第三章 ヘッラス東西戦争(c440~c405 BC) 第三節 ニーキアースの平和 (422~415 BC)
ニーキアースの平和とソークラテースの覚醒 (422~21 BC)
二二年夏、勢いづく市民扇動家クレオーンは、エーゲ海北岸の要衝アムプヒポリス市を奪還すべく、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国軍を指揮して遠征します。ここに人格教育者ソークラテースも従軍しました。しかし、足軽歩兵の機動力を活かしたペロプス半島同盟軍の筆頭監督官将軍ブラーシダース(約五八歳)の奇襲に大敗、クレオーンも逃走途中で戦死してしまいます。ペロプス半島軍側の損害はわずか七名でしたが、しかし、その中のひとりは、ペロプス半島軍の中心、将軍ブラーシダースそのひとでした。
舞唱劇作家アリストプハネース(約二九歳)は、翌二一年春、狂宴歌『平和』(421 BC)を発表し、武器製作所を経営して戦争を商売にしている客席の富裕市民を露骨に直接攻撃し、農業回帰の平和を提唱します。また、保守政治家ニーキアースも、両同盟陣営の強硬戦争派である市民扇動家クレオーン・将軍ブラーシダースの戦死というこの機会を捉えて、和平交渉を始めます。一方、スパルター側も、同年で古代からの宿敵アルゴス士国との三〇年平和条約が効力を失ってしまうこともあって、和平を急ぎました。そして、同二一年、両同盟にようやく講和条約、「ニーキアースの平和」が実現します。
さて、この「ニーキアースの平和」によって、アテヘェネー市民も、ようやくテヘェベー士国が支配するヘッラス半島中東部ボイオーティア地方を抜けて、中部プホーキス地方のデルプホス神託所に行けるようになります。そして、ソークラテースの古くからの友人である市民扇動家カハイレプホーンは、デルプホス神託所に行って、「ソークラテース以上の知者はない」との神託を受けてきます。
しかし、人格教育者ソークラテースは、この神託をずっとまじめに悩み続けました。そして、彼は、デルプホス神託所入口の「自身を知れ(グノートヒー・サウトン)」の言葉で、[自分以上に、自分自身の無知を知る者はない]と気づき、そこから、[人間の無知を自覚し、また、自覚させることこそ、神々から与えられた自分の使命である]と考えるようになります。
ソークラテースの教育 (321~c10 BC)
ソークラテースは、当時流行していた対論を利用して、自分は愚直に無知の立場を守りつつ、知者を僭称する人々を質問攻めにし、彼らに無知を自覚させ、また、人々を権威への盲信から覚醒しようとしました。それゆえ、彼の質問は、愚弄するために謙虚を装って近づく慇懃無礼な「茶番(エイローネイアー)」として、権威に安住する人々に忌み嫌われるようになっていきます。
けれども、彼は、智恵教師ゴルギアースの《演説術(レートリケー)》のように自分の見解へ誘導するわけではなく、また、智恵教師エウテュデーモス兄弟の《論争術(エリスティケー)》のように相手の見解を反駁するわけでもなく、あくまで問題そのものに即して、相手の見解の曖昧な部分を追及して質問していくだけです。にもかかわらず、このような具体的で詳細な検討の結果、たいていの場合、なぜか相手のもともとの見解が一般論として成立しなくなり、空虚なイデオロギーにすぎなかったことが暴露されてしまいます。このような質問の仕方は、《対論術(ディアレクティケー)》と呼ばれましたが、しかし、ソークラテース自身は、《思索術》と違って、これを教えるべき技術のひとつとはしていませんでした。
もっともプラトーンの作品に登場するソークラテースは、《演説術》のように誘導的な分析推論や、《論争術》のように手品的な帰謬反駁を行っていることも少なくありません。
