第二章エーゲ海戦争とアテヘェネー民帝国(c525~c440 BC) 第四節 クラシック文化の輝き (c5C BC)
危険な平和の偉大な繁栄 (c450~c440 BC)
五一年、アテヘェネー民帝国は、スパルター士国と五年間の平和条約を締結します。こうしてヘッラス半島およびエーゲ海の支配基盤を固めた後、戦争主導官ペリクレェス(約四六歳)は、五〇年、ふたたび名門貴族キモーン(約六二歳)を将軍としてパールサ遠征に出撃させます。
将軍キモーンは、東地中海のキュプロス島でパールサ海軍に大勝利したものの、しかし、翌四九年、戦病死してしまいます。このため、戦争主導官ペリクレェス(約四六歳)は、やむなく方針を転換、青年政治家カッリアース(c450 BC)を、ザクロス山脈西南側中部山麓のパールサ大帝国の首都スーサ市に派遣して、同四九年、平和条約を締結します。この「カッリアースの平和」において、アテヘェネー民帝国は、小アジア半島におけるパールサ大帝国の領土権を承認することを条件に、小アジア半島西岸ヘッラス人都市の自治権および地中海の制海権を回復します。
戦争主導官ペリクレェスは、城壁に続き、ヘッラス世界の統一支配を確立したアテヘェネー市の繁栄の象徴として、市内高台のアクロポリスの丘に、「第二次エーゲ海戦争」で破壊された戦争女神アテヘーナァのための巨大神殿「パルテヘノーン」の再建を計画します。彼はまた、カッリアースの母と離婚して芸妓才女アスパーシアーと同棲し、自然哲学者アナクサゴラース・建築彫刻家プヘイディアース・記録作家ヘーロドトス・山羊歌舞唱劇作家ソプホクレェスなどの知識人と交際し、この「ペリクレェス=サークル」を中心に、アテヘェネー市に貴族的富裕市民の《クラシック文化》を開花させていきます。
しかし、これで真実に平和が確立したわけではなく、ヘッラス内部では、紛争が続発していました。四八年、スパルター士国は、「第二次神聖戦争」(448 BC)として、デルプホス神託所に出兵して、プホーキス人からこれを奪取してしまいます。このため、アテヘェネー民帝国の戦争主導官ペリクレェスは、スパルター軍の撤退後、ただちにデルプホス神託所へ出兵し、その管理をふたたびプホーキス人に復帰させました。
翌四七年、こんどは、ボイオーティアで、反アテヘェネー・反市民政の保守的な貴士政主義者たちが蜂起し、オルコホメノス市・カイローネイアー市などに籠城。アテヘェネー民帝国は、ふたたび出兵して攻略、ところが、その帰路を襲撃され、敗北してしまいます。このため、アテヘェネー民帝国は、ボイオーティア人に独立を承認し、その貴士政復古を傍観せざるをえませんでした。
すると、翌四六年、さらにエウボイア島がアテヘェネー民帝国から離反、戦争主導官ペリクレェスがその鎮圧に遠征すると、こんどは、その留守中に、コリントホス市士国・シキュオーン市士国・エピダウロス市士国の策謀によって、メガラ市士国がアテヘェネー民帝国から離反、さらに、スパルター士国が、平和条約を破ってエレウシース市まで侵入し、耕地を蹂躙します。ペリクレェスは、ただちに帰還してこれを牽制し、ふたたびエウボイア島へ遠征して、全島を屈服させました。
四五年、このような細々した消耗戦に困窮したアテヘェネー民帝国の戦争主導官ペリクレェスは、ペーゲー港・トロイゼン市・アクハイア地方を返還することで、スパルター士国およびペロプス半島同盟諸国と「三十年の平和」を締結します。こうして、両陣営間の紛争は、ようやくしばらく落ち着くことになりました。
そして、戦後の驚異的なアテヘェネー市の繁栄に、多くの知識人たちがこのアテヘェネー市を訪問、移住してきます。おりしも、このころ、イオーニア海のイタリア半島南部諸市国の政治の中枢にあったピュータハゴラース政治教団が会合中に襲撃されるという事件が勃発します。このため、同教団関係の多くの知識人たちも、以来、多くヘッラス本土へ亡命してきました。
