのではありません。これによって彼が証明しようとしたのは、[このように明白な誤りが導出されてしまうのは、そもそも誤って時間や空間を分割しているからである]ということであり、[時間や空間は、師パルメニデースが言ったように、分割できない不変不動・唯一無二の「存在の球」である]ということでした。しかし、いずれにせよ、〈帰謬論(パラドクサ)〉は、論証の方法として、歴史上の一大発明でした。
 「アキヒッレウスとカメ」の帰謬論(パラドクサ)は、数学教師によって、[分割の前提が誤りなのではなく、分割の方法に誤りがある、つまり、ゼーノーンは、〈微分法〉を知らなかったから誤ったのだ」などと簡単にかたづけられてしまうことがあります。しかし、〈微分法〉が成り立つのは、すでに時間や空間が数学的に完全に計測され確定されているピュータハゴラース的な理念世界の中でだけのことです。それは、時間や空間を完全に計測して確定している時点で、すでに時間や空間が分割可能であることを前提としており、これをあれこれ計算操作したところで、時間や空間が分割可能であるのは、当たり前です。それゆえ、そこでの解答は、現実の細密な世界とは無縁の空理空論、とまでは言わないにしても、せいぜい、最初のごまかしと同じ程度の理論的な近似値にすぎません。
 むしろ、すでに現代物理学では常識であるように、時間や空間は、分子や原子よりも細密になっていくと、時間と空間が入り組んでしまい、輪郭がぼやけてしまいます。たとえて言えば、そこでは、金属の塊ようなリジッド(かっちりとした)な断面はなく、雲と空の間ようにオブスキューア(曖昧模糊とした)な境界しかありません。なにせ原子といっても、けっして粒子ではなく、曖昧な原子核のまわりを電子が飛び交っているようなものであり、その電子にしても、その軌道のどこにあるかなどということは、本質的、絶対的に特定できず、そのうえ、その軌道は、隣の原子核、さらには、その物体全体に、そこはかとなく広がっているからです。
 このような意味で、ゼーノーンの〈帰謬論〉、そして、パルメニデースの〈存在の球〉は、論理学的にも、また、物理学的にも、真摯に考えなければならない問題を含んでいます。たとえば、映画のフィルムなどを見ると、[我々は、時間を、それぞれのコマの「瞬間」として捕捉した、我々は、これを時間として再生させることもできる]などと、思い上がって考えてしまいがちですが、実際は、その再生のときに、映写機やビデオの運動が、「瞬間」のコマから抜け落ちてしまっている微細な時間を、ひそかに補っています。かようにも、微細な時間は、我々の手からするりと滑り落ち、かと思うとまた、いつの間にか我々の世界の中に、かってに入り込んでくるものです。
 ここにおいて、我々や物事の方が、じつは、時空間の海にただようクラゲのような存在であり、巨大で一体の時空間の存在と力能なしには、干からびて、粉々になってしまうようなはかない存在にすぎないのかもしれません。そして、時空間を分割できないのは、時空間そのものが分割できないからではなく、他ならぬ我々自身が、時空間を分割しては存在しえないような存在者にすぎないからかもしれません。

 なお、彼もまた、その後、エムペドクレェスのように、母国の「市民政」の樹立のために政治活動を行い、クーデタを考えます。しかし、それは事前に発覚し、彼はエレアー市の将主に逮捕されてしまいました。彼は、拷問に対して一計を案じ、クーデタの秘密同志としてむしろ将主の友人の名前を次々と挙げ、「さらにもっと秘密がある」と言って将主の耳元に近づき、その鼻を噛みちぎって刺されて死にました。彼の死後、彼の計略どおり、将主は、自分の友人たちを疑い、孤立して果てたと言います。

 智恵教師プロータゴラースの登場 (c500~430 BC)

 政治や裁判は、なまじ平等な「市民政」社会にあって、運動と並んで名誉欲を満たす富裕市民の最高の娯楽でした。そのうえ、役職にはデェロス島同盟基金からけっこうな報酬も交付されます。しかし、富裕市民ならだれでも、くじ引き再選不可で評議会や陪審員に、公平に選出されたので、再選可能な「将軍」、さらには、これを統轄するペリクレェスのような「戦争主導官」、または、弁護人や外交官になってこそ、権力への野望も満たされるというものです。

