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第二章エーゲ海戦争とアテヘェネー民帝国(c525~c440 BC) 第三節 アテヘェネーの覇権 (478~c435 BC)

 アテヘェネー時代の到来 (478~475 BC)

 翌七八年、スパルター士国摂政パウサニアースは、ふたたびヘッラス連合軍を指揮して、東地中海のキュプロス島までパールサ海軍の残党を追撃し、同島の大半を征服します。さらに、パウサニアースは、エーゲ海に転進して、黒海入口マルマラ海北岸東端のビューザンティオン市もパールサ大帝国の支配から奪還、ところが、彼は、その後、ビューザンティオン市の事実上の将主となってしまい、パールサ大帝国とかってに和睦を結んで、小アジア半島西岸ヘッラス人諸市に反乱の中止を命じ、黒海の通商の私利をむさぼるようになってしまいます。

 このため、小アジア半島諸市は、アテヘェネー民国にその打倒を要請、そして、同年、名門プヒライオス家のミルティアデースの息子キモーン(約三三歳)が、ビューザンティオン市へ遠征して、パウサニアースを本国スパルター士国に追放、そして、この一件において、「ヘッラス連合」の統帥権は、スパルター士国からアテヘェネー民国に移ることとなりました。

 キモーンは、遠征後、戦利品の分配を行います。ここにおいて、彼は、戦利品を、貧弱な奴隷と豪華な財宝に分け、連合国に、「好きな方をとれ、アテヘェネー民国は残りでよい」と言います。すると、連合国は、いずれももちろん豪華な財宝の方を採り、アテヘェネー民国は、多くの貧弱な奴隷だけを持って帰ることになりました。しかし、これは、じつは、はじめからキモーンの大きな企みでした。というのも、数ヶ月もしないうちに、アテヘェネー民国には、パールサ本国から奴隷解放のための身代金として、もっと莫大な財宝がきちんと届けられてきたからです。

 そして、翌七七年、エーゲ海沿岸のイオーニア人諸都市を中心として、「ヘッラス連合」とは別に、パールサ再侵攻に備える「デェロス島同盟」が結成され、その他のヘッラス人諸国も多く加盟するようになっていきます。これは、[新設される「デェロス島同盟海軍」に、各国は船と人を、船も人もない小国は金を供出する]というものです。その本部は、エーゲ海キュクラデス諸島中央の中立のデェロス島に置かれ、負担の割当は、公正で知られるアテヘェネー市の名将軍アリステイデースが行いました。運営は、各国平等の投票によることになっていましたが、最大の海軍国アテヘェネー民国が、おのずから強い指導力を持つようになります。こうして、アテヘェネー民国は、スパルター士国のペロプス半島同盟に対抗する、もうひとつの巨大軍事勢力の中心となりました。

 しかし、アテヘェネー市自体は、「第二次エーゲ海戦争」で徹底的に破壊され荒廃してしまっていました。これに比して戦争の影響をほとんど受けなかったイタリア半島南部のシチリア島東岸南部のシュラークーサー将国では、死去したゲローンに代わって、弟ヒエローン一世(?~即位478~67 BC)が将主を継承し、ますます繁栄を謳歌します。この地は、立地的にも商業に恵まれ、母市コリントホス市士国と盛んに貿易を行っており、アテヘェネー市以上に、ヘッラス世界における歓楽と文化の一大中心地として賑わいます。

 また、シュラークーサー市には、テヘェベー市出身の詩人ピンダロス(518~c440 BC 約四五歳)も訪問し、この地で大いに活躍します。彼は、叙情詩人とは言っても、自分自身の心情を歌い上げるわけではなく、注文に応じて祝祭競技勝利者や各国の将主貴族を賞賛する合唱歌を作ることを得意としており、そこに、神々や英雄のイメィジを織り込み、ありとあらゆる壮大華麗な装飾語を畳み重ね、崇高に厳粛に偉業を讃え謳います。