これに対し、アテヘェネー市の戦争主導官ペリクレェス(約四九歳)は、先にペイライエウス軍港などを設計した都市計画家ヒッポダーモスの協力を得て、四四年、イタリア半島南部のターラント湾南に、実験理想都市トフーリオス市民国の建設を始めます。というのも、ここは、かつてシュバリス市士国があった場所であり、それは、前五一〇年に、イタリア半島カラブリア半島東部のピュータハゴラース政治教団クロトーン市教国に滅亡させられてしまっていたからです。そして、ここはまた、アテヘェネー民帝国のイオーニア海進出の重要拠点となるべき場所でもありました。
ヒッポダーモスによる方形区画都市開発は、その後の新都の模範となるたいへんに立派なものであり、ペリクレェスは、智恵教師プロータゴラース(約五六歳)・記録作家ヘーロドトス(五〇歳)ほか、ヘッラス各都市から教養あるもっとも優秀な選良ヘッラス人たちを集め、ここに植民を行いました。ところが、ヘッラスでもっとも優秀なトフーリオス選良市民たちは、やがて出身地方ごとの派閥を形成して、ついには対立し分裂してしまったのです。このため、この理想都市建設実験は、しだいに破綻してしまいました。
ピュータハゴラース政治教団は、もとより、当時の商業の発展に伴う個人主義・欲望肯定主義の反動のように、教団として禁欲清教的な全体主義宗教国家の確立を推進する政治集団でもありました。このため、彼らは、半面で期待され、また、半面で嫌悪されていたのです。しかし、この襲撃事件で教団としては崩壊し、各地で個別にその教説を伝承することになります。
戦争主導官ペリクレェスは、かつて音楽教師ダーモーンに師事していましたが、このダーモーンの正体は、実は政治学智恵教師であり、後に陶片追放されています。また、ダーモーンが音楽教師を装っていたことから、ピュータハゴラース政治教団との関係も伺われます。ペリクレェスもまた、ピュータハゴラース政治教団の秘密会員であったとすれば、イタリア半島南部に実験理想都市を建設しようとしたことも、その一貫として理解できるでしょう。
いずれにしても、ピュータハゴラース政治教団は、近世のフリーメィソン政治結社と似て、別に陰謀と呼ぶほどの策略があるわけでもないのに、ところどころで歴史の中にその存在を暗示しています。
多元主義自然哲学① アナクサゴラース (c500~c428 BC)
前六世紀の《アルカハイック文化》において、小アジア半島西岸の《ミーレートス学派》は、[水や、無限定体、空気などの物質こそが、世界の〈原点(アルケヘー)〉である]と考え、神話的世界観を越える「自然哲学」の端緒を拓きました。そして、その後、前五〇〇年前後のパールサ脅威~戦争期においては、小アジア半島西岸からイタリア半島南部に移住した人々の間で、《一元主義存在哲学》が現れ、[物質ではなく、万物を含む世界そのものが、〈原点(アルケヘー)〉として不変不動で存在し、それこそが、世界の内部の万物の生滅変化を支配している]と考えました。これを受けて、この《クラシック文化》の時代においては、さらに、[どのように世界が、万物の生滅変化を支配しているのか]が新たな問題となってきました。
アナクサゴラース(c500~c428 BC)もまた、小アジア半島中部イオーニア地方北部のクラゾメネー市士国の名門に生まれたものの、パールサ大帝国の脅威と戦争に、アテヘェネー民帝国へ移りました。そして、彼は、ここで、《ミーレートス学派》や《一元主義存在哲学》の影響を受け、独自の自然哲学的発想を編み、この時代になって次々発行されるようになった書物によって、多くの教養ある人々にその考えを広めました。また、彼は、アテヘェネー民帝国の中心である戦争主導官ペリクレェスとも親しく交わっており、「ペリクレェス=サークル」の一員として、アテヘェネー市の《クラシック文化》を花開かせていきます。
