
若者と政治
Facebookで昔の投稿を眺めていたら、大学3年の時に書いた文章が見つかったのでここに成仏します。某サークルのリレーコラムに論説委員(誰)として寄稿した黒歴史。
「ちょっと自信がなさそうで、萎縮してしまっている」。予備校講師の林修氏は著書のなかで、いまの若者をこう形容している。
先月「選挙啓発」を掲げるサークルを起ちあげた。だがわたし自身、啓発という行為に対して少し戸惑いがあったのも事実だ。というのも、わたしたちが啓発を行って、どれくらいの啓発効果があったのか知る手立てがなく、つかみどころがなかったからだ。
そもそも啓発の意とは、〈無知の人間を教え導き、目を開かせること〉である。ここに、ひとを「導ける」と信じているわたしたちの驕りがある。他人の行動を変えるのはけっして容易ではないのだ。
なにより、今の若者は忙しい。同世代の大学生を見ても、講義にバイトに就活にと目が回るほど。大学生の生活費は減少の一途をたどっており、彼らは将来へのわずかな可能性さえ感じられないでいる。自分の将来に希望を持てない者が、どうして、政治に希望を託せるだろうか。
若者の言いぶんもわかる。選挙に行ったからといってすぐに世の中が変わるわけではないだろう。しかし、自分の思う妥当な候補者を選ぶには、世の中が何によって動かされているのか、また、どんな人々が何の目的で動かしているのか、メディアを通じて政治を批判的にみるほかない。世界を変える力は個人にはない。けれども、どうすれば理想的な世の中を実現できるのか、言葉によって問い続けることから始めなければ、何も変わらない。たとえそれが微力であっても、だ。
選挙は政治の問題ではない。大げさかもしれないが、社会とどう対峙していくかという、個人の人生の「選択」の問題なのである。選挙に行くことは遠い目標ではなく、いまわたしたちみんなの決断にかかっている。その決断こそが社会へのコミットメントであり、民主主義の根幹を成す。
「失われた20年」がみずからの年齢と重なる「ちょっと自信がなさそうな」若者たちは、どこかで、自分たちの背中を押してもらいたい、共感を得たい、と訴えかけているような気がしている。選挙啓発サークルとして、また同じ若者のひとりとして、どう彼らの背中を押し、どう決断の輪を広げるか。その方法論への模索は、まだ始まったばかりである。 (2016年5月9日)
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