 詩人ピンダロスは、たしかに見事な作品を作ったかもしれませんが、その本質は、今日のコピーライターや企業提灯持ちライターのようなものです。このように卑屈な商業抒情詩人としてのピンダロスの特長は、第二次エーゲ海戦争でパールサ陸軍に抵抗もできず、むしろ協力させられ、さらには、同胞のヘッラス陸軍に攻撃され陥落させられてしまった出身地テヘェベー民国の当時のやるせない市民性を反映していたようにも思えます。
 いずれにせよ、彼は、同じ抒情詩人とはいえ、いかんともしがたい自分の心情を吐露するこれまでのアルカハイック文化とは、一線を画しています。それは、むしろアナーキーであり、注文に応じて何とでもする言葉遊びの一種です。
 現代のコマーシャル=アートもまた、いかに表現上の技術が高くても、その精神の根本はスポンサーや顧客に媚びを売るものです。これに似たポップ=アートは、そんなコマーシャル=アートの告発という皮肉な精神性を秘めていますが、どのみちあまり品の良いものではありません。

 このころ、アテヘェネー民国では、名門プヒライオス家のキモーン(約三六歳)が、エーゲ海北岸ミュルキノス市南のエーイオーン要塞をパールサ大帝国トホラーキア残留軍から奪取、また、アテヘェネー民国の伝説的英雄王テヘーセウスが亡命して殺害されたとされるヘッラス半島東沿岸のスキューロス島にも遠征し、七六年、ここで伝説の古代アテヘェネー王国王テヘーセウスの遺骨なるものを発見します。そして、これをきっかけに、アテヘェネー市では、伝統の自覚が高揚し、復興の気運が隆盛してきました。

 ここにおいて、戦争主導官テヘミストクレェス(約五二歳)は、この機会にアテヘェネー市を二度と敵国に入り込まれないような強力な城塞に造り変える構想を立て、これにしたがって、急速に都市再建を行っていきます。そして、この復興需要において、ヘッラス各国の過剰人口が流入して、この建設作業などに従事し、経済的にも軍事的にもアテヘェネー民国は飛躍的に国力を増大させていきました。

 アテヘェネー市城復興において、戦争で破損した古いアルカハイック彫刻などが、地ならしのため、後にパルテヘノーンが建てられるアクロポリスなどに大量に埋められました。しかし、これが十九世紀後半に発掘され、今日のアクロポリス博物館のアルカハイック=コレクションとなります。逆に、地上に新たに設置されたパルテヘノーン本来のクラシック彫刻は、ローマ人に掠奪されたり、ヘッラス正教会やトルコ=イスラム教会に破壊されたり、大英帝国に掠奪されたりで、いまはほとんど残っていません。

 戦争主導官の独裁① テヘミストクレェス (c475~70 BC)

 アテヘェネー民国では、戦前の前五〇八年のクレイステヘネースの改革によって、「市民政(デーモクラティアー)」になっていました。とは言え、最高機関とされる全員参加の「民会(エックレーシアー)」は、月四日・定足数六千人で、戦争などの重要課題の演説と採決くらいしかできません。

 五百人の「評議会(ブーレー)」にしても、市民がくじ引きで各地区部族代表に選出されただけであり、任期一年再選不可とされ、「評議会」の「内閣(プリュタネイス)」は各地区部族月番、その「総理」に至っては、なんと日替です。これは、富裕農民の「市民政」の徹底的な平等化、と言えば聞こえがいいですが、実際は、徹底的な名目化にすぎませんでした。

 実際の政治の権力は、じつは、古い「貴士政」の遺制である九人の「主官(アルコホーン)」の一つである「戦争主導官(ポレマルコホス)」が掌握しました。というのも、これだけは何度でも再選が認められていたからです。そして、いまや、策謀政治家テヘミストクレェスが、この地位をほしいままにしていました。