アナクサゴラースは、[万物が万物を生む]と考えました。世界が絶対的に完結したものである以上、万物は、生滅するにしても、世界の外部からやってきたり、世界の外部へと行ってしまったりすることはできず、ただ、あくまで同じ世界の内部で、ある物体から他の物体に変化していっているにすぎないからです。そこで、彼は、ある物体が他の物体に変化する原因として、[物体は、もともと他の物体の〈種子(スペルマタ)〉を含有しており、それが発芽して他の物体に変化する]と想定しました。しかし、同じ物体は、多様に変化することがあります。そこで、彼はさらに、[万物は、もとより万物の〈種子〉だけで構成され、比率の高い種類の〈種子〉の性質を提示しているにすぎない]と考えました。
アナクサゴラースによれば、[原初の世界は、さまざまな〈種子〉が完全等質的混在状態になっていたが、ここに世界そのものとしての〈精神(ヌース)〉が働くために、〈種子〉は旋回して飛散し、熱乾明薄な〈種子〉は、遠方へ飛んで天上界の星々となり、冷湿暗濃な〈種子〉は、中心に留って地上界の物々になった]とされます。そして、[分離不全のために、一部の地上界の物体は、天上界的な熱乾明薄な〈種子〉を含有し、生物となった]とされ、[そのような天地分離不全による生物は、世界そのものとしての〈精神〉を分有し、多く分有するものほど、賢明な生物となった]と言います。
多元主義自然哲学② エムペドクレェス (c493~c433 BC)
エムペドクレェス(c493~c433 BC)は、イタリア半島南部のシチリア島の西南岸中央の繁栄する八〇万人大都会アクラガス市士国の富裕市民に生れました。しかし、このころ、アクラガス市士国は、「エーゲ海戦争」以来、対岸アフリカのプホエニーカ人カルト=アダシュト市国と対峙しており、「寡頭政」に転換して防衛を強化しようとする人々が増大し、ついには「千人議会」を構成してしまいました。これに対して、オルプヘウス教ピュータハゴラース政治教団にすっかり染っていたエムペドクレェスは、奢侈に腐敗したこの大都会を浄化し、むしろ禁欲清教的な「市民政」を樹立しようと努力します。
しかし、エムペドクレェスが言う「市民政」は、およそアテヘェネー民国のような自由なものではなく、宗教独裁全体国家クロトーン市教国のような窮屈なものでしょう。
ちょうどそのころ、西のセリーヌス市で疫病(ペスト?)が発生してしまいます。エムペドクレェスは、[町の中心の川の悪臭が原因である]と推理し、私費を投じて別の川から運河を開削し、悪臭の川を浄化しました。すると、たちまち疫病はおさまり、以来、彼は、セリーヌス市民から神と崇められることになります。
エムペドクレェスは、やがてみずからも神を僭称するようになり、緑葉の冠・赤紅の衣・黄金の帯・青銅の靴と、なんとも目覚ましい格好でアクラガス市士国に帰郷して、オルプヘウス教ピュータハゴラース政治教団の中心教義である〈霊魂浄化〉を人々に布教しようとしました。しかし、奢侈に腐敗した大都会の故郷アクラガス市にあって、彼の尊大な布教は、およそ受け入れられず、かえって追い払われることとなってしまいます。
それでも、エムペドクレェスは、弟子を増やし、教義を広めていきます。しかし、時代の腐敗を露骨に喝破する彼に対する人々の非難は高まる一方であり、最期には、自分が神であることを証明すべく、みずからシチリア島東北のエトナ火山の火口に身を投げてしまいました。すると、彼の青銅のサンダルは、火口から吹き上げられ、はるかアクラガス市まで飛んできて、心配する弟子たちの目前にぽとりと落ちた、と言います。
