そして、覚えていること
何気ない日常の一場面が、なぜか強く記憶に残っていることってありませんか。
僕は、テレビ朝日『マツコ&有吉の怒り新党』で、マツコ・デラックスと夏目三久アナウンサーが先の歌詞についてやり取りをした場面をときどき思い出す。当時、僕はたしか大学3年生だった。もう4年も前のこと。
番組の流れはこんな感じ。(うろ覚えだけどゆるしてね)
マツコ・デラックスと有吉弘行は中島みゆきが好きで、若い頃からよく聴いていたという。
みたいな会話を番組内で延々としていて、夏目アナは会話にあまりついていけてないようだった。
二人の会話も一段落したところで、マツコが「あなた何か聴いたことある?」と夏目アナに話を振った。
夏目アナは「いえ、あまり知らないのですが、『誕生』という曲は昔合唱コンクールで歌ったことがあって。なんというか、”自分はひとりじゃないんだ、いつも仲間がいるんだ”って思えて」みたいなことを言った。
マツコは夏目アナにこう答えた。
これがけっこうずしりときた。
だれかと一緒に人生を歩めたらいいのにって思いながらも、ひとりで生きてゆくことを心に決める人もいるのか。青二才だった僕にはずしりときた。
人生は選択肢だらけに見えるけど、実は、選べることって少ないんじゃないか。なぜか知らないけど生まれてきて、なぜか知らないけど降りかかる不条理が人それぞれにあって、僕らは限られた選択肢の中を彷徨いながら「自由」という幻想の中に生きているのかもしれないな。そんなことを思った。
人生って選択の連続だ。ある選択をすれば、選ばなかったあるいは選べなかった選択肢はただ「過去にあった可能性」としてだけ残って、今と未来からは永遠に追放される。時間は元に戻らない。
だれかと歩めたかもしれない人生があって、ひとりで家路につく帰り道は、この街に何通りあったろう。文字で残されたもの、記録に残されたものだけが客観的過去だから、だれかがそうやって生きた事実は存在したかもしれないけれど、誰に思い出されるわけでも、発見されることもない。無限の宇宙に吸い込まれるみたいに。
だれかを覚えていること、なにかを思い出すこと。
自己完結の堂々めぐりであっても、覚えていることだけが僕の生きた証なんだよな。
※本人ver. 見つけられませんでした。ぜひCD等で聴いてみてね。