 「戦争主導官(ポレマルコホス)」は、「戦争(ポレモス)」と「主導者(アルコホス)」の合成語です。「主官(アルコホーン)」も「主導者(アルコホス)」も、〈原点(アルケヘー)〉の派生語です。
 「戦争主導官」は、古い「貴士政」と新しい「市民政」とを繋ぐ要職です。というのは、「戦争主導官」は、貴族騎士から選出される九人の「主官」の一人でありながら、各地区部族から選出される十人の「将軍(ストラテーゴス)」を直接指揮する権限を持っていたからです。正確に言えば、この時期、ずっとテヘミストクレェスが「戦争主導官」の地位にあったわけではありませんが、実質は、それ以上の権力を保持していました。ペリクレェスの場合も同様です。
 なお、「ストラテーゴス」は、「ストラトス(陣営)をアゴー(動かす)する者」という意味であり、「ストラテーギアー」は、陣営の動かし方ということで、ここから、「戦略(ストラティジ)」という言葉が成立してきます。

 ところが、七〇年、テヘミストクレェス(約五八歳)は、陶片追放で突然に失脚。ようやく平和を取り戻したアテヘェネー民国にとって、彼のようにパールサにもスパルターにも敵対的な人物は、戦争を誘発してしまう危険人物だったからです。もともと彼は、粗野で自己宣伝が喧しく、アテヘェネーの上流市民からすればまったく疎ましい存在であり、おまけに、彼が推進していたアテヘェネー市再建工事で、巨大な私利を得たといううわさもありました。

 ところで、ビューザンティオン市から追放され帰国させられたスパルター士国摂政パウサニアースは、同年、こんどは本国で奴隷反乱を扇動し、政権奪取を策謀します。しかし、これは事前に発覚し、彼は神殿に籠城して餓死してしまいました。

 この事件には、じつは、アテヘェネー民国を追放され、スパルター士国の永年のライヴァルであるアルゴス士国に亡命していた元戦争主導官テヘミストクレェスもまた関与していました。このため、アテヘェネー民国は、スパルター士国の要請に応じて、彼を逮捕しようとします。しかし、テヘミストクレェスは、この動きをいち早く察知し、ヘッラス半島西岸のケルキューラ島士国に逃亡してしまいました。

 戦争主導官の独裁② キモーン (470~61 BC)

 テヘミストクレェスに代わってアテヘェネー民国の戦争主導官となったのは、名門プヒライオス家のキモーン(約四二歳)です。彼は、成り上がり土建実業家テヘミストクレェス一派に代えて、伝統的な名門富裕市民をアテヘェネー市の中心に据え、輝かしい《クラシック文化》を起こします。

 ここにおいて、キモーンは、六八年春のディオニューソス大祭の舞唱劇コンテストで、富裕市民の息子ソプホクレェス(c496~406 BC 約二八歳)を推奨して優勝させます。彼は才能があり、美男子としても評判でしたが、まだ若く、声も小さかったために、舞唱劇作家でありながら、自分では舞台に立たず、もっぱら専門の俳優を使いました。そして、彼は、俳優を三人に増して劇的な展開を広げることを考えつき、主人公の個性の運命との対立・敗北・浄化を描き、富裕市民の人気を集めていきます。

 キモーンは、内政的には穏健保守派でしたが、同六八年、キュクラデス諸島中央のナクソス島士国がデェロス島同盟から脱退しようとすると、ただちに海軍を派遣し、攻撃して降伏させ、アテヘェネー民国の帝国的覇権を誇示するようになります。また、彼は、父ミルティアデース同様、対パールサ強硬主義者であり、スパルター士国との友好関係を維持しつつ、デェロス島同盟海軍によって小アジア半島における対パールサ戦争を継続し、翌六七年には、同半島南岸中部のエリュメドーン河口の陸戦海戦で大勝します。そして、彼は、この戦利品を資金として、湿地帯の干拓や街路樹の植付など、アテヘェネー市の環境を整備し、また、郊外西北の荒地を潅漑して、アカデーメイア森林公園を創設しました。