エムペドクレェスは、〈根(リゾーマタ)〉を万物の根本構成素と考えました。[〈根〉には、地・水・火・気の四つの種類があり、それぞれ、地は重量性や硬質性、水は暗闇性や清浄性、火は温暖性や眩輝性、風は流動性や透明性、という性質を持っている]とされます。そして、[諸物は、四種の〈根〉の一定の比率での混在で発生し、その分離で崩壊する]とされ、[混在には間隙が必要である]とされました。
アナクサゴラースと同様に、エムペドクレェスが根のような植物のアナロジーで世界を理解しようとしていることは、興味深いところです。エムペドクレェスの四種の〈根〉は、その後のアリストテレースを経て、中世の練金術や医療術にも大きな影響を与えますが、しかし、彼の言う四種の〈根〉は、たんなる死んだ物質ではなく、《ミーレートス学派》の《物活論》のように、まさに〈根〉としての生命的原動力性を残しています。たとえば、重いものは地の根からその重さを、熱いものは火の根からその熱さを吸収していると考えられました。
エムペドクレェスによると、[世界は、「神」とも言える球であり、〈愛(プヒリア)〉が入り満ちると、四種の〈根〉は混在し、〈憎(ネイコス)〉が入り満ちると、四種の〈根〉は分離し、〈愛〉と〈憎〉とが世界の内外で入出を反復する]とされます。そして、[現在は、〈憎〉による分離の過程にある]とされ、[まず気が分離して天球ができ、次に火が分離してその上半球を占め、気は、星々となる火のかけらとともに下半球に追われるものの、上半球の過剰な火の重さで、天球は、回転運動をすることになった]とされ、[この回転運動によって、汗のように、水が、天球の中心の地の表面に押し出された]とされました。
さらに、[地上では、残るわずかな〈霊魂〉の〈愛〉によって、ばらばらの器官がでたらめにくっつき合ったが、結局、現在の植物や動物のような諸器官の組合わせのものだけが、生き残った]とされます。そして、[いまや〈分離〉の〈憎〉も極まり果てたので、ふたたび〈霊魂〉の〈愛〉によって、世界を浄め結んでいかなければならない]とされました。
富裕市民のクラシック文化
「エーゲ海戦争」後のアテヘェネー市再建において、少数の輸入奴隷とともに商品作物を生産する富裕農民もまた、しばしば安全な市城内に移住してしまい、また、この経済発展で数十人もの輸入奴隷を使用する製作所(エルガステーリオン)を経営する新興商工業者も登場してきます。これらの富裕市民は、もはや仕事を奴隷に任せっきりにしてしまったのであり、暇をもてあましきってしまっていました。それゆえ、富裕市民の男たちは、買物、雑談、運動、読書、男色、酒宴、そして政治や裁判に明け暮れる毎日だったのです。この暇をもてあました古代ヘッラスの貴族的富裕市民の文化こそ、《クラシック文化》にほかなりません。
このころ、すでに文字や算術を教える初等学校(ディダスカレイィオン)が、かなり数多くアテヘェネー市内に成立しており、〈自由市民〉である以上、少なくともこのような初等教育を受け、《教養(パイデイアー)》として読み書きや計算ができることが、必須の条件でした。そして、このような一般の〈自由市民〉の《教養》を背景に、すでに哲学書や詩歌書、舞唱劇戯曲などが、書写屋によって町中で数多く販売され、市民たちに大いに愛読されていました。
もっとも、これらの初等学校や書写屋は、あくまで富裕市民が経営する私的商売の一つです。それゆえ、その文法教師や算術教師、書写職人は、じつは、他の製作所の職人と同様に、あくまでその経営者の奴隷であって、逃亡しないように、いつも首輪や足枷をさせられていました。