 けれども、政治は民会が、司法は陪審が大きな意味を持ち、そこでは政治的〈能力(アレテー)〉、そして、それを人々に訴える演説が重視されました。つまり、地位を獲得するには、政治的〈能力〉、そして、《演説術(レートリケー)》を修得しなければならなかったのです。それゆえ、富裕市民たちは、息子を出世させるべく、息子にこの政治的〈能力(アレテー)〉を修得させようとしました。そして、これを教授する者として登場してきたのが、《智恵教師(ソプヒステース)》たちです。

 〈能力(アレテー)〉は、「徳」とも訳されます。しかし、古代ヘッラスの〈アレテー〉は、漢語の「徳」のように人格に限定されたものではなく、道具や手足についてもふつうに言われました。けれども、それだけに、政治家の〈能力(アレテー)〉とは、いったいどんな能力なのかが、当時、大きな問題となってきていました。
 《演説術(レートリケー)》は、「修辞学」とも訳されますが、しかし、日常の一対一の言葉や文章ではなく、多くの人々を相手に直接に説得するものだけが《演説術(レートリケー)》であり、また、他人に対する批評的な学問などではなく、ただ身をもって修得すべき技術でした。

 その最初で最大の人物は、プロータゴラース(c500~430 BC)でした。彼は、エーゲ海北岸トホラーキア地方の新興アブデーラ市民国に誕生し、三十歳のころから諸都市を遍歴して、多くの人々の尊敬を獲得、そして、アテヘェネー市にも来訪して多くの富裕市民の息子に教授し、また、四四年(約五五歳)には、大記録作家ヘーロドトス(五〇歳)らとともに、トフーリオス市民国の植民にみずからも尽力しました。

 《智恵教師(ソプヒステース)》の登場には、《オリエント文化》における伝統的な《智恵文学》の影響もあったと思われます。それは、古来伝わる処世的な箴言名句を集めたものであり、人々は、哲学者、知恵教師たちに、このような気の利いた警句を求めたのです。実際、《一元主義存在哲学》のヘーラクレイトスなどにも、すでに多くの箴言があり、当時もよく知られていました。
 また、後に智恵教師ヒッピアースが、〈能力(アレテー)〉のための《教養(パイデイアー)》として、人文科学に自然科学も加え、これが、現代に至る大学水準の《一般教養(自由学芸)》の基礎となっていきます。

 プロータゴラースは、《一元主義存在哲学》、中でもパルメニデースの影響を強く受けています。しかし、パルメニデースが、あることもないことも混然一体のまま思い悩まなければならない人間の思考の現実である「想像の道」から、すべての物事が必然性によって決定されている世界の実在の真実である「真理の道」を理念的に分けたことに対し、プロータゴラースは、「人間が、万物の尺度(メトロン)である」という言葉で、「真理の道」の存在を否定し、[むしろ、「想像の道」こそ、また真実である]として、[この世界の実在そのものの不確実性ゆえに、まさしく自分自身が、尺度としての〈能力(アレテー)〉を持たなければならない]と考えました。

 パルメニデースは、従来からの自然哲学の延長で、有限の認識論的思考世界とは別に絶対の決定論的物理世界を想定しましたが、これに対して、プロータゴラースは、政治家の決断ひとつで戦争の勝敗が変わるような現実を前に、後者を厳しく排除したのでしょう。しかし、後にプラトーンは、「人間は万物の尺度である」というプロータゴラースの言葉を、ピュータハゴラース政治教団やパルメニデースなどのように、[人によって感じ方が違う]という程度の内容に狭く限り、対象を持つ感覚である〈感性〉の直観の問題にすり替え、決定論的物理世界を蘇らせてしまいます。

 自分に尺度が無く、周囲の顔色を伺って右往左往するだけの人とは、関わりがたいものです。それにしても、レストランの調理場の生ゴミ切クズすべてを頭に詰め込んだような、ムダに諸説に「博識」な学者の多いこと。彼らからまともな「料理」が供されることは、期待できないでしょう。実際、彼ら自身が幸せそうであった例がありません。いったいなんのための人生をかけた研究なのか、理解しがたいところです。