 ヘッラス半島西岸のケルキューラ島士国は、テヘミストクレェスをかくまっていることで、攻撃的なキモーンににらまれるのを恐れ、彼を対岸の本土に送り返します。テヘミストクレェスは、やむなくモロッソスを越えてマケドニアに出ると、船で小アジア半島西岸中部のエプヘソス市士国へ渡り、なんと宿敵パールサ大帝国のリュディア州サルディス市で亡命を求めます。

 一方、イタリア半島南部のシチリア島東岸南部のシュラークーサー将国は、戦争中は、ヘッラス世界の繁栄の中心としての地位を謳歌していましたが、同六七年に、将主ヒエローン一世が死去すると、市民政に転換。政治も経済も文化も沈滞してしまい、復興整備されつつあったアテヘェネー市が、ヘッラス世界の中心に返り咲きます。

 戦争主導官キモーン(約四六歳)は、また、六六年、名門プヒライオス家の伝統的所領である黒海入口北岸のケルソス半島を奪還、さらに、六五年、デェロス島同盟から離反したエーゲ海北部のタハソス島を攻撃、先に陥落させたパールサ大帝国エーイオーン要塞の北五キロの所に、同地方の支配拠点として、アムピポリス市を建設します。

 おりしも六四年、スパルター士国で大地震があり、同国に農耕奴隷として支配され酷使されていたペロプス半島西南部メッセーニア人がこれに乗じて反乱、イトホーメー山に籠城してしまいます。スパルター士国は、この反乱に苦戦し、アテヘェネー民国に援軍を要請。翌六三年、戦争主導官キモーン(約四九歳)みずからが、その鎮圧に向かいました。

 一方、亡命したテヘミストクレェス(約六四歳)は、即位したばかりのパールサ大帝国の長腕(マクロケイル)皇帝アルタクシャティラー(アルタクセルクセス)一世(c495~即位64~24、約三一歳)から、小アジア半島西岸中部内陸の穀倉マグネーシアー(マニサ)市・牧地ミュウース市、そして、マルマラ海入口北岸の大ブドウ産地ラムプサコス市を与えられ、これらの地の領主となっていました。

 キモーンはアテヘェネー市の伝統的な富裕市民を基盤としていましたが、このころ、新規流入一般市民の政治的発言力が増していました。というのも、彼らこそ、「第二次エーゲ海戦争」で大型櫂船を漕いで、重層歩兵の富裕市民以上に働いたからであり、また、戦後復興において建設などに従事して、経済的にも力をつけてきていたからです。

 市民権は、言わば現代企業の株主権のようなものであり、市民政発足以来のアテヘェネー市民の子弟に限定されていました。したがって、この時期に大量に流入して定住した移民は、あくまで在留外国人(「メトイコス」)であって、市民権を取得できません。後のペリクレェスの時代には、さらに厳しく、両親共にアテヘェネー市民である子弟に限定されることになりますが、逆に、両親共にアテヘェネー市民であれば、アテヘェネー市に居住していなくても市民権を保持するということになります。

 ここにおいて、キモーンがメッセーニア遠征中の六二年、急進改革派のエプヒアルテースは、古い「貴士政」の残滓であり厳格保守派の牙城である「元老院(アレーイオスパゴス)」から政治的権限を剥奪。アテヘェネー民国本国での、このクーデタを知ってか、スパルター士国は、キモーンが反乱メッセーニア人と結ぶことを恐れ、イトホーメー山包囲攻撃中のアテヘェネー軍に対し、早々の帰国を求めます。

 アテヘェネー市では、エプヒアルテースも、翌六一年、厳格保守派に暗殺され、帰国したキモーン(約五一歳)も、すぐに陶片追放されてしまいます。そして、エプヒアルテースを補佐していた穏健改革派の名門アルクマイオーン家青年ペリクレェス(c495~429 BC 約三四歳)が、「民会」により、代わって「戦争主導官」に選出されました。