また、このころ、「エーゲ海戦争」後の諸都市の混乱と戦後の驚異的なアテヘェネー市の繁栄、また、前五世紀半ばのピュータハゴラース政治教団会合襲撃事件によって、多くの知識人たちがこのアテヘェネー市を訪問、移住してきました。たとえば、イタリア半島西岸南部のエレアー市士国生まれの《一元主義存在哲学》のパルメニデースも、最晩年、アテヘェネー市を訪れたようです。また、小アジア半島中部イオーニア地方北部のクラゾメネー市士国生まれの《多元主義自然哲学》のアナクサゴラースも、アテヘェネー市に移り住んで以来、戦争主導官ペリクレェスとも親しく交わり、彼の記した自然哲学の書物は広く人々に読まれていました。また、後の舞唱劇作家エウリーピデース(c485~406 BC)も、このアナクサゴラースに就いて、多くのことを学んでいました。
実父を幼くして亡くした少年ソークラテース(469~399 BC)は、子供のころから「神霊(ダイモーン)の声」が聞こえました。それは、危険や不正に対して彼に禁止を告げ、彼を守ってくれる彼固有の守護神霊です。また、彼の母も、再婚して彼の異父弟を出産したものの、後に月狩女神アルテミスに仕える神霊的聖職の一種である産婆となっています。そんな霊感少年ソークラテースも、当時、存在哲学者パルメニデースに会って、知的世界に関心を持ち、自然哲学者アナクサゴラースに就いて、自然哲学の研究を深めます。
大記録作家ヘーロドトス (494~30 BC)
大記録作家ヘーロドトス(494~30 BC)もまた、この時代、アテヘェネー市民権を獲得し、戦争主導官ペリクレェスや舞唱劇作家ソプホクレェスと交際したクラシック文化の代表的知識人の一人です。彼は、もともとは小アジア半島西岸南部カリア地方のハリカルナッソス市の名門に生まれましたが、「エーゲ海戦争」のころから、黒海沿岸、プホエニーカ・エジプト・リビアの東地中海沿岸、さらには、遠くバビロニアまで旅行して見聞を広め、各地の特異な風習や歴史を語って、狭いアテヘェネー市の中のことしか知らない富裕市民たちを驚かせました。
彼がもたらした膨大な異国の見聞は、アテヘェネー市の富裕市民に、[〈倫理(ノモス)〉が相対的なものにすぎない]ことを思い知らせ、書物や智恵教師などから知識を吸収する必要性を感じさせました。また、前四四四年の実験理想都市トフーリオス市民国の植民建設に際しては、ヘーロドトス(五〇歳)も、智恵教師プロータゴラース(約五五歳)らとともに移住し、その建国に大いに尽力しました。
そしてまた、ヘーロドトスは、「エーゲ海戦争」をアジアとヘッラスの戦争という総合的視点から物語風にまとめて、大著『記録(歴史、ヒストリアー)』を記し、「歴史の父」と呼ばれることになります。これは、エーゲ海戦争の展開の中に、各地の見聞や古代の伝承を膨大な挿話として織り込んで、当時のヘッラスで知りえたかぎりの歴史と世界の全貌をあますところなく示そうという壮大な試みでした。
しかし、彼の世界観は、現代から見ればかなり奇妙なものです。すなわち、彼は、大地の北半分が「ヨーロッパ(ヘッラス地方+スキュトヒア地方)」、東南四半分が「アジア(小アジア半島+インド)」、西南四半分が「リビア(アフリカ)」と考えていたのであり、南北を「北海(地中海)」と「黒海」が分け、南半分の東西を「紅海」が分けていると考えていました。また、彼によれば、「ヨーロッパ」の東半分は、「スキュトヒア地方」であり、その北は雪の「域外国(ヒュペルボレオス)」に至り、その東は荒野、そして「人喰国(アンドロパゴス)」があり、さらにその先は無人の地である、とされ、また、西は、「ヘーラクレェスの柱(ジブラルタル海峡)」を越えて、「アトランティス海(大西洋)」に出る、とされています。さらに、彼によれば、アジアやリビアの南は、「紅海(インド洋?)」とされ、アジアの東は、「カスピ海」と「インド地方」があって、後は無人の地、リビアの西は、「紅海」と「北海」とが「アトランティス海(大西洋)」で繋がっているとされています。ここから逆に言うと、ヘッラス(ギリシア)は、「ヨーロッパ」の西半分、世界の四半分を占めるほどの大きさということになります。