 実際、当時のアテヘェネー民帝国は、政治・司法・経済において「尺度(制度、貨幣、度量衡)」を統一しました。このことは、都市間の交流を円滑にし、計り知れない繁栄をもたらします。軍事でも統一があればこそ、個々の総和以上の戦力が発揮されるものです。この意味で、プロータゴラースは、[万民万物の尺度となって人々を統一することこそ、政治的〈能力(アレテー)〉である]と考えたのです。それゆえ、彼にとって《演説術》は、たんに自分の〈能力(アレテー)〉を人々に訴えるためだけのものではなく、まさに一定の尺度に人々を統一させる政治的〈能力(アレテー)〉そのものでした。

 アテヘェネー=デェロス島同盟民帝国の貨幣単位は、6オボロス=1ドラクマ、600オボロス=100ドラクマ=1ムナ、3万6000オボロス=6000ドラクマ=60ムナ=1タラントンでした。そして、おおよそ家族一日の食費が1ドラクマに相当します。簡単のため、1オボロス=千円とすると、1ドラクマ=6千円、1ムナ=60万円、1タラントン=3600万円です。ちなみに、奴隷は、3~6ムナ=180万~360万円で、おおよそ現代の自動車と同じくらいの価格です。

 プロータゴラースは、もとより[万事に、相反する二つの言論が成り立つ]と考えており、弟子たちに、その両論をどちらも同じく立証する訓練を行いました。しかし、それは、しばしば弱論強弁であり、《智恵教師》を詭弁家と思わせることにもなってしまいました。

 後にソークラテースは、プロータゴラースを初めとする《智恵教師》たちが、売春婦のように金さえ払えば誰にでも政治家の《能力(アレテー)》を教えてしまう、、それも真偽も怪しい伝聞の知識だ、と批判しています。しかし、プロータゴラースからすれば、まさに批判のとおり、「尺度」は、誰でも何でもいいものです。ただそれが市場的に多くの人々に統一的に利用されることによって、それが真理ともなり、また多くの人々に利便を供与することになる、と考えていました。

 プロータゴラースは、この《演説術》の他、幅広い《教養》も、政治家志望の富裕市民の息子たちに教授したようです。その内容の詳細は不明ですが、古来よく知られている地理や歴史などの知識や各地の箴言のようなものであったと思われます。ただし、彼は、自然哲学は、無用のものと嫌っていました。いずれにせよ、彼の教授料は、たいへんに高額で有名でした。しかし、それでも、彼の下には、アテヘェネー市はもちろん、ヘッラス各地から優秀な青年たちが集まり、熱心に彼の言う《演説術》を学びました。

 ある青年が、[裁判で勝てるようにしてくれたら教授料を払う]という条件を付けましたが、プロータゴラースは、ニャっと笑って、なにも教えず、すぐに彼に教授料を請求する裁判を起こし、高額の教授料をせしめました。というのも、この青年が勝てれば、条件どおりプロータゴラースに教授料を払わなければなりませんし、この青年が負ければ、判決どおりプロータゴラースに教授料を払わなければいけないからです。

 舞唱劇の最盛期:ソプホクレェスとエウリーピデース

 富裕市民に人気のあったソプホクレェスは、親しい知人であった戦争主導官ペリクレェスらとともに、やがて政治家としても大いに活躍するようになります。そしてこのころ、『アンティゴネー』、『アイアース』、『トホラーキア女たち』など、作家としての活動も、盛んに行います。その〈均整美〉的な作品は、高尚な芸術として、地位ある富裕市民に評価されました。

 ソプホクレェスの、四〇年代より前の彼の初期の作品は、現在、まったく伝わっていません。「三大舞唱劇作家」という言われ方をしますが、この三人しか作品が知られていないだけで、当時にはもっとほかにもすぐれた劇作家がいたのかもしれません。歴史はこのように後世に作られるものです。

 一方、エウリーピデース(c485~406 BC)は、地主の家庭に生まれ、繁栄するアテヘェネー市で、自然学者アナクサゴラースや智恵教師プロータゴラース・プロディコスらに学びます。そして、ソプホクレェスが〈均整美〉的な作品で富裕市民の評価を獲得している四〇年代、十五人もの舞唱団、人間的で激情的な人物、派手な展開と結末で、祝祭の見せ物としての舞唱劇の精神を回復し、一般住民に絶大な人気を獲得していきます。