ソークラテース自身は、あくまで実践の人で、日夜、身を以って善い行いに努めました。ここにおいて、彼は、後のプラトーンなどと違って、絶対的な善などは信じておらず、あくまで個別の具体的な問題に即して善悪を考えました。その判断は、まったく徹底して是々非々の妥協なき正論であり、それゆえ、一般論として取られると、伝統や倫理を否定したり、両親や友人を軽視したりしているかのように誤解されるような判断も、しばしばありました。
たとえば、ソークラテースは、[一夜の売春婦ですら慎重に選ぶのに、アテヘェネー民国は、国家と国民の運命を委ねる公職をくじ引きで決めるとは、なんたることか]と、公然と批判していましたが、これは、人々には市民政そのものの否定と受け取られました。実際、彼は、見たこともない聞きかじりのスパルター士国を理想視していたようです。また、たとえば、彼は、[病気には、両親より医者の方が役に立つ]とか、[友人も、好意だけではどうにもならない]とかのような正論を主張しましたが、これも、両親や友人を軽視する発想として、人々の反発を買いました。
ソークラテースは、[〈能力(アレテー)〉は知識である]と考えており、[良く知ることで善く行える]と思っていました。それゆえ、彼は、日頃から、いろいろな問題について、さまざまな類似の事例を挙げて、考えを深めるように努めていました。彼の[良く知る]というのは、ひとつにはたしかに後にプラトーンが考えたように、[その物事の概念としての本質的な定義を知る]ということですが、しかし、プラトーンと違って、ソークラテースはむしろ[物事に、すべての場合に万能に通用するような本質的な定義などない]と考えていたからこそ、[日頃からさまざまな問題を立てて、あらかじめ考えを深めて備えておくことが必要だ]としたのでしょう。つまり、彼の[良く知る]というのは、まさに[さまざまな個別の具体的問題に即して、あらかじめよく考えておく]ということです。
ソークラテースにとって教育は、カネ儲けの手段ではなく、あくまで彼の善い行いの一貫でした。というのも、才能ある青年を育成することこそ、より善い社会を建設することであり、したがってまた、自分自身の幸福を確立することでもあったからです。それゆえ、彼にとって、教育は、相手をよく選んで行うべきものであり、金さえ払えば誰にでも教える一般の智恵教師たちを、彼は、売春婦のようだ、と批判しました。
ソークラテースは、弟子たちに対しても、《対論術》によって、内面の教条的な権威を破壊し、生活の実際的な発想を推奨する一方、従前からの《思索術》によって、自分自身の思想を自分自身で誕生させるように指導しました。しかし、彼のこのような権威を破壊して独創を重視する革新的個性教育は、弟子の青年たちに、思想だけでなく、自立した〈霊魂(プシューケー)〉、すなわち、〈自我〉そのものを産み出し、アリストプハネースが揶揄したように、地縁や血縁からなる周囲協調的な古く狭い共同体的社会とは独立勝手に、自分のことを自分のために自分の考えで決めようとする新しいエゴイストたちを誕生させることにもなってしまいました。
占術もできる教育者ソークラテースの交際は、アテヘェネー市の一般庶民から、ヘッラス世界の一流人物まで及んでいます。このとてつもない社交家の下に集った弟子は、大きく三つのグループがありました。第一は、「ダイモーンの声」などによるソークラテースの占術に惹かれ、彼に助言を求めて集った知人友人たちであり、この中には一流とされる人々も少なくありませんでした。第二は、そのような一流の人々に紹介推薦してもらおうと集った政治志望の野心家青年たちであり、実際、ソークラテースも、彼らを一流の人々に紹介推薦し、さまざまなことを勉強させたり経験させたりしました。そして、ようやく第三に、このように多くの人々の人望を集めているソークラテースの日頃の生き方暮し方そのものを敬い学びたいという道徳家青年たちが現れてきます。しかし、第三の道徳家青年たちからすると、第二の野心家青年たちはソークラテースを利用するだけに集ったかのように見え、強く反発を感じていました。