エレアー市のゼーノーン (c490~30 BC)
イタリア半島西岸南部の小植民市エレアー市将国の「エレアー学派」のゼーノーン(c490~30 BC)は、オルプヘウス教ピュータハゴラース政治教団の色合いの濃い《一元主義存在哲学》のパルメニデースの養子であり、弟子でした。
彼は、ヘーロドトスとは対象的に、一生涯、この辺境の小植民市から離れることはありませんでしたが、広くヘッラス世界の思想に、そして、その後の人類の思想全体に影響を与えることになりました。というのも、彼は、養父であり師匠であるパルメニデースから、[我々の日常の発想が、あることも、ないことも、混然一体のまま思い悩まなければならない「想像の道」にすぎない]という哲学を受け継ぎ、このことを人々に思い知らせるべく、明白に誤謬である結論を導出することによって、[前提そのものが、すでにもともと誤謬であった]ことを証明する〈帰謬論(パラドクサ)〉を発明したからです。
なお、彼もまた、その後、エムペドクレェスのように、母国の「市民政」の樹立のために政治活動を行い、クーデタを考えます。しかし、それは事前に発覚し、彼はエレアー市の将主に逮捕されてしまいました。彼は、拷問に対して一計を案じ、クーデタの秘密同志としてむしろ将主の友人の名前を次々と挙げ、「さらにもっと秘密がある」と言って将主の耳元に近づき、その鼻を噛みちぎって刺されて死にました。彼の死後、彼の計略どおり、将主は、自分の友人たちを疑い、孤立して果てたと言います。
智恵教師プロータゴラースの登場 (c500~430 BC)
政治や裁判は、なまじ平等な「市民政」社会にあって、運動と並んで名誉欲を満たす富裕市民の最高の娯楽でした。そのうえ、役職にはデェロス島同盟基金からけっこうな報酬も交付されます。しかし、富裕市民ならだれでも、くじ引き再選不可で評議会や陪審員に、公平に選出されたので、再選可能な「将軍」、さらには、これを統轄するペリクレェスのような「戦争主導官」、または、弁護人や外交官になってこそ、権力への野望も満たされるというものです。
けれども、政治は民会が、司法は陪審が大きな意味を持ち、そこでは政治的〈能力(アレテー)〉、そして、それを人々に訴える演説が重視されました。つまり、地位を獲得するには、政治的〈能力〉、そして、《演説術(レートリケー)》を修得しなければならなかったのです。それゆえ、富裕市民たちは、息子を出世させるべく、息子にこの政治的〈能力(アレテー)〉を修得させようとしました。そして、これを教授する者として登場してきたのが、《智恵教師(ソプヒステース)》たちです。
その最初で最大の人物は、プロータゴラース(c500~430 BC)でした。彼は、エーゲ海北岸トホラーキア地方の新興アブデーラ市民国に誕生し、三十歳のころから諸都市を遍歴して、多くの人々の尊敬を獲得、そして、アテヘェネー市にも来訪して多くの富裕市民の息子に教授し、また、四四年(約五五歳)には、大記録作家ヘーロドトス(五〇歳)らとともに、トフーリオス市民国の植民にみずからも尽力しました。
プロータゴラースは、《一元主義存在哲学》、中でもパルメニデースの影響を強く受けています。しかし、パルメニデースが、あることもないことも混然一体のまま思い悩まなければならない人間の思考の現実である「想像の道」から、すべての物事が必然性によって決定されている世界の実在の真実である「真理の道」を理念的に分けたことに対し、プロータゴラースは、「人間が、万物の尺度(メトロン)である」という言葉で、「真理の道」の存在を否定し、[むしろ、「想像の道」こそ、また真実である]として、[この世界の実在そのものの不確実性ゆえに、まさしく自分自身が、尺度としての〈能力(アレテー)〉を持たなければならない]と考えました。