 しかし、「ディオニューソス大祭」の舞唱劇コンテストは、審査員はいつもお上品ぶった富裕市民ばかりでした。このため、あまりに劇的なエウリーピデースの作品は、優勝することはあまりありませんでした。けれども、彼は、一般住民の支持を背景に、数多くの作品を制作し、数多くの作品が上演されました。

 《クラシック文化》があくまで貴族的富裕市民の文化であるという意味では、貴族的富裕市民に嫌われ、大衆的一般住民に好まれたエウリーピデースの作品は、厳密には、もはや《クラシック文化》ではありません。

 建築と彫刻の〈均整美〉

 《クラシック文化》の核心である〈均整美〉は、建築と彫刻においてもっとも象徴的に表現されました。とくに、荒廃から再建され、繁栄へと飛躍するアテヘェネー市では、壮麗な歴史的建造物が次々と構築されました。

 なかでも、総監督プヘイディアース(c490~c430 BC)・設計イクティーノス(5C BC)・施工カッリクラテースと伝えられる戦争女神アテヘーナァ神殿「パルテヘノーン」(447~432 BC)は、《クラシック文化》の〈均整美〉を表現する代表的総合建造物であり、内外の浮彫や肖像も最高水準のものです。それは、総大理石造りで、幅三〇メートル、奥行七〇メートル、高さ一〇メートルもの巨大なものであり、その様式は、基本は豪壮なドーリア式ですが、内陣外壁にはイオーニア式の上部飾壁も取り入れられ、破風(屋根下の三角壁)や上部飾壁には、神話伝説にちなんだ劇的場面の華麗な浮彫が施されました。

 ここでは、もはや《アルカハイック文化》の頃のように、ただ構造を露出させるだけでなく、その構造の美しさを〈均整美〉として調和的に見せるために、さまざまな感性的工夫が取り入れられています。すなわち、柱には「エンタシス」という膨らみを付けて、力強い印象を与えるとともに、すべてを建物の中心へ内傾させて、その高さを強調し、また、とくに四隅の柱は、背後からの光の回り込みで細って見えないように、他より太く作って補正してあります。さらに、基段も、中央を隆起させ、その広がりを感じさせるようになっています。また、その中心に安置されたプヘイディアースによる巨大な「アテヘーナァ像」は、黄金と象牙によって豪華に作られていました。

 感性的補正は、多くの洗練された芸術で見られます。たとえば、日本の奈良東大寺の仁王像は、その巨大さを感じさせるように、足部が頭部より大きく、また、彫りも粗く作ってあります。
 人間の目は、物理的なカメラではなく、感性的なものです。たとえば、映画のスクリーンなどは、左右端が横にやや間延びしているくらいのほうが、逆に中央部に迫力を感じるものです。感性に訴える芸術においては、このような感性調和的な補正こそが、重要な技巧となってきます。というより、人間の感性に適合するように、ありきたりの自然の素材を用いつつも、微妙に形を変え、色を変えるところにこそ、芸術としての芸術がはじめて成り立つのです。なぜなら、人間は、なにものも、それ自体を無から創造することなどできないのですから。
 その後、「パルテヘノーン」は、ヘッラス彫刻好きのローマ人に多くの装飾を掠奪され、五世紀には、彫刻を嫌う《ヘッラス(ギリシア)正教会》に接収され、残りの彫刻も破壊されてしまいます。ただ本尊アテヘーナァ像だけは、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに移置されていましたが、これも、一二〇三年、西欧からの十字軍によって破壊されてしまいます。「パルテヘノーン」は、さらに、一四五八年に、オスマン=トルコによって《イスラム教会》に改修されます。それでも、ヘッラスでは珍しく、建物そのものとしては、十七世紀までほとんど無傷で存続しました。
 しかし、それも、一六八七年、トルコと戦争するヴェネチア艦隊が砲撃、当時、火薬庫とされていたため、パルテヘノーンは爆発瓦壊してしまいます。そのうえ、古典主義全盛の十九世紀初頭、トルコ駐在英国大使の大エルギン卿が、トルコ皇帝の勅許を得て、残る破損彫刻まで持ち帰り、大英博物館に安値で売り払ってしまいます。というのも、ローマ時代の下手な模刻から学んだ当時の古典主義の人々からすれば、本物の方が偽物に見えてしまったのです。そして、二十世紀、第一次大戦後になってようやく、瓦壊していた列柱を組み直し、どうにか現在の姿にまで、「パルテヘノーン」は復元されたのでした。しかし、それでも、結局、そこには、廃墟としてのノスタルジアがあるだけで、およそ往事の壮麗な輝きを見ることはできません。