こうして、以前からの弟子である同年代の名門富裕市民クリトーン、カハイレプホーンとその弟のカハイレクラテェス、サンダル屋のシモーンなどの知人友人たち、また、クリティアース(c460~03 BC)やアルキヒビアデース(450~04 BC)などの野心家青年たちに加えて、さらに弟子たちが増えました。たとえば、トホラーキア人の母を持つアンティステヘネース(c455~c360 BC)は、ソークラテースの倫理観に強く打たれ、自分の弟子たちも連れて、演説術智恵教師ゴルギアースの下から移ってきました。また、パルメニデースに詳しいエウクレイデース(c450~c480 BC)も、ソークラテースの名声を聞いて、メガラ市からやってきました。しかし、夢占術を得意とする智恵教師アンティプホーンは、占術も行うソークラテースをライヴァル視し、つねづね弟子を奪おうとしていました。
両同盟内部での関係悪化 (421~15 BC)
しかし、「ニーキアースの平和」は、かえってそれぞれの同盟陣営内での緊張を弛め、混乱を招きました。すなわち、デェロス島同盟側では、アテヘェネー市で、平和派保守政治家ニーキアースの対局には、二二年のアムプヒポリス遠征で戦死したクレオーンに代わって戦争派市民扇動家ヒュペルボロスが現れ、激しい論争をするようになり、また、ソークラテースの愛人弟子の野心家美青年アルキヒビアデースは、二〇年、主戦論を主張して、早くも三〇歳で「将軍」に選ばれます。一方、ペロプス半島同盟側では、スパルター士国の求心力がなくなり、古くからの半島内の南北対立が再燃し、西北のエェリス士国や東北アルゴス士国との関係が悪化していきます。
この「ニーキアースの平和」と、エェリス士国のスパルター士国との関係悪化において、多芸万能を誇るエェリス士国の智恵教師ヒッピアース(約六〇歳)も、アテヘェネー市を訪問し、富裕市民の子弟に、[〈倫理(ノモス)〉は、〈自然(ピュシス)〉に反することを強制する暴君である]と言って、〈倫理〉の中心である法律を軽視するようなことなどを教授し、また、流行を追わない不変の人格教育者ソークラテースを挑発してしばしば対論しました。そして、彼のアナーキーな考えは、[〈倫理(法律)〉は、〈自然(時代)〉に合うように変えなければいけない]との発想を流布し、新時代の野心家青年たちのエゴイズムを助長することにもなりました。
アテヘェネー民帝国は、ヒュペルボロスやアルキヒビアデースらの戦争派を背景に、ペロプス半島内の反スパルター的なアルゴス士国と同盟を結び、一八年には、ペロプス半島中部アルカディア地方のマンティネイア市で、スパルター士国軍と正面衝突します。しかし、この戦いは大敗、すると、美青年将軍アルキヒビアデースは戦争派から平和派に寝返って、平和派ニーキアースとともに戦争派ヒュペルボロスを陶片追放し、それでいて、今度は自分が戦争派の中心に収まってしまいました。また、デェロス島同盟=アテヘェネー民帝国は、一六年、突然にキュクラデス諸島西南、スパルター士国東沿岸の中立のメーロス島士国を侵略、青年男子を殲滅、子女は奴隷にして、植民地にしてしまいます。
この「メーロス島侵略事件」に際し、一般大衆に人気のある舞唱劇作家エウリーピデース(約七〇歳)は、一五年春、『トロイアの女たち』で、アテヘェネー市の守護女神である戦争女神アテヘーナァを登場させ、[勝者もまたその傲慢と不敬ゆえに厳罰を与えられる]と警告します。プロータゴラースの弟子でもあった彼は、登場人物のそれぞれの個性を明確にするために、流行の対論を好んで劇中に採り入れました。すなわち、彼の舞唱劇においては、雅語韻律より口語破格が増え、もはや世界と一体の偉大な英雄の主人公など登場せず、等身大の人間の登場人物たちがそれぞれ勝手に自分の生き方を主張して衝突することが多くなっていきます。そして、そこには、当時の風潮と同様に、個人主義的な見解の相違が数多く出現し、観客たちもまた、観劇の後、それぞれの登場人物の生き方について、互いにいろいろ対論することとなりました。また、「ヘッラス東西戦争」の『歴史』をまとめいた将軍トフーキューディデース(約四四歳)も、この「メーロス島侵略事件」に関し、対論の形式を用いて劇的な描写を行っています。このように、対論は、国家と国家、個人と個人の主張と立場の相違と対立を明確にするために、演出として、とても有効な方法でした。