パルメニデースは、従来からの自然哲学の延長で、有限の認識論的思考世界とは別に絶対の決定論的物理世界を想定しましたが、これに対して、プロータゴラースは、政治家の決断ひとつで戦争の勝敗が変わるような現実を前に、後者を厳しく排除したのでしょう。しかし、後にプラトーンは、「人間は万物の尺度である」というプロータゴラースの言葉を、ピュータハゴラース政治教団やパルメニデースなどのように、[人によって感じ方が違う]という程度の内容に狭く限り、対象を持つ感覚である〈感性〉の直観の問題にすり替え、決定論的物理世界を蘇らせてしまいます。
実際、当時のアテヘェネー民帝国は、政治・司法・経済において「尺度(制度、貨幣、度量衡)」を統一しました。このことは、都市間の交流を円滑にし、計り知れない繁栄をもたらします。軍事でも統一があればこそ、個々の総和以上の戦力が発揮されるものです。この意味で、プロータゴラースは、[万民万物の尺度となって人々を統一することこそ、政治的〈能力(アレテー)〉である]と考えたのです。それゆえ、彼にとって《演説術》は、たんに自分の〈能力(アレテー)〉を人々に訴えるためだけのものではなく、まさに一定の尺度に人々を統一させる政治的〈能力(アレテー)〉そのものでした。
プロータゴラースは、もとより[万事に、相反する二つの言論が成り立つ]と考えており、弟子たちに、その両論をどちらも同じく立証する訓練を行いました。しかし、それは、しばしば弱論強弁であり、《智恵教師》を詭弁家と思わせることにもなってしまいました。
プロータゴラースは、この《演説術》の他、幅広い《教養》も、政治家志望の富裕市民の息子たちに教授したようです。その内容の詳細は不明ですが、古来よく知られている地理や歴史などの知識や各地の箴言のようなものであったと思われます。ただし、彼は、自然哲学は、無用のものと嫌っていました。いずれにせよ、彼の教授料は、たいへんに高額で有名でした。しかし、それでも、彼の下には、アテヘェネー市はもちろん、ヘッラス各地から優秀な青年たちが集まり、熱心に彼の言う《演説術》を学びました。
ある青年が、[裁判で勝てるようにしてくれたら教授料を払う]という条件を付けましたが、プロータゴラースは、ニャっと笑って、なにも教えず、すぐに彼に教授料を請求する裁判を起こし、高額の教授料をせしめました。というのも、この青年が勝てれば、条件どおりプロータゴラースに教授料を払わなければなりませんし、この青年が負ければ、判決どおりプロータゴラースに教授料を払わなければいけないからです。
舞唱劇の最盛期:ソプホクレェスとエウリーピデース
富裕市民に人気のあったソプホクレェスは、親しい知人であった戦争主導官ペリクレェスらとともに、やがて政治家としても大いに活躍するようになります。そしてこのころ、『アンティゴネー』、『アイアース』、『トホラーキア女たち』など、作家としての活動も、盛んに行います。その〈均整美〉的な作品は、高尚な芸術として、地位ある富裕市民に評価されました。
一方、エウリーピデース(c485~406 BC)は、地主の家庭に生まれ、繁栄するアテヘェネー市で、自然学者アナクサゴラースや智恵教師プロータゴラース・プロディコスらに学びます。そして、ソプホクレェスが〈均整美〉的な作品で富裕市民の評価を獲得している四〇年代、十五人もの舞唱団、人間的で激情的な人物、派手な展開と結末で、祝祭の見せ物としての舞唱劇の精神を回復し、一般住民に絶大な人気を獲得していきます。