 富裕市民派の中心人物である名門プヒライオス家のキモーンの義弟の将軍トフーキューディデース(歴史家とは同名別人)らは、一般市民派の戦争主導官ペリクレェスの神殿建設を浪費と弾劾、ところが、ペリクレェス(約五三歳)は、民会に立ち、「ならば、自分一人の私費で建てよう、その代わり、自分一人の名前で納めよう」と演説を行ったため、四三年、アテヘェネー市民は、かえって将軍トフーキューディデースらを陶片投票にかけて追放を決してしまいます。こうして、戦争主導官ペリクレェスは、この神殿建設によって、より政権を強化し、また、アテヘェネー市の繁栄をさらに飛躍させることに成功しました。

 この他、《クラシック文化》としての建築には、同じアテヘェネー市のアクロポリス上北寄の「エレクフテヘイオン(エレクフテヘウス神殿)」や、西南下の「オーイデイオン(音楽堂)」などがあります。また、アテヘェネー市郊外西のエレウシースには、秘儀のために、「パルテヘノーン」と同じくイクティーノスらによって五〇メートル四方もの巨大な「テレステーリオン」が建てられました。また、ヘッラス半島最東南端のスーニオン岬には、ドーリア式の「ポセイドーン神殿」が建てられました。

 「エレクフテヘイオン」は、戦争女神アテヘーナァ、大海王神ポセイドーン、初代国王ケクロプス、第二代国王エレクフテヘウスなどの祭祀所が一体となっているもので、構造も複雑です。その庭には、アテヘーナァが芽吹かせたというオリーブの木がいまでも植わっています。一方、「オーイデイオン」は、現在のものは、ローマ時代の前一六一年に再建されたものです。
 十九世紀初頭、ヨーロッパのナポレオン戦争に呼応して、「ヘッラス独立戦争」(1821~29)が勃発し、各地から多くの義勇兵が参戦しました。ヘッラス旅行を題材とする『チャイルド=ハロルドの遍歴』で有名になったイギリスのロマン主義貴族詩人バイロン(1788~1824)もまたその一人であり、その万感の思いを込めた彼のサインが、ヘッラス半島最東南端スーニオン岬の「ポセイドーン神殿」の柱に刻まれて残っています。しかし、彼は、熱病で客死してしまいました。

 また、彫刻では、プヘイディアースが、「パルテヘノーン」の「アテヘーナァ像」以外にも、オリュムピアー市の超巨大な「ゼウス像」などを作りました。また、アルゴス市民ポリュクレイトス(c470~c423 BC)は、「槍をかつぐ人」など、オリュムピア競技大会優勝者などの青銅像において人体の〈均整美〉を七頭身として確立し、その後の彫刻の模範となっていきます。これらの《クラシック文化》としての彫刻では、理念的な《アルカハイック文化》の彫刻とは違って、一定の劇的場面が設定され、表情はまだ図案的ながら、全身で内面の意思や感情を表現するものとなっています。

 《クラシック文化》の彫刻は、壮大な舞唱劇の成立との関係を無視できません。というのも、神殿破風などには、主人公を中心とする集団の劇的場面が選ばれ、その個別の人物の彫刻としても、その全体の集団の装飾としても、そこにみごとな〈均整美〉を生み出しています。《クラシック文化》の彫刻において、身体表現がすでに高度に写実的であるのに対して、表情だけがいまだひどく図案的であるのは、舞唱劇があくまで仮面劇であったことと対応しているのでしょう。

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