新たなる絵画技法 (c430~c10 BC)
小アジア半島西岸中部サモス島出身の画家アガトハルコホス(c460~c400 BC)は、四〇年のサモス島遠征の前後にアテヘェネー市に移り住み、末期のペリクレェス=サークルにも加わっていました。そして、彼は、将軍となったアルキヒビアデースの邸宅を豪華な壁画で飾りました。また、すでに亡きアイスキフュロスの舞唱劇の再演において、彼は、その舞台画(スケノグラプヒア)を担当することになり、そこに《大小遠近法》を経験によって編み出していきます。そして、彼は、その技法を本にまとめました。
《遠近法》には、《大小遠近法》《濃淡遠近法》《透視遠近法》などがあります。第一の《大小遠近法》は、[近いものは大きく、遠いものは小さく描く]という単純な方法ですが、ふつう人間には、遠近にかかわらず、国王のように偉大なものは大きく、敵兵のように卑小なものは小さく感じられ、その印象の大小で絵画に描かれてしまうのものです。このため、《大小遠近法》は、それまで意外に気づかれて居ませんでした。第二の 《濃淡遠近法》は、「空気遠近法」とも呼ばれ、[近いものは濃く、遠いものは淡く描く方法]であり、風景画の山々などによく用いられます。第三の《透視遠近法》は、《大小遠近法》の応用として、実際は水平の直線をわざと斜行させることで奥行を表現する方法ですが、視点に対応する一点ないし二点の固定した消失点(斜行の焦点)が無限地平線上に設定されなければならないのに、十五世紀のルネッサンスで消失点が発見されるまで、あちこちガチャガチャに傾いた家々が並ぶような作品がいくつも出現しました。
一方、イタリア半島南部ターラント湾中部ヘーラクレイアー市出身の画家ゼウクシス(c450~c390 BC)は、アテヘェネー市に移住して、いままで単色ベタ塗りであった一つの物体の中に光や陰を画き込む《光陰画法》を発明、これによってひとつひとつの物体に立体感を与えることに成功しました。ここにおいて、彼は、従来の絵画のように、暗色で輪郭を描いたり平面を塗ったりするのではなく、逆に白色で暗色の平面から立体を浮び上がらせる方法を採り、そこに劇的な効果を出すことができるようになりました。
また、小アジア半島西岸中部エプヘソス市出身の画家パッルハシオス(c450~c390 BC)もアテヘェネー市に移住し、壷などに伝統の線描画の技法を完成させます。彼は、神話その他に題材を採った人物画を得意としましたが、そこにおいて、描線は、筆のタッチのままに、勢いをもって伸びやかに柔らかに太さを変え、単純化された輪郭に豊満な表情を与えるものとなっています。そのうえ、そこで描かれる姿勢は、図案的なアルカハイック様式とは違って、まったく自由なものであり、斜め横向きの顔でも、ひねった手のひらでも、半開きの足でも、高度なデッサン力によって、正確な体形比率で平面に写し取っています。実際、彼は、一つの作品のために、事前に多くの習作デッサンを行っていたようです。
このような線の質感から想像がつくように、画家パッルハシオスは、じつは趣味で以前から女性裸体画や春画を製作しており、それもなんとヘッラスの神々や英雄の情事を描いたものであったので、当時、たいへんな評判となっていました。いずれにせよ、彼の人気は絶大で、彼自身、尊大にも「芸術の第一人者」を自称し、贅沢に生活して、「豪奢者(ハブロディアイトス)」と呼ばれました。それゆえ、画家ゼウクシスも裸体画に挑戦して、その独創的な《光陰画法》によって肉感的なヴォリュームを表現する作品を製作し、パッルハシオスと人気を二分するようになっていきます。彼もまた、たいへんに尊大で、贅沢に生活し、いつも自分の名前を大きく黄金の糸で刺繍したガウンを羽おっていました。