 ペリクレェスは、名門の好青年であり、容貌も弁舌もさわやかで、生まれながらに政界での成功が約束されているような人物でした。しかし、それだけに、彼は、若いころから失言失点を慎重に防ぎ、嫉妬で陶片追放されないよう、政治の表舞台を避けていました。そして、こうして政治のトップに立ってからも、人々のなれなれしい宴席を避け、威厳を保ちました。これほど欠点のない立派な人物でしたが、ただひとつ問題は、彼のとんがった「タマネギ頭」であり、彼の肖像は、どれもみな兜で頭を隠しています。

 「アルクマイオーン家」は、アテヘェネー市最大の名門であり、クレイステヘネース、ペリクレェス、アルキヒビアデースなどを輩出しています。「プヒライオス家」のミルティアデース・キモーン親子が対パールサ強硬主戦派であったのに対し、「アルクマイオーン家」は、対パールサ融和協調派であり、パールサ戦争の間は追放されたり、反発されたりしていました。しかし、パールサ大遠征軍を撃退して二〇年近くにもなると、いまだに強硬主戦路線を貫徹する「プヒライオス家」の方が、もはやうっとおしい存在となりつつありました。

 ペリクレェスは、古い貴族騎士を排除する一方、市民資格を富裕農民から一般市民にまで拡大して「市民政」を拡張し、これでもまだこぼれる下層庶民や流入移民については、雄弁な演説と経済の政策によって、その不満を吸収しようとします。彼の時代は、アテヘェネー市の、そして、古代ヘッラス文明の最盛期であり、「ペンテコンタエティア(繁栄の五十年間)」とも呼ばれます。

 「ペンテコンタエティア」は、「第二次エーゲ海戦争」勝利の前四八〇年~「ヘッラス東西戦争」勃発の前四三一年とも、ペリクレェス就任の前四六一年~シチリア島大遠征敗北の前四一三年とも考えられます。年代としては、前者の方がキリがいいのですが、その前半、アテヘェネー市はまだ「エーゲ海戦争」の被害で荒廃しており、実際にアテヘェネー民国がデェロス島同盟を帝国的に支配して古代ヘッラス最高の経済的・文化的繁栄を謳歌したのは、むしろ「ヘッラス東西戦争」を含む後者の方でした。

 サローニコス湾・ドロソコホーリ峠紛争 (c460~c457 BC)

 ペリクレェスが戦争主導官となったアテヘェネー民国は、スパルター士国のメッセーニア反乱鎮圧援軍途中謝絶事件を理由に、「ヘッラス連合」を破棄して、ペロプス半島北部アルゴス市やヘッラス半島北部テヘッサリアと同盟し、スパルター士国との対立をふたたび鮮明にしていきます。

 おおまかに言うと、地勢的に、ヘッラス半島はイオーニア系、ペロプス半島はドーリア系で二分されているのですが、ドーリア人の南下でこのような体制ができた初めから、ややこしいことに、ペロプス半島側に反スパルターのアルゴスが、ヘッラス半島側に親スパルターのドーリスが残ってしまっており、このねじれた位置関係は、イオーニア系のアテヘェネー民国の台頭とともに、切迫した問題となってきました。

 翌五九年、コリントホス地峡東側のメガラ市士国と西側のコリントホス市士国とが国境紛争を起こすと、戦争主導官ペリクレェスのアテヘェネー民国は、メガラ市士国側で介入し、コリントホス湾北岸を西進して、ナウパクトス港を占拠、そして、ここに、スパルター士国を追放された反乱メッセーニア人を入植させます。

 こうして、メガラ市士国とコリントホス市士国の紛争は、アテヘェネー民国対コリントホス・エピダウロス・アイギーナ島の「サローニコス湾紛争」へと拡大してしまいました。ここにおいて、ペリクレェスは、五八年、アテヘェネー市城塞の完成に続き、亡命してきたミーレートス民国出身の都市計画家ヒッポダーモスの助言を得て、ペイライエウス軍港などとアテヘェネー城塞とを結ぶ十キロもの長城壁の建設を始めます。