しかし、「ディオニューソス大祭」の舞唱劇コンテストは、審査員はいつもお上品ぶった富裕市民ばかりでした。このため、あまりに劇的なエウリーピデースの作品は、優勝することはあまりありませんでした。けれども、彼は、一般住民の支持を背景に、数多くの作品を制作し、数多くの作品が上演されました。
建築と彫刻の〈均整美〉
《クラシック文化》の核心である〈均整美〉は、建築と彫刻においてもっとも象徴的に表現されました。とくに、荒廃から再建され、繁栄へと飛躍するアテヘェネー市では、壮麗な歴史的建造物が次々と構築されました。
なかでも、総監督プヘイディアース(c490~c430 BC)・設計イクティーノス(5C BC)・施工カッリクラテースと伝えられる戦争女神アテヘーナァ神殿「パルテヘノーン」(447~432 BC)は、《クラシック文化》の〈均整美〉を表現する代表的総合建造物であり、内外の浮彫や肖像も最高水準のものです。それは、総大理石造りで、幅三〇メートル、奥行七〇メートル、高さ一〇メートルもの巨大なものであり、その様式は、基本は豪壮なドーリア式ですが、内陣外壁にはイオーニア式の上部飾壁も取り入れられ、破風(屋根下の三角壁)や上部飾壁には、神話伝説にちなんだ劇的場面の華麗な浮彫が施されました。
ここでは、もはや《アルカハイック文化》の頃のように、ただ構造を露出させるだけでなく、その構造の美しさを〈均整美〉として調和的に見せるために、さまざまな感性的工夫が取り入れられています。すなわち、柱には「エンタシス」という膨らみを付けて、力強い印象を与えるとともに、すべてを建物の中心へ内傾させて、その高さを強調し、また、とくに四隅の柱は、背後からの光の回り込みで細って見えないように、他より太く作って補正してあります。さらに、基段も、中央を隆起させ、その広がりを感じさせるようになっています。また、その中心に安置されたプヘイディアースによる巨大な「アテヘーナァ像」は、黄金と象牙によって豪華に作られていました。
富裕市民派の中心人物である名門プヒライオス家のキモーンの義弟の将軍トフーキューディデース(歴史家とは同名別人)らは、一般市民派の戦争主導官ペリクレェスの神殿建設を浪費と弾劾、ところが、ペリクレェス(約五三歳)は、民会に立ち、「ならば、自分一人の私費で建てよう、その代わり、自分一人の名前で納めよう」と演説を行ったため、四三年、アテヘェネー市民は、かえって将軍トフーキューディデースらを陶片投票にかけて追放を決してしまいます。こうして、戦争主導官ペリクレェスは、この神殿建設によって、より政権を強化し、また、アテヘェネー市の繁栄をさらに飛躍させることに成功しました。
この他、《クラシック文化》としての建築には、同じアテヘェネー市のアクロポリス上北寄の「エレクフテヘイオン(エレクフテヘウス神殿)」や、西南下の「オーイデイオン(音楽堂)」などがあります。また、アテヘェネー市郊外西のエレウシースには、秘儀のために、「パルテヘノーン」と同じくイクティーノスらによって五〇メートル四方もの巨大な「テレステーリオン」が建てられました。また、ヘッラス半島最東南端のスーニオン岬には、ドーリア式の「ポセイドーン神殿」が建てられました。
また、彫刻では、プヘイディアースが、「パルテヘノーン」の「アテヘーナァ像」以外にも、オリュムピアー市の超巨大な「ゼウス像」などを作りました。また、アルゴス市民ポリュクレイトス(c470~c423 BC)は、「槍をかつぐ人」など、オリュムピア競技大会優勝者などの青銅像において人体の〈均整美〉を七頭身として確立し、その後の彫刻の模範となっていきます。これらの《クラシック文化》としての彫刻では、理念的な《アルカハイック文化》の彫刻とは違って、一定の劇的場面が設定され、表情はまだ図案的ながら、全身で内面の意思や感情を表現するものとなっています。