 ところで、アテヘェネー市の舞唱劇では、若いソプホクレェス(約三八歳)らが活躍するようになり、老アイスキフュロス(六七歳)は、その荘重さが難解で陳腐だと評されるようになってしまいました。しかし、このころになると、アテヘェネー市以外の諸都市でも、しだいに舞唱劇が人気を得、老アイスキフュロスは、五八年頃、イタリア半島南部のシチリア島へ旅行して、東岸南部のシュラークーサー民国に移住し、舞唱劇の普及に尽力します。同国ではまた、六七年に発足した市民政において、区民の説得のための演説が重要になり、ここに演説術教師コラクス(c5C BC)が登場して活躍。《演説術》を技術として初めて整理し、書物として発表します。

 シュラークーサー民国は、コリントホス市士国を母市としてイオーニア貿易で繁栄していました。アイスキフュロスが、このころ同地へ移住したのも、サローニコス湾紛争と無関係ではなく、いずれアテヘェネー民国がイオーニア海に進出するための布石であったのかもしれません。しかし、いずれにせよ、老舞唱劇作家アイスキフュロスは、数年後の五六年、六九歳で死去しまいました。

 アテヘェネー民国の西進に乗じて、五七年、ヘッラス半島中南部プホーキス人も、北隣のドーリス地方を侵略、ここに、「ドロソコホーリ峠紛争」が勃発します。しかし、ドーリス地方は、ドーリア系スパルター士国の歴史的故国であり、スパルター士国は、ただちに派兵して、プホーキス地方を縦断し蹂躙します。これに対し、コリントホス湾のアテヘェネー軍は、クリーサ港を封鎖、このため、スパルター軍は、東のボイオーティア地方へ転進しました。

 ペリクレェス(約三八歳)を戦争主導官とするアテヘェネー民国は、アルゴス市士国やテヘッサリア人とともに、スパルター軍を同地方東部タナグラに追いつめます。ところが、ここに至って、強力な騎兵を有するヘッラス半島北部のテヘッサリア人が裏切り、両陣営は思わぬ激しい戦闘となってしまいました。

 けれども、親スパルターと思われていた追放中の名門貴族キモーン(約五五歳)とその一派がアテヘェネー側へと駆けつけ、最も勇敢に戦いました。スパルター陸軍は、かろうじてコリントホス地峡を抜け、戻っていきましたが、アテヘェネー民国は、二月後、ふたたびボイオーティアへ侵攻して、さらにプホーキスまで支配を回復します。また、サローニコス湾のアイギーナ島についても、その後、これを屈服させ、船舶を奪取し、毎年の貢納を強制します。

 アテヘェネー民帝国の覇権 (c456~c450 BC)

 翌五六年には、トルミデースが指揮するアテヘェネーが、ペロプス半島同盟への直接攻撃を展開。大きくペロプス半島の南のラコーニア湾まで遠征して、スパルター士国の海軍基地ギューテヘイオン港を焼討破壊、また、同半島のコリントホス湾南岸も上陸制圧しました。また、アテヘェネー民国は、タナグラで勇敢にスパルター陸軍と戦った名門将軍キモーンの帰還を承認しました。おりしもこのころ、エジプト王国がパールサ大帝国から離反し抵抗しており、アテヘェネー民国も、これを支持して、さっそくキモーンをエジプト支援に派遣します。

 一方、パールサ大帝国にいた老テヘミストクレェス(約七四歳)は、亡命時に[対ヘッラス戦が勃発したら自分が将軍として始末する]と約束していたために、今回のアテヘェネーのエジプト遠征に対応を迫られます。しかし、すでに高齢であったために、彼は、熟慮の末、毒を飲んで自殺してしまいました。そこで、パールサ大帝国は、同五六年、代わりにゾープヒュロスの息子のメガビュゾスをエジプトに派遣します。

 五五年、北方でテヘッサリア王国王子オレステースが追放され、アテヘェネー市へ亡命。その復位を口実に、戦争主導官ペリクレェスは、配下のボイオーティア軍・プホーキス軍とともに、五七年のタナグラ戦で裏切ったテヘッサリアへ派兵します。途中の親スパルターのドーリス地方も制圧し、テヘッサリアのプハルサロス市まで進撃しますが、同王国の強力な騎兵の反撃を喰らい、撤退せざるをえませんでした。

 また、同五五年、戦争主導官ペリクレェスは、みずから西方遠征に。コリントホス湾ペーゲー港を出て、コリントホス市東北のシキュオーン市を叩き、ペロプス半島西北部のアクハイア人諸市を従え、ヘッラス半島西岸アカルナーニア地方の要衝オイニアダー市を攻めますが、これも落とすには至りませんでした。

 しかし、このころ、南の地中海はたいへんなことになっていました。名門将軍キモーン(約五八歳)の指揮するエジプト支援軍は、パールサ大帝国将軍メガビュゾスの活躍によって、ナイル河口の中州に包囲され、五四年、同地から撤退。かくして、以後、パールサ大帝国配下の地中海東岸のプホエニーカ人と、その植民地のアフリカ北岸カルト=アダシュト士国に、地中海の制海権を奪われてしまったのです。

 このため、アテヘェネー民国の戦争主導官ペリクレェス(約四二歳)は、翌五三年、安全を図って、エーゲ海キュクラデス諸島中央にあったデェロス島同盟の本部をアテヘェネー市内に移します。しかし、これは、アテヘェネー民国のデェロス島同盟との公私混同をさらに助長しました。すなわち、アテヘェネー民国は、「デェロス島同盟」の防衛基金を、借用の名目でアテヘェネー市の建設や演劇に流用してしまいます。

 このようなアテヘェネー民国の横暴に対し、小アジア半島西岸中部イオーニア地方のエリュトレー市やミーレートス市などでは、将主が登場して、デェロス島同盟からの離脱を謀りますが、戦争主導官ペリクレェスは、現地住民の要請と称して、ただちに監督官や駐留軍を派遣して将主を排除し、かえって支配を強化。また、彼は、キュクラデス諸島中央のナクソス島や北西のアンドロス島などに、アテヘェネー市の過剰な下層住民を植民し、下層住民救済と同盟監視強化に利用しました。

 こうして、アテヘェネー民国は、「デェロス島同盟」を媒介として、同盟国を属領とみなすようになり、軍事はもちろん政治や司法や経済まで、アテヘェネー民国へ統一していきます。すなわち、政治はどこも「市民政」とし、司法はどこもアテヘェネー法廷が管轄、経済はどこもアテヘェネー貨幣を使用するように強制。ところが、各地土着の古い貴族騎士たちはともかく、一般住民たちは、このようなアテヘェネー民帝国による政治・経済・社会のヘッラス世界統一を、交流活性化として、むしろ歓迎しました。

 デェロス島同盟、アテヘェネー民国において、「同盟」も「市民政」も、もはや名ばかりのものとなっていきました。その実体は、デェロス島同盟諸都市を支配し搾取するアテヘェネー民国の「帝国」であり、また、そのアテヘェネー市自体からして、デェロス島同盟諸都市を支配する地位とデェロス島同盟諸都市から搾取した公金をアテヘェネー市民にばらまく戦争主導官ペリクレェスの「独裁政」でした。しかし、五三年頃、市内階級対立と周辺蛮族紛争の内憂外患で地方田舎国家に没落衰退してしまったローマ共国から、こんなアテヘェネー市に三人の視察団がやってきて、しばらく滞在して見学します。

 ローマ共国では、その後、帰国した視察団の三人を加えて、「十人委員会」を作り、四九年、十二枚の銅板に法律を明記した「十二表法」を出します。しかし、これは、従来の慣習法を条文法にしただけのことで、およそまったくアテヘェネー市視察の意味もなく、ひどく不評